「パグの再来か、まったく関係のない新団体か、それを今村に探らせていた」
日埜原が眉間に皺を立てた。重苦しい息を吐く。
「高原が主任を殺したということですか!」
思わず腰を浮かせてテーブルに両手をつき、前のめりになって日埜原に詰め寄る。
「有村……いや、瀧川君、座りなさい」
舟田が促す。
瀧川はゆっくりと自分の椅子に座り直した。
日埜原が改めて瀧川を見て、話を続ける。
「それはまだわからない。今村とともに中馬という新人も潜入させていたんだが、行方不明だ」
「行方不明ということは、おそらく……」
瀧川は言いかけて、言葉が詰まった。喉が締まり、そこから先の言葉を心身が拒んだ。
何かを訊きたい。何かを言いたい。しかし、言葉が出てこない。
今まで、瀧川の知らないところで幾人もの公安部員が危機に遭遇し、命を落とした者もいるのだろう。
しかし、幸いなことに、瀧川の周りにいる顔見知りの作業班員は全員無事で、今も現役で潜入捜査を行なっている。
むろん、我が身も無事だ。
危険なことは承知しているが、心の片隅で、公安部の仕事とはいえ自分は命までは取られないのでは……と思ってしまっているところも正直あった。
が、近しい作業班員が殺された。
瀧川の人生を変えた、最もよく知る作業班員の一人である男が捜査中に敵に殺られた。
この事実は、どこか他人事だった潜入捜査の危険性を瀧川に思い知らせた。
事故死でも病死でもなく、敵に殺されたという現実が、瀧川自身にのしかかる。
瀧川は両手の指を絡めて握り締め、込み上げてくる震えを押さえた。
「瀧川君」
日埜原が声をかける。瀧川はすぐにうつむいた。
「日埜原さん、僕はこの事案には──」
「君を誘いに来たわけではない」
日埜原が言う。瀧川は顔を上げた。
「部長からの言葉を伝えに来た」
まっすぐ見つめる。
「何があっても、この件には関わるな。何があってもだ」
「何があるというんですか」
瀧川が返す。
「それはわからん。何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。油断するなということだ」
「藪野さんや白瀬さんは?」
「パグの事案に関わった作業班員は全員捜査から外した。君たちは敵に面が割れている可能性があるからな」
「つまり、僕だけでなく、家族に危険が及ぶこともあり得るというわけですか?」
「あらゆる事態を否定しない。今村たちからの報告は断片的にしか入っておらず、敵がどこまでこちら側のことをつかんでいるか、判然としないからな」
「何かあった時は、自分の身は自分で守れというわけですか。自分だけでなく家族や友人も」
「だから、私に声がかかったんだよ」
舟田が口を開いた。
「君にはしばらくの間、登庁をやめてもらう」
「仕事に行くなと?」
瀧川は怪訝そうに舟田を見やった。
「家人に勘づかれてはいかんので、登庁と退庁の時刻は今まで通り。ただ、家を出た後は私が用意した場所まで出向いて待機してもらいたい」
「どこですか?」
「それは毎日、私が指示を送る」
舟田は言い、ポケットからスマホを取り出した。古い型のものだが美品だ。それを瀧川の前に置いた。
「それは私との連絡のみに使うこと」
「なぜ、そこまで慎重になるんですか。何か、情報が入っているんですか?」
舟田に疑いの眼差しを向ける。
「今のところ、わかっているのは、今村が銃殺されたということだけだ」
日埜原が答えた。
「銃殺! そこまでわかっているなら、その評議会に踏み込めばいいのでは──」
「君もわかっているだろう。作業班員の死は公にできない」
日埜原が言う。
瀧川の胸がぎゅっと締め付けられた。それが潜入捜査を主とする作業班員の宿命だ。成功しようがしくじろうが死のうが、すべては闇の中で処理される。
「敵はそれを知っていて、匿名で今村の死体を遺棄している場所を公安部に直接知らせてきた」
「直接? 内部の者ですか」
「または、内部をよく知る者。身内だろう」
日埜原が深いため息をついた。
「今、部長直轄の部員に内部を探らせている。公安部内に敵がいないとわかるまで、登庁するな」
そう言い、立ち上がった。
「あとは舟田さんにお願いする。舟田さんなら、君を任せられるからな」
「高原の件の詳細について教えておいてください。敵が接触してきそうなシチュエーションは把握しておきたいので」
「舟田さんに渡しておく。ただし、分析のみに使ってくれ。決して動くな」
日埜原はそう言い残し、部屋を出た。
ドアが閉まり、舟田と二人になる。
「先ほどは疑うような目を向けてしまい、すみませんでした」
瀧川は舟田に頭を下げた。
「いや、私の方こそ、君に知らせないまま事を運んで申し訳なかった」
舟田も頭を下げる。
「舟田さんはどこまで聞いているんですか?」
瀧川が訊ねる。
「事案に関しては、今村の銃殺体が発見されたこと。今村がNRCと称される世界革命評議会に潜入していたこと。それがかつて君が関わった事案と深いかかわりがあること。そのくらいだ。今村たちの報告の詳細については聞いていない」
「部長はなぜ、舟田さんに?」
