きれいな手

 

 

 

 子供はみんな、旅暮らしに憧れている。

 旅の空の下にあるのは、知らない景色に知らない人々、知らない木々や鳥や獣や風や花。

 それらはきっと、自分たちの想像が追いつかないほどの魅力に満ちているのだと、小さな胸は夢想するのだ。

 その気持ちは理解できる。英邁えいまいなる〈太陽の君〉のおかげで、飢饉や大規模な騒乱は、遠い昔話か、遥かな異国からの嘘ともまことともつかない噂話に過ぎないものになっている。

 その結果、町でも村でも谷間の小さな集落でも、子供たちは、背と腹がくっつくほどの飢えを経験することがない。明日生きる糧をどう手に入れようかと、おとなたちが深刻に相談するのを盗み聞いて、不安に眠れぬ夜を過ごすことも、ましてや人がばたばたと死んでいくさまを見ることもない。

 そうなると、彼らの何よりの不満は、退屈となる。

 日々に飽き飽きしているというわけではない。子供といえども、毎日は忙しく過ぎていく。親を手伝い、弟妹の世話をし、少しでも時間があけば遊びまわり、夜は疲れきってぐっすり眠る。

 けれども、ふと気づけば、すべては同じことの繰り返しだ。春の訪れに歓声をあげたり、行く秋を惜しんで感慨にふけったりしてみても、一年経てばまた同じ季節がやってきて、同じ花が咲き、同じ作物がとれる。町や村や小さな集落にはそれぞれに、日常をはなれる機会となる祭りなどの行事があるものの、何度か経験するうちに、それもまた大きな日常の一部に変わる。そうして、兄や姉の婚姻を見、父や母の髪に白いものが交じりはじめるのに気づき、皺だらけの老人が歯のない口で小言を垂れるのを聞くうちに、自分の一生がすべてわかった気がしてしまう。

 なにしろ、町でも村でも谷間の小さな集落でも、ほとんどの者は生まれた土地をはなれることなく生涯を終える。同じ土地では、真に新しいことは期待できない。

 だから彼らは夢想するのだ。知らない景色、知らない人々、知らない木々や鳥や獣や風や花を。

 そして、そんなものが次々に現れる旅暮らしに憧れる。

 

 まあ、本人たちは、そんなややこしいことを考えてはいないだろう。そもそも、生地せいちに閉じ込められていることや、その退屈さを自覚してもいないはず。これらは私の深読みだ。私たちの一行が最後の下り坂にさしかかったとたん、谷底にある平地の端にわらわらと現れ、両手を大きく振りはじめた少年少女らを見て、私の頭に勝手に湧き上がってきた推測だ。

 子供らのはしゃぐ姿を目にしたなら、微笑ましいとだけ思っていればいいものを、こういうよけいな思索をめぐらせてしまう性分だから、私は、ここにいる。土ぼこりにまみれ、汗をかき、足を棒にして。

 待ちきれなくなったのか、子供らが坂道を駆け上がりだした。ロバ二頭と荷車二台に八人の男女というごく小規模な一座を、まるで国いちばんの芸能集団かのごとく歓迎してくれる。だから私は、子供が好きだ。

 彼らは、先頭のロバの鼻息がかかりそうなところまで来ると、臆したのか向きを変え、先導するようにぞろぞろと坂をくだりはじめた。無言のまま、ちらちらと振り返って私たちをながめては、仲間内で目を見交わす。

「おまえたち、そこの谷から来たのか」

 後ろのロバの頭絡とうらくを握るフィッツ・ローが、陽気に声をかけた。訊くまでもないことだが、こういう問いなら、人見知りの子供たちにも答えやすい。

「そうだよ」という小声があがり、「おじさんたち、どんな芸をみせてくれるの」と、もう少し大きな声ながら、控え目な調子の問いがつづいた。

「それは、見てのお楽しみだ」

「いつから始まるの」

「明日かな、あさってかな。役場に着いて、おまえたちのお父さん連中と話してみるまで、わからないな」

「おじさんたち、どこから来たの」

「あの箱には、何が入ってるの」

「空を飛べる人がいるって、ほんとう」

 フィッツ・ローの笑い混じりのだみ声に緊張を解かれたようで、次々に質問が飛びはじめた。歩きながらぴょんぴょん跳ねて、二台目の車の上の大きな木箱をのぞこうとする子もいる。中からゴトゴトと、荷車の揺れと関係のない音がするのが気になるのだろう。

