序
ふと思い立って日記をつけてみることにした。
いつまで続けられるか(要は、おれがいつまで生きていられるか)は分からないが、折角始めるのだから、ここに限っては嘘偽りなく、紛りなりにも海軍中尉である身として余所では口が裂けても云えないようなことだって、おれの本心として書き綴っていこうと思う。
特攻隊を任された者の心境というのは如何なものか。これもまた日記の形で後世に残しておいて損はない筈だ(忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず、とまれかくまれ、疾く破りてむ、となるのかも知れないが)。
先ずは自己紹介。
第一四七震洋特別攻撃隊隊長、那智鳩平海軍中尉。大正十年十一月九日、名古屋市中区葉場町生。明倫中→八高→京都帝大と進み、我が恩師、御厨教授の下で所謂「実証史学」を学ぶ。卒業論文は「近世の堺に於ける石造物利用の形態に就て」。
ここまで書いて思ったが、本当は家業を継いで欲しかったであろうに(ウチは代々配管資材の卸売りをやっている)、文句を云いながらも俺のしたいようにさせてくれた両親には頭が上がらない。その上、碌な親孝行も出来ぬ裡にこうして特攻隊に配属されてしまった訳だから、とんだ不孝者である。
湿っぽくなるからここいらで止めておこう。
昭和十八年九月、半年繰り上げで大学を卒業。どうせ軍隊に引っ張られることは分かっていたので、海軍の予備学生を志願する(なぜ陸軍じゃないかって? そりゃ一個も良い噂を聞かなかったからだ)。他の連中は挙って飛行科を志願したが、そんなに器用だとも思えなかったので、一般兵科を志願し、無事採用される。その後、三浦半島の先にある武山の海軍予備学生教育部で海軍トハ何タルカを学ぶ。
基礎教育修了後、砲術、水雷、対潜、通信、航海、電測、気象、工機、工作、潜水と、どの術科学校に進むか選ぶ必要があり(こんなことを余所で云ったら殴られるどころじゃ済まないだろうけれど)、一番命の危険が少ないであろう「通信学校」を第一希望に出す。しかしながら、仮令数ヶ月でも海軍の潮っ気に当たっていると性根まで変わってしまうものなのか、同級生に惰弱と思われるのも癪で、つい第二希望に「水雷学校」、脇に「魚雷艇志望」と付け足してしまう(コレガ一生ノ不覚ナリ)。
その結果、真逆の第二希望が通ってしまう。魚雷艇学生第一期として横須賀市田浦の水雷学校で諸々の訓練を受け、昭和十九年五月海軍少尉任官。第一六震洋特別攻撃隊第一艇隊長として八丈島赴任。昭和二十年五月海軍中尉任官。七月第一四六震洋特攻隊第二艇隊長として宮城県宮戸村に異動となるも、現地で急遽第一四七震洋特攻隊隊長に任ぜられ鱶姥配属を命じられる。同日二十五名の部下(十五名の搭乗員、五名の基地隊員、五名の整備隊員)と共に当地へ急行し、今日に至る。
ついでに今日のことも書いておく。
鱶姥着は一三四五(軍隊では十三時四十五分を指す)。皆疲労困憊。仙台を出たのは二十一日。十日の仙台空襲で奥羽本線は不通のため、仙台駅〇八二五の二〇一列車に乗り込み、好摩、大館、東能代と乗り換えて、日付が変わる頃には鱶姥に着く筈だったが、こちらも列車が来ない。東北本線の線路も空襲で一部が破損したため、時刻表はあってなきが如しと駅の助役も云っていた。
一時間遅れで漸く来たかと思ったら、今度は警戒警報発令で動かない。一日かけて何とか好摩まで。本日の運転はここまでとのこと。已むを得ず隊員たちと共に乗降場で雑魚寝。夏場で良かった。
好摩―大館や大舘―東能代は流石に空襲での取り止めはなかったものの、列車は遅々としてまた途中で野宿。結局鱶姥に着くまで二日近くを要した。
鱶姥は西津軽のいち漁村(詳しい地形は明日以降確認の予定)。懸念していた現地の様子だが、村長の恒川(つね かわ)氏にはきちんと話が通っていたようで、まずひと安心。少なくとも現時点では下にも置かない持て成しぶりだった(若い兵が多いから?)。有難い話である。隊員たちの宿舎も分けなければならないが、夜も遅いため、高台にある古寺(梵寂寺と云うらしい)に全員泊まる。大湊の警備部に鱶姥到着の一報を入れる。震洋十五艇は既に大湊より海送済とのこと。
昭和二十年七月二十四日 海軍中尉那智鳩平 記す
七月二十五日 晴
午前座学と体操。場所は梵寂寺の講堂を借りられた。午後は震洋艇の性能検査。五日前に大湊より海送された十五艇は二人乗りの五型で、海岸近くの天然洞窟に隠されていた。ひと目見て唖然となる。洞窟内の湿気にやられたのか、エンジンはすっかり錆びて船体も腐食しつつあり。手頃な木材を譲り受け、至急修理させる。
監督は戸田整備長に任せ、久藤上等兵曹と共に恒川村長の案内で村落を一周する。久藤には、宮戸の時分から甲板下士官を任せている。おれのような予備学生あがりが何とかやっていけているのは、叩き上げ下士官の久藤が部隊の規律を司り、〆るべきところはしっかりと〆ているから。頼りになる男である。
