2
我が身を襲った事件の詳細を、津倉は三日後の病室のベッドの上で、上司である柊紘一の口から聞いた。正確には、すでに二度ほど目を覚まし会話をしたらしいのだが、脳震盪を起こしたせいか津倉の記憶は靄がかっており思い出せなかった。幸い他の外傷は軽い火傷と打ち身程度で済んだようだ。
柊の顔には色濃く疲労の色が浮かんでいる。津倉よりも上背がありながら、しなやかな体つきに黒のスーツを着た柊はクロヒョウのような印象を与える。
「お前はうわごとで、〝サナ〟という女性の安否を気にしていた。以前照会した、お前の交際相手の名前だ」
「紗奈は……紗奈は無事ですか。彼女もあの場所にいたはずです」
全身の痛みを無視して起き上がろうとする津倉を、柊は止めようとせず静かに告げる。
「被害に遭った中には損傷が大きく、身元確認が困難な方もいた。お前の発言によって、その中の一人が高木紗奈さんであることが確認できた」
津倉の体から痛覚が消えた。
引き換えに襲ってきたのは、深海の底に放り込まれたような壮絶な虚無感。どれほど足掻けども光の見えない、永遠の絶望だった。
津倉は体に繋がれた点滴を引きちぎり、獣のように吠えた。紗奈に会わせてくれ、と叫んだようにも思う。
混乱を見越していたのか、すぐさま屈強な警察官が病室に飛び込んできて津倉を押さえ込み、医師の手で鎮静剤を打ち込まれた。
再び意識を取り戻した時には、津倉は世間から取り残された存在となっていた。
眠っていた間に病室も移されたらしく、テレビも窓もない、まるで倉庫のような部屋に寝かされていた。おそらく柊が手配した、特殊な施設なのだろうと察しをつけた。
事件に関しては斉藤が所持していたショルダーバッグに爆発物が隠されていたことが確定的であることを、またしても柊の口から聞かされた。
だがなによりも津倉を打ちのめしたのは、再び紗奈について尋ねた時だった。
「高木紗奈さんの葬儀は、すでに彼女の実家で執り行われた」
「そんな」
津倉は愕然とした。愛する女性の顔すら見ることなく、見送ることもできなかった。
ならせめて、恋人として彼女の身に起きたことを家族に説明する義務がある。そう言ってベッドから起きようとする津倉を、柊が制した。
「お前は数少ない事件の証言者だ。これから綿密な事情聴取が待っている」
「それはちゃんと受けます。ですが、その前に紗奈の実家に行く許可をください」
「駄目だ」柊が沈鬱な声を出す。「残念だが、お前に公衆の面前に出られるわけにはいかない」
「なぜです」
まだ寝ぼけているのか、と言わんばかりの冷たい視線が津倉に向けられた。
「お前は斉藤と会った最後の人間で、公安捜査官としての任務中だった。そんなこと、公にできるわけがないだろう」
津倉は警視庁公安部公安総務課に所属する捜査官であり、記者に扮して斉藤から聞き取りをしていた。紗奈には公安はおろか警察官であることすら秘密にしていたから、彼女は最期まで津倉を多忙な雑誌記者だと思っていたに違いない。親しい者にも素性を隠すのは公安捜査官なら当然のことだ。だからこそ、津倉は爆発事件の被害者であるはずの自分が、今世間から疑わしい目で見られていることなど想像がつかず、呆然と柊を見上げた。柊の立場は津倉の直属の上司である係長のさらに上、管理官だ。その彼自らがわざわざ出張っていることこそ、事の大きさを物語っている。
「まだお前の素性については報道されていない。だが斉藤のバッグの中に爆弾があったと分かった以上、彼や面会相手のお前が注目されるのは当然のことだ。店にいた客が、お前が斉藤に包みを渡しているのを目撃したという証言もすでに出ている」
「あれはただの菓子折です」
「それを証明する術がない。爆弾は小さいサイズで、菓子折に見せかけることができたと考えられている」
「彼のバッグの中には、他にも土産のような包みがあるのを見ました」
津倉は訴えたが、柊は冷たく首を振った。
「他の所持品は爆発とともに四散していて、確かめられない。それにもしその包みが爆弾だったのなら、斉藤は自爆したことになる。だが店を出ようとした、あのタイミングで?」
反論され、津倉は沈黙した。あの時の斉藤は、まるで津倉から逃げようとしている様子に見えた。彼が自爆を図ったとは思えない。
「とにかく、今お前は世間の注目の的だ。お前が正直に見聞きしたことを話そうとも、世間を賑わせるような情報を生み出すのが今のインターネット、SNSなのはよく知っているだろう」
たった数年で無名だった協創党を連立政権入りするほど成長させたように。
「第一、斉藤との会話の内容をメディアに明かすことも不可能だ。よってお前がどう誠意を尽くそうとも、隠し事をしながらの対応となり世間をいたずらに騒がせることになる。それはお前の本意では──」
柊が言葉を続けようとした時、病室のドアがノックされた。こちらの返事を待たず、スーツ姿の男が二人入ってくる。患者に向けるものではないその振る舞いだけで、彼らが刑事であることが津倉には分かった。
柊が不快そうに眉をひそめる。
「困るな。今、取り込み中なんだが」