 フィッツはもう、いちいち答えることをせずに、「さあな」「どうかな」と笑っていた。

 

 谷底には、大ぶりな木造家屋が十数軒、火事が起こったときの延焼を防ぐためか、やや間隔をあけて立っていた。そのまわりを果樹林とささやかな畑が取り囲み、それで平地は尽きている。

 このちんまりとした地面を包み込む斜面は、まるで天から降りてきた手によって塗り分けられでもしたように、方向によって景観を異にしている。

 私たちがくだりおえようとしている坂の向かい、日当たりのいい北斜面は、かなり上の方までが日向ひなたびえの畑となっており、立ち働く人影がいくつも見えた。この穀物は、日当たりさえよければ痩せた土地でもよく実るが、植え付けから収穫まで、つねに人手を要するのだ。

 左手の、朝日がよく当たる西側の斜面は、手入れの行き届いた雑木林だった。あの木々の下でも人々が働いているのだろうが、濃い緑が覆い隠している。

 右手は白っぽい岩肌がむき出しの急坂だ。ことに上半分は道もつくれぬ絶壁だが、下の方はややなだらかで、たくさんの穴が規則正しくあいており、目をこらせば何か所かに階段が刻まれているのがわかる。あの穴はすべて住居なのだ。

 山岳地帯ではこうした居住形態が、いまも多くの場所で残っている。私も何度か泊まってきたが、夏は涼しく、冬暖かく、隣近所の物音が聞こえないので静かに過ごせて、悪くない宿だった。

 子供たちは、役場の前まで私たちを先導すると、こんなところをうろうろするなと、おとなに怒られるのを恐れるかのごとく、ちりぢりになって姿を消した。

 役場には、白髪の集落長がひとりですわっていた。座長のカイラス・ダマがていねいに挨拶して、てのひら二つ分の大きさの石板を差し出した。〈太陽の君〉より授与された、旅芸人の認可板だ。

 集落長は、文様の刻まれた表面を指でなで、目でとくと確かめてから返してよこした。

「ようこそ。みな、楽しみに待っていたよ」

 

 役場の東隣の建物に、寝泊まりする部屋が与えられた。荷車には天蓋をつけられるようになっていて、移動中の野宿や寝場所を与えられない興行先ではそこで眠るが、寝返りもうてないほど窮屈だ。建物の中でゆったり休めるのはありがたかった。

 荷下ろしが一段落したころ、集落長が顔を出した。

「砂糖湯をいれた。一休みしてはいかがかな」

 暖を取るために火をたく季節でもないのに、我々のために湯をて、貴重な砂糖まで加えてくれたとは、たいした厚遇だ。ここは見た目より余裕のある集落で、集落長には午後に一服する習慣があり、それに招待されたというだけなのかもしれないが。

 砂糖湯には、香り付けの木の皮まで入っていた。

「これは、うまい」とフィッツがうなり、楽士のパクシはごくごくと飲み干して、満足げな吐息をついた。座長は一口味わってから、集落長に向かって目を細めた。

「旅の疲れが、溶けて流れていくようです」

「都や南方などさまざまな地の酒や茶をご存じの、口の肥えたお方の褒め言葉は、たとえ世辞であっても嬉しいものだ」

「世辞などではありません。この香り木のすがすがしさは、こちらの谷の空気とよく合っています」

 そんなやりとりがさらに何度か交わされたあと、集落長は私たちをぐるりと見渡して、困ったような笑みを浮かべた。興行の回数や支払い、飲食の提供についての取り決めは終えているのに、まだ何か、切り出しにくい話があるようだ。

