神主に見とれているうちに、よく吟味する間もなく、時帰りとやらをすることになってしまった。
気がつけば尋ねられるままに帰りたい日付けを告げ、本拝殿に正座している。
「先ほど申し上げた儀式ですが、はじまるとあなたの手首のどちらかに、光の棒のようなものが浮き出るはずです。一本で一日、半分で半日。時間が経つと、光はどんどん薄くなっていき、見えなくなったら現在へ帰るときが来たということです。
光の棒が現れたのを確認したら背後の竹林を見てみてください。向こうのほうが白く光っているはずです。そしたら、そちらに向かって歩いていってください。光の先が、望んでいる過去の世界です。なにか不明な点は?」
「――全部ですね」
「なるほど、では実際にやってみたほうが早いかと」
「ええと、さすがに乱暴すぎません?」
そもそも、カウンセリングはどうしたのだ。光の棒だの竹林の向こうだの、この人はなにを言っているのだろう。これではまるで、本当に過去の世界に帰るみたいではないか。
「注意点としては、時帰りしても、過去の大きな出来事は変えられないということです。特に人の生死に関わることや、節目になるような重要な出来事を変えたりはできません。無理矢理に介入すると、今より状況が悪くなる可能性もあるので、くれぐれも注意してください。まあ、親子ゲンカを食い止めるくらいだったら、問題はないかと思いますが。それと、過去で何日過ごしても、こちらの世界ではせいぜい一、二時間です。安心してお出かけください。それでは、竹林のほうを向いて座ってください」
情報を処理しきれずに固まっているうちに、否応なしに儀式がはじまっていく。
両肩を榊で清められ、祝詞の声を聞いたとたん、胸がすっと晴れていくような清々しさを覚えた。意外なほど澄んだ神主の声があたりの空気を震わせ、見えない波紋を広げていくのが感じられる。やがて、祝詞に鈴の音が混じりだした。好奇心に抗えずに振りかえると、神楽用の衣装に着替えた先ほどの巫女さんが、鈴を打ち鳴らして舞っている。女性から見てもドキリとする妖しさがあり、時帰りのことなど忘れて見とれてしまった。
そのうち目が合ってしまい、竹林へ向き直るよう流し目でうながされる。
慌てて体の向きを変え、「あ」と小さな声が出る。
竹林の奥から、小さな光が漏れでているのが見えたのだ。奥のほうで、手の平サイズの太陽でも存在しているかのようだ。光は徐々に大きくなり、やがて竹林の奥いっぱいに広がっていった。
両腕を出してみると、手首の内がわ、ちょうど脈のそばに短いのとその倍くらいの光の棒が二本のびている。ひときわ鈴が大きく打ち鳴らされ、後ろを向くと、励ますように巫女がうなずいていた。
そうだ、あの子を傷つけないチャンスを、ありえないはずのチャンスをもらったのかもしれないんだから。
立ちあがり、痛いほど激しく打ちはじめた心臓のあたりを手の平でぐっと押さえながら靴を履いた。一歩、また一歩、竹林へと近づき、小径をたどっていく。
この先に進めば、もう、あの子を傷つけなくてすむの?
さらに一歩踏み出したとき、足が空を踏み、体ごと光のなかへと放り出された。
下へ、下へ、空気のうなり声を聞きながらなにも見えない光の空間を落ちていく。
本当に、時帰りなんてできるのだろうか。もしかして、あの抹茶に薬でも盛られていて、身ぐるみ剥がされている最中なのかもしれない。あの神社、お金がまったくなさそうだったし。
にわかに不安になってきたころ、足の裏があっけなく地面を踏んだ。
「え? え?」
見回せば、行きつけにしている近所のスーパーのなかだった。手首を見ると、光の棒がさきほどと同じように見える。スマホで日付を確認したところ、確かに神主に伝えた一週間前のようだ。
「嘘でしょう」
それでも、周囲に広がるのはまぎれもなく現実だという確信がしだいに強くなっていった。
「私、ほんとに時帰りとかいうのをしちゃったんだよね?」
だとしたら、やることはひとつだ。息子の有樹を、理不尽に怒らないこと。もちろん、悪いことは注意するけれど、あんなふうに頭ごなしに怒ったりせずに穏やかに叱って、一日を終えることだ。
今日は、好物のシチューにしてあげようか。前回は、暑いからと作らなかったのだ。
決意したつぎの瞬間だった。男の子が、こちらへと突進してくるのが見えた。
「えぇ?」
避けなくてはと思うのに、足が動かない。子どもはよそ見をしながら走っており、私の姿など目に入っていないようだった。
ああ、ダメだ――目を閉じてすぐに、全身に衝撃が走る。
「うっ、いってぇ。なんでどかないんだよっ」
そういえば、時帰りする前もこのスーパーの別の場所でおなじ子どもにぶつかられたことを思いだす。
ああ、この感触に、匂いもおんなじ。
びしょ濡れにされてしまったシャツからは、炭酸飲料の甘い匂いが立ちのぼってくる。同時にこの子の親のとんでもない言いがかりを思い出し、あの時の不快な気持ちまで甦った。
五感を刺激され、これは夢などではなく、本当に時帰りしてしまったのだと認めざるをえなくなる。
それにしても、せっかくの時帰りなのに、のっけからまたこんな事件に巻きこまれるとは。大きな出来事を変えることはできないと聞いたが、このくらいは回避させてくれてもいいのにと、時帰りを許してくれた神様がうらめしくなる。
いけない。せっかく過去に来られたのだ。もうそう信じるしかないほどすべてがリアルだ。気持ちを切り替えて息子と接しなければ。
