準備期間も必要だし、職場やバイト先に休みを申請することなどを考慮して、出発は一週間後となった。
無人島に行くことは他言無用で全員一致した。知られたら他の人も興味を持ち、行きたいと言い出すに決まっている。こんな美味しい話は帰ってくるまで取っておくに限るのだ。
この一週間は莉々子も準備に張り切っていたので、珍しくデートの誘いはなかった。僕もわくわくしながらアイテムをそろえた。期間は一泊二日、長くても二泊三日だろうと算段する。
まずは豚バラのブロック肉を買ってタレにつけこみ、真空パックにして低温調理でじっくり火を通した。裂きやすいように、表面に切り込みを入れておいたから完璧だ。エアマットレスは、寝袋と一体型の商品を見つけた。広げれば自動で膨らみ、しかも枕もくっついているので、本来ならマットレス、ブランケット、枕、と三アイテム消化してしまうところ、ひとつで済む。これがあれば横たわるだけでなく、日差しを遮ったり、寒さをしのいだりできるだろう。
前日は遠足前の子供のように眠れず、だけど睡眠をとっておかないとクルーザーでは酔うと聞いていたので、寝酒を飲んでなんとか眠った。
いよいよ迎えた当日の早朝――
待ち合わせのバーに現れたのは、いつも夜に飲んだくれている面々とは違った、健全で、浮足だった大人たちだった。いつもはネクタイに背広姿の吉田はウェットスーツだし、川上は釣りベスト姿、五木は迷彩服だ。天野医師に至っては服装こそシンプルなポロシャツなものの、首からは双眼鏡、右手に山崎25年の瓶、左手には丸ごとローストしたというラム肉の半身を持っていて、ひときわ異彩を放っていた。常連たちの、いつもとは違う素顔を見た気がする。
「あとは莉々子ちゃんだけだね」
マスターがのんびりと言ったとき、カウベルが鳴ってドアが開いた。みんながそちらを向き、一瞬で固まる。
莉々子のファッションは、いつもと変わらなかった――いや、張り切っている分、さらにひどい。髪は縦ロールにしっかり巻かれ、まつげも改めてエクステに行ったのだろう、ばっさばさの羽のようだ。ネイルも長く、きらきらしたストーンもついていて、とてもじゃないがアウトドア向きではない。ぴらぴらのフリルのついたピンクのパーカーに、ラインストーンのついたTシャツ、そしてフリルレースのついたデニムのショートパンツだった。いや、まだここまではいい。無人島をリゾート地だと勘違いして、それっぽい服を選んだんだろう、と無理やり納得はできる。だけどハイヒールのミュールってどういうことだ。しかも素足じゃないか。
「どしたの?」
莉々子が可愛らしく首を傾げる。唇がてかてかしている。ピアスも、両耳十個の穴にじゃらじゃらとついている。ネックレス、ブレスレット、チェーンベルト……ああ、もう見ないことにしよう。
「サンダルはいいけど、なんというか、五センチくらいありそうなヒールは、ちょっとどうかなあって」
「九・五センチよ。チャンキーヒールなのがお洒落でしょ」
莉々子は自慢げだ。
「そっか……とっても可愛いし、よく似合ってる」
「でしょう?」
「だけど、歩きにくいよね。砂浜はもちろん、岩場もあるだろうし。どうかな、みんなには悪いけど少し待ってもらって、今から靴だけでも買い直し――」
「何言ってるの、だーいじょうぶだよぉー」
やはり莉々子も気持ちが高ぶっているのか、いつもよりハイトーンボイスだ。
「あたし歩かないもん。危ないところは修ちゃんがお姫様抱っこしてくれるわけだし。っていうか、このミュールは絶対に傷つけられないから。ヴィトンの新作だもん」
頭が真っ白になった。またもや、みんなの同情と呆れの混じった視線が突き刺さる。まあいい。数日のしんぼうだ。
「そうだよね。莉々子は歩く必要ないから」
馬鹿にするならしろよ。こんなおべんちゃらで、年収二千万円もらえるんだ。豪邸も車ももらえる。一生安泰。君たちだって、上司にはおべっか使うよな。客にはぺこぺこヘラヘラするよな。僕はその相手が、莉々子っていうだけだ。
「さあ、揃ったし、出発しようよ」
マスターが手をたたいた。みんなでバーを出て、裏手の駐車場に向かう。そこにはグレーのハイエースが止まっていた。