 このもてなしの理由はそこにあったのだなと私が思ったとき、座長が咳払いをしてから立ち上がった。

「私たちは、英邁なる〈太陽の君〉の認可を受けた一座です。太陽と土地とを実りに結びつけておられる勤勉なみなさまを楽しませること以外にも、役目があり、それを果たす準備はできています」

 座長の自信に満ちた返答に、集落長はほっとした顔になり、社交的な会話のときより少し高くなった声で切り出した。

「実は、少々こみいった話なのだ。二十日ほど前から、我々は一人の男を閉じ込めている。というのも」

「お待ちください」

 座長が両手を重ねて首元まで上げ、話を遮ったことを詫びるように一礼した。

「ここにおります八人のうち七人は、しがない芸人にすぎません。私は、一座を率いてはおりますが、実のところ、耳で覚えた前口上を述べる以外に能のない人間です。私の隣にすわっておりますこの乙女は、歌うことしか知りません。その隣の鼻の大きい小男は、胡弓と笛とを奏でられるというだけです。その横に座している色黒の若造は、持って生まれた身軽さに日夜の訓練で磨きをかけて、ようやく宙返りなどをこなしています。その向かいの大男は、柄のわりには力もなく、ただあなた方が見るのを楽しみにしてくださっている珍獣を手なずけているだけの男です。その脇に並んですわっているよく似た顔の男女は、同じ腹から同時に生まれた双子でして、ぴったりそろった踊りができることが唯一の取り柄。みな、そんなふうに、ひとつの芸だけを頼りにどうにか生きている、単純素朴な者たちです」

「それはご謙遜だろうが、いま、八人のうち七人とおっしゃった。ということは、残る一人は、単純素朴ではない、私がいま切り出した、閉じ込めた男の件を、相談すべき人物ということだろうか」

 座長は無言で一揖いちゆうすると、私に向かって軽くうなずいてから部屋を出ていった。

「砂糖湯、ごちそうさまでした」と歌姫のララト・アンがそれに続き、双子のオルドとレンガは、「いい休憩ができたけど、まだまだがんばらなきゃな」「うん。解かなきゃいけない荷は、まだあるもの」と息を合わせて言い訳し、フィッツだけは私の顔をまともにのぞきこんで、「悪いな。ヨッコを早く出してやりたいんだ」と、これは言い訳でなく本心らしい理由を述べて去り、軽業師のホイニーと楽師のパクシもそのあとを追った。

 誰一人、手伝ってくれる気はないようだ。私はため息をこらえて、椅子にしっかりすわりなおした。

 とたんに集落長は、この二十日間の出来事を語りはじめた。坂の下で私たちに手を振っていた子供たち以上に熱烈に、この話を人に託せる時を待ちかねていたようだ。

 

 集落長の話は、よくあることだが、少しも順序だっていなかった。特に最初は、壮年の男を閉じ込めつづける苦労ばかりをくどくど語り、どうしてそんなことになったのかに、なかなかたどりつかなかった。

 私は、話の腰を折ることなく、辛抱強く聞きつづけた。これも仕事の一部、時によってはほとんどすべてといえるほど重要な部分なのだから。

 集落長は、自分と私の茶碗に二回、ぬるま湯を注ぎ足した。甘みも香りもすっかり薄まってしまったが、口を湿らすだけでも話を聞く忍耐力を支えてくれた。薬罐やかんとふたりの湯飲みが空になったころ、集落長はようやく口を動かすのをやめた。その顔には、胸の中のわだかまりをすっかり吐き出した満足感が表れている。

 そこで私は質問を開始した。物事の起こった順序をただし、あいまいだったことを確認していく。

 そうしてようやく、どうして住人の一人が閉じ込められるに至ったかを解明できた。

「つまり、その男は、父親を殺したと思われているのですね」

「実際、殺しているんだ。ほかに考えようがない」

 集落長は、口臭と砂糖湯の香りの混じった息を私に吹き付けながら断言した。

 