「私が公安部とかかわりがないからだ。かつて公安研修を受けたことはあるが、公安部員として任務に就いたことはない。が、公安部が扱う事案がどういうものか知っていて、敵についても大枠の知識を持っている。君のガードをする役目としては適任だ」
「僕の監視をする意味では?」
どうしても疑念が拭えず、訊いてしまう。
舟田はふっと笑った。そして、瀧川をまっすぐ見つめた。
「鹿倉は君を疑ってはいない。むしろ、私に君を守らせようとしている」
「部長が僕を?」
「日頃は部員を駒のように使うが、その陰で、鹿倉は潜入中に亡くなった者たちを追悼し、その家族の支援を行なっている。あいつも鬼ではないんだよ」
舟田が語った。
「ともかく、明日からしばらく、私の指示に従ってくれ。君と君の家族の安全は、私たちが守る」
舟田が切り替えて、力強く言う。
瀧川は、この事態にどう折り合いをつけたものかためらったが、少しして太腿の上でぐっと拳を握った。
ここは任せるしかない……。
「よろしくお願いします」
瀧川は深々と頭を下げた。
2
鹿倉は誰もいない部長室のハイバックチェアに深くもたれ、手元に目を落としていた。
持っていたのは、今村のファイルだった。
作業班員の身分を証明するファイルは、部長室の書類棚の裏に隠された金庫に保管されている。
データはそこにあるファイルのみで、パソコン内や警察のデータベースにない。
元々、〝存在しない者〟として扱われ、不慮の事故、または死に見舞われた際は、部長の裁量で粛々と処理が行なわれるだけ。公にされることはない。
通常の警察官であれば、殉職による二階級特進などがあり、様々な保証金や遺族年金を受け取れる。
ところが、作業班員の場合、そもそも存在していないので、その手続きができない。
日埜原を刑事総務課に置いているのは、そうした作業班特有の事情に即した事後処理を秘密裏に行なわせるためもある。
「今村……」
鹿倉はファイルの写真を見て、目を閉じた。
今村利弘が公安部に来たのは十年前。公安研修を優秀な成績で卒業し、任務に就いた。
正義感の強い男だった。ゆえに、時に敵を救おうとして利用されることもあった。
鹿倉はそのたびに今村を厳しく指導した。
放置はしなかった。
公安部員は常に冷静、非情であらねばならない。それは確かな要件だ。が、それだけでは一人前の公安部員にはならない。
根底に、正義感や使命感、人に対する期待感がなければ、ただの冷酷な変幻自在のロボットと化してしまう。
潜入する際、人であることを捨てねばならないが、胸の奥底には人らしい一面を持ち合わせていなければならない。
その相反する二面を両立できる者が一流の公安部員だ。作業班員に選ばれるのは、そうした素養を持った者のみ。
中でも今村は、鹿倉が見てきた限りでは一、二を争うほどの優秀な作業班員だった。
今村に家族はない。
鹿倉は訊ねたことがある。
結婚しないのか、と。
今村は気負いなく、即答した。
公安部に入った時から、一般的に幸せと評される生活は捨てた、と。
今村がそこまで公安部の仕事に執心したのは、父の影響が大きかったようだ。
本人から直接聞いたわけではないが、今村の父親は兵庫県警の公安部に所属していた警察官だった。今は警視庁以外の公安部は警備部内に置かれているが、かつては各都道府県警に公安部はあった。
そして、警視庁と同じく、潜入活動を行なっていた。
今村の父は、彼が三歳の時、殉職している。鹿倉が調べた限りでは、ある左翼過激派のセクトに潜入していた際、仲間を助けるために身分を晒してしまい、拷問を受けた末に殺されたようだった。
のちにそのセクトの幹部は県警公安部によって検挙され、今村の父を拷問して殺した者も裁かれた。無期懲役の判決を受け、今も服役している。
今村がいつ、父の死の真相を知ったのかはわからないが、その過去が、彼を作業班員の仕事に傾注させる原動力の一つになっていたことは間違いない。
哀しい性だと思いつつ、過激派の撲滅に邁進する今村を頼もしく思った。
ただ、時に自分や仲間の死をもいとわない狂気じみた今村の捜査手法に関しては一抹の不安も感じていた。
いつか、彼自身が死を迎える時が来るのではないか……。むしろ、死に急いでいるようにも見えなくもなかった。
なので、今村に〝主任〟という地位を与え、指示役に回るよう手配したのだが。
今回は敵が敵だけに、今村自らの投入は仕方がなかった。
だが、その決断が最悪の結果を招いてしまった。
閉じた目の尻に、うっすらと涙が滲む。
ゆっくりと目を開き、もう一度、今村の顔写真を見つめる。
「ご苦労」
鹿倉はそう声をかけると、ファイルをシュレッダーに入れた。
ファイルが飲み込まれ、切り刻まれて、箱の中に雪のように降り積もる。
鹿倉が使うシュレッダーは特殊なもので、紙だけでなくプラスチックや金属までも細かな塵のように砕いてしまう。もちろん、再生は不可能だ。
作業班員が死ぬたびに、このシュレッダーを使ってきた。
ファイルがすべて飲み込まれるのを見て、鹿倉は少しだけ黙とうをした。
次に目を開いた時には、もう感傷に浸る鹿倉の顔は消えていた。