序

 

 彼女の言動を思い出せ。

 

 一つたりとも見逃すことなく。

 

 そうすれば、彼女が何者か必ず分かる。

 

第一章 呼 び 声

 

1

 

 玄関で靴を履いた時、寝室に繋がる部屋のドアが開き、温かな足音が近づいてきた。

「起こしちゃったか」

 津つ倉勇一くらゆういちが罪悪感とともに振り向くと、

「ううん」

 クリーム色のパジャマ姿の高たか木紗奈ぎさなが、眠たげな微笑みを浮かべて言った。その綺麗なアーモンド形の黒く大きな瞳には、いまだに津倉はどきりとさせられる。寝ぐせで可愛らしく膨らむ栗色のミディアムヘアやあどけない顔にも、彼女の優しい性格が表れているようだった。すでに九時を過ぎ、早朝というわけではない。しかし介護士として夜勤を終えたばかりの彼女にとっては何物にも代えがたい安息の時間だろうに、津倉が出勤する時はこうして見送りに立ってくれる。それだけのことがこれほど心を癒やしてくれるものだとは、二人の生活を始める前の津倉には思いもよらないことだった。

「勇一君、今日は取材だっけ」紗奈が問う。

「ああ。三軒茶さんげんぢや屋やのあたりで」

 口にしてから、急きゆう遽きよこの仕事が入ったせいで二人で外出する予定をずらしたことを思い出す。普段は控えめな紗奈から、なんとか引き出した要望を叶えるはずだったのに。

「ごめんな」

 謝罪する津倉に、紗奈は「また予定を合わせたらいいよ」と苦笑して首を振る。この距離で届くはずのない香りが鼻先をくすぐった気がした。

「その時、聞いてほしい話もあるの。とにかく気をつけてね」

 扉が閉まり、紗奈の姿が視界から消えると、津倉は重いため息をついた。

 今日の約束とは他でもない、婚約指輪を受け取りに行くという一大イベントだったのだ。付き合い始めてから二年と少し、自他共に認める朴念仁ぼくねんじんである津倉がようやくたどり着いた、紗奈との新たな門出ともいえる日になるはずだったのに。

 見えない引力を振り切るように、津倉はマンションを出た。この苦しさは、彼女と交際すると決めた日から覚悟していたはずだ。時に二人の都合よりも仕事を優先しなければいけないと。スーツの内ポケットから名刺ケースを取り出し、新調したばかりの名刺を確認する。

 週刊『羅ら針盤しんばん』 ライター 遠藤達弘えんどうたつひろ

 馴染みのなさにうんざりしながら、待ち合わせの場所に急ぐ。もう十月だというのに、暑さがしつこくまとわりついて秋はまだ先のように感じられた。

 

 三軒茶屋の、比較的大きな通りに面した洒落たカフェ。それが今日の取材相手が指定してきた場所だった。はじめ津倉は秘匿性を考慮して個室のあるカフェやカラオケボックスを提案したのだが、「密室は勘弁してください。万が一の時、助けを呼びにくいじゃないですか」という牽制ともつかぬ相手の要望によってこの店になった。

 約束の十分前に店内に入り、予約席を確認すると、丸テーブルの並ぶ広いホールの一番奥、壁際の席だった。各テーブル間は仕切られているわけではないが、スペースを区分するようにそれぞれ一段ずつ段差が作られている。目の前を店員の動線である広い通路が走っていることもあり、思ったより周囲に話を聞かれなそうである。ここなら声量に気をつければ秘密の取材も可能だろうと安心し、津倉は下座に腰を下ろした。

 取材相手である斉藤さいとう尊たけるは、約束の十一時ちょうどに姿を見せた。会うのは初めてだが、津倉は相手の面を調査済みだった。対応に出た店員を片手で制し、賑わう店内を探るような目つきで見回している。取材場所を気にしていた割には、場慣れしていない雰囲気だ。思ったよりも情報を引き出すのは容易かもしれない、と津倉は内心で認識を更新した。

 遠目に目が合い、津倉が「もしかして」という顔で会釈すると、ほっとした様子でこちらにやってきた。

「週刊『羅針盤』の記者、遠藤達弘です。取材をお受けいただきありがとうございます」

 名刺を差し出すと、相手は卑屈そうな笑みでそれを受け取り、

「斉藤です。七年ほど前からリヴ・コモンズに参加しています」

 と告げた。三十二歳の津倉より二つ年上の三十四歳のはずだが、浅黒く荒れた肌と無造作に伸びた髪のせいかずっと老ふけて見える。周りの客は比較的小綺麗な格好をした中年層の女性や、少し早めのランチと思しきスーツ姿の勤め人が多いのに対し、アパレル量販店のパーカー姿というのも浮いている。斜めに下げているショルダーバッグも流行りの半月形のデザインだが、服と同じブランドの製品だ。

 席に着くと、津倉は用意してきた手土産を差し出した。東京各所で買えるものだが、美味しいと有名な羊羹だ。斉藤は首をすくめるようにして受け取ると、無造作にバッグの中に詰め込んだ。

