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 目を覚ました瞬間、軽い頭痛に襲われた。あれ? 具合悪い? と考えを巡らせて、二日酔いだと気づく。

「うわ……久々だぁ」

 ベッドの上をごろりと転がりながら、沖晴は呻き声を上げた。

 昨日は、都市開発部のメンバーと牛タンを食べにいった。沖晴の歓迎会だった。

 一次会は午後九時に終わったけれど、せっかくの金曜日だからと近くの居酒屋で二次会が開催され、その後は神田と二人で三次会まで行ってしまった。

 最終的に、居酒屋のカウンター席で神田が最近彼女と別れてしまったという話を延々聞かされた記憶がおぼろげにある。明確でないのは、沖晴も相当酒を飲んでいたからだ。飲まされたわけじゃないが、次から次へと酒の種類を変える神田に釣られて、ほいほいと飲んでしまったのだ。

 アルコールに弱いわけではない。でも、好んでがぶがぶ飲むわけでもない。大学時代から、酒との付き合いはほどほどにしてきたつもりだ。

 調子に乗って二次会、三次会と行ってしまったのは、「どうせ帰っても一人だしな」と思ったから。単身者向けのマンションの一室で一人で過ごすより、誰かと食事したり酒を飲んだりしている方が楽しいから。

「でも……ちょっと飲み過ぎたな」

 時計を確認すると、午前十時過ぎだった。そこから数十分かけてベッドから這い出し、気分が晴れないかとぬるめのシャワーを浴びてみた。ちょっとだけ頭が冴えた。

 冷たい水を一杯飲んで、部屋の空気が淀んでいる気がして窓を開けた。四月らしい、温かく緩やかな風が吹き込んでくる。

 マンションの向かいの公園には、桜の木が何本も植わっていた。東京ではとっくに散ってしまった桜だが、雪杜市はちょうど今が見頃の季節だ。

 沖晴の部屋は三階だから、満開の桜がベランダから見下ろせる。淡いピンク色に染まった花びらが、風にのって沖晴の鼻先を掠めていった。

 今更ながら、見上げた空が綺麗だった。いい天気だ。桜が映える優しい青空だ。

「朝ごはん、食べに行こうかな」

 冷蔵庫には食材らしい食材がない。食パンすらない。本当は昨日、帰りにスーパーかコンビニに寄って調達するつもりだった。酔いに酔ってそれどころじゃなかったのだ。

 生乾きの髪をドライヤーでしっかり乾かして、着替えだけはちゃんとして、家を出た。

 引っ越し直後に家の周りは散策したが、すぐに仕事が始まってしまったから、最寄りのコンビニとスーパーくらいしかわからない。会社と自宅の間には梓川建設が再開発を手がける予定の商店街もあるのに、ほとんど足を運べていなかった。

 引っ越し当日はバスを使ったが、家から駅までは歩いて十五分ほどだ。並木道が続く通りは気持ちがよくて、最近はずっと歩いて通勤していた。

 駅が近づくにつれて建物の背が高くなり、人通りが多くなっていく。「欅の道商店街」という古い看板が顔を出し、沖晴は迷わず商店街に足を踏み入れた。

 六十年近い歴史があると神田が言っていた通り、建ち並ぶ店舗もアーケードも街灯も、何もかも年季が入っている。

 商店街のテーマソングなのだろうか、軽快な音楽が流れるアーケードの下を、一店舗ずつじっくり眺めながら沖晴は商店街を進んでいった。

 コロッケが揚げたてだと呼び込みをする精肉店があったと思ったら、その隣には甘い香りが漂う鯛焼き屋がある。和菓子屋の向かいにケーキ屋がある。ラーメン屋が三軒連続で並び、個人経営の文房具屋とパン屋が続く。土曜の昼とあって、どの店も賑わっていた。

 焼きたてのメロンパンの香りに釣られてパン屋に入ってみようかと思ったが、とりあえず商店街のはずれまで歩いてみた。

 商店街は一本道ではなく、左右に細い路地が延び、そこにも何軒もの店が並んでいる。バーや居酒屋が多いようだが、試しに一本路地に入ってみると、雑貨や衣類を売る個人経営の小さな店もあった。

 そんな中に、見つけた。

 商店街のはずれ、細い路地を進んだ先に、周囲と比べても一際古い二階建てがあった。

 小さいのに、洋館みたいな重厚なたたずまいをしている。青い瓦の屋根に、灰色のモルタル壁、淡い緑色の窓枠には、ところどころステンドグラスがはめ込まれていた。

 狭い路地に身を潜めるように、建物の前には小さな庭まである。木製のテーブルと椅子が、一組だけポツンと置かれているのだ。建物は洋風なのに、軒先には松や榊が植えられた和風の仕上がりだ。

