柔らかで、しかしはっきりと互いの領域を隔てる境界線が、いまも俺たちの間には引かれている。
「だったら晴巳が野球部やめるって言ったとき、反対すれば良かったのに」
「あれは、わたしも賛成してたわけじゃないわよ。もったいないって思ったし」
だが、止めなかった。母親はあのとき「晴巳には晴巳の考えがあるのよ」と無条件に弟をかばっていた。俺が野球をやめてサッカーをすると宣言し父親に殴られたときは、まるで味方をしてくれなかったというのに。
いまさら恨み言を口にしそうになったとき、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
晴巳が戻ってきたのかと振り返ると、立っていたのは父親だった。いつも通りのしかめっ面で俺たちを見ると「廊下で何をしてる」と低い声で言う。
ただいまくらい言えよと思ったが、母親は気にした様子もなく「おかえりなさい」と父親の荷物を受け取り、かいがいしくスリッパまで用意する。
大の大人のくせに世話をされている父親にも、大の大人を世話している母親にもあきれる。この家の価値観は、平成よりさらに前の昭和で止まっているのではないか。
俺がうんざりしたとき、父親がスリッパに足を入れようとして、一瞬動きを止めた。空気がぴりりと張りつめる。
「晴巳はどうした」
どうやらあいつの靴がないことに気づいたらしい。普段、家族のことなんてたいして見ていないくせに、変なところでよく気がつく。
「晴巳はついさっき出かけたばかりで──」
「こんな時間にか? なんで止めない。母親なんだから、子どものしつけくらいしっかりしろ」
「そうですよね……ごめんなさい。でも晴巳にもきっと事情があるんじゃないかと」
「だからどうした。何があろうと、夜中に中学生を外に出していい理由なんかないだろうが。お前がそうやって甘やかすから、子どもたちがつけ上がるんだぞ」
最後は俺を見て言った。自分の父親ながら嫌味な男だ。
ろくに家にいない夫に偉そうに言われても、母親は怒るどころか「ごめんなさい」と、申し訳なさそうに頭を下げる。どう考えても反抗期の弟が悪いのに、母親は絶対に弟を悪く言わない。
なぜ弟だけを可愛がるのか。
自分と弟の何が違うのか。
幼い頃から感じていた、疑問の皮をかぶった不満。それを素直に口にできるほど俺はもう子どもではなく、黙って自室に向かうために階段を上がった。
飲みこみにくいものを無理に飲みこんだせいで、足音がひどくうるさく響いた。
***
お弁当を鞄にしまったその手で、購買で買ったメロンパンとプリン、苺大福を取り出し机に並べる。
高校に入学してから二週間。四月も後半になると、窓から差しこむ陽気も強くなってきた。すでにお腹はふくれていて、もう満足だと脳から信号が出ている。
眠気も呼ぶその信号を無視し、メロンパンの袋をバリッと開けてかじりつく。
甘い。口の中にまとわりついて飲みこみにくい。メロンパンは失敗だったかな。あんぱんよりは食べやすいと思ったのだけれど。
「相変わらず、よく食べるよねぇ」
向かいに座る美佑が感心したように言った。その言葉を待っていたくせに、わたしは「えー。普通じゃない?」なんて答えてみせる。
「どこが普通? 運動部男子並みに食べるじゃん。インドア天文部のくせに」
あきれたように言うのは芽衣沙。ふたりとも高校に入って仲良くなったクラスメイトだ。「その髪、超良い色じゃん」とふたりが声をかけてくれたのをきっかけに、よく一緒に過ごすようになった。
中学卒業と同時に髪をキャラメル色に染めて、こっそり開けていたピアスの穴も目立つくらいに増やした。親にはかなり怒られたけど、後悔はしていない。自分の外見が変われば変わるほど『吉川藍』という個を取り戻していくような気持ちになった。
「しかも大食いのくせに細いしねぇ。ダイエットとかしてないんでしょ?」
「うーん。たぶん太らない家系なんじゃないかな」
嘘だ。そんなことはない。少なくとも、わたしは食べれば食べたぶん、しっかり太る。
「やっぱり? 生徒会長もモデル体型だもんね」
「えっ。てか会長も藍みたいに大食いなの?」
「いや、お姉ちゃんはむしろ小食?」
「じゃあやっぱ藍がおかしいんじゃん!」
ふたりが笑う声に安心しながら、メロンパンをばくばく食べる。飲みこむたびに胃が苦しいと訴えるけど、紙パックのミルクティーを飲みながら、もう少しとなだめた。
「おかしいのはお姉ちゃんだって。あんなちょっとしか食べないで、どうして普通に生活できるんだろうっていつも思うもん」
「そりゃ会長は特別かもしれないけど、藍と比べれば誰でも小食じゃん」
「ねぇ、琴音。藍って中学のときからこうなの?」
美佑がわたしの隣に座る琴音に尋ねる。琴音はお弁当箱の横に広げた天文雑誌から目を離すことなく「どうだったかな」と気のない返事をする。
「最初はそうでもなかったけど、後半は結構食べてたような?」
琴音とは中一の頃からの付き合いなので、まずいことを言われるのではとヒヤヒヤした。天文以外にあまり興味がない子だから、返事もおざなりでほっとする。
「ほら、わたし成長期だから」
「あんたはいつまで成長すんの」
「身長止まってるのにそんなに食べたら、普通太るってぇ」
本当はダイエットしているだろうと、美佑と芽衣沙に詰め寄られる。
ダイエットは本当にしていない。ただ、食べたものが体に吸収される前に、吐き出しているだけだ。正直にそう言ったら、目の前のふたりはどんな顔をするだろうか。
「たくさん食べるのは良いことだね」
そのとき、どこか夢を見ているような柔らかな声が、会話に交じってきた。
ここ、地学実験室の窓際でひとりお昼ご飯を食べている、神崎先生だ。
目が隠れるほど伸びたぼさぼさの髪に、皺だらけの白衣を着た神崎先生は、わたしと琴音が所属する天文部の顧問だ。物理と地学の教諭で、見た目三十歳くらいの整った顔をしている。
でも浮世離れした雰囲気が強すぎて、イケメンともてはやされることがない、ちょっと変わった先生だ。いまも巨人が握ったのかという大きさのおにぎりを、ぼんやりとした顔で頬張っている。
「知ってるかな。月も星を食べるんだよ」
「センセー。月は星を食べないことくらい、うちらでもわかりまーす」
「普通科ナメすぎですよ、さすがに」
美佑と芽衣沙に文句を言われ、神崎先生はパチパチと瞬きする。
「物理的に食べるわけじゃなくて、比喩だよ。星を食べると書いて星食と読むんだ。月が背景の星を隠すことをそう言うんだよ」
「へぇ~。おっしゃれぇ」
『六惑星のパレード』は全4回で連日公開予定