困ったことに、老女はここからバスで二十分かかる地域で一人暮らしをしており、誰か迎えに来てくれるような心当たりもないという。近くの交番に対応を任せていいだろうか、それともタクシーで帰るよう勧めるべきか、と津倉が悩んでいると、
「私、家まで送ります」
女性が毅然と言ってリュックを持ち上げようとした。しかしその重さに彼女もまたよろけてしまい、「危ない」と津倉と老女が声を上げる。
任せるのが心配になった津倉が同行を申し出ると、女性は「すみません、助かります」とほっとしたように言った。先ほどまでの強気な態度とは打って変わった柔らかな表情を浮かべる彼女に、津倉は不思議なくらい好印象を抱いた。
三人でバスの後部座席に座ると、老女は明日久しぶりに娘が孫を連れて顔を見せに来るのだと打ち明けた。今どきの子どもがなにを喜ぶか分からない。だからせめて食べたいものを余さず出してやれるよう、普段は来ない大きなスーパーまで足を運んだのだと。
津倉が頭の隅で亡き父親の姿を思い浮かべていると、ある異変に気が付いた。
老女を挟んで反対側に座る女性の頬に涙が伝っているのだ。
戸惑う津倉をよそに、
「嬉しいよね。娘さんにもお孫さんにも、少しでも喜んでほしいもんね」
と女性は頷きながら同調している。かえって老女の方が「なんでお嬢さんが泣くのさあ」と呆れて笑うほどに。津倉には訳が分からなかった。この人は老女に同情しているのだろうか。それとも今の話は琴線に触れるほど〝いい話〟だったのだろうか。だが同時に、彼女から目が離せなかった。
老女の家に着くと、女性は荷を運び込むだけでなく買ったものを冷蔵庫に詰め込むまで、手慣れた様子で手伝う。おかげで家を辞すころにはまるで本当の親子かと見まがうほど老女と打ち解け、老女は閉じたばかりの冷蔵庫や台所に積み上げた段ボールを開けて、あれこれと土産を持たせてきた。
紗奈には高級なカニの缶詰を、津倉にはクラフトビールのセットを勧めてくれたが、「酒が飲めないんです」と断ると、場違いな乳酸菌飲料の瓶を持たされることになった。
帰り際、老女が不意に尋ねてきた。
「あなた、もしかして津倉さんのお子さんじゃない?」
驚く津倉を見て、「やっぱり」と老女は微笑んだ。
「昔、半年に一度この家の庭木の世話をしに来てくれていたのよ。口数の少ない職人さんだったけど、よくあなたの写真を見せてくれたから、もしかしてと思ったの。横顔がそっくり。津倉さんが来て手を入れるたびに、庭が若返るようだったわ」
「……そうでしたか」
父の死を知っているのか、老女はそれ以上先を語らなかった。
嬉しさ半分、戸惑い半分で津倉は頭を下げた。亡き父の仕事を今でも覚えていてくれる人がいたこと、そして寡黙な父が自分のことを人に話していたことが率直に嬉しかった。
一方で、思わぬ形で本名を出されたことは誤算だった。公安の人間として、できる限り本名を出すのは避けるべきであり、津倉も使い慣れた別の偽名を用意している。今回も名乗る場合には偽名を出すつもりだったのだが。
「お嬢さんは何ていうの?」
老女の問いに、女性は微笑んで「高木です」と言った。
自然、駅までの帰りは二人一緒にバスに乗ることになる。そこで女性は普段は施設で介護士として働いていることを話した。どうりで手伝いの手際が良かったわけだ、と津倉は納得した。
「津倉勇一と言います」
津倉は先に名乗った。すでに姓を知られたということもあったが、女性の名を知りたいと思ったからだ。紗奈という名を聞いた時、美しい響きだと感じた。
ここで別れれば、二度と会うことはあるまい。それは嫌だと思った。
「もしお時間があれば、お茶でもどうですか」
可笑しくなるくらいありふれた誘い文句だった、と後に紗奈に何度もからかわれた。
うああ、という呻きが聞こえて、津倉は目を覚ました。聞こえたというより、耳の内側で鳴ったという方が正しい。つまるところ、自分が無意識に呻いたらしい。
夢の内容の大半はその瞬間に忘失している。ただ、最愛の女性の笑顔だけは残滓となって脳に刻まれている。
外では朝早くから開けている商店のやかましい声が響いている。窓から差し込む強い日光は、津倉が初めてこの国に降り立った日のことを思い出させた。