「……カフェなんだ」

 店先に木製の看板が出ていた。「カフェ・天井裏」と書いてあるから、これが店名で間違いないらしい。

 カフェの外観を見上げる。たたずまいは全然違うのに、似てる、と思ってしまった。

 高校時代、自分の家であるかのように通った踊場京香の実家は、カフェをやっていた。「カフェ・おどりば」という名だった。京香の祖母が、毎朝美味しい紅茶を淹れてくれた。

 階段町という街の、まさに踊場のような場所に建つ店だった。店の窓からは海がよく見えた。沖晴の人生における、踊場のような存在の店でもあった。

 そんなことを思い出していたら、無意識に店先の庭に足を踏み入れていた。鉄製のドアに触れると、ひんやりと冷たい。ちょんと押すと、ギイと錆びついた音を立て、凜とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 覗き込んだ瞬間に、店の奥から素っ気ない声が飛んできた。

 店名の通り、天井裏のような薄暗くひっそりとした店だった。どことなく空気がひんやりとしている。

 でも、決して陰気な雰囲気ではない。窓からはかすかに春の日差しが差し込んでいて、天井からはステンドグラスのペンダントライトがぶら下がっている。店の端には、古びたアップライトピアノが置かれていた。

 淡い明かりが木製の床に躍るのまで、カフェ・おどりばにそっくりだ。

「お好きな席にどうぞ」

 呆然と立ち尽くした沖晴に、再び素っ気ない声が飛んでくる。

 カウンターの中に、黒いカフェエプロンをした女性が一人、ポットを手にこちらをじーっと見ていた。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。暗めのブラウンの髪を無造作に一つに結んで、声色に負けないくらい素っ気ない眼差しをこちらに向けていた。

「あー、はい、すみません」

 ランチ時だが、店内はそこまで混んでいなかった。カウンターが四席、二人がけのテーブルが五つあるだけの小さな店だが、客が四人ほどしかいない。

 庭を望む小窓の側のテーブルにつくと、先ほどの店員がすぐさま水を持ってきた。沖晴がにこやかに礼を言ったのに、無表情のまま去っていく。

 無愛想な店員のいる、商店街のはずれのカフェ……この前、先輩達がミーティングでそんな話をしていた。

 間違いない。絶対、この店のことだ。メニューを広げながら、沖晴は思わずカウンターの方へチラチラと視線をやってしまった。

 店員の女性は、コンロにかかったステンレス製のヤカンをじーっと見下ろしていた。どうやら、この時間は彼女一人で店を回しているらしい。

「マチちゃん、お会計、いい?」

 カウンターにいた高齢の男性が声をかけると、相変わらずの無表情でレジに向かった。どうやら、俺にだけ冷たい対応であるわけではないらしい。もしかしてこちらが梓川建設の人間とばれているのでは? と一瞬思ったが、その心配はなさそうだ。

 会計を終えた店員が、こちらを見た。目が合ってしまった。注文したがっていると思われたらしく、音もなくスタスタとこちらに歩いてくる。

「ご注文は?」

 愛想の欠片もない問いかけに、沖晴は目についたナポリタンの写真を指さした。

「ナポリタンと……あと、温かい紅茶、ください」

「アッサム、ダージリン、アールグレイ。ストレート、レモン、ミルク。どうしますか」

 取扱説明書でも読み上げるような言い方だった。急き立てられるように「じゃ、じゃあダージリンをストレートで」と答えた。

「はい、かしこまりました」

 素早く踵を返して、きびきびと音が聞こえそうな足取りでカウンターへ戻っていく。

 十分ほどで運ばれてきたナポリタンは、甘めの味付けだった。玉ねぎにピーマン、ソーセージ、具材が全部大きめにカットしてあって、ケチャップソースとよく絡んでいる。適当に頼んでしまったダージリンは真っ白なティーポットにたっぷり二杯分入っていた。

 カップに鼻を寄せると、ダージリンらしい爽やかで甘い香りがした。

 懐かしい、と思った。紅茶なんて頻繁に飲むのに、蘇るのはどうしたって階段町の思い出だ。きっと、この店がカフェ・おどりばみたいな雰囲気をしているせい。紅茶の種類を知ったのも、飲み方を知ったのも、全部あの店でだった。

