祖父母に支えられて教師となった僕は、二十九歳の春、ある出来事をきっかけに職を辞し、夜勤の警備員として静かに暮らしていた。そんなある日、巡回中の商業施設で、小学生の少女がおばあさんのかばんを盗む場面を目撃してしまい……。
本屋大賞第二位のベストセラー『ひと』の著者が送る、ひとりで頑張ってしまう人への応援歌『君に光射す』の読みどころを大矢博子さんの解説でご紹介します。

■『君に光射す』小野寺史宜 /大矢博子[評]
小野寺史宜の作品にスーパーヒーローは登場しない。
異世界に転生もしないし、古い因習の残る名家で殺人事件に巻き込まれたりもしない。海賊王や国宝を目指したりもしない。
小野寺史宜が描くのは、ごく普通の人々だ。どこにでもいる、あなたや私の身近にもいる、ともすればあなたや私自身もそうであるような、二百年も経てば「名もなき市井の人々」で括られてしまうであろう普通の人。
だが普通にも濃淡がある。グラデーションがある。名もなき人にも、ひとりひとり違う名前がある。
それを小野寺史宜は拾い上げる。名もなき人に、それぞれ名前があることを掬い上げる。そのひとりひとりの何が違うのか、数字や理論などでは表現できないその違いを、思いを、影響を、小野寺史宜は肌感覚で捉え、私たちの心に直接伝えてくる。小野寺史宜の小説がどれも抵抗なく心に浸透するのは、私たちが日々、生活の中で肌で感じている些細なことや、ともすれば感じていることにすら気づかなかったようなことを、丁寧に言葉にしてくれるからだ。そう、そういうことなのよ、とか、ああ、そういうことだったのか、と頷いてしまうからだ。
本書『君に光射す』もまた、そんな普通の人の物語だ。だが今回、そこに著者は「助ける人」という性格を加えた。この「助ける」がキーワードだ。
語り手の「僕」こと石村圭斗は、母親の育児放棄の末に祖父母に育てられた。大学卒業後は小学校の教師として数年勤めたが、ある事情で退職。三十二歳の今は都内の商業ビルで警備員の仕事をしている。
ある日圭斗はそのビル内のゲームセンターで、置き引きをしようとしている小学生の少女を見つけた。捕まえるのは簡単だが、その臭いから少女がお風呂や洗濯といったケアをされていない状況であることを察し、盗もうとしたのではなく落とし主を探していたという体裁にしてその場をおさめた。だが後日、客として訪れた別の商業施設で、その少女が同じことをしようとしているのを目にしてしまい……。
物語はここから、警備員として働く現在と、小学校の教師だった時代の話が並行して語られ、回想として子ども時代の話が入る。帰って来ない母を待つ日々だった小学生の頃。金銭的な迷惑をかけないようにしていた祖父母との暮らし。資格をとって自立するために選んだ教師という進路は、幸運にも彼にとって「大変だけど楽しい」と感じられるものだった。
と、あらすじをまとめると、不幸な少年時代をバネに幸せをつかんだ青年の感動物語だと感じられるかもしれない。だが実際に読むと、不思議とそういうふうには思えない。なぜか。淡々とした筆致のせいだ。
本書の大きな特徴は、一人称で主人公の心の中がつぶさに語られるにもかかわらず、感情を昂らせるような場面が──特に誰かを責めるような負の感情の昂りがまったくない、ということである。いや、簡単に言っているけれども、これはかなり難しいことだ。感情が凪いでいる主人公で物語を動かし、読者の感情を動かさねばならないのだから。
だがそれを可能にするのが小野寺史宜なのである。
一週間も母が帰って来ず、ガスが止められた中にひとりでいたという小学校時代の経験と、教師になって小学生たちとハンカチ落としを楽しんだという話と、置き引き未遂の少女を気に掛ける話と、マッチングアプリで知り合った女性と一緒に飲んでいるときの会話が、すべてほぼ同じトーンで語られる。ところがこの淡々とした筆致が続くにつれて、圭斗はそういう人なのだということが次第にわかってくるのが読みどころ。
本書には辛いできごとや困った目に遭っている人が複数登場するが、圭斗はそのいずれに対してもただ静かに考え、選択し、行動する。目の前のことに誠実で、足掻いたり抵抗したりしない。無理もしない。けれど自分が誰かを助けることができるのなら、そうする。
辛い境遇にある少女を気にする。同僚が困っていたらつい助け船を出してしまう。教師を辞めるきっかけになったのも人助けが理由だった。それで自分に不利益が降りかかっても、自分で選んだことなのだから後悔はしない。「後悔しないぞ!」と強く思うのではなく、最初から気にしていない。何かを決めて動くことに気負いがないのだ。