日本で失ったものを想わない日はない。今身を置いている環境があの日々とまるで似つかないのは、ある意味で救いかもしれなかった。まったく別の人間として生まれ変わったのだと思えば、胸の空洞の大きさにも気づかない振りができる。
津倉がカンボジアに来て、一年が過ぎていた。出国に柊の手引きがあったとはいえ、リエゾンとして遣わされた津倉に何かしらの仕事が与えられることはなく、大使館や領事館といった公的機関からのサポートもなかった。万が一、本格的に津倉に容疑がかかった場合、国が津倉を庇っているように見えるのは好ましくないためだ。だから津倉は自力で一年をかけ、この見知らぬ土地での生活基盤を築いていた。
狭い部屋の中、テーブルに置いたスマホが振動した。画面には現地人の同僚の名前が表示されている。電話に出るなり、スピーカーから工具のけたたましい音とともに、それに負けないボリュームで叫ぶ同僚の声が聞こえてきた。
『やっぱりうちに入るはずだった商品、横流しされてた! 社長が後で一緒にとっちめに行くぞって。トゥクラもそのつもりで来いよ!』
分かった、と答えた時にはすでに通話は切られていた。だが構わない。喧嘩っ早い社長がやると言ったら、何を言っても無駄だ。もし警察沙汰になっても、賄賂で黙らせるのが彼のやり方だ。
この国に来た時、英語は話せるが、カンボジアの公用語であるクメール語は話せなかった。そこで現地で暮らす邦人の紹介を受け、力仕事をしながら言葉を覚えた。ある程度暮らしに慣れた後、都市ではなく地方の町に移り、地元有力者の用心棒のようなこともやった。身元の詮索を避けながら、日本の情報を探るには清濁併せ呑む町の方が都合がよかった。
現在、津倉は中古機械の輸入販売の会社を手伝いながら、トラブルなどで力が必要になった場合に駆り出される便利屋として暮らしている。脅しや腕っ節という、日本では前時代的なやり方も、この町では治安を守る立派な手段だ。結果、異国人ながら住民から一定の信頼を得ていた。
日本の報道を追う限り、津倉からすべてを奪った三軒茶屋の爆発事件の捜査は、いまだ大した進展を見せていない。
当初は組織的なテロの可能性も挙がったが、声明が出ることはなく、『血が贖う』というメッセージの送り主も分かっていない。同じような事件も起きていない。今は爆弾を所持していた斉藤の自殺説、そして協創党員である彼を狙った暗殺説が主な論調だ。
柊からは、出国の際に渡されたスマホ宛てに連絡が入る。それも頻繁に連絡があったのは津倉が生活を安定させるまでで、最近では月に一度、次は二ヶ月に一度、と頻度を減らしている。
ことあるごとに心を蝕む無力感を忘れるため、津倉は危険を厭うことなく町の住人から持ちかけられる仕事を請け負うことにしていた。場合によっては日本に住む人々を標的とした詐欺グループの橋渡しといった、警察官にあるまじき依頼をこなしたこともある。常に危険の中に身を置くことで、日本との物理的な距離を超えてあの凄惨な事件に関わっているような気になることができる。
津倉なりにあの事件を整理したところ、いくつかの謎が浮かんでいる。
第一に、何が目的だったのか。
世間では爆弾を所持していた斉藤の自殺説も囁かれているが、直前の彼の行動を見た津倉にしてみれば、考えにくいことだった。斉藤はトイレに立った後、なぜか津倉の目を避けて店を出ようとしていた。自殺の状況にしては奇妙だ。
では津倉が狙われたのかと考えると、それもおかしい。それなら爆弾を席に残しておいたはずだ。
なら、狙われたのはやはり斉藤だったのか。彼はリヴ・コモンズのメンバーであり、協創党の内情を探るための党員でもあった。彼が情報を漏らすことを察知したどちらかの陣営が、口封じのために殺したのか。だが、あの爆発で多くの市民も犠牲になった。身内の制裁としてはあまりにも大事にしすぎている。
第二の謎は、死んだ紗奈についてだ。
あの日、紗奈はどうしてあの場所にいたのだろう。確かに忘れ物を届ける旨のメールは届いた。仕事が三軒茶屋であることも彼女に話していた。しかし現場があのカフェであることは、紗奈には知りようがなかったはずだ。