 そのおかげだろうか。

「ナポリタンと紅茶で、九百八十円です」

 ぶれることない無愛想ぶりで会計をされても、不快感はなかった。

 むしろ、よかったとさえ思った。

 これでもし、この店員が笑顔で対応していたら。もし、この人が踊場京香みたいな優しい笑みを浮かべていたら。

 想像するだけで鼻の奥がツンとしてしまった。だから、よかった。

「また来ます」

 お釣りを受け取りながら、そんなことを口走ってしまった。あ、と顔を上げたら、店員の彼女が一瞬だけ目を瞠ったのに気づいた。

 ああ、よかった。この人、ちゃんと驚くんだ。

「……ナポリタンと紅茶、美味しかったので」

「そうですか。よかったです」

 一ミリもよかったと思っていなそうな顔で、彼女は「またどうぞ」と一礼した。

 店を出てすぐ、沖晴はカフェ・天井裏を見上げた。春の日差しが、モルタル製の壁を淡く照らしている。眩しい。店内が暗かったから、余計にそう感じる。店名の通り、天井裏みたいな雰囲気の店だった。

「全然違うのにな」

 なのにどうして、階段町を、カフェ・おどりばを、踊場京香を、こんなにも鮮明に思い出してしまうのだろう。平気だと思って東京を離れたけれど、なんだかんだ、やっぱり俺はずっと寂しいのかもしれない。

 商店街のメインストリートに向かって一歩踏み出したとき、また、聞こえた。

 ――沖晴君、と、自分の名前を呼ぶ声が。

 無視した方がいいとわかっているのに、足を止めて振り返ってしまう。飲食店や雑貨屋がぎゅっと身を寄せ合う細い路地には、当然ながらあの人の……踊場京香の姿はない。

 

◆ ◆ ◆

 

「私もお会計してもらえる?」

 万智がレジに千円札をしまっていたら、常連の老婦人が伝票片手にやってきた。

「ナポリタンと紅茶で、九百八十円です」

 先ほどの若い男性客と全く同じ注文だった。はい、とにこやかに千円札を差し出してくる。老婦人の柔らかな白髪に、レジの上のペンダントライトの明かりが落ちた。こちらの無愛想な態度に嫌な顔一つせず、いつも上品に微笑んでいる。

「今年も桜が見事に咲いたわねぇ」

「そう、ですね」

「早くお花見しなきゃだわ」

 この老婦人はいつもこうやって世間話をして帰る。こちらはこの通り、上手い相槌も、いいリアクションもできないのに。

「私ももう年だから、毎年毎年の桜が貴重なのよ」

 ふふっといたずらっぽく笑う老婦人に、いよいよどんな顔をすればいいのかわからなくなった。

「それじゃあ、また来るわね」

 ゆったりと会釈して、老婦人は帰っていく。ドアベルが凜とした音を立てる。

「万智ちゃん、忙しい時間に任せちゃって悪いね」

 カフェ・天井裏のマスターである若葉さんが、右足を引きずるようにして店の裏手からカウンターにやってきた。足が悪いのではない。半年ほど前から腰を痛めているのだ。

 もう七十歳近いから、本人は「肉体の限界だよね」と肩を竦めていた。それでも、トレードマークの真っ白な口髭は艶やかで、貝ボタンのついた赤いカーディガンがよく似合っている。

「大丈夫ですよ、そこまで混んでないんで」

 この店は常連で持っているタイプの店だ。今日は珍しくあの若い男性客が初めて来たけれど、ランチタイムの時間帯とはいえ、目が回るほど混むことはない。

「ねえマスター。マスターの淹れたコーヒー、飲みたいよ」

 カウンター席にいた常連の男性が、笑顔でそう言った。若葉さんは「それじゃ、頑張りましょうかね」と腰を叩きながらコーヒー豆の置かれた棚に手を伸ばす。

「無理、しないでくださいね」

「大丈夫、今日は結構調子がいいんだ」

 若葉さんはこの店の二階に住んでいる。しかし最近は階段を下りるのも辛い日があるらしく、店はほとんど万智が一人で回していた。

「さてさて、美味しいコーヒーを淹れましょうかね」

 コーヒーミルをゴリゴリと回しながら、若葉さんはあの老婦人と同じように穏やかに微笑んでいる。

 接客業なのにいつも仏頂面で、愛想が悪い万智のことも、「性格は人それぞれさ」と笑って雇い続けてくれる人だ。感謝してもしきれない。常連客から「あの子、なんとかならないの」と小言を言われても、「万智ちゃんは気にしなくていいよ」とフォローだってしてくれる。

「すみませーん、紅茶のおかわり、いただけます?」

 窓際の席にいた客が、すーっと右手を挙げた。「はーい」と返事をして、万智はお湯を準備した。コンロの上でカタカタと音を立てて震える銀色のヤカンに、ぼんやりと万智の顔が映り込んでいる。

 ふと、さっきの若い男性客の顔が蘇った。人当たりがよさそうで、爽やかな雰囲気で話す人だった。

 いい笑顔だった。自分にはできそうにない、朗らかで優しい笑い方をする人だった。

 レジで会計をしながら、一瞬だけ、あの人が感極まっていたように見えた……気がしたのだが、気のせいだろうか。

 

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