 

 

〈太陽の君〉のご威光は、町にも村にも谷間の小さな集落にも、あまねく行き渡っているのだが、威光だけでなく人員までも振りまくとなると、膨大な費用がかかる。その費用のもとは、町や村や集落から貢納こうのうされる金品だから、きつく搾り取るのはしのびないとお考えになった英邁なる〈太陽の君〉は、小さな村や集落にまで〈星辰せいしんおみ〉を配置するのをおやめになった。そのころの世の仕組みがどうだったかを細かく伝え聞いている者がもういないほど、昔々の出来事だ。

 じゅうぶんな記録も残されていないので、いくつかの伝聞と異国の例から考えると、かつて〈星辰の臣〉が国の隅々でやっていたのは主に、次の三つだったと思われる。

 

 一つめが、土地の様子を〈太陽の街〉に知らせること。

 二つめに、貢納すべき金品を徴収して〈太陽の街〉まで届けること。

 三つめは、悪巧みや犯罪を見つけて裁き、処罰をおこなうこと。

 

 このうちの土地の様子を調べることは、いま現在、各地域に人を置くのでなく、抜き打ちで訪れる方式をとっている。これならば、必要な人員は少しですむので費用が抑えられるだけでなく、優秀で信頼のおける者だけに任せることができる。これらの者は土地に根を下ろさないので、地域の顔役に取り込まれるおそれもない。

 金品の徴収は、わざわざ〈星辰の臣〉が出向かなくても、町長や村長、集落長がきちんと集めて、しかるべき場所まで運んでいる。異国では強面こわもての役人が、時には力尽くでもぎ取らなければならないようだが、それは負担が重すぎるせいだろう。〈太陽の君〉の治める地では、抜き打ちの査察がじゅうぶんに恐れられていることもあり、貢納を誤魔化したり怠ったりの事態は、ほとんど起こっていない。

 三つめだけは、どんな手を打ってもうまくいかず、代々の〈太陽の君〉は苦労されてきたという。歴史の詳細は時の流れに霧散しても、そうした逸話は語り継がれていくものなのだ。

 聞くところによると、最初は悪事を見つけたり裁いたりの〈事件あらため〉を地域の有力者に任せたところ、その子弟を誰も取り締まれず、治安が乱れていったらしい。地方で起こる犯罪は、こそ泥とか喧嘩でうっかり殴り殺したとかを除くと、有力者の周辺に下手人のいることが多いのだから、当然の顛末だろう。

 それからあれこれ試されて、先の〈太陽の君〉の御代みよに、今のやり方へとあらためられた。つまり、集落長が若い頃にはまだ、この制度はなかったのだ。こんな小さな集落で、外の人間に任せなければならないような大事件はめったに起こらないだろうから、もしかしたら初の事態かもしれない。だとしたら、話を切り出すときに、あれほど不安そうだったのも無理はない。

「父親と息子が二人きりで住んでいたのだ。夜中に一人が喉をかき切られて死んでいたなら、もう一人がやったに決まっている」

 話したいことを吐き出しおえてすっきりしたためか、私の問いに答える集落長の口調は、いくぶんぞんざいになっていた。

「その二人が住んでいたのは、あちらの斜面の洞窟ですね」

「家穴だ」

 集落長が目をとがらせたので、私は急いで言い直した。

「二人は、家穴に住んでいたのですね」

「四段目、中央階段の左、五番目だ。ニボイが生まれる前から、あの家族はそこに住んでいた」

「息子の名前は、ニボイというのですね」

「ニボイ・ナダ。アシン・ナダの一人息子だ」

「アシン・ナダというのが、殺された父親ですね」

 各町村に役人が常駐しなくなった弊害が、これだ。集落長のような、人を束ねる立場の人間でも、物事を整理して話したり、訊かれたことに的確に答えたりが不得手なことが多いのだ。前提なしで話が通じる土地の者としか接していないせいだろう。