三軒茶屋に着いて津倉を捜すうち、たまたまあそこを通りかかった可能性もある。だがその偶然の先に、爆発事件が起きた。
二つの偶然をただの不運として受け入れるべきかどうか、一年が過ぎても津倉は決めかねていた。
その時、スマホの呼び出し音が鳴った。
先ほどとは打って変わって、津倉は弾かれるように振り返った。
鳴っているのがテーブルにある普段使いのスマホではなく、枕元に置いた柊から連絡用に渡されたものだったからだ。なにか事件の進展があったのだろうか。
しかし通話を受けようとして、津倉は手を止めた。画面に表示されているのが、柊が使っている番号ではなく、非通知の文字だったからだ。普通に考えれば、怪しい。まさかとは思うが、日本の警察が津倉の連絡先を突き止めたのだろうか。
だがそれもおかしい。本気で捕まえるつもりなら、こちらを警戒させるような真似はしないはずだ、と津倉は結論づけ、電話に出ることにした。
「……はい」
念のため、こちらからは名乗らない。スピーカーの向こうから、逡巡するような息づかいの後にわずかな沈黙を挟み、囁き声が聞こえてきた。
『……勇一君?』
スマホを持つ手が凍り付いた。
津倉のことを、下の名前に君付けで呼ぶ相手はいない。いないはずなのだ。一年前に死んでしまった、最愛の女性を除いては。
今日まで悪い妄想の中を彷徨っていたのかと、ありえないことを考える。それほどまでに、耳を撃ち抜いた声は懐かしい紗奈の呼び声と一致していた。
津倉の喉が動きだすより先に、再び切羽詰まった声が聞こえた。
『勇一君、助けて』
「紗奈なのかっ!」
叫んで、返事を待つ。しかし聞こえてきたのは無情な電子音。通話が打ち切られたのだ。果たして呼びかけが届いたのかも分からない。
慌ててかけ直そうとするが、非通知相手では無理だった。
何が起きたのか、部屋をうろつきながら混乱する頭で必死に考える。今のは間違いなく紗奈だった。生きていたのか? そんなはずがない。津倉は葬儀に出られなかったが、報道では確かに爆発事件の犠牲者として紗奈の名前が出ていた。
そもそも、である。紗奈が生きていたとして、このスマホの番号が分かるはずがない。これは彼女が死んだ後に、柊に手配されたものなのだから。
しかし、耳に残った声は勘違いと切り捨てるにはあまりにも真に迫った響きがあった。津倉はそのまま、柊の連絡先を呼び出した。
『本気で言っているのか?』
柊は話を聞くなり、驚きというよりも津倉の正気を探るような、押し殺した声で聞き返してきた。日本との時差は二時間。向こうも朝の時間帯である。
「間違いなく、彼女が私を呼ぶ時の口調でした。第三者が真似しようとしてできるものではありません」
『しかし、聞いたのはたった一言二言だろう。絶対と判断するには足りなすぎる。それに当然のことだが、そのスマホの番号を知っているのは私を含めて公安の中でもほんの一握りだ』
「紗奈の生死について、なにか行き違いが生じた可能性はありませんか」
『いい加減にしろ。いつもの冷静さはどうした。そんな夢みたいな話が本当にあり得ると思っているのか』
柊の声に苛立ちが滲んだ。
当然、津倉も分かっている。紗奈が警察にすら把握できない偶然の重なりの果てに生きていて、なんらかの方法で津倉のスマホに助けを求めてきた。それは奇跡に奇跡を掛け合わせてようやく成立する話であり、それを信じた時点ですべての理屈と常識を投げ出したも同じだ。それでも倦怠の日々に差した希望に、どうして手を伸ばさずにいられようか。
「私を日本に戻してもらえませんか」
見えない相手に、津倉は頭を下げた。
「自分の目で事実を確かめたいのです」
『無茶を言うな。今日本に戻ってきてなにができる。あの事件の捜査はここ数ヶ月てんで進展がなく、警視庁は針の筵だ。お前が姿を見せれば、一も二もなく拘束されるかもしれん』
「声の主が紗奈にせよ別人にせよ、私を呼び出したんです。帰国すれば、あちらからアプローチがあるかもしれない」
考えこむような間をおいて聞こえてきたのは、津倉の期待とは反対の言葉だった。
『認められない。爆発を仕組んだ何者かが、今度はお前を狙っているのかもしれん。いや、あるいはあの事件そのものがお前を狙ったものだった可能性もある。のこのこと戻ってくるのはリスクが高い』
