海を眺めでもすれば、少しはすっきりできるかと思っていたのに。
衝動的に横須賀線に飛び乗って鎌倉までやってきた。由比ガ浜の砂浜でしばらく波音に包まれてみたけれど、ほんのわずか気持ちがゆるんだだけ。目を閉じても、傷ついた顔でこちらを睨んでいた七歳の息子の顔ばかりが浮かんでくる。
息子がちょっとだらだらしていたぐらいであんなに怒ってしまったのは、勤務する出版社の部署でごたごたがあったのと、夫の出張中でワンオペ育児だったことが重なったせいに違いない。そう思って、ようやく仕事の落ち着いた今日、リフレッシュ休暇をとったのに。あまり効果はなかったかもしれない。
「帰ろっかな」
電車の時間を調べようとスマホを取り出す。画面を起動した拍子に、行きの電車でボンヤリと見ていたSNSの画面が目に飛び込んできた。見知らぬユーザーの投稿がリコメンドされているようだ。ユーザー名が〝鎌倉 一条神社公式〟ということは、このあたりの神社なのかもしれない。投稿内容がなんだか変わっていた。
「雑巾がけする神主の画像?」
神主は、AI画像と勘違いしそうなほど整った目鼻立ちをしている。
ハッシュタグが画像の下部にずらりと並んでいるが、そのうちの一つに「あ」と小さな声をあげてしまった。
#後悔から立ち直れるかも?
どんな神様を祀っているのだろう。いま抱えている後悔から解放してくれる神様がいるのなら、お参りにいってみようか。一条神社を検索すると、駅からバスで十五分、最寄りのバス停からさらに十分ほど歩くらしい。
立ち上がって由比ガ浜をあとにするとき、SNSを目にしてこの神社に向かう決意をすることがあらかじめ決められていたような、不思議な気分になった。
駅まで戻ってバスに乗った。鶴岡八幡宮の脇の坂道をのぼってしばらく走ったところが、ネットで調べた最寄りのバス停だった。
バスを降りて道を渡り、地図に示されたルートを確認しながら歩いているうち、いつの間にか右折する地点を通り過ぎてしまっていたことに気がつく。
「にゃあ」
唐突に、背後から鳴き声がひびいた。振り返ると、雪のように白い猫がお澄ましして座り、こちらをじいっと見上げていた。
「どうしたの? お散歩中?」
「にゃあ」
白猫がふっと視線をはずして、バス停のほうへと歩きだす。私もいくらか引き返さなければならないようだ。案内人のように立ち止まってこちらを振り向く白猫に「待って」と声をかけ、あとをついて行くことにした。
白猫は、振り返り振り返りしながら私を先導していき、とある地点でふっと左に曲がって消えた。小走りであとを追うと、バス停から来たときには気づかなかったごく控えめな看板が立てられている。
〈一条神社〉と丁寧な毛筆で書かれた木製の案内だった。
看板のあたりを入口に、左手に向かって小径が伸びており、その両側に背の高い竹林がずっと奥までつづいていた。目当ての神社は、どうやらこの竹林の先らしい。これほど見事な竹林を目にするのは、独身時代、友人たちと京都を旅したとき以来かもしれない。
小径の先で、先ほどの白猫が置物のようにじっと座っている。湧き水を思わせる薄青の瞳でこちらを見上げ、早くして、と急かしているようだった。
みずからも竹林の小径に足を踏み入れたとたん、吹き抜けてくる向かい風がさあっと髪の毛を乱す。
「うわ」
「なぁん」
――今、謝った?
