週が明けて、俺は再び昼休みに教科棟の裏に来ていた。ボールを蹴りながら、ちらちらと窓に目をやっていたが、一向に吉川藍は現れない。
妙に残念に感じている自分がいて嫌になる。これではまるで、彼女が現れるのを待ち望んでいるみたいだ。
昼休みも終わりに近づき、練習を切り上げる。さっさと教室に戻ろうと踵を返したときだ。あのときと同じ、揺れるキャラメル色が廊下を駆け抜けていく姿がガラス越しに見えた。
気づいたときには、俺は渡り廊下から教科棟に入っていた。吉川藍が走っていった方向に向かうが、ひと気のない廊下に彼女の気配はない。
「どこに行った……?」
このままだと昼休みが終わる。諦めて戻るか考え始めたとき、声が聞こえた。
声をたどって廊下を進むと、女子トイレの入口が開きっぱなしになっていた。うめくような声は中から聞こえてくる。
「まじか」
さすがに中に入るのは気が引ける。出てくるまで待とうかと思ったが、ひどく苦しんでいるようで耐えられなくなった。
緊急事態だから仕方ない。誰にともなくそう言い訳をして、女子トイレの中に踏みこんだ。
声の主はすぐに見つかった。余裕がなかったのだろう。個室のドアも開きっぱなしにして、キャラメル色の髪の女子生徒が便器を抱えるようにうずくまっていた。
吉川藍が体を波打たせながら吐いている。聞こえていたのは、彼女の嘔吐く声だったらしい。
「おい。大丈夫か?」
俺が声をかけた瞬間、吉川藍は勢いよく振り返った。
血の気の失せた顔で、信じられないとばかりに俺を凝視する。
「あ、いや。怪しいもんじゃなくて。中からうめき声がしたから気になって入っただけで、覗きとかじゃ……」
「言わないで!」
しどろもどろな俺の言い訳を遮って、吉川藍は俺にすがりついてきた。
胃液のすえた匂いと、キャラメル色の髪から香る甘いシャンプーの香りが混じって、一瞬脳をかき混ぜられたようにくらりときた。
「お願い! いま見たこと、誰にも言わないで!」
「言わねぇよ、そんなの。でも大丈夫なのか? 先週もここで吐いてただろ」
「なんで知ってるの……?」
「教科棟に駆けこむとこ見たからだよ。言っとくけど、誰にも話してないからな」
吉川藍はしばらく黙ったが、やがて気が抜けたように俺から腕を離した。
よく見ると、彼女の頬には泣いた跡がある。吐くときの生理的な涙だろうか。先週涙を拭っていたように見えたのも、こういうことだったらしい。
頻繁に吐いているのか。何か病気なのだろうか。気になるが、初対面であれこれ聞くのもどうかと思い、黙って彼女の様子を観察する。
俺から見ればかなり痩せているが、病的かと言われるとそこまでではない。血の気が戻ってきた顔は、化粧は濃い目だが肌の張りなんかは健康的だ。
改めて正面から見た吉川藍は、整った顔をしていた。あの華やかな顔立ちの姉と並ぶから色々言われるのだろう。妹も不自然なまでに濃い化粧を落とせば、清涼感のある美人に違いない。
少なくとも、俺は目の前の妹のほうが綺麗だと思った。
「あー、そうだ。保健室! 保健室に行かなくていいのか?」
「……大丈夫。自分で吐いただけだから」
疲れたように言いながら、彼女は便器の水を流した。しっかり証拠を隠滅するために、確認するような手つきだった。
「自分で吐いた?」
「そう。こう、口に指を突っこんで」
人差し指を口に入れるふりをした吉川藍に絶句する。自分で吐くなんて、一体なぜそんな真似をするのか。
だが俺が理由を尋ねる前に、彼女は「じゃあ、ごめんね」と逃げるように立ち去ってしまった。
何がごめんなのかわからないまま、俺はキャラメル色の髪が廊下に消えるのをぼう然と見送った。
その日、部活のあとに自主練をした俺が家に着いたときには夜の九時を回っていた。
重い体を引きずりながら玄関のドアノブに手をかけようとしたとき、中から勢いよく扉が開かれ危うくぶつかりかける。
「あっぶねぇな!」
中から飛び出してきたのは、デニムにTシャツ姿のがたいの良い男だ。夜でも眩しい金色の頭で、弟だとすぐにわかる。
弟は一瞬振り返ったが、ひとつ舌打ちしただけで止まることなく駆けて行った。
相変わらず可愛げのない態度だ。最近、色気づいた弟がつけ始めた香水の匂いが、強くその場に残った。
「ちょっと! 待ちなさい晴巳!」
家の中から母の怒鳴り声が聞こえ、やれやれと俺は玄関を覗きこむ。
「何。どうしたの」
「斗也、ちょうど良かった! 晴巳を追いかけて、連れ戻して」
「なんで? 無理だろ。追いついたとしても、あいつもう俺とほとんど体格変わらないし」
「だってあの子、まだ中学生なのよ? こんな時間に出かけるなんて、何かあったらどうするの」
イライラしている母に白けた目を向け、スニーカーを脱ぐ。校庭から連れてきた砂が、靴の中でじゃりっと不快な音を立てた。
「何かって、何があるって言うんだよ。男だし、もう成人並みにでかいのに」
「体が大きくなっても、まだ子どもよ。お兄ちゃんなのに弟が心配じゃないの?」
「別に。誰かに迷惑かけてないなら、いいんじゃないの」
口ではそう言いながらも、実際のところ、中学生が遅くに出歩くことは俺も良くは思っていない。理解のある兄のふりをして、いつかの罪悪感から逃げているだけだ。
「わからないじゃない。あの子、野球やめてからどんどん派手になって、帰りも遅いし。悪い輩と付き合ってるんじゃないかしら」
「悪い輩って」
確かに、ひとつ下の弟の晴巳は、去年の暮れに中学の野球部をやめてから随分変わった。耳にいくつもピアスの穴を開け、伸ばした髪を脱色し、着々と不良のお手本といった容貌になっていった。そろそろタトゥーのひとつでも入れてくるのではと思っている。
わかりやすい当てつけだ。高圧的な父親への反発。そのアピールのひとつが外見だったというだけ。俺とはまた違う反発の仕方だった。
親への反発として校則を破るという発想が俺にはなく、弟の金に光る髪を見るたび、腹が立つほど眩しく感じた。
「俺だって中学の頃から、かなり帰りが遅かったけどな」
「斗也の場合は違ったでしょ? 野球の練習だったんだから、仕方ないわ」
「仕方ない、ね」
帰宅が遅いことに変わりはない。だが理由が違うだけで、母は俺の心配など少しもしていなかった。
野球の練習だから仕方ない。夫が黙認するのだから仕方ない。
仕方ない。そのひとことが、常に俺と母親を隔てるカーテンになっていた。開こうと思えば簡単に開けるのに、母親はカーテンに手をかけることもない。
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