前回とは異なり、せめて相手の親に会うのだけは避けようと、ぶつかってきた子どもを注意せずに黙っていかせた。急いで会計を済ませ、マンションへと向かう。
スマートフォンの時刻は17時50分。あと十分で、小学校内に併設されている学童クラブから有樹が帰ってくる。
きょうは、有樹とシチューを囲んで楽しく夕食をいただく。そして事情も聞かずに怒ったりしない。そのためには、スーパーでジュースをこぼされたことも、受け取る予定の原稿が締め切りから大幅に遅れたせいでほかの原稿の作業と重なってしまったことも、さらに、かなりくせのある作家に粗相をしてしまった後輩の尻拭いをして自分の仕事は持ち帰るはめになったことも、夫がこんなときに限って出張でまるまる一週間いないことも、賢者の心で受け止めよう。すべてが重なった疲れも子どもには見せず、むしろこの状況に舌を出して笑ってやるのだ。息子を笑顔で寝かしつけたあと、こんな夜でも楽しんでやったぜという心持ちで眠りにつきたい。
あらためて心に決め、家路をたどる足を速めた。
夫が出張に出かけ、有樹とふたりだけで夕食を食べるのはきょうで四日目だ。時帰りする前、一度目の今夜は、木曜日ということもあり体にも心にも疲労が蓄積してきたころで、すでにこの時間、ぐったりしていた気がする。
「いっただっきまーす」
大好物が週末ではなく平日に出てきたことに喜び、有樹が大きなひと口をほおばった。
「うまっ」
「へへへ、そうでしょう」
口のまわりに髭のようについたホワイトソースがかわいらしい。前回は、冷凍チャーハンを炒めただけだったから、こんな顔にも出会うことはできなかった。
「ママ、なんだかすっごく優しいね」
「え、そう?」
「うん、だって、パパが出張してから、ずっといそがしそうだったし」
「そっか、ごめんね」
こんなにも健気な子に、どうしてあの日は八つ当たりなんてひどいことができたのだろう。しかもあの日の私は、あれが八つ当たりだと気がついてさえいなかったのだ。
「ママ、おかわりちょうだい」
有樹が、早くも深皿を空っぽにして差しだしている。
「もっちろん」
張り切って二杯目をよそったお皿も、あっという間に空になってしまった。
お腹を満たした有樹は、少し休憩したあと日記にとりかかることになっている。
日記は学校の宿題で、毎日好きな出来事を書き、翌日、担任の滝沢明子先生に提出する。先生からはコメントがつくが、あくまで内容への感想で、文字や文法の間違いに対する指導はない。それをするのは親の役目なのだが、これが職業病もあいまって、子どもの日記に対する眼差しとしては厳しいものになってしまいがちだ。
前回も、この日記を書くようしつこくせっつき、基本的な間違いをまるで赤字でも入れるように事務的に指摘して直させたあと、すぐに寝るようまた急かした。持ち帰った仕事を早くはじめたかったのだ。どの過程でもずっとイライラしながら小言を繰り返したせいか、有樹は就寝前についに怒りだしてしまい、結局、寝るのが遅くなった。
お風呂から上がってきた息子は、今回も好きなアニメの主題歌をハミングしながら上機嫌でゲームをやりはじめた。一度目とまったく同じ光景だが、穏やかに尋ねてみる。
「何時から宿題やる?」
きっとこのひと言が大事だったのだ。頭ごなしではなく、子ども自身に決めさせるべきだった。
息子はゲームから顔を上げないまま、「ん~、七時くらい」と返事をした。若干、生返事だったがまずは信じることにした。
「わかった。ちゃんと自分で決めた時間に始めるんだよ」
「オッケー」
わたしのほうは食器類を食洗機に放りこみ、お風呂に入ることにした。
「そろそろ日記をはじめる時間だからね」
「は~い」
久しぶりに聞くのびやかな声に、安堵のため息が漏れる。
湯船に浸かり、頭をからっぽにするのが一日でもっともリラックスできる時間だ。前回は夫が出張中だったせいもあり、有樹を寝かしつけたあとに片づけておくべきこと、あした出社したらやるべきことなどが脳内に繰り返し甦ってきて、まったくリラックスできなかった。おまけにお風呂から上がっても、有樹は約束したはずの日記やプリントに手をつけておらず、だらしなく床に寝そべってゲームに興じていたものだから、大きな雷を落としてしまった。思い返せば、あの夜は第一歩目からつまずいていた。
今日はそんなことはしない。たとえお風呂上がりにおなじ状況になっていたとしても、理性的に諭してみせる。そもそも、前回とは私の態度も違う。有樹もきちんと机に向かっているかもしれないではないか。
手首の光の棒は変わらず輝いているが、ほんのわずか薄くなっただろうか。
よし、と気合いを入れてリビングに戻ると、まあ、おなじ光景が広がってはいた。さすがにがっかりしたが、深呼吸をして、笑顔で声をかける。
「ねえねえ、有樹が自分で決めた日記の時間、もうはじまってない?」
「ほんとだ。でもあともう一回ゲームやっていいでしょう?」
右へ左へ床を転がりながら、こちらも見ずに有樹が答える。
「う~ん、それじゃ、あと一回だけね。ママのじゃなくて、有樹の宿題なんだからね」
冷やした水を飲みながらしばらく待ち、もう一度、努めて優しい声で尋ねた。
「有樹、そろそろ終わりじゃない?」
「あと一回やればレア・アイテムが出そうなんだ。ちょっと待って」
大丈夫だ。親の機嫌をうかがわない不遜な態度は、子どもの特権だから、これでいい。そう、いいのだ。
『時帰りの神様 其の弐』は全4回で連日公開予定