「あ、これ、十四人乗りのやつ。うちの塾でも送迎に使ってる。でも中型免許いるよね。マスター、持ってるの?」
「おととしくらいに取ったんだ。バーなんてやってると夜しか活動しないじゃん? 昼間になにか建設的なことしたくてさ、教習所通っちゃった」
「すげー。場末のバーのおっさんだと思ってたけど、マスター、なかなかやるじゃん」
「なんだよそれ。褒められてんの、けなされてんの」
みんなで笑いながら荷物を積んだ。九人もいるのに、荷物を三つに制限しているおかげで、車内のスペースには余裕があった。末広のポケットバイクも問題なく収まっている。
「では、出発しんこーう!」
マスターの陽気なかけ声が、車内に響く。テンションMAXの大人たちも「しんこーう!」と合唱する。道中ではおしゃべりに興じる者、車内テレビを観る者、眠る者など思い思いに過ごす。由宇は、「はい、由宇チューブチャンネルでっす! 今日はなんとこれから無人島へ行きます! メンバーはこの九名です」とぐるっとカメラレンズで車内全体を撮っていた。「あ、もちろん帰ってくるまで配信しませんよ。あと顔にはモザイクかけるんでご心配なく」と言い添える。録画が続く中、隣の席の莉々子は日焼け止めをせっせと塗っている。まあとりあえずは楽しもう、と心に決めて、僕は窓の外を見た。
そこから二時間ほど走った先の港には、青空の下、ヨットやクルーザーがずらりと係留されていた。壮観だった。レンタルもあるが、個人所有も多いらしい。不景気なんてどこ吹く風、いつの時代にも金持ちはちゃんといるのだ。
「莉々子のおやじさんも、クルーザーの一隻や二隻、持ってそうじゃない?」
ふと尋ねるが、莉々子は笑って首を振る。
「持ってないよ」
「さすがにお金がかかりすぎる?」
「じゃなくてうちの家族、海に興味がないの。飛行機なら持ってるよ。四人乗りだけど」
さいですか。やはり住む世界が違う。が、僕だってもうすぐ、そちら側の人間になれるのだ。
「さあ乗って乗って」
まぶしいほど白いクルーザーに先に乗り込み、マスターが手招きする。
「アイアイ、キャプテン!」
お調子者の由宇がおどけながら、自撮りしつつ乗り込んでいく。僕たちもあとに続いた。
「ちょっと待って、これもマスターが操縦すんの!?」
五木がすっとんきょうな声を上げる。
「まあね」
「すごくない? 車の中型免許までは、まあ理解できる。でも船舶免許までっていうと、やばい」
「相続したからには、そりゃあ乗ってみたいって思うじゃん」
マスターが笑う。たまたま家の近所にあるアイランドに通い始めて一年が経つが、そういえばマスターのことはあまり知らない。
「これも相続? マスターってセレブだったんだ」
「そんなことないんだよ、本当に。船舶免許だって難しいわけじゃないし、費用だってそこまでかかるわけじゃない。それに初めて行った時、クルーザー借りて操縦士を手配したらすごい金がかかったからさ。だったら自分でって思うじゃん」
「でもクルーザーの係留代も、結構するでしょ」
「まあねえ。でもそれも遺産のなかから勝手に引き落とされてるから」
「えーまじで。やっぱセレブだよ。うらぶれたマスターだと思ってたのに」
「さっきよりひどくなってるじゃん」
またみんなで大笑いする。ふと見ると、莉々子はつまらなそうに海を眺めている。いくらマスターに多少の遺産があろうと、莉々子の生まれ育った環境にはかなわないだろう。莉々子こそ、本物のセレブだ。
クルーザーは二階建てで、上のフロアに操舵室があった。操舵席をコの字に囲むようにソファ席があり、みんなでそこに座った。すがすがしい朝陽の下、舵輪を握るマスターはカッコよかった。
エンジンがかかり、いよいよ海上に滑り出す。港を抜けると、あっという間に大海原が広がった。潮風が気持ちいい。サングラス越しでも、輝く海と透き通る青空は感動的だった。
が、そこまでだった。海から突き上げてくる揺れに、気持ち悪くなり、吐き気が襲ってくる。川上と吉田は慣れているのだろう、へっちゃらな顔をして海を眺めていた。