 これからの話を録音してもいいか尋ねると、渋面を浮かべて首を横に振った。

「やめてほしい。声で俺の身元がばれるのは困る。あんたらは話の内容さえ分かればいいんだから、メモでもとればいいでしょう」

 津倉はあくまで穏やかに了解の意を示した。

 好きな物を注文するよう言うと、斉藤は嬉しそうにメニューをめくり、ふんだんに牛肉が載ったボロネーゼを指さした。

 津倉は空腹ではなかったが、調子を合わせた方がよいと判断し、安いナポリタンを頼む。料理を待つ間、早くも心を許したらしい斉藤が声を潜めて笑った。

「やっぱりまともかどうかは、人の扱いで分かるんだなあ。なんでも聞いてくださいよ、リヴ・コモンズのこと。──もちろん協きよう創党そうとうのことも」

 

 協創党は、わずか六年前に結成された新しい政党だ。終わりの見えない経済不安、物価高や増税によって与党の支持率が下落を続けるにもかかわらず、主要な野党もまた現実的な政策を提言するでもなく過激なだけの与党批判に躍起になり、不祥事と不適切発言を連発して国民の支持を取りこぼし続けていた。そんな中、目覚ましい勢いで頭角を現したのが協創党である。党首の羽場はば義成よしなりは二〇〇〇年代にミュージシャンとして芸能界入りし、本業では大成しなかったものの闊達かつたつな物言いと骨格のはっきりした端整な顔立ちが受け、テレビタレントとしてバラエティや情報番組へと活躍の場を移していた。その露出がやや翳かげりを見せていた六年前、突如として協創党を結党し、幅広い世代の浮動票を獲得して鮮烈な政界デビューを果たしたのである。

 協創党の躍進は一度の偶然では終わらなかった。SNSによる宣伝活動の重要性をいち早く理解した彼らは、普段からストーリー性と分かりやすさに特化した動画を熱心に展開した。あたかも、筋書きがあると分かっていてのめり込んでしまうリアリティ・ショーのように。

 ある政治ジャーナリストは言った。「協創党が国民から得たのは支持ではない。〝共感〟と〝推し〟の感情だ」と。

 羽場は決して品行方正な聖人君子ではなく、これまでも何度か過去の女性スキャンダルや芸能事務所とのトラブルを報じられた。だがどんな場面でも彼は臆することなくカメラの前に立ち、深々と頭を下げた。「私は未熟です。皆様の信頼を裏切ったのだから、頭を下げるのが道理です。その道理を、すべての政治家に求めているのです。これまでどれだけ国民を裏切り続け、その責任から逃れてきたのか。汚い私の人生をかけて、この国の政治の澱よどみを浚さらってみせます。あらゆる格差が消え、女性や弱者とされてきた方々がより活躍できる社会。それが達成された暁あかつきには、どうぞ私を切り捨ててくださってかまいません」

 どう振る舞えばこのシーンがメディアで美しく扱われるか、完全に心得ていたに違いない。羽場は人々が求める理想の政治家ではなかったが、優れた代弁者ではあった。

 とにかく、協創党は大政党の苦戦をよそに地方選で議席を獲得し続け、昨年ついに連立政権入りを果たした。

 そしてそんな協創党と深い繋がりがあると見られているのが、リヴ・コモンズという団体なのだ。

 一見すると社会的弱者支援のため炊き出し、バザー、医療サポートなどを行うボランティア団体でしかない彼らだが、協創党を結党当初から支えており、水面下で支持者を猛烈な勢いで増やしていると言われている。それでいて表立って集会などを開かない彼らの組織構造には謎が多く、リーダーが誰なのか公安ですら掴めていない。

「元々ね、協創党の立ち上げ前から俺たちは羽場さんを支援していた。といってもあの頃の羽場さんは飲食事業に失敗したせいで焦っていて、知り合いの投資家の口車に乗せられて選挙に出たんだ。『政治のことなんて分からなくていい、人の気持ちを引くことさえできれば勝てる。それはあんたの特技だろ』ってね。で、羽場さんはとにかく弱い者のヒーローになろうって言って、色んな方面に顔を売った。あの頃は選り好みなんてしていられなかったからね。リヴ・コモンズと繋がったのもそのタイミングだった」

 リヴ・コモンズが目指すのは徹底した社会的弱者の救済。経済成長を目指し続けた戦後の政治を失敗と見切り、富の分配や社会構造の変革によって日本を立て直すことだという。

 協創党の躍進は、当然リヴ・コモンズを宿願の達成に近づけるはずだった。

 しかしここに来て、その協力関係にヒビが生じているのだと斉藤は語った。

「実のところ、連立政権入りっていうのは、協創党にとっても望外の成果だったんだな。羽場さんは政党交付金で悠々自適に暮らすつもりが、もっと大きな餌を目の前にぶら下げられた。そうなると、これまで〝やってやれ〟で済ませていたことが途端にネックになる」

