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タイムマシンに乗れた私

 

 先日六十一歳になった。

 ついこの前、四十歳になったばかりだと思っていた。

 大学生だった頃が、つい最近のことのように感じるときもある。

 残り少ない人生をどうやって生きていくべきかと考えていたとき、ある文章を見つけた。

 ――十年後の自分がタイムマシンに乗って現在に来たと考えろ。

 つまり、七十一歳になった私がタイムマシンに乗って、十年前である六十一歳の今日という日に到着したと考えろと言う。

 既に七十代を経験済みの私はこう思うだろう。

 十年前の私は、白髪も皺も少なく若かった。それなのに当時の私は、やれ体力が落ちただの、あと何年生きられるかわからないだの、どうせ死ぬのになぜ今日も働くのかなどと、不平不満ばかり言って嘆いていたと。

 そして、七十代を経験済みの私は、こう言って叱るだろう。

 六十一歳なんてまだまだ若い。新しいことにも挑戦できたんじゃないの?

 それなのに私は、六十代という若くて貴重な十年をぼうっと過ごしてしまった。なんてもったいないことをしたんだろう。

 時間だけは平等だと聞いたことがある。世の中には莫大な富や名声を得る人がいるが、そんなやり手の彼ら彼女らでさえも、どう工夫しても、どんなに努力しても、どれほどお金を払っても、時間だけは増やせない。

 だが私は幸運にもタイムマシンに乗って十年前に戻ることができた……と考えてみる。

 滅多にない機会を与えられたのだから、六十代を有意義に、そして楽しもうと思う。何事も物おじせず、やりたいことを全部やってやろう、恥をかくのも気にせず生きていこうと決心した。

 歳を取るにつれ、あのときああしていれば、こうしていればと、際限なく後悔が募ってきて苦しむ日もある。若気の至りによるものなら自分を赦そうと思えたのかもしれないが、そうではない。

 つい去年の、つい先月の、つい先週の、つい昨日の、「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」と、人を不快にさせた自責の念がいまだに積み重なり、一般常識からズレた振る舞いに、自己嫌悪が日々厚い層になっていく。

 いっそ死ぬまで誰にも会わずに過ごせれば、ずっと心穏やかにいられるのに。

 そのことは、中学生のときも考えていた。

 最近では、死ぬまで大人になれないと気づいた。そして、テレビなどに出て立派なことを堂々と話すインテリ層の中にも、無理やり大人の振りをしているハッタリが多く存在することも。

 もうひとつ。どこかで目にして心に突き刺さった言葉だ。

 ――後悔とは自惚れである。

「あのとき、ああしていれば」と考えるのは、自分を過大評価しているからだという。

 本来なら私はもっとできたはず、頑張ればちゃんとやれたはず、などと思うのは、自惚れに過ぎないというのだ。早い話が、「あなたは何度人生やり直したところで大差ない」と言われている。

 この文章を見たとき、一瞬息が止まった。

 もう開き直るしか道は残されていないと思った。

 無理やりにでも前だけを向いて生きるしかない。

 過去には戻れないが、そのことに普段は気づかない。過去を振り返って反省することで、今後を良い方向へ持っていければいいが、私は少しも改善できないので、振り返る分だけ時間と精神の浪費になる。

 そして、思い悩んで自分を追い詰めた結果、鬱っぽくなるので、気をつけねばと思う毎日だ。年齢とともに、楽しかったことよりも、つらく苦しかったことばかりを思い出すようになった。

 そちらの「底なし沼」に引っ張られないよう、嬉しかったことを思い出したり、自分なりに精いっぱい頑張ったからこそ今日があるのだと言い聞かせて、自らを励ますようにしようと思う。

 その一方、例のタイムマシンに乗ったと考えることで、初めて自分の七十代、そして八十代を具体的に想像するようになった。予想が大きく外れる可能性もあるが、未来のことはわからないから、楽しく安全な未来をイメージした方が現在の自分の心が和む。

 

『行きつ戻りつ死ぬまで思案中』は全3回で連日公開予定