鱶姥は海岸線まで険しい山岳地帯が連なっているため、殆どの民家は海沿いに建っている。主な産業は漁業と林業。漁師が七で樵夫が三。山の中腹から見た海岸線は鋸の刃のようにギザギザとしていた。村長曰く、元々山だった土地が水没してあのような地形になったのだそうだ(溺れ谷と云うらし)。若狭出身の久藤は故郷を思い出すと云っていた。
梵寂寺に戻り、恒川村長と隊員宿舎借り受けの協議。近隣民家に隊員を三名ずつ振り分ける。通信機器は梵寂寺の講堂に置き、ここを鱶姥基地とする(おれは庫裏の一室を借りる)。
今のところ鱶姥で空襲はなし。敵機来襲も現時点では皆無。外洋での訓練も可能? 訓練中に一ヶの爆弾でも、否、一発の機銃掃射でも喰らえば忽ち大爆発なので慎重に検討する必要あり。
夕刻、戸田整備長より報告。計画では四十ノット、遅くとも三十五ノットは必要なところ、手元の震洋全て二十ノットすら出るか怪しいと云う。遅い遅い。しかし、出来るだけやるしか仕方がない。至急の調整を命令。
明日から本格的に海上訓練の予定。
七月二十六日 晴
午前、座学と体操。午後、海上訓練。
座学と云っても精神訓話は昨日したので、定番だが楠木正成について話した(我ながら講談のようであった)。存外評判も悪くない。史学徒の端くれとして、この類いならどれだけでも話していられるからひと安心。
特に搭乗員たちは桜井の訣別に至極昂奮していた。彼らは土浦の航空隊で水上特攻を志願した予科練出身の少年飛行兵で、皆、十六、七の腕白盛りである。そんな子どもが、華々しく死んでやるぞと意気込んでいる姿は、どうにも心苦しいものがある。
特攻隊長として、冷血にならねばと思う。冷静ではいけない。冷血に、冷酷にならなければならないと思う。
汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
おのれの討死なさんには 世は米英のままならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため
昼餉ののち鱶姥で初の海上訓練。久藤上等兵曹と相談して、一先ずここの海に慣れるため、沖合三キロにある無人島(村人たちは岩ノ島と呼んでいる)を速度全開で一周させることにした。これに慣れたら、今度は離島を敵艦に見立てて突撃する訓練内容に変更の予定。
鱶姥の外洋は宮戸に比べて格段に浪も穏やか。おれも一時間ばかり舟艇を走らせてみたが、横波に圧されることも少ない。日本海は荒れた灰色の海というイメージだったけれど、存外そうでもないのかも知れない。
余談。夕刻、梵寂寺の境内を散歩中にすっかり風化した石碑を見つけた。雨風に磨かれて判読は困難。かつて実証史学に身を捧げた者として心惹かれるものがある。今度善海和尚に訊いてみよう。
折角なので、我が棺桶となるであろう「震洋」についても書いておこうと思う(とかく後世に向けて記録を残したがるのは史学徒の常である)。
要は水上特攻艇である。薄手のベニヤ板を釘や螺子で組み合わせた、長さ六・五メートル、幅二メートル弱の木製高速ボートで、その艦首には二五〇キロの炸薬が詰め込まれている。誰の発案か全体が緑色に塗られているため、陰では「雨蛙」と呼ばれているとかいないとか。おれたちはそんな巨大な蛙に乗り込み、夜闇に身を隠しつつ敵艦へ突っ込むのだ。
爆撃機から投下する艦船攻撃用の爆弾も同じく二五〇キロ程度の重量だが、こちらは爆弾の外装が一九〇キロであり、内部の火薬は六〇キロしかない。従って震洋による特攻は、通常の爆弾四発が命中したのと同じ効果を上げることが出来る。
無論そんな簡単な話ではない。当然敵サンも近寄らせまいと機銃掃射で攻撃してくる。一発でも当たったらお終いなので、十艇同時に猛進して、一艇でも銃撃を掻い潜ることが出来れば万々歳といったところか。一〇〇メートルまで接近出来たのならば、針路を保ったまま舵を固定した上で海中に避難しても良いことにはなっているものの、そんなことが実際に出来る訳もない。従って、結局おれたちはこの木っ端舟と運命を共にしなければならないのだ。
生憎と、おれは未だ実戦に臨んだことがない。やらねばならないことは前提として、しかし本当に特攻出来るのか甚だ懐疑的である。この水上特攻艇がいつ頃から運用開始されているのかは知らないが、南方や沖縄方面ではそこそこの成果を上げていると説明を受けた。ただ、真逆敵サンも初めの内はモーターボートで突っ込んでくるとは思うまい。不意討ちがゆえの戦果だとしたら、虚しい限りだ。こんな話は絶対に部下には出来ないけれど。
『名探偵(あるいは入舟家)の一族』は全3回で連日公開予定