まえがき

 

「しんがり」とは「一番後ろ」という意味だ。

 語源は軍事用語で、実用日本語表現辞典に、「戦において自軍が退却する際に最後尾を担当する部隊のこと」と記されている。漢字で「殿」と表す。

 退却が必要とされるのは基本的には負け戦であり、その状況で追撃してくる敵を足止めし、みずからも逃げるというのは非常に難しい。命を落とす確率の高い役割であったと言える。しかし、無事に自軍を守りながら、みずからも生還できれば大きく評価される。基本的には少数精鋭で編成された。しんがりを務めた者には歴史に名を残す有名な武将も多い。毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、本多忠勝らだ。

 競馬では最後方を走る馬のことをしんがりと表現することがある。相撲では土俵入りの際、(横綱には特別に「横綱土俵入り」があるため)最後に入場する大関や関脇が務める。

 さて、この書籍の企画を思いついたのは2025年、ドラフト会議中だった。

 1965年から2025年まで61年間の歴史を有するドラフト会議の全指名人数は、のべ4867人にものぼる。過去のドラフト指名選手を調べていると、思った以上に「しんがり」の活躍選手が多いことに興味を抱いた。

 05年から「育成ドラフト」制度が導入された。「育成」と「支配下」の別は、指名する球団側には明確な理由があるのだろうが、半面、「とりあえず指名しておこうか」との思いもあると思う。一方、支配下枠の中で期待薄だった「しんがり」側の選手はどういう決意で、いかにして這い上がってきたのか。

 取材した選手は「現役選手、OB選手」「チームとしてのしんがり、全12球団のしんがり」「タイトル獲得選手、15勝級投手」「セ・パ両リーグ」「投手、捕手、野手のポジション別」「高卒、大卒、社会人、独立リーグ」「セカンドキャリアで活躍」のすべてをカバーした。

 プロ野球界は「ポジション」や「打順」による役割があることで、よく一般社会や人生にたとえられる。この書籍において「しんがりの成功体験」を紹介させていただくことで、読者の皆さんが元気づけられ、また野球の普及発展に微力ながら貢献できるのであれば嬉しく思う。(※)

 

【編集部注】 (※)2001年~07年に限っては、「自由獲得選手枠」「希望入団選手枠」「高校生/大学・社会人の分離ドラフト」が導入された。球団によっては「2番目」選手の指名をパスするなどの方式があったため、この時期の指名順は「◯巡目」と表記される。それ以外の年は「◯位」と表記。

 

第1章

小林 至

投手(千葉ロッテマリーンズ 1991年8位)

セカンドキャリア勝利投手

 

小林 至(こばやし・いたる)

1968年生まれ。神奈川県出身。投手、175センチ・84キロ、左投げ左打ち。神奈川県立多摩高、東京大、ロッテオリオンズ練習生を経て、91年、千葉ロッテマリーンズにドラフト8位指名を受けて入団。史上3人目の東大卒プロ野球選手となる。退団後、94年から渡米、コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得。2002年より江戸川大学准教授(06年から教授〜20年)。05〜14年まで福岡ソフトバンクホークス取締役を兼任。パ・リーグの共同事業会社「パシフィックリーグマーケティング」の立ち上げや、球界初となる「3軍制」の導入などに携わる。20年から桜美林大教授。博士(スポーツ科学)。

 

INNING 1 「野球漫画」大好き少年

 東京大学のピッチャー時代の小林至氏に、筆者は何度か取材させてもらった。当時の東大は小林投手が大学1年秋に創部通算199勝目を挙げて以来、結果的に4年越しの70連敗を喫した(1987年秋から90年秋まで)。

「通算200勝は村田兆治(ロッテ)とどっちが早い?」と大注目をされていたが、村田投手(89年5月達成)に完全に遅れをとった。

 小林投手は東大野球部内では知る人ぞ知るエンターテイナーで、エリートらしさを感じさせない気さくさで取材に答えてくれた。さらに筆者のアンケートに対し、ウケ狙いも多分にあっただろうが、こう書いてきた。

「大阪大学に落ちて青くなった翌日、東大合格判明。野球漫画『男どアホウ甲子園』(水島新司)の藤村甲子園(投手)のように、東大を救うのが私の使命だと思った。阪神に入団して、エースになって優勝したい!」(※)

