INNING 2 東京六大学リーグの中でもまれる
一浪して、猛勉強の末に東大文科Ⅱ類(経済学部)に合格した小林は、憧れの「東大野球部」の門を叩いた。
冒頭に書いたように、東大は小林の1年秋に東京六大学リーグ通算199勝目を挙げたのだが、そこから実に70連敗。小林が4年春の慶応大戦、2対1の8回裏、満塁アーチを浴びて大魚を逸した。背番号「1」は神宮のマウンドで唇をかんだ。
「大学野球生活で一番悔しかった思い出ですね」(※)
小林の大学通算成績は39試合0勝12敗。左腕から繰り出すストレートの最速は130キロ前後。持ち球はカーブとシンカー。合計113イニングを投げ被安打135、三振47、四死球69、防御率5・58。
時代が違うとはいえ、現在は甲子園に出る学校のエースは140キロが普通である。9イニング平均奪三振3・78個は、レベルが今以上に高かったと言われる東京六大学でよく奪ったと驚きだが(本格派は7・50個以上)、致命的なのはコントロールの甘さだ。四死球が9イニング平均5・54個もある(2・00個以下なら抜群にコントロールがいい部類)。
【編集部注】 (※)小林が卒業後の1991年春季リーグの開幕戦、90年秋優勝の立教大に7回二死まで無安打に抑えられていたが、4対1の逆転勝利で70連敗でストップさせた。
ちなみに小林の大学在籍中の東京六大学で、プロ入りした主な選手を挙げる。他の5大学からまんべんなくプロ入りしている(便宜上、社会人野球経由の選手は除いた)。
【87年】長嶋一茂内野手(立教大学。ヤクルト ドラフト1位)、武田一浩投手(明治大学。日本ハム1位)
【88年】中根仁外野手(法政大学。近鉄2位)、矢作公一内野手(立教大学。日本ハム6位)
【89年】大森剛内野手(慶応大学。巨人1位)、小宮山悟投手(早稲田大学。ロッテ1位)、葛西稔投手(法政大学。阪神1位)、東瀬耕太郎投手(明治大学。大洋=現・DeNA2位)、今久留主成幸捕手(明治大学。大洋4位)、舟山恭史投手(明治大学。日本ハム4位)
【90年】瀬戸輝信捕手(法政大学。広島1位)、水口栄二内野手(早稲田大学。近鉄2位)
【91年】髙村祐投手(法政大学。近鉄1位)
【92年】鈴木浩文内野手(早稲田大学。ヤクルト5位)、古沢淳外野手(明治大学。ヤクルト6位)
【93年】柳沢裕一捕手(明治大学。巨人2位)、鳥越裕介内野手(明治大学。中日2位)
小林が対戦した中で、特に強烈な印象を残す選手は誰だったのか。
「1学年上の大森選手(のちに巨人)のフリーバッティングは、トスバッティングのように軽く振っているのに、打球がスタンドにガンガン入るんですよね。1学年下の髙村投手(のちに近鉄)の投球練習には、『投げたボールって伸びるんだな』と思いましたね。こういうのがドラフト1位でプロに行く選手なんだな、と。プロ入りこそしませんでしたが、2学年上の志村亮投手(慶応大学)の駆け引きや間合いの『投球術』は、こうやればバッターを抑えられるんだなというお手本でした」
「プロの予備軍」的な逸材はかなり存在した。今はタレントやコメンテーターとして奔放な発言が人気を呼んでいるが、長嶋一茂選手のバッティングのパワー、ゴロを捕球してからの一塁への強肩スローイング、脚力など、素材はさすがドラフト1位と惚れぼれするものだった。のちの1994年、長嶋選手は槙原寛己投手(巨人)の完全試合達成時には三塁を守っていた。
小林が大学4年秋季リーグ戦中、進路を固める時期になる。同級生はほとんどが銀行、広告代理店、大企業、官僚、弁護士の世界に進む。日本社会においてはそもそも「いい会社に入るために、いい大学をめざす」色彩が濃い。
88年のドラフトになるが、大学通算31勝17敗、防御率1・82、295奪三振をマークした先述の志村亮投手。「1位競合確実」の高評価を受けながら、将来を総合的に考え、硬式野球部のない三井不動産に入社したのである。彼は大学で「野球をやり切った」思いがあったのかもしれない。
INNING 3 東大を中退してでもプロ野球に行きたい!
