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七月二十七日 晴

 午前座学と体操。午後、海上訓練。

 訓練からの帰路、大勢の児童の列とれ違う。聞けば、盛岡からの疎開学童五十名とのこと。当初はこの梵寂寺を臨時の学校とする予定だったらしいが、ひと足先におれたちが入ってしまったので、今は空き家となっている、岩ノ島を正面に望む東の浜辺(いそはまというらしい)に近い西地区の旧温泉旅館を宿舎兼学校として使うらし。

 夕刻、恒川村長がラジオを持って来て呉れる。深謝。

「特攻隊が配備されたということは、ここにも敵が攻めて来るのか」と遠回しに訊かれる。とつの回答に窮す。それはおれも教えて欲しい。

 宮戸にて鱶姥赴任を命じられ、それが青森県の日本海側にある漁村だと分かった時は驚いた。

 震洋とは、接近した敵艦船に特攻するための水上艇である。いったい、どこの敵が日本海側から攻めて来るのだ? よもやアメリカの軍艦がそう海峡や津軽海峡を越えてここまでは来ないだろう。しよう介石かいせきの国民党軍や共産党軍? 若しくはソヴィエトが中立条約を破棄して太平洋艦隊で攻めて来る? そんな事態となれば、最早特攻でどうにか出来る話でもないと思うのだが。

 

七月二十八日 炎暑

 午前座学と体操。午後、海上訓練。

 急に暑くなったので、皆嬉々として海上訓練に臨む。気楽なものである。

 鱶姥着任以降、宮戸の時と比べて食糧事情は格段に良くなった。ここは魚が旨い。麦飯も腹一杯食わせて貰える(若い搭乗員に対する同情が強い様子)。

 そう云えば、善海和尚から鱶姥の由来について教えて貰った。奇妙な地名だと思っていたが、中々興味深い由来だったので記録しておく(とかく後世に向けて記録を――以下略)。

 或る日、漁に出たまま帰って来ない漁夫がいた。老いた母は子の身を案じ、毎日岬に出て帰りを待っていたが、遂に戻らなかった。老母は嘆き悲しみ、海に身を投げた。その身は忽ちふかに転じて、今も大海原で子を捜している、のだとか。

 老いた母、即ち姥が鱶に転じたので鱶姥。筋は通っている。一種の変身譚だが、から佐用さよひめ伝説しかりえんしゆう七不思議のきようまるたんしかり、人間が人外に転ずる際、悲嘆がきっかけとなる物語が多いのは何故なのだろう。この辺りを調べてみたら面白い論文が書けそうだと思い、未練未練と考え直す。

 夜のラジオニュース、英国総選挙は予想に反して労働党の大勝。チャーチル退き、アトリー内閣成立。他にもスマトラあたりの独立気運を説いていた。世界はどんどん動いている。

 

(追記)

 二一一五、警戒警報。その後二二一〇、空襲警報発令。庭先に飛び出すと、真っ暗な東の空に低く響く音を聞く。B二九だと直感。震洋が見つかる恐れはないが、それでも総員待機させる。大湊に打電するも返信なし。二十九日〇〇二二、空襲警報解除。隊員たちは宿舎に戻らせ、おれも仮眠を取る。

 

七月二十九日 炎暑

 夜明けと共に青森大空襲の一報入る。市街地は一面の焼け野原で、死傷者数千人との噂もあり。使用された焼夷弾は水を掛けても消えず、むしろ燃え広がったとか。新型爆弾?

 大湊警備府に伺いを出すが、引き続き鱶姥にて待機とのこと。

 夕刻ラジオニュース、鈴木貫太郎首相ポツダム宣言を黙殺。戦争完遂に邁進するのみと語る。

 

七月三十日 炎天

 同一訓練。青森の惨状、徐々に伝え聞く。悲惨のひと言。炎熱で道路のアスファルトが融け、遺体を片付ける際は引き剥がすようにしなければならなかったとか。

 また一方で、これはくまで噂だが、前日二十七日の深夜、数機のB二九が飛来して、近日中に爆撃を行うので避難するように告げるビラを大量に散布したらしい(無論、憲兵隊が徹底して回収)。更には、青森県知事より空襲時の消火活動を放棄して避難した住民は断固処罰する旨の通達が出されていたとのこと。それで市民たちは居残り、消火活動に身を奉じて――嗚呼。死者は千人以上。これが戦争である。しかしながら暗澹たる思い。

 

七月三十一日 炎暑

 同一訓練。エンジン系統の調整を重ねても最高速度三十二ノットが限界。戸田整備長もさじを投げる。仕方がない。やるしかないからやるしかない。明日から突撃訓練に切り替える予定。