【編集部注】(※)当時は東京大、大阪大の〝ダブル受験〟が可能だった。

 その後、東大史上3人目のプロ入りで注目されたが、1軍登板はなく、わずか2年でユニフォームを脱いだ。そして12年後の2005年、ソフトバンクホークス取締役として球界に戻ってきた。現在は大学教授である。

 

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 小林至少年は小学校1、2年生のときの放課後、「三角ベースボール」に興じ始めた。住んでいた団地の近く、石原裕次郎の眠る横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺の境内で、左投げ右打ちのハル・ブリーデンや、バットをかついで構える竹之内雅史選手(いずれも阪神)のマネが好きだった。

 自宅が引っ越して小学校5年生のとき、川崎市多摩区の「栗谷マロンズ」で学童野球を始めたが、中学校には野球部がなくて卓球部に所属した。

「とはいえ当時は野球が盛んで、中学時代も何かのチームで地区野球の大会によく出ていましたから」

 そう本人は語るが、中学でクラブチームや部活動に所属して野球をやらないのは、以降のプレーにおいてかなりのハンデになる。

 1983年、進学校の神奈川県立多摩高校に進学した。多摩高には世界的指揮者の小澤征爾氏を叔父に持つ小沢健二氏が在籍していたのでも有名だ(小林の1学年下)。彼は東大卒業後、シンガーソングライターとして活躍している。

 多摩高の硬式野球部は76年と81年に激戦区の神奈川にあってベスト4に入り、「県立の雄」と呼ばれた時期もあった。

「私の時代は弱かったですが、練習も上下関係もホント、厳しかったですよ。入部した瞬間から辞めることしか考えていませんでした。休みは正月と夏の大会が終わったあとだけ。先輩から尻をバットで叩かれる〝ケツバット〟もありました」

 最近の高校球児からすれば今は昔。現在ではあってはならないことだが、誤解を恐れずに言えば、それが普通の時代だった。

 小林の夏は、高1が3回戦、高2が1回戦、高3は3回戦で幕を閉じた。

「ポジションは2番手のファースト、3番手のピッチャーでした」

 高3の夏が終わり、受験勉強に入る。初めて受けた模擬試験では、偏差値は40台だった。

 今回の取材で約35年前の取材記事、『男どアホウ甲子園』で東大に進学した藤村甲子園のくだりを引っ張り出して聞いてみた。

「東大を救う? それは私、だいぶ盛りましたね(笑)。でも、野球漫画は大好きで、『野球狂の詩』『ドカベン』『新巨人の星』など、かなり読み尽くしましたけどね」

 当時の野球少年、高校球児たちが胸を躍らせたヒューマニズムあふれる野球漫画だった。

 また、小林は〝KK世代(PL学園高の桑田真澄投手、清原和博選手と同い年)〟でもある。80年に愛甲猛投手(神奈川・横浜高)に挑んだ荒木大輔投手(東京・早稲田実高)を、82年に水野雄仁選手(徳島・池田高)が打ち砕き、その水野を桑田・清原がくだした。今度はKKを岩倉高(東京)、取手二高(茨城)、伊野商高(高知)が倒した。そして、ついに85年、KKコンビが深紅の大旗を手にしたのである。

 6年にわたる一つの「甲子園ストーリー」は実にドラマチックだった。小林も野球漫画や同い年の高校球児に大いに触発された部分もあったのだろう。

 さて、現役で大阪⼤を受けたが、数学は問題の意味自体もわからなかった。それでも「浪⼈するからにはめざすのは東⼤だ」「東京六⼤学で野球をしたい」「東大ならレギュラーになれる」と考えた。毎⽇8時間の睡眠以外、すべて勉強に費やした。

「いつもイライラして家族に当たり散らし、3歳下の弟や8歳下の妹を怒鳴って泣かせました。飼い犬に当たったこともあります。⺟親から『東⼤をめざすのは偉いけど、誰もそこまでやれとは⾔ってないでしょう』とあきれられるほどでした」

 

 

『「しんがり」の意地 ドラフト最下位指名からの下剋上』は全2回で連日公開予定