「『プロ志望』を公言していましたが、まともに取り合ってくれる方はいませんでした」
大学4年秋のリーグ戦終了後、スカウトからの接触を待っていた小林だが、当然ながら打診はない。小林はそれでも「プロ野球に行きたい!」と言い回っていた。
「今思えば、よくそんな大きな口を叩いたものです。『自分を褒めたい気持ち』と、『いや待て待て』という気持ちが同居します」
しかし、言ってみるものだ。その話が巡り巡って、プロのスカウトの耳に届いたのである。ある日、ロッテの醍醐猛夫スカウト部長から小林の元に電話がかかってきたのだ。
「小林君かい。東京六大学を見ていてキミのことは知っている。本気なの?」
「はい、もちろん本気です!」
「なら、ロッテが秋季練習をやっている浦和の球場に来なさい。金田(正一)監督がピッチングを見たいと言っている」
テストが終わって、400勝左腕・金田正一監督は小林に語りかけた。
「坊主、野球が好きか?」
「はい、大好きです!」
小林がテストの合格を聞いたときは天にも昇る心地だった。そして翌朝……。
「天才投手、現る! 東大生がプロ野球を志望!!」
〝天才投手〟とはうまい見出しだ、と当時思ったものである。スポーツ紙は日刊、報知、サンスポ、スポニチ、東京中日、デイリーの全6紙が一面。『週刊ベースボール』が特集を組み、ちょっとした社会現象のようになった。
それはそうだ。プロ野球の世界に入れば学歴も東大生のブランドも無関係の実力の世界だ。ただ、野球の数字を残すのみ。大学0勝投手がエリートコースを捨てて、生き馬の目を抜くプロ野球の世界にあえて飛び込もうとするのだ。
「あれだけ取り上げられると、本人も舞い上がります。人間、調子に乗ると口が滑るものですね」
そして勢い余った小林は、つい口に出してしまった。
「実は留年しています。5年、6年かけて卒業する人もいっぱい、いるんですよ」
「東大、あまり学校に行く必要がないんですよ」
当時の経済学部長がテレビを見て激怒したそうだ。経済学部の事務局長に小林は呼び出された。
「あなたの発言は許されません! 大学を辞めてもらう必要があります!」
「でも私、東大は東京六大学で野球をやるために入りました。『めざせ神宮!』が夢だったので、夢はかないました。悔いはありません」
小林が事の顛末を醍醐スカウト部長に伝えると諭された。
「せっかく入った東大を辞めるのはもったいない。ご両親も悲しむぞ。東大野球部にとってもよろしくない」
醍醐スカウト部長は小林を連れて経済学部事務局長に謝りに行ってくれた。
「先日申し上げた通りです」
「今年のドラフトでは指名しません。小林君には勉学と卒業を最優先してもらいます。ただ、勉強の合間にロッテのグラウンドで練習することを許していただけませんか」
「……。わかりました。それなら問題ありません」
INNING 4 赤門のドン・キホーテ
1990年、東大経済学部事務局長に会う少し前、紅葉が色づき始めた頃、醍醐スカウト部長と小林の父親は面会していた。
「ウチ(ロッテ)で御子息を獲得するつもりです」
「実は家内がガンなのです。心配をかけるからやめていただけませんか」
ロッテ側は逡巡した末、小林本人の希望を尊重して、マスコミに獲得を発表することになった。その夜、小林は初めてロッテに入れるかもしれないことを父親から聞いた。
「そんな無鉄砲なこと、ドン・キホーテのようなものだ。マスコミに踊らされて有頂天になっているだけだ」
小林は土下座をして父親に懇願した。
「お願いだから、プロに行かせてください」
「至、お母さんが……、もうあと余命いくばくもないんだ」
小林の母親の考えはこうだった。
「あなたは東大だからお山の大将でいられて、今は『野球が楽しい』って言っていられる。わざわざ苦労するのはやめなさい。調子に乗ってプロに入ったら、惨めな気持ちしか残らない。親として、子にそんな思いはさせられないのよ」
父親に「お母さんがそういう状況だから、プロ入りをやめてくれ」と説得されたら、「親を悲しませたくない」という小林の理屈からすれば、プロ入りを断念しなくてはならなかった。しかし、父親は言わなかった。小林はどうしてもプロに行きたかった。
「この千載一遇のチャンスをつかんで、何があっても、何百人に反対されてもプロにしがみついていたかった」
年が明け、子に苦労をさせたくないという考えが変わらぬまま、最愛の母は帰らぬ人となった。球春の訪れを告げる3月だった。
迎えた91年シーズン、小林は東大の卒業単位取得に勤しむ一方、ロッテ浦和球場で1年間汗を流した。ただし、当時はドラフト外入団や練習生制度が廃止される制度変更期にあたり(※)、正式な「ロッテ練習生」ではなかった。小林は、「ロッテの背番号なしのユニフォーム」も着られない立場がつらかった。小林の〝プロ野球入りへの浪人時代〟の象徴が、練習着の「真っ白なユニフォーム」だったのだ。
91年11月22日、小林は晴れてドラフト8位で指名された。ロッテの指名の「しんがり」だ。契約金2000万円、推定年俸480万円。背番号63。小林は契約金を母の墓地の購入に使おうと思ったが、父は首を横に振った。
「今後の人生、お金に苦労することがあるかもしれない。契約金は自分のために、分配して、年俸にプラスして使いなさい」
【編集部注】 (※)多くは「囲い込み防止」がその理由。
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