謹啓

 突然お手紙差し上げます非礼をお許しください。

 当方、横浜にて貿易業を営む入舟いりふねきよろうと申します。先達せんだつて、青森県西津軽郡鱶姥ふかうば村のぼんじやくにて執り行われました第一四七震洋しんよう特別攻撃隊の合同慰霊祭にて、貴台の斜め前方に腰掛けておりました眼帯の男と申しますればしかしたら御記憶かも知れません。

 左様な、いち面識もない輩が突然何用かと御不審のことでしょう。ですが当方には、どうしても貴台に御手紙を差し上げねばならない事情があり、慰霊祭の主催者たる梵寂寺の善海ぜんかい和尚より貴台の住所を教え受け、こうして筆をりました次第となります。

 既に御承知のこととは存じますが、震洋とは、自動車用エンジンを積んだベニヤ板製の小型モーターボートに、二五〇キログラムの爆装を仕込んだ旧帝国海軍の水上特攻艇を指します。その名には、読んで字のごとく「敵艦を撃沈し太平洋を震撼させる」という意味が込められており、来襲する敵艦を水際で退けるべく、特攻隊員たちはこのもろく小さな木製ボートに乗り込んで、必死の体当たり攻撃を敢行するのです。

 貴台の弟君、那智なちきゆうへい海軍中尉は鱶姥に配属されました第一四七震洋特攻隊の隊長であり、当方はおおみなと警備府内の司令部で特攻参謀を務め、那智中尉の上官職にあった者になります。

 

 ここまでお読みになった時点で、貴台はこの手紙を破り棄てておられるかも知れません。

 あらかじめ申し上げます。那智中尉は昭和二十年八月十六日、すなわちあの戦争が終了した翌日、国籍不明の軍艦接近という報に触れて鱶姥基地を出撃、戦死いたしました。そしてその命令文書に署名をしたのは、他ならぬ当方であります。

 

 慰霊祭後、当方は偶々たまたま、貴台が善海和尚とお話しされている傍らを通りました。そこで那智中尉の名を耳にして、その場におられた御婦人、つまり貴台が中尉の御姉君だと知った時には、驚くと同時に、運命の巡り合わせを感じずにはいられませんでした。

 当方は、那智中尉の上官としてその特攻死の実情を把握しており、それを御説明すべく、長らく中尉の遺族を捜しておりました。しかしながら昨年末より著しく胃を患い、当方がこの慰霊祭に参加出来るのも今回が最後だと覚悟せざるを得ない状況だったのです。

 余程声をお掛けしようかとも思いましたが、物陰から貴台のお話を聴取し、矢張やはりその場では身を引くことにいたしました。

 御両親共に幾度かの空襲に遭いながら何とか生き延びたものの、愛する息子の特攻死に酷く落胆され、終戦の年の冬に相次いで亡くなられたよし。お二人とも、死の床に在ってなお、なぜ鳩平は大元帥陛下より停戦の命が下されていながら出撃させられたのかを嘆かれていた由。貴台にかれましてもその点はどうしても納得がいかず、出撃を命じた上官がいるかも知れない慰霊祭に参加するには、十年もの歳月が必要だった由。事情は全て拝聴いたしました。

 そんな、弟を殺した男が今更何用かとお思いでしょう。自己弁護をするつもりは毛頭ございません。繰り返しになりますが、あの日、昭和二十年八月十六日、那智中尉は当方の命令で震洋に乗り込み、既に戦争は終わっているのにもかかわらず鱶姥の沖合に出撃して、その尊い命を散らせたのです。

 しかし一点だけ。貴台が和尚にこぼされた「弟は無駄に命を散らしたのだ」というお言葉。これだけはどうしても聞き逃すことが出来ませんでした。

 同封いたしましたノートは、那智中尉が鱶姥に着任後、その死の直前までつけていた日記になります。訳あって当方が引き取り、いつか遺族の方に手渡そうと、今日に至るまで大切に保管しておりました。

 これを貴台にお返しします。ずは日記を最後までお読みください。その上で、これ以降の当方の手紙に目をお通し下さい。そうすれば貴台にも弟君の死の理由が、何故那智中尉は終戦後に水上特攻を敢行せねばならなかったのかをご理解頂けることと存じます。

 なお、この日記は唐突に終わっております。お読み頂ければ分かることですが、あの日、那智中尉と私は、連合軍の上陸以前に残存する震洋を処分する為の打ち合わせを梵寂寺内で行っておりました。その合間を縫って中尉が日記の残りを書いていた矢先、正確には十三時三十八分、秋田県しろ市西方沖数十キロメートルを震源とした巨大な地震が発生したのです。

 

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