 それだから、調べを進めるためには何より辛抱強くなければならないと、〈太陽の都〉で教わった。

「アシンとニボイの親子は、二人で家穴に住んでおり、その夜も二人きりで夜を過ごした。朝になって、二人とも起きてこないのを不審に思った〈段長〉が、扉を開けて入ってみると、父のアシンが死んでいた。息子のニボイはまだ眠っていた。そういうことですね」

「ニボイは寝ぼすけなんだ。朝はいつも、親に起こされるまで、ぐうすか寝ている」

「問題の日は、起こす親が死んでいたから、眠ったままでいたわけですか」

 集落長は、ぎょっとした顔で絶句した。私は皮肉めいた軽口を悔やんだ。殺された男も殺したかもしれない男も、集落長にとっては昔なじみ。その死も裁きも、生々しく気持ちをかきむしる問題なのだ。それを忘れないようにしなくては。

 事件あらためが旅芸人の一座に任されることになったのも、それが理由のひとつだった。よそ者のほうが、感情にとらわれずに事実を見つめることができる。

 そのおかげもあって、異国からみるとかなり奇抜なこの制度は、〈太陽の街〉のお偉方のあいだで評判がいい。これまで試したどのやり方よりうまくいっていると、英邁なる〈太陽の君〉も満足しておられるそうだ。

 この方法の最大の利点は、金がかからないことだ。旅芸人は、もともと町や村を巡っているから、旅費を支給しなくてすむ。旅してまわるために必須の認可板を授与する条件としてこの任を託せば、報酬さえ払う必要がない。

 つまり、我々にとってこの仕事はただ働きだが、大きな失敗をしないかぎり認可が確かなものになる。興行先での待遇も、それまでの時代より向上したということだから、悪い話ではないのだろう。

「家穴の唯一の出入口には外開きの扉があり、夜間には扉の外に小さな土の山をつくって、中から開けたらわかるようにしてあった。その土がそのままであるのを確認してから、段長が扉を開けたところ、父親が喉を切られて死んでいた。そういうことですね」

「ここは平和な谷なんだ。こんな痛ましいことが起こるとは、いったい何のたたりなのか」

 集落長はうつむいて、両手に顔をうずめた。

「祟りではなく、人の仕業と思ったから、ニボイ・ナダを閉じ込めて、我々を待っておられたのでしょう」

 集落長は、てのひらから上げた顔をしかめた。

「お嘆きのところに理屈を言うことが、礼儀に反するのはわかっています。しかし、英邁なる〈太陽の君〉より授かった任務を果たすためには、ひたすら理屈をたどることが必要なのです。どうか失礼はご容赦いただき、私の訊ねることにお答えください。いまうかがった話をまとめますと、犯人は息子のアシン以外にありえないように思えます。だとしたら、この地の人々で事件あらためを終えてかまわない、単純な事案のようです。どうして二十日間も、ニボイを閉じ込めておられたのでしょう」

「あんたたちが来るのに、二十日もかかったからだ」

 この言いがかりでいくぶん鬱憤を晴らしたのか、集落長は小さく吐息をもらすと渋面を解き、ここでふたりきりになった当初と同じ心細げな顔になった。

「私も最初は、単純な事件だと思った。ところが、オスタが、手が汚れていないと言いだした」

「手とは、誰の手のことですか」

 オスタとは誰なのかも訊ねたかったが、ひとつずつ明らかにしていかないと、集落長を混乱させてしまう。

「決まっているじゃないか。ニボイだ。ほかに誰がいる」

 何度か聞き直してわかったことは、息子のニボイを捕まえたあと、役場で話し合いがもたれたらしい。集落の役職者が集って、ニボイが父親を殺したにちがいないから、本人の申し開きを聞いたあと、納得できる理由がなければ処刑のために町に送るという段取りを確認しあっていたところ、もっとも若い段長にしてニボイと親しいオスタ・マカという男が、異議をとなえた。