 夕刻、海岸を歩いていると、基地隊員のおお瀬戸せと一等水兵が磯ヶ浜で熱心に何かをスケッチしていた。訊けば現地調査だと云う。

 大瀬戸は応召兵で、元は天草あまくさの海底炭鉱の主任技師を務めていた男だ。おれよりも余程歳上で今年四十の筈だが、どうも軍隊というところは階級が上だと歳も上のように感じるのか、久藤といいこの大瀬戸といい、おれを二十幾つの若造とは見なさない。どうも妙な感覚だ。

 閑話休題。そんな大瀬戸曰く、日本近海には圧縮されて固形になったメタンガスの鉱脈が大量に存在するのだそうだ。ことに寒冷な日本海北部では海底から放出したメタンガスも海水には溶けず、少量ずつだが気泡となって漏れ出ているのだとか(「風呂のなかで屁をこいたようなものです」と云っていた。成る程、分かり易い)。

 この鱶姥の外洋にもかなりの量の鉱脈が存在するのだと、大瀬戸はよくわからない計算式や海底の略図を砂浜に描きながら説明していた。それは回収出来ないのか訊くと、金は掛かるが理論上は可能だと云う(金と云っても戦艦一隻程度らし)。

 メタンは可燃性のガスなので、燃料資源にも使い得るだろう。この戦争は、元を辿れば結局は石油が欲しくて始めた戦争だ。若し戦争でなくそちらにお金をまわしていたら――せ止せ、もの云えば唇寒し夏の海。

 二〇三〇、大湊警備府よりとままいの製紙工場が敵潜水艦の艦砲射撃を受けて損害を被ったとの報が入る。苫小牧は先日も空襲を受けている。敵はぐそこまで来ている。

 

八月一日 炎暑

 おれの歴史講話ばかりでは飽きるだろうと思い、座学の講師を善海和尚に依頼する。通常の法話で構わないのだが、難色を示される。仏の教えと特攻精神があいれないため? 再三頼み込んで何とか了承を得る。

 夜、恒川村長が酒を持って来訪。見掛けないなと思っていたら、出張で青森まで行っていたらしい。今や鉄道は完全に途絶。運良く動いたとしても、警戒警報発令の如何いかんに拘わらず無灯火運転ゆえに牛車よりも遅いスピードで、あれならば歩いた方が速いと云っていた。

 和尚、村長と食卓を囲むなか、ふと思い出して例の石碑について訊く。これもまた興味深い内容だったのでここに記しておく(とかく後世――以下略)。

 江戸時代中期(浅間山が噴火した頃とのことなので、天明三年か四年と思われる)、この沖合を震源とする大地震が起こり、鱶姥には十メートルを越す大津波が押し寄せた。鱶姥の村落は港湾の奥に位置するため、湾内に入った津波は更に高さを増した。山手に逃げようにも間に合わず、村人たちが諦めた矢先、偶々たまたま村を訪れていた行脚あんぎやの僧侶が、今にも津波が迫らんとする岬の先端に立ち一心に念仏を唱え始めた。せつ、辺り一面に強い光が充ち、轟音と共に津波が消えた。村人たちは奇蹟だと驚き岬へ急いだが、気力・法力を使い果たしたのか、僧侶は両目が潰れており、間もなく大量の血を吐いて死んでしまった。村人たちは梵寂寺にてその亡骸なきがらねんごろに葬った――云々うんぬん

 くだんの石碑は某というその僧侶をまつったものらしい。修験者しゆげんじやによる調ちようぶくたんは各地に多く残っているが、津波を消すというのは初めて聞いた。中々なかなか面白い。

 

八月二日 晴

 訓練中に震洋一艇が沖合の岩礁にぶつかり破損。エンジン系統から出火。直ぐに鶴嘴つるはしで船底に穴をうがって自沈させる。万が一船首の炸薬にでも引火したら大惨事だった。

 事故の処理後、搭乗していたおおがき二等飛行曹、うら二等飛行曹が、貴重な一艇を失くした責任を取って自決すると騒ぎ出す。久藤上等兵曹と共に宿舎代わりの民家に急いで慰留する。未だ子どもなのだ。二人とも顔を真っ赤にして泣いていた(隊長は甘すぎると久藤には苦言をていされた)。

 大湊警備府に事故の報告と震洋の追加を要請したが、勝手に艇を沈めるなど本来なら軍法会議ものと叱責される。

 

八月三日 晴

 大湊警備府より、入舟少佐という特攻参謀が来村する旨の報が入る。鱶姥での特攻作戦遂行に際しての実地確認だそうだ。おれたちが着任して既に一週間以上経過しており、今更かと思わないこともない。

 通信要員のうち水兵長曰く、この参謀は、元々つくの航空隊で腕利きのパイロットだったが、統率とうそつどうであると上官からの特攻命令に反抗し、大湊警備府の閑職に左遷された将校サマらしい。

 生還を期せぬ特攻が決して望ましい戦術でないことに異論はないが、それを明言することは、日々訓練を積む我々への侮辱である。部隊の士気を下げるような人物ならば、仮令たとえ上官といえども断固抗議をせねばならない。果たしてどうなるか。ああ胃が痛い。

 

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