「その階段を下りたらキャビンになってるから、横になりなよ。大きなソファと、ベッドも五つくらいある」
川上と吉田を残して、六人で階段を下りる。ラグジュアリーなリビングルームで、冷蔵庫やキッチンもあった。その奥には三つのベッドルーム、そしてシャワーとトイレもある。
しゃれたバーカウンターもあり、いつもの僕たちなら置いてある酒を吟味するんだろうけど、船酔いには勝てない。六名はソファとベッドに倒れこみ、莉々子と僕はダブルベッドに寝転んだ。
あまりの気持ち悪さにぐったりし、いつの間にか眠っていたらしい。みんな、着いたよー、と揺り起こされた時にキャビン内の壁時計を見ると、午後三時となっていた。六時間も乗っていたのか。エンジン音はすでに消えており、ゆったりとした波に合わせて船が揺れる。
寝ていた者たちは緩慢な動きで起き上がり、だらだらとキャビンを出る。しかし外に出たとたん目にした景色に、だるさなど吹き飛ばされた。
どこまでも透き通った、エメラルドグリーンの海。水底に揺らめく白い砂は、島に近づくにつれて浅くなっていき、ふかふかの砂浜へとつながっている。そして砂浜の向こうには青々とした木々がそよいでいた。
「まじかー」
五木が涙ぐんでいる。わかる。無理もない。これは僕たちが――いや、全人類が思い描く理想的な無人島そのものだった。僕たち九人は今、夢と対峙しているわけだ。
「一分でも時間がもったいない! それ!」
ウエットスーツを着た吉田が、シュノーケリングマスクとフィンをつけ、ローストビーフを持った片手だけあげながら、ざぶんと飛び込む。彼は一足先に砂浜へ上がり、枯れた木や枝が重なったエリアに肉を置くと、走ってまた海に飛び込んだ。
「すげー!」時折顔を上げて、彼が叫ぶ。「浅いところでもめっちゃきれいで気持ちがいい! 次は絶対、酸素ボンベ一式持ってくる!」
「じゃあ僕も」と川上が続き、由宇も末広も天野医師も海に飛び込んでいく。船着き場があるわけではないので、係留したところから海に入って浜に上がるしかない。みんなを見ていると、男性の中で一番小柄な川上でも肩から上が出るくらいの深さのようだ。僕なら胸から上が出るだろう。身長百六十センチの莉々子にとってはぎりぎりか。
「修一くんと莉々子ちゃんも降りなよ。みんなはテンション上がって飛び込んでたけど、ちゃんと梯子あるから」
マスターが言う。
「行こう、莉々子。僕が先に降りるから」
片手に荷物を持ち、船体に取り付けられた梯子を下り、そっと足を海水につける。気持ちいい! 梯子から手を離すと、ふわりと着地した。アクアシューズ越しでも砂の柔らかさを感じる。思わずそのまま片手泳ぎで砂浜まで泳いだ。マットレスなど荷物を置く。
「おいでよ莉々子。最高だよ!」
手招きしたが、莉々子は両腕を組んで、ふてくされたように立っている。
「んもう! すぐ下で待っててくれないとだめじゃん!」
そうだった。僕は彼女を運ばなくてはならないのだ。
「そんなに深くないから、両手にミュールを持って、高く上げたまま歩けば大丈夫だよ。服はすぐ乾くって」
「そんなダサいこと修ちゃんの前でできるわけないでしょ。ほら、早く」
僕に好きでいてほしくてのことなら、自分の足で砂浜まで来てくれた方がありがたい。けれどもそんなこと言えるはずもなく、僕は梯子の下まで戻った。莉々子の白くて細い足が、目の前に下りてくる。ヒールがあぶなっかしい。最下段に足を乗せたまましゃがませ、片方の脇下に僕の左腕をすべりこませる。それから曲げた両足の下に右腕を入れると、うまいことお姫様抱っこになった。
「絶対にあたしもヴィトンも一滴も濡らさないでよ。泣いちゃうからね」
海でのお姫様抱っこが嬉しいのか、足を強くぶらぶらさせる。バランスを崩しそうになるが、ミュールを濡らすと面倒なことになりそうなので、なんとか耐えた。
砂浜につくと、「そのまましゃがんで」と莉々子が言った。僕が砂に膝をつくと、抱っこされた状態のまま、自分の手でミュールを脱ぎ、きれいにペディキュアされた素足で砂浜に立つ。
「わー、さらさら! 気持ちい!」
片手にミュールを持ち、くるりと回る。多分彼女の脳内では、グラビア撮影会が行われている。