そんなはずはないのに、猫が苦笑して謝罪しているように感じたのだ。
ふたたび歩きだした白猫を追って進むと、二、三分歩いた先でぱっと道が開け、どうやら境内にたどりついたらしかった。
午前の日差しに照らされたお社は、人の肌と同じで衰えを繕えないらしい。きちんと建っているのが奇跡に思えるほどのぼろ屋だった。賽銭箱の手前には、ほかの神社と同じように麻縄が垂らされているけれど、ほんのわずかに振っただけで建物が瓦解するのではとためらわれる。
あたりを見まわしていると、鈴の音のような澄んだ声が響いた。
「あ、もういらしてたんですね。道はおわかりになりましたか」
声のほうへと顔を向け、はっと息をのむ。ドラマの撮影現場に迷いこんだのかと思うほど美しい女性が、巫女さん姿で笑っていた。
「ええ。でも私、特にお約束してたわけじゃ」
「すみません、変な言い方をしてしまって。でもお待ちしていたんですよ。お参りが済んだら、あちらの抹茶処に寄っていかれませんか? 一条神社名物の竹林を存分にごらんいただけますし、外よりはまあ、涼しいですし」
言われてみれば、ひどく汗をかいている。
「それじゃ休んでいこうかな」
「はい、お待ちしていますね」
巫女さんはうれしそうにうなずくと、抹茶処らしい新しめの建物へと姿を消した。
古びた拝殿はなんだか気味が悪く、参拝をさっと済ませて私も巫女さんのあとを追った。
抹茶処は〈こよみ庵〉というらしい。和モダンという言葉がぴったりの建物があまりにも拝殿と対照的である。戸を引いて店内に足を踏み入れると、巫女さんがすぐにカウンターの向こうから顔を出した。
「好きな席を選んでお座りくださいね」
「にゃあ」
相槌のような鳴き声に驚いて店内を見回すと、ここまで連れてきてくれた白猫が、カウンター近くの椅子の上で体をのばして休んでいた。
「おまえ、ここの猫だったの」
「そうなんです。タマって言います。私は巫女をしている若宮汀子です。お客様のお名前は――?」
「あ、ええと池内穂香です」
勢いで答えてしまったけれど、参拝客の名前など、なんのために聞いてきたのだろう。単に会話の糸口が欲しかっただけだろうか。
「穂香さんって言うんですね。いいなあ、すごくかわいいお名前で。私なんて汀子だから、なんとなく古めかしくて」
シャカシャカとお茶を点てながら、巫女さんが口を尖らせる。しかし私に言わせれば、彼女のまとう浮き世離れした空気にぴったりの名前に思えた。
やがて抹茶とお茶請けが運ばれてきた。メニューはこの〈抹茶セット〉ひとつで千八百円らしい。しっかり観光地価格である。
「きょうの和菓子は水まんじゅうです。中はいちご餡でさっぱり召し上がれますよ」
「ありがとうございます」
それにしても竹林が名物というだけあって、圧巻の眺めだった。この景色をひとり占めしながらお抹茶をいただけるなら、このお茶代も高くないかもしれない。
「きょうはどうしてうちにいらしてくださったんですか?」
気がつけばそばの椅子に腰かけて、巫女さんがこちらを見つめていた。
「偶然、SNSを見かけてなんとなく行ってみようかなって」
「なるほど。そんなふうに無自覚でいるときって、かえって自分に必要な道を選びやすいのかもしれないですね」
「はい?」
「穂香さん、きょうはここの御祭神である聖神様に呼ばれていらっしゃったんです。ということは、なにか後悔していることがおありですよね」
驚きのあまり、動けなくなった。神様に呼ばれてきたとは、どういう意味だろう。そういえばハッシュタグでは後悔から立ち直れるとかなんとか書いてあったが、なにか関係があるのだろうか。
私の疑問をすくいとったように、巫女が告げてきた。
「驚かずに聞いていただきたいのですが、この一条神社では、神様に選ばれた参拝客が過去の望む地点まで戻れるんです。私たちはこの奇跡の御業を〝時帰り〟と呼んでいます」
「――はあ、って、ええ!?」
大真面目に話す巫女には悪いが、とても正気で話しているとは思えない。SFか、あるいはカルト宗教か。いずれにしても、早々にここから抜け出さなくては。
「あ、その目、信じてないですね? わかります。最初から信じてくださったお客様はほぼゼロですから。でも、信じる信じないは別にして、なにかしらの後悔は抱えていらっしゃいますよね」
「それはまあ。でもみんな、そんなものじゃないですかね」
巫女に向き合っていた上半身を少しずつもとの向きへと戻し、そっとバッグの持ち手に手をかけた。
「お会計、お願いできますか」
「え、待ってください、もう少しだけ時帰りについて説明させてください」
「いえ、もうほんとに、大丈夫ですから。お会計をして帰ります。息子も学校から戻りますし」
「あ、お子さんが」
それまで強引だった巫女が、しゅんと萎れたようになる。
「帰ってきたとき、お母さんがいないとがっかりしちゃいますもんね。お宅は遠いんですか」
「ええ、ここからだとそれなりに時間がかかるので」
嘘だ。本当は一時間もあれば戻れるから、ランチでもして帰るつもりだ。
ほとんど涙目でレシートを渡され、現金しか受け付けていないというので財布を取り出して支払った。引き留めたいのをこらえているらしい彼女をおいていくのはなんだか気の毒な気もしたが、同情心を振りきって出口へと向かい、引き戸を勢いよく開ける。
驚くほど軽く開いてバランスを崩した体を、向こうに立っていた誰かが「おっと」と支えてくれた。