決してヒーローらしくはない。たとえば虐待の現場を通りかかったら、子どもを守るため後先考えずに踏み込もうとする主人公が小説には多いように思うし、それによって物語が動くものだ。だが圭斗はそうしない。彼の選択は極めて普通の、現実的なものだ。ただとても誠実な「普通」だ。ところがそれに引き込まれる。
ドラマティックではない「普通」の選択に、なぜこうも引き込まれるのだろうか。それは読者が石村圭斗という主人公を、いつの間にかとても身近な人のように感じてしまうからだ。彼がまるで本当に実在しているかのように、その人となりを理解してしまうからだ。読者にそう思わせるのは、圭斗の生活が丁寧に描写されているからに他ならない。
たとえば序盤、警備の夜勤を終えて建物を出てから自宅に帰り着くまで、徒歩十分の道のり。その十分を、著者は七ページかけて描いている。カラスが生ゴミを漁っているのを見て、カラスについて思いを巡らす。コンビニに寄ってたまごサラダロールを買う。マンションのドアの脇の壁に昨日の朝からいる大きなバッタがまだいるのを見て驚く。そこから立哨の仕事に思いを馳せる。財布から鍵を取り出そうとして小銭を落とし、財布の使い勝手について考える。
何か事件が起きるわけでも、後につながる大きな伏線が仕込まれているわけでもない、ただの帰り道の描写である。職場を出たら一行開けて自宅の場面に移っても小説の展開としては何の問題もないのに、著者はそこに七ページ費やす。それによって石村圭斗という人物の確かな生活が浮かんでくる。自分と同じように、町を行く多くの人と同じように、この社会で彼が生きていると感じる。
マッチングアプリで知り合って飲み友達になった果子との会話もそうだ。注文の手順や会話の受け答えのひとつひとつが実によくある日常の風景だ。仕事の話や自分の話は、本当にどこにでもあるような会話なのに、彼らの性格が見えてずっと読んでいられる。万引きを目にしたときの行動然り。眼鏡を作っていきなり世界がクリアになり、いろんな景色や標識を確認しながら歩く様子然り。踏み台を買いに行って、ホワイトとグレーとブラウンがあったらグレーを選ぶ。そういった、直接物語とは関係のないリアルで細やかな生活感が、石村圭斗という人物の輪郭を作っていく。そこにいるように感じさせる。こういうことを考えて、こういうふうに行動する人なんだと、いつの間にか知ってしまっている。こういう人だ、と肌感覚でわかるのだ。
それが小野寺史宜の文章でありテクニックなのである。本書に限らず、小野寺史宜の人物描写はそのまま生活描写と言い換えることができる。生活している、というリアリティが、その人をその人たらしめるのである。これはすごいことだ。
だからこそ。石村圭斗がどんな人物かがはっきり伝わってくるからこそ、いい青年だなあと思うと同時に、寂しくも感じられるのである。
本当に助けが必要なのは圭斗ではないのか。帰って来ない母を待っていた小学生の圭斗。祖父母に引き取られ、いとこに気を遣ってサッカー部をあきらめた中学生の圭斗。お金のことを考えて祖父母宅から通える国立大学を選んだ圭斗。人を助けたばかりに教師という職を辞める決意をした圭斗。その自覚はないにせよ、本当はあなたこそが助けられるべき存在なのではないか。
それゆえに、終盤の展開には胸が熱くなった。彼のこれまでの誠実な選択の数々は、決して間違っていなかった。そんな彼をこっそり助けてきた人や、これから助けたいと思っている人が、確かにいるとわかるのである。なんと希望に満ちた物語だろう。どうかじっくり味わっていただきたい。
圭斗のような人は、きっとたくさんいる。辛い現実を受け入れて、その上で人のために動くような優しい人たちは、たくさんいる。これはそんなあなたへの応援歌であり、あなたを助けたいと思っている人も必ずいるんだよと伝えてくれる物語なのだ。報われなさに心が折れそうになったとき、手にとってほしい一冊である。
自分もまた、そういう、人を助ける側でありたい、とごく自然に思った。圭斗は漫画に出てくるような熱いヒーローではないが、上等な人間なのだ。彼のようにとはいかなくても、今より少しでも上等になりたいと、素直に感じさせてくれた。小野寺史宜の小説にはそんな力がある。
自分はヒーローにはなれない。でも今より少し「いい人」にはなれるかもしれない。その方法を、最後の四行が教えてくれる。いつまでも心に刻んでおきたいラストシーンである。