とりあえず、ここまで無事に来られればこっちのものだ。僕は木陰の下にエアマットレスを広げる。ひとりでにむくむくと膨らんだマットレスの上に、早速靴をけり脱いで大の字になる。それから持ってきたチャーシューの塊に、豪快にかぶりついた。ああ、これこれ。このために来たんだ。
由宇の動画撮影だろう、ハイテンションの声が聞こえた。川上は釣り、天野医師は昼間の星観察、五木は模造刀で素振りをしている。
「あーほんと、天国みたいね」
脳内グラビア撮影を終えた莉々子が、隣に寝転んできた。
のんびりした後、砂浜を散歩したり、川上の釣果を見て感心したり、由宇の動画撮影の背景にピースサインで映り込んだりしているうちに、夜のとばりがゆっくり降りてきた。
「マスター、招待してくれてありがとう」
砂浜であぐらをかき、ボウモアのボトルを片手にビーフジャーキーをしゃぶっているマスターに改めて言った。
「ほんとに最高です。大人になってから、こんなに楽しいことが起こるなんて思ってませんでしたよ」
天野医師もマスターの隣に腰掛け、裂いたラム肉をつまみに山崎25年を飲みながらしみじみする。
「俺もです」「僕も。夢が叶った」「ほんまにええ思い出ができた」
みな口々に礼を言った。
「楽しんでもらえたのなら甲斐があったよ。こちらこそ来てくれてありがとう。あ、そうだ」
マスターが、がさごそと脇に置いてある袋を探った。
「ちょっと反則なんだけど、乾杯用に、クルーザーのバーから酒を持ってきたんだ。自分でルールを采配してたくせに、自分で破っちゃダメかな」
「全然ええやん。なあ?」
「もちろん! 乾杯は別腹っス」
「いや、それ意味違うし」
「ていうかマスターはルールフリーでいいんだよ。ホストなんだから」
「そうそう」
また大笑いする。マスターが心底嬉しそうに、ひとりひとりにカップ酒を渡した。
「いいねえ。無人島で飲む日本酒も最高だ」
五木は嬉しそうにふたを開ける。
「では最高の夜に、かんぱーい!」
満天の星の下、ガラスがにぎやかにかち合う音が響いた。
それからどれくらいの時間がたったんだろう。突然、悲鳴が耳をつんざいた。
反射的に起き上がると、水平線に太陽が顔をのぞかせるところだった。光が放射状に空に広がり、息をのむほど神々しい。
いつの間にかぐっすり眠ってしまっていたようだ。隣では莉々子が寝息を立てている。今のは誰の悲鳴だろう。どこからだろう。
マットレスが揺れないように下り、寝ぼけ眼で歩く。と、遠くに数人が集まって沖を見つめているのが目に入った。
「おはようございまーす!」
思い切り叫んで、アピールするように両腕を大きく振った。
しかし誰も僕を見ない。ただじっと沖を見ている。神々しい景色に魅せられているのだろうか。
「おはよっス。どうしたんスか?」
寝ぐせ頭の末広が、木陰からのっそり這い出てきた。
「いや、わかんないんだ」
「でも悲鳴が聞こえませんでした?」
「やっぱり? 気のせいじゃなかったんだ」
「あー腹減りましたね」
「だな。お互い、あんまり食い物持ってこな――」
僕の言葉を末広の叫び声が遮った。
「どうしたの」
「あ……あれ……」
震える手で、沖を指さす。そこには厳かな朝陽以外は何もない。
「なんだよ。なにもないじゃないか」
「そうなんスよ。なにもないんス」
「じゃあ別に問題――」
そこでハッと気が付く。何もない。それが、それこそが、大問題じゃないか。
僕と末広は慌てて、立ち尽くしている仲間の元へ走り寄った。
「ク……クルーザーは……?」
僕の言葉に、吉田が、やっとゆっくりとこちらを向いた。その両目はぽっかりとあいた空洞のようだった。
「……ない」
彼はかすれた声で言った。
「ないって、そんな、じゃあ……」
帰れない。
寒気が背中を駆け上る。全身に鳥肌が立ち、その場にくずおれた。
水面が朝陽を反射してダイヤモンドをちりばめたように輝く。しかし取り残された今、それらの輝きは自分たちに襲い掛かろうとする、鋭い牙のぎらつきに見えた。
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