「リヴ・コモンズの活動には、市民の非難を受けかねない過激さがあったんですね」

「そうだ。今や羽場さんはどうにかしてリヴ・コモンズを党から切り離せないかと考えている」

 津倉が把握しているだけでも、協創党の対立候補に対する演説の妨害や掲示物の汚損などにはリヴ・コモンズの構成員が関わっているとされている。

「こうなることは、リヴ・コモンズも前々から予想していた。だから俺のように顔を知られていない構成員を何人も、協創党の関係先に送りこんでいるのさ」

 斉藤はその後も、羽場の周囲で噂されている政治献金や事務員へのパワハラに関する質問に嬉々として答えた。無意識に大きくなる音量に、津倉はメモを取るふりをしながら周囲を見回したが、幸い他の客たちはそれぞれの会話に夢中でこちらに注意を払う様子はない。

「もっとも、リヴ・コモンズとの関係をなかったことにするのは簡単じゃない。悪事を働いたからといって右腕を切り落としたら、本人も無事じゃ済まないように。俺たちは協創党にとってのバルカン半島ですから──と、一旦トイレに」

 話を途中で切り、斉藤は席を立つ。その際、荷物置きに残したショルダーバッグを覗かれると思ったのか、卑屈な笑いを浮かべてそれを持ってトイレに向かった。

 さて──と残された津倉は息をつく。

 ここまでの調査は順調だ。

 だが協創党、ひいては羽場のスキャンダルなど、実は大した問題ではない。本当に知りたいのはリヴ・コモンズという組織の構成と活動の詳細だった。今後彼らに国家を危険に晒すような過激化する危険性があるのかどうか。

 斉藤の話では、リヴ・コモンズは先のことまで考えて協創党との関係を結んでいる。単に世間への不満を解消するための市民の集まりというわけではなさそうだった。津倉の知る限り、暴力団のような裏稼業が糸を引いている様子もない。いったい組織を率いているのは何者なのか。

 ことによると、情報を引き出すだけでなく斉藤をこちら側に抱き込んで活動を継続させる方が得策かもしれない、と津倉は考え始めた。

 斉藤の風貌や格好からして、金銭的な余裕があるようには見えない。それに手土産をしまう際、彼のバッグの中に洋菓子店のものと思われる包みが見えた。おそらく彼も津倉に渡すために用意してきたのだろう。だが、それは津倉の羊羹に見劣りするものだったため、渡すのをやめたと見えた。プライドが高いのである。

 そこをうまく刺激することができれば、継続的な協力関係が築けるだろう。

 

 津倉は無意識のうちに尻ポケットからスマホを取り出し、通知のチェックをした。すると紗奈から二通のメッセージが来ていたことに気づく。

『財布、忘れてるよ。届けに行こうか』

 十分の間を空けて、

『一応、三軒茶屋に向かうね』

 と追加のメッセージ。

 しまったと思った。今日は〝遠藤達弘〟としての仕事のため、プライベートの財布を置きっぱなしにして出てきたのだ。紗奈からしてみれば、津倉が大恥をかきかねない忘れ物をしたと思ったことだろう。

 二通目のメールは三十分ほど前のものだ。紗奈が大急ぎで家を出たなら、すでに駅には着いて津倉の返事を待っているかもしれない。彼女の休日を潰して済まなく思う気持ちと、この面会が終わるまで返信を控えようと思う気持ちがせめぎあう。答えを先送りにしたい思いで画面から顔を上げた津倉は、目を疑った。

 斉藤がすでにトイレから出ていた。ただ、なぜかこの席に戻るのではなく、店の入り口に向かって歩いていくではないか。

 呼び止めようと津倉が立ち上がると、気配を察したのか斉藤がこちらをちらりと見やり、歩くペースを上げた。あからさまに焦っている挙動だ。

 津倉は迷った。店の中で目立つことはしたくない。だが、事情は聞くべきだ。

 ホール係の店員の横をすり抜けて津倉が後を追う最中、斉藤は道路に面したガラス壁の向こうを見た。その目が驚くように見開かれる。

 津倉も視線を追う──と、店の前を通りすがる人の中に、思わぬ人影が交じっていることに気づき、声を上げそうになる。

 ──紗奈!

 一瞬、津倉は斉藤のことを忘れた。

 ──なぜ彼女がここに?

 ──休日。財布。届けに行こうか。

 ──どうする、誤魔化せるか。そうだ、斉藤は。

 いくつもの考えが頭をめぐる中、外にいる紗奈がこちらを見た──と思った。

 その瞬間。

 斉藤を中心として、閃光が弾けた。一瞬遅れて凄まじい轟音と爆風に襲われ、津倉の意識はぷつりと途切れた。

 

 

 十月七日正午ごろ、東京都世田谷区三軒茶屋の飲食店で激しい爆発があった。警視庁や東京消防庁によると、店内にいた従業員や客、店外の通行人を含めて計七人の死亡が確認され、このほか二十人以上が重軽傷を負い、近隣の病院に搬送されている。現場からは爆発物の破片とみられる遺留品が見つかっており、警視庁は組織的なテロの可能性も視野に、捜査一課と公安部が合同で捜査を開始した。

 また爆発の前日、協創党本部あてに〝血が贖あがなう〟という差出人不明の手紙が届いていたことが分かっており、事件との関連を調べている。

 

『0秒前の彼女』は全4回で連日公開予定