「困るのはこっちです。津倉さんの目が覚めたら、真っ先に伝えてもらうよう頼んでいたはずですが」
二人のうち、立場が上と思しき体格のいい男が言って威圧するように柊との距離をゆっくりと詰めた。
「彼はまだ事情をちゃんと理解していない」
「だからこそですよ。聴取をする前に余計な入れ知恵をされては困りますから」
柊を押しのけて自分を見下ろす刑事の視線に、津倉は自分が有力な容疑者の一人であることをやっと実感した。
刑事たちによる聴取は約二時間にわたって行われた。
斉藤を知ったのはどうしてか。どうやって連絡を取ったのか。面会の予定はどちらの意見で決まったのか。そして斉藤の当日の様子。詰めれば二十分ほどで終わる話を繰り返しさせられ、どんな些細な失言も見逃すまいという刑事の圧に津倉の体力は削られた。
元々、公安と刑事は事件に際して協力することはあっても、組織の都合上すべての情報をさらけ出せないことがあり、対立的な心情を抱く者も多い。だがこうもあからさまに疑いの目を向けられると、津倉であっても怒りより不安が湧いてきた。
刑事たちに悪い印象を与えたのは、面会の約束を主導したのが津倉だったことだ。こちらができるだけ斉藤のことを調べ上げて面会に臨んだ一方で、彼は津倉が公安の人間であることを知らなかった。斉藤があの日あの場所に爆弾を持ち込む理由がまったくない、という見方が刑事たちの口調からありありと感じられた。
そして、事件前日に協創党本部に届いたという『血が贖う』のメッセージ。そのまま受け取るのなら、党に対する攻撃の意思表示だ。ならば協創党の一員である斉藤が無差別テロを起こしたと解釈するより、津倉がなんらかの目的で斉藤を殺したと考えるほうが、辻褄が合う。
聴取が終わるのを病室の外で待っていたらしく、刑事が去ると柊が戻ってきた。
「今、置かれている立場が分かったか」
「はい。ですが、なにがなにやら」
津倉は途方にくれる感情を正直に漏らした。
「彼らはお前が斉藤を殺す理由を探そうとしている」
「そんなもの、いくら探しても見つかりませんよ」
少しの沈黙の後、柊は厳かに言った。
「世間のお前に対する興味は大きい。おそらく数日中に、お前が公安の人間であること──少なくとも警察関係者であることは発表されるだろう」
そうなったら世論はどういう考えに誘導されるか、津倉には嫌でも想像できた。
「刑事たちが一番避けたいのは、世間から身内を庇っていると思われることだ。だからポーズも含めて、お前は今後も厳しい監視下におかれるだろう」
「何度調べられたって、私が話せることはこれ以上ありませんよ。どうしろと言うんですか」
津倉は絶望的な気分になっていた。最愛の人が死に、その犯人だと嫌疑をかけられているのに、それを跳ね返そうという気力が湧いてこない。
だからこそ、柊が続けた言葉は津倉を驚かせた。
「こちらのことは私に任せて、ほとぼりが冷めるまで日本を離れろ」
公安に属する以上、秘密保持のために一定の人間関係を断つことはままある。必要なら自分を知る者のいない土地へと転勤することも。だが津倉にとって今日本を離れることは、紗奈との繋がりを捨て去ることと同義だ。
「……恋人を殺した犯人も分からないまま、日本を離れることはできません」
「お前が日本に残ってなにができる。刑事に痛くもない腹を探られ、メディアに追いかけられるだけだ。それに、お前は真面目すぎる」
それは津倉が公安部に配属されたばかりの頃、直属の上司であった柊に指摘された言葉だった。公安として、国民の安全に害を及ぼす危険の種を見つけると、自分の身を顧みずに任務に潜り込む津倉の愚直さを懸念しているのだ。
「お前がいくら誠実に対応しても、世論には流れがある。しばらくはお前に不利な情報を並べ立て、人々の疑念を煽る時間が続くだろう。無理に逆らえば逆らうほど溺れることになる。だから今は岸に上がって身を休めろ。人々が冷静に事実を見つめる時期が訪れてからが本番だ」
「ですが、海外逃亡なんてどう建前をつければ……」
柊が近づき、津倉の肩に手を添えた。
「ちょうどASEANの会議が近づいている。リエゾンとして赴任できるよう手配してやる」
リエゾンとは、公用パスポートで渡航し大使館などでの現地補助や連絡員として活動する任務のことだ。
普段冷静沈着な態度を貫く柊が、珍しく感情のこもった声を出す。
「昔お前に言ったことを覚えているか。日本の情報機関は強くならねばならない。そのためにはお前のような男が必要だ。こんなところで躓かれてはたまらん」
その柊が、海外に身を隠せと言う。自分の立場がどれほど悪いか、津倉は改めて思い知った気がした。
「ご迷惑をおかけします」
ようやくそう言った津倉の肩を軽く叩き、柊の手が離れる。
「任せておけ」
その後、柊の手引きで日本を発つまでどう日々を過ごしたのか、津倉の記憶はあやふやだ。
はっきりと思い出せるのは、初めて降り立ったカンボジアのプノンペンで感じた、日本の真夏に戻ったような暑さだった。
3