「しかし」
『お前を国外に逃がすために私がどれだけ骨を折ったと思っている?』
柊の声が一段と低くなった。
その声音で津倉は、公安に入って間もない頃、係長だった柊から持ち掛けられた異例の仕事を思い出した。
「管理官が情報を漏らしている可能性がある」
柊の班が長期間をかけて調査し、ようやく結実しようとしていたある過激派グループのアジトの情報。柊と管理官しか全容を知らないはずのそれが相手に漏洩し、家宅捜索の直前にグループは雲隠れしてしまったという。柊はまだ報告に上げていない情報を利用し、管理官の関与を確かめる策を立てた。その協力者として選んだのが、まだ相手に顔が知れ渡っていない新人の津倉だった。
「なぜ、管理官が」
「もっと深く調べるべきだった。過激派の運動に、管理官の甥が関わっていた」
後にも先にも、柊が激しい苦渋の表情を浮かべているのを見たのはその時だけだ。管理官は柊にとって長年の仲間であり、世話になった先輩でもあった。それでも、見逃せば自分たちまで漏洩への荷担を疑われる。柊は信念に基づき、上司の行いを暴きにかかった。
津倉は素性を隠し、数ヶ月をかけて過激派組織に潜入し、彼らが管理官から情報を受け取っている証拠を掴んだ。日本ではこういった裏切りに対しても、映画の口封じのような処分は一部の例外を除き行われない。ただある日唐突に遠方への転勤を命じられ、中央での仕事に関われなくなるだけだ。処分を受けた本人はそれで裏切りが露見したことを察し、自ら組織を去る。その時の元管理官も唐突に津倉たちの前から去り、代わりに柊が昇進してその座に収まった。
「こんなことはもうたくさんだ」
津倉の前で、柊はそう吐き出した。本当は真面目な人だったんだ、だが国という姿もねぎらいの言葉もないものに尽くし続けるより、身近な誰かを想ってしまったんだろう、とも零した。
「国を守るためには、公安はもっと強くならなければ。そのためには津倉、お前のような力が必要だ。頼むぞ」
あれから、二人の間には強い信頼関係があった。柊は津倉にとって上司以上の〝戦友〟だった。
『公安も、お前を信じている者ばかりではない。今お前がおかしな動きをすれば、私もろとも切り捨てられかねんぞ。お前にはいずれ復帰してもらわねば困る。今はこちらの調査を信じて待て』
こうなると津倉は「……はい」と返すしかなかった。日本を出立する前、病室で刑事たちから受けた聴取をよく覚えている。多くの一般人を巻き込んだ事件への怒りが、津倉にも疑いの目として向けられていた。もし柊が手を回してくれなければ、こうして誰かと連絡をとることもできず犯人が見つかるまで軟禁状態になっていたかもしれない。だが……。
津倉は柊との通話を切り、ベッドにどすんと腰を下ろした。
──勇一君、助けて。
あの声を無視することなど、できるはずがなかった。最期の見送りすらできなかった紗奈。もう一度彼女と言葉を交わすこと、たった一度でいいからあの手に触れることを、この一年間で何度夢に見てきたことか。夢から覚めるたびに、何度絶望を味わったことか。
津倉は借家を出ると、物置に保管してある原付バイクを引っ張り出した。今世話になっている輸入会社の社長が商売敵に因縁をつけられた際、三人の手先を津倉が力尽くで追い払った報酬として譲られたホンダ製の中古品だ。ちなみに、日本での盗難車が流されたものと津倉は見ている。
「おいトゥクラ、遅いよ!」
会社に着くと、先ほど電話をかけてきた同僚が大声で叫んできた。怒っているわけではない。普段からボリュームが壊れているのだ。ダボダボのランニングシャツから伸びた細い腕を振り回す仕草は、どこか機械じみている。
津倉は原付バイクを降りると、大股で彼のもとに歩み寄った。その様子に不穏な気配を感じたのか、「な、なんだよ」と途端に気弱な声を出す。
「お前、確か貿易船の会社に伝手があったよな。金に困っている奴を知らないか」
津倉はすでに心に決めていた。自分の力で日本に帰ってみせると。
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