卷壹――気づいたのは兵庫

 

一

 

「おみなちゃん、お水ちょうだいな」

 そう言って御お口くち所どころに現れたお艶つやの顔を見て、おみなは摑みかけたひしゃくを手からすべらせた。

 陰気な口調でいつも「死にたい死にたい」と愚痴をこぼしているお艶だ。もっともそう言いながらも、色里に流れ着き、男の相手をしようというのだからどこまで本気かはわからない。「あいつの〝死にたい〟は鼻歌みたいなもんだよ」と口の悪い連中は言っている。ついたあだ名が〝死に節お艶〟。世を恨む性格が顔に出るのか、肌はかさつき目はよどんでいる。

 無む界かいの里と呼ばれるこの色里は、関東一と噂されている。

 一番人気は極楽ごくらく太た夫ゆう。「抱いて極楽惚れたら地獄」と謳うたわれるほどの美貌だ。

 二番手に芸達者の浅あさ黄ぎ、三番手は意見の分かれるところだがほわっとした品が売りの白船しらふねか、頭の回転が速く客への受け答えが行き届いた東雲しののめか。もちろんそこまで高望みはしなくても、若くて愛想のいい遊女はいくらもいる。

 この里に来てまだ二十日ほどにしかならないおみなから見ても、金を出してまでお艶のような女に相手をしてもらいたいと思う男はまれだと思う。

 客がつかないからまた「死にたい」と愚痴ぐちる。陰気の悪循環だ。

 そのお艶に、酔すい狂きような客がついたのが昨夜のこと。

 すぐに「別の相手を」と言われるんじゃないかと、直接客あしらいとは関係のない賄い方のおみなですらひやひやしていたが、別に何ほどのこともなくその夜は過ぎ、無事に相方を務めあげたお艶が朝の食事に現れたその顔だ。

 別人のように綺麗になっていた。

 見た目が大きく変わったわけではない。ただ、身体の芯に灯がともったとでも言えばいいのだろうか。ほうっと明るい色気がにじみ出ている。それが目の輝きになり肌の張りになる。そうするとそれまで陰気に見えていた黒目がちの瞳が、艶っぽさに変わる。

 驚いたのはおみなだけではなかった。

 間口奥行き共に五間ほどの土間が炊事場だ。それに十畳ほどの板の間が続き、女達はそこで食事をとる。それを御口所とは大仰だが、男の相手をする女達が下卑げびた心持ちにならないようにするための主あるじの心遣いだという。その朝も十人ほど、てんでに朝食をとっていたが、みんな箸を止め、お艶の顔を眺めている。

「どうしたんだよ、あんたらしくもない」

 落としたひしゃくを拾って渡すお艶の、その指の先にまで生気が満ちている。

「あ、す、すみません」

 おみなは慌ててひしゃくを受け取ると水瓶から水を汲み、お艶に渡した。

 ひと息で飲み干すとふうと息をつく。

「お艶ちゃん、あんたいい客摑んだね」

 奥から小山のような女が声をかけた。お富士ふじだった。

 蜆しじみ汁じるを飯にかけて、食べるというよりは流し込んでいた彼女が、腫れぼったい目でお艶を見ていた。喋るたびに身体中がぷよぷよと揺れる。いかにも腹が減りそうだ。暇な時には、この御口所で何か食べているのだが、客のつかなさでは〝死に節お艶〟と一、二を争う彼女だ。必然的に一日中、板の間の隅に座って口を動かすことになる。隅とはいえその巨体だ。いやでも目立つ。動かざること山のごとしというわけで、いつの間にか通り名は〝信玄しんげんお富士〟。

 そのお富士の糸のような目の奥でチロチロと嫉妬の炎が燃えている。

 恐いものだと、おみなは思った。

「いいのよ、あたしゃ色気より食い気よ」と、おひつごと食べかねない勢いのお富士ですら、仲間と思っていたお艶がいきなり自分を出し抜いて綺麗になったとなれば、肉布団の底で眠っていた女心が目を覚ますのだろう。

 そのお富士の心を知ってか知らずか、お艶はにっこりと笑みを浮かべてうなずいた。

「ああ、そりゃあもう。あんな男は初めてだねえ」

 何を思い出したか、お艶の顔が陶然とうぜんとなる。その言葉にまたぷるんとお富士の身体が揺れる。

 ――富士山大噴火だよ、これは。

 もめ事になるんじゃないか。そう思っておみなは賄い方の男衆に目をやった。炊事場にいた四、五人の男達は、気にもとめずに庖丁を動かしている。

 おみなの不安を感じたのか賄い方の長の宋そう十じゆう郎ろうが顔を上げた。その厳いかつい顔の目が笑っていた。どうやらこの程度のことは、ここではざらのようだ。

 しかし、お艶の口から出た次の言葉は女のもめ事には慣れっこの男達にも、意外なものだった。

「ああ、そうだ。次はあんたがいいんだって」

「え」

 きょとんとした顔でお富士が聞く。

「うちのお客だよ。しばらく泊まるらしいよ。今夜はあんたがご所望だとさ」

「でも、いいのかい。それだけの相手だ。お艶ちゃんのなじみに」

「あたしはひと晩で充分さ」

「でも……」

「不思議かい。だろうねえ。でも、明日になりゃあ、あたしの気持ちはあんたにもわかるよ」

 ――翌朝、その客の相手を務めたお富士は、お艶と同じように御口所に現れた。

 今度はおみな達賄い方のほうも少しは心の準備をしていた。それでも彼女が現れた時には、その変わりように目を見張った。

 たったひと晩で体格が変わるわけではない。ただ、ぶよぶよと弛緩していた身体が、ひと回りしまったように思える。温かい空気が彼女を包んでいる。どんよりとしたまぶたの腫れが気にならなくなり、そうすると糸のように細い目も愛嬌に見えるから不思議だ。

 待ちかねたようにお艶が声をかける。

「どうだったい、お富士ちゃん」

「ああ、あれは……あれは、もう」

 大きくため息をつくと、へなへなと座り込んだ。

「お富士さん、蜆汁でいいですか」

 宋十郎が声をかけた。が、お富士は顔の前でひらひらと手を振った。

「いいよ、今は胸がいっぱいだ」

 そう言って、乙女のような笑みを浮かべた。

〝死に節お艶〟が綺麗になった。〝信玄お富士〟が飯を抜いた。噂はたちまち無界中に広がった。

 

『髑髏城の七人』は全2回で連日公開予定