津倉のたった一つの親孝行は、都内の警察学校を優秀な成績で卒業したことだった。小学生になったばかりの頃に母親を病気で亡くし、植木職人の父に男手一つで育てられた。決して息子に弱みを見せようとしなかった父の影響か、あるいはその無理を察して自分が強くあらねばと思ったのか、津倉は昔から感情を露わにすることが少なく堅物だと思われることが多かった。父は植木職人としては腕ききだったようだが、人付き合いは不器用で彼自身も木のように寡黙だった。それでも普段息子を一人にすることを心苦しく思っていたのか、休日にはよく外に連れ出してくれた。ただ遊びを知らない父の行く先はテーマパークやショッピングモールではなく、山々でのハイキングだった。津倉も父の後をついて歩くのは好きだった。会話はなくとも歩調やその背中から、父が自分を常に気にしてくれていることが伝わってきたからだ。
高校三年の時、警察官という進路を示してくれたのは当時の担任だった。生徒会長に選ばれるほど真面目で優秀な成績だったにもかかわらず、やりたいことも将来の夢もない。望みがあるとするならば、これまで育ててくれた父の負担を早く軽くしてやりたい、ということ。そう希望した津倉に、担任は告げた。
「警察官とか合ってるんじゃないか。公務員だし、社会の役に立つ」
はじめはぴんとこなかった。顔も知らない人々のことを真剣に守ろうとする自分の姿を想像できなかったのである。それを聞いた担任は、だからだよ、と続けた。
「先生の同級生にも警察官になったやつがいるんだけど、優しすぎて途中で潰れてしまう同僚が結構いるんだって。市民の味方という理想と現実のギャップに苦しむというか。けど津倉はそのへん、ドライだろ。ある程度は仕事と割り切ってできる方が向いているんじゃないか」
今度は、不思議と納得することができた。
我慢強さならば自信がある。いや、傷つきにくい精神構造になっているというべきか。津倉の心の周りを空虚な真空が覆っていて、許せないという怒りも、可哀想という悲しみも、響いてくることがない。
その進路を聞いた父は一切の異論をはさまず、「そうか、楽しみだな」とだけ言った。
津倉は警察官への道を順調に進んだ。なんなく警察官採用試験に合格し、警察学校を優秀な成績で卒業した。やっと本当に独り立ちした姿を父に見せることができると、津倉は配属の日を心待ちにした。
だがその矢先、父が交通事故で死んだ。運転中、交差点で飲酒運転の車に追突されたのだった。
遺留品から、警察学校の卒業祝いに財布を買った帰りだったと分かった。そんなこと、一言も聞いていなかった。最期まで父らしい、寡黙な優しさだった。
津倉は泣かなかった。この時も、悲しみを静かに受け止めた。
ただ、間に合わなかった、と後悔した。
父はここまで自分を育ててくれたのに、独り立ちした姿を見せることができなかった。
父の人生はいったいどれだけ報われたのだろう。
答えはもう分からない。この後悔は背負って生きるしかないものだ、と自分を納得させ、津倉はかつて担任に言われた言葉を思い出した。
確かに自分は警察官に向いている。これから先、なにが起きても心が折れることはないだろう。
そう言えば、たった一つ父に話していないことを思い出した。警察学校で優秀な成績を収めた津倉には、公安への推挙の声がかかっていたのである。家族を失った津倉が、国という唯一の拠り所を守る道を選んだのは当然の成り行きだった。
紗奈と出会ったのは、本庁公安部に配属されて数年が経ち、順調に捜査官として実績を積んでいる頃だった。
その日は日曜日でちょうど選挙の日だった。津倉は選挙帰りに、行き交う人々がどこか顔色を窺いあうような、緊張感のある街の空気を眺めていた。
駅を通りかかった時、視界の隅で、「あっ」という声とともに大きな荷物を背負った老女が後ろ向きに倒れた。急な出来事に周囲の通行人もぎょっとした顔で立ち止まった。老女は、背負っていたリュックサックのお陰で頭部を打ちつけることは避けられたようだが、自力で起き上がれずにいる。津倉が声をかけるより先に傍に駆け寄る女性がいた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「荷物が」
どうやら、リュックサックが重すぎてひっくり返った亀のように身動きできないらしい。体調不良で倒れたわけではないと分かった時点で、通行人たちはこちらへの興味を失い歩き去って行く。中にはスマホを見ながら通りかかったサラリーマン風の中年男性がいて、不機嫌そうに舌打ちしたのに対し、女性は怒りを露わににらみ返した。津倉より若く見えるが、強気な女性だ。
津倉がリュックを下ろすのを手伝うと、想像したよりもずっと重く、十キロは超えていると感じた。目の前の老女が背負っていたとは思えない。
「いっぺんに買いすぎたかねえ」
聞くと、根菜や冷凍品を含めた食材がこれでもかというほど詰まっているという。津倉は近くに業務用スーパーがあるのを思い出した。
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