「す、すみません」
どうやら私を支えてくれたこの人物と、同時に引き戸を開けてしまったらしい。
慌てて人物を見上げ、つぎの瞬間、声を失ってしまった。写真で見た神主である。
ああ、神様、こんなにも美しい人物をおつくりくださってありがとうございます。
少女のころから見目のよい男性に弱い。恋愛対象としてどうこうというよりも、アイドルを愛でる気持ちだ。ただしそんな相手は、これまでの人生で画面の向こうかコンサート会場の遠く離れたステージ上でしか見たことがなかったのに、まさかこの寂れた神社で、すぐ間近で拝む幸運に恵まれるとは。袴姿がまた、男性のもつ妖艶さをいちだんと引き出している。
「あの? お帰りはあちらですけど」
ぽうっと立ち尽くしていた私に、男性が怪訝な表情で告げた。
「あ、いえ、実は――時帰りでしたっけ? その話、もっとくわしく聞かせてください」
われながら呆れるほど態度を一変させて店内を振り返ると、巫女さんが心得た様子でうなずいたのだった。
「こちら、兄で神主の若宮雅臣です。お兄ちゃん、この方がきょうのお客様の穂香さん。お子さんが学校から帰ってくる前にここを出たいそうだから、早く時帰りして差し上げましょう」
早口で告げる巫女さんに、神主は涼やかな目元をかすかに歪めた。
「それならまた今度、時間に余裕があるときにいらっしゃったらいかがですか」
「お、に、い、ちゃ、ん」
この見た目でこの素っ気なさ。さぞたくさんの女性たちを泣かせてきたに違いない。嫌味な口調にもニコニコとしている見知らぬ女を、神主は忌々しげに見かえした。
「兄のことは気にせず、穂香さんの後悔を聞かせてください。聖神様が、きっとご希望の過去に時帰りさせてくださいますから。ね?」
時帰りとやらの信憑性についてはさておき、うながされて初めて、話したくてたまらない自分に気がついた。みずからのいたらない育児について、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「息子がいるって、さっき巫女さんにはお伝えしましたよね。いま小学二年生のやんちゃざかりの子です。宿題をいっしょにやってるんですけど、まず椅子に座らせるだけで苦労していて」
「元気なお子さんなんですね」
「ええ。こちらは三十代後半なので、もう体力の限界を感じることも多くて。走られたら追いつけなくって困ってます」
しかめ面だった神主が、一瞬、なにかを懐かしむように目を細めてみせた。
「でもまあ、息子がちょっと大きくなってきてこちらの事情も理解してくれるようになったことに甘えてたんでしょうね。ちょうど一週間前の夜に、すっごくイライラして怒っちゃって。それ以来、息子がどこか私に壁をつくってる気がするんです」
「そんな――気にしすぎな気もしますけど。でも、聖神様がお選びになったということは、やはり時帰りすべきだってことなのでしょうね」
「いや、親子なんだし、話し合えばいいだけでは?」
言い終えたとたん、神主が端整な顔を歪めた。どうやら妹に足のすねでも蹴られたらしい。同時に、なにか地鳴りのような音とともに店の床が振動しはじめた。
「ほら、お兄ちゃんっ。もう、ちゃんとしてよ」
「わかったよ。やればいいんだろう、やれば」
兄の投げやりな態度を、妹がすまなそうな表情だけで詫びる。
「今の地鳴り、大丈夫ですかね。もっと大きな地震の前ぶれとか?」
「いえ、これは、聖神様の警告というか、祟りというか。でも地鳴りくらいなら軽いほうです。兄が時帰りの儀式をあまりにもやりたがらないと、本拝殿に雷を落としたり、しめ縄が切れちゃったり、もうさんざんで」
「えぇ?」
それで本殿が、あのような無残な姿になったのだろうか。
「でもご心配なさらないでください。兄の腕は確かなので。ね、穂香さんに、時帰りの儀式をして差し上げるよね」
「まあ、今回は些細な問題みたいですし、ご協力いたします。ただし、時帰りできるのは人生で一度きりです。そのチャンスを、今回使ってもいいですか」
「私にとっては、その価値があります」
どうせ、実際に過去に戻れるわけではないのでしょう?
儀式といっても、おそらく過去の振り返りだろう。話を聴いてもらって、最後にご祈祷かなにかで清めの儀式でもして締めくくり、といったところだろうか。
それでもいい、すっきりした気持ちでまた息子と向き合えるのならば。
「ちなみに、おいくらですか」
「それはもちろん無料です。うちの御祭神って潔癖なところがあるらしくて。あまり金銭の要求を好まないようなんですよね。でももしよろしかったら、お帰りの際にお賽銭でもはずんでいただけたら」
「わかりました」
そんなことを言っても、結局は高額な商品を売りつけられるか、なにかしらの請求をされるのかもしれないが、そのときはぜったいに断ろう。まあ、神主の鑑賞料としてお賽銭を多めにするくらいはしてもいいけれど。
神主がすっと立ち上がった。
「儀式は、本拝殿でおこないます。俺の祝詞と汀子の舞が主な内容ですが、ほかにご注意いただく点もあるので、詳しくはのちほど。では、俺は準備がありますので」
立ち上がった神主におそるおそる尋ねる。
「あのう、本拝殿ってあっちの建物ですよね」
「ええ、なにか問題でも?」
「いえ」
問題だらけだが、とても指摘する勇気は出ない。
神主は、ほの暗く光る瞳でこちらを一瞥すると店から出ていった。
『時帰りの神様 其の弐』は全4回で連日公開予定