出版社に勤務しながら茶道を嗜む、51歳の愉里子。一見地味な愉里子だが、男性との肉体関係を伴うかりそめの恋、「花摘み」を愉しんでいる。そんな愉里子の前に現れたのが茶の湯の粋人、70歳の万江島。初めて恋の終わりを怖れさせる男には、ある秘密があった……。自分の心と身体を偽らない女たちを描いた、第3回本屋が選ぶ大人の恋愛小説大賞受賞作。
本作の読みどころを、文芸評論家の杉江松恋さんの解説でご紹介します。

■『今日の花を摘む』田中兆子 /杉江松恋[評]
ここまで一人の女性を立体的に描けるものか。
田中兆子『今日の花を摘む』を読むのはこれが三度目になる。本作は「小説推理」に二〇二〇年七月号から二〇二三年一月号まで三ヶ月ごとに連載され、奥付によれば二〇二三年六月二十四日初版第一刷刊行で双葉社より単行本化された。最初の二回は、その新刊書評を手がけるために読んだのである。一度目は物語の起伏を、二度目はそれぞれの登場人物が表情豊かに描かれていることを楽しみながら読んだ。三度目になる今回は、言葉を巧みに選びながら文章を組み立てている作者の深慮に感じ入ることが多く、いざ内容を紹介しようとしてはたと手が止まった。迂闊なレッテルが貼られることをやんわり拒む小説だと、気づかされたからだ。
〈私〉こと主人公の草野愉里子は東京都新宿区にある中堅出版社に勤める五十一歳の女性だ。出版社を舞台にした小説の主人公は、編集者であることがやはり多いのだろうか。草野はそうではなく製作部、編集部が本の内容というソフトウェアを決める部署だとすれば、製作部はハードウェア、出版物の紙や印刷といった要素に携わる。
草野は茶の湯を学んでおり、万江島巽という七十歳の男性が催す茶会の半東を任されている。半東とは、茶会の亭主を補助する役割のことである。
その万江島の茶会で、ちょっとした騒動が起きる。草野に執着する男性が現れて彼女に付きまとおうとしたのだ。万江島の機転で面倒な事態になるところを切り抜けた草野は、その男性が何者かを彼に語る。草野が一度だけ体の関係を持った相手だったが、人物の卑しさに嫌気がさし、別れを切り出した直後だったのだ。ここで草野が、決定的に相手を嫌だと感じたのは男が「最後にもう一回だけ」と口走ったからだ、というあたりでもうにやりとさせられる。片言隻句によりその人物をわからせてしまう技量がこの作家には備わっているとわかるからだ。このやりとりで草野は万江島との心的距離が近くなるのを感じ、以降自分の性体験についてつぶさに語り聞かせるようになる。
「愉里子さんは、私のシェエラザードですので」
「性愛の話ばかりですけど」
本作の題名は、草野が好意をもった男性と自由に性関係を持つことを「花摘み」と密かに喩えているのに由来している。「花を摘む」という隠語を女性は別の意味で使うことがあるが、この場合は性行為である。草野が万江島に自身の花摘みについて赤裸々に語って聞かせる性愛小説、なのかと思いながら読んでいくと、物語の先では違った要素が入ってくる。
もっとも大きな違いは、これまで結婚もせず、ひとりの人生を楽しんできたはずの草野の中に、ちょっとした変化が起きることである。つまり行為ではなくて、対象への執着が芽生えるわけで、これをもって本作を恋愛小説、と呼ぶこともできる。
だが違うのである。性愛小説も恋愛小説も、貼るべきレッテルとしては少し違う。正確に言えば、それでは物足りないのだ。
物語の核にあるのは、草野愉里子という女性が、日々の時間が流れていく中でふと足を止め、今の自分がいる場所を見つめ直すという契機である。『今日の花を摘む』という題名で重要なのは、実は「今日の」の方にある。過ぎ去っていく一日いちにちはどれも大切なのに、そこに留まっていることはできず、未来へ向けて少しずつ進んでいくしかない。後戻りできない道のりを歩いていく者として、草野という主人公は描かれているのだ。
物語の展開部では草野の身体性や、社会的立場がさらに詳しく描かれるようになる。開巻数ページでヘバーデン結節という単語が出てくることに気づく読者も多いだろう。お若い方には耳慣れない言葉かもしれないが、これは手指の第一関節が瘤状に膨れてくるという疾患で、四十代以上の女性で発症することが多い。これに限らず、非常に遅い歩みでやってくる不可逆の身体変化と、草野は嫌でも対面しなければならなくなる。こうした身体に関する意識が、先に挙げた心情の変化にどのような影響を与えるか、ということが話に起伏を与える。自由な遊びだったはずの花摘みという行為にも影が差してくるのである。
草野は出版社の中間管理職という立場だが、決して出世街道を走っているような社員ではない。女性であるがゆえの不利益を蒙っているからである。男女雇用機会均等法が施行されたのは一九八六年、第一世代として社会に出たのはさらに上の世代であろうが、草野が籍を置く会社は男性優位主義が支配する場所なのである。規模としては中小企業並みの出版社は、旧態依然とした過去の体制がしぶとく遺っていることが多いのだ。
こうした職場の空気も展開部では描かれていく。草野には二人の後輩社員がいる。一人は松岡という育ちの良さそうな女性である。ブランドものをさりげなく着こなす彼女を、製作部では二年半ほど先輩の池田という男性社員がからかいの対象にする。池田は先輩社員である草野に対しても不遜な態度を隠そうとはしないのである。オトコであるということにあぐらをかいているのだ。こうした男性の登場人物は、反響板として草野が自分の立場を確認するための役割で置かれている。同じ会社の人間ではないが、源太という大学時代の友人もそうした一人なので、彼との関係には少し注目して読んでみてもらいたい。
編集部にいる森潤子は、風貌から「女ライオン」の綽名がある女性で、離婚歴のあるシングルマザー、女性誌編集長として三十人の部下を束ねる立場だ。草野とはクサノ、モリジュンと呼び合う気のおけない間柄である。さりげなく出てくるが、このモリジュンが重要な役割を担わせられていることが小説の後半でわかってくる。彼女はもう一人の草野愉里子なのだ。草野とは同世代だが、彼女と違って社内で出世をしている。拭いがたい男性優位主義の中で辛酸を舐めながら這いあがってきたのだ。その過程では幾分かの妥協もあっただろうことが、最初の方の会話でも匂わされる。
モリジュンは自誌で医大のセクハラ事件を追及し、A子という女性に性行為を強要したB教授を辞職させた。その話を草野に語るうちに、こんなことを言う。
「だとしてもだよ。A子はいくら断りきれなくても、ホテルに行っちゃだめだったんだよ。三十過ぎてんだから、ホテルの部屋に行く危険性くらいわかってて当然でしょ」
初読のときは引っかかりつつも通りすぎていたが、今となってはこの台詞に作者が大きな意味を持たせていることがわかる。これは性暴力の被害者に対する自己責任論だからだ。性被害の報道がされると、必ずカウンターの意見としてこのような発言が行われる。ニュースショーでの発言であったり、SNSの放言であったり。作者はこの台詞を言わせることで、モリジュンがどのような立場から物事を考えているかをそれとなく示しているのだ。会社の中枢からは距離を置いた立場である草野は、モリジュンとは違った見方をする。
このように人物を配置して、草野愉里子がどのような環境で働いているかを示し、彼女の存在を輪郭で浮かび上がらせているわけだ。これは仕事小説のありようである。また違った側面が見えてきた。
長くなったが、ここまでが土台である。すべての要素が然るべき位置で準備を整えた後、物語は軽やかに滑り始める。進行は一本線ではなく、サブプロットが間に挟まる。たとえば、高校時代の友人で、今は専業主婦として家庭に入っている鷹山留都が思わぬ出会いをする話だとか、老齢になった父母の介護をめぐって妹の佐保子との関係が険悪になる話だとかがどんどん入ってくる。TVドラマで言えば、一クールで終わることが主流となった現在のそれではなく、一年を通じて放送されることが当たり前だった昭和期に制作されたもののように脇筋ができてくる。しかも単なる枝に終わらず、幹に当たる本筋に戻ってきてそれを膨らませるのに一役買うのである。
配置された登場人物もじっとはしていない。『今日の花を摘む』という小説の美点は、物語の前半と後半で、登場人物の印象が変化することである。中盤を過ぎたところで、社内で大きな事件が起きる。それにどう対処するかということが興味の中心となって後半部は推移するのだが、その中で思いがけない人物が成長を遂げる。誰かが変化するということは、その人物を反響板としている草野自身が変わっているということである。そうやって、人間関係の網目が一つひとつ改められていく。草野愉里子は現代を生きる女性のモデルなのだが、そうやって人間描写の精度が増すことにより、現実を生きる私たちにより近い、生命を持った存在になっていくのだ。
草野がもっとも深い関わりを持つのは、言うまでもなく万江島巽である。彼に対する視線も変化していく。ここが小説として最もおもしろい点で、深い敬愛の念を抱きつつも、彼は自分と違う男性性の持ち主であるため、草野の感情は揺れ動いていく。この万江島との関係にも立体的に描写を行うための存在として、一人の登場人物が配されているのだが、それが誰かということは書かずにおく。周到な人物配置に私は感心した。
書いても書いても書き切れない。最初に安易なレッテル貼りを拒む小説だと書いた。ジャンルに分類した時点で何かを切り捨ててしまうことになる。そういう理由もあるのだが、文章自体に味わうべき価値があり、その観点を外しては語れない小説だということもある。序盤で描かれる茶会の場面の豊かなこと。本作では愉里子をはじめとする登場人物たちが、場面場面でどのような衣服をまとっているかが重要な意味を持つ。描写によってその心中を表現しているわけだ。だからこそ筋書きを前に進めるための道具ではなく、文章そのものが味わうべき主菜となっている。
ある人物と会うとき、草野は自らの正装である着物に身を包んで出かけていった。その人物から呼び出されて再び赴いたとき、諸般の事情で疲弊しきっていたためにとても和装の支度をする気力がなく、ローヒールに黒のロングワンピースで妥協をする。相手からは「着物のほうが素敵かも」と言われても、気の利いた返しをすることもできないほど、疲れきっているのである。同じ場面で草野の対峙する相手がどのような姿をしているかは、ぜひお読みいただきたい。対比をこう書くのか、と感心させられるはずだから。
田中兆子のデビュー作は二〇一一年に「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞した短篇「べしみ」(二〇一四年刊『甘いお菓子は食べません』収録。現・新潮文庫)で、以降一貫して現代女性の姿を書き続けてきた。二〇二〇年に発表した連作短篇集『あとを継ぐひと』(現・光文社文庫)は、性別など明らかな権力勾配の存在を無視して成り立っている社会のありようを物語の皮膚で柔らかに表現することに成功しており、私はここで一皮むけたと感じた。『今日の花を摘む』の執筆はその直後から始まっており、田中にとっては初めての月刊誌長篇連載であった。すべてを注ぎこもうという作家の決意が見える一作であり、現代を描き切ろうという決意が行間から立ち上ってくる。それでいて柔らかく優美なのだ。現代に生きる人であれば、草野愉里子に魅了されずにはいられない。私も、あなたも。