 ニボイの手は、血に汚れていなかった。父親の首を掻き切ったなら、必ず汚れるはずなのに、と。

 家穴には水場がない。手を洗うにも用を足すにも、扉の外に出なければならない。殺害するときに布か何かで手を覆っていたとしたら、その布はどこにあるのか。洗うにしても、捨てるにしても、やはり扉の外に出る必要がある。

 手がきれいということでは、死んだ父親も同様だった。喉を切るのに使われたらしい刃物は寝床の近くに落ちていたが、喉の下の寝藁ねわらに血だまりができていた以外、顔も肩から下もきれいなものだったそうだ。

「ニボイが殺したに決まっているのに、オスタたち若い衆はどうしても納得しない。あなたには、ニボイの手がきれいだったことに説明をつけてほしいのだ。そうすれば、このいざこざは終わりになる」

 それは、〈太陽の君〉より賜った任務と少々異なるが、ここでそんな主張をしてもしかたない。

「わかりました。その夜に、その家穴でいったい何があったのか、みなさんに説明できるよう調べてみます。そのために、何人かに話を聞いてみなければなりません。それぞれの方にあなたから、その旨を伝えていただければ、やりやすくなるのですが」

 快諾した集落長は、全員をここに呼び出すとも言ったのだが、人は、自分の居場所にいる時のほうがなめらかに口が動く。

「みなさん、お忙しいでしょう。こちらから出向きます」

 集落長は出鼻をくじかれたような顔をしてから、「まあ、あんたがそうしたいなら」と空の茶碗を口に押し当てて傾けた。

 

 

 

 いちばんに話を聞きたい相手は、事件のあった段の長、スタグ・タタだった。死体を発見した人物であり、家穴の扉がどういう状態だったかもよく知っている。

 ところが段長は、昼間の仕事の指示役でもある。いまは畑のある斜面の上のほうにいるので最後がいい、まずは近いところから案内すると集落長は言い張った。さからってばかりいるのもよくないので同意して、案内役の少年とともに出かけた。

 少年は、坂を駆け上がってきた子供らより年長で、顔つきに集落長と似たところがあった。紹介はされなかったが、身内だろう。

 まずは、ニボイ・ナダが閉じ込められている部屋に行った。役場の裏の建物内の、窓のない小部屋だった。総じてこの集落の家屋には窓が少ない。あっても、頭が通るか通らないかの大きさの正方形のものが、高いところにひとつかふたつ。ほとんどの人が洞窟に暮らしている集落では、開口部が小さい方が、落ち着く場所になるのかもしれない。

 ニボイは、何を問いかけても口をきかなかった。最初からずっとそうらしい。父親の死を嘆くでもなく、ただむっつりと押し黙っている。その顔には、怒りも悲しみも、けっして口をきくまいという決意のようなものさえうかがわれなかった。かといって、心がどこかに行ってしまった人のように、目が虚ろだったり、からだを揺らしたりの様子はみられない。食事もとれば、着替えや排泄も普通にしているという。

「少し痛めつけたほうがいいんじゃないかって話も出たんだが、認可板を持ったお方を待ってからのほうがいいってことになったんだ」

 部屋の前で見張りについていた男が、ぽきぽきと指を鳴らしながら説明した。

 賢明な判断に礼を言い、いましばらくそうした手段は控えるように頼んでから、建物を出た。

 つづいて少年は、平地の畑と果樹園の間の道を西側の斜面に向かって進んだ。姫リンゴの季節らしく、小さな赤い実を付けた木々から甘くて爽やかな匂いが漂ってくる。

「きみも、私たちの芸を楽しみにしていてくれるのかな」

 隣を歩く少年に話しかけたが、私の声にはフィッツのような陽気さがなかったのだろう。

「それ、事件あらためと関係あるのか」と不快げな声が戻ってきた。

 その態度にこちらも不快になったが、この少年に嫌われるのはかまわないし、私がこの子を好きになる必要もない。感情を露わにする者からは情報が得られやすいものだから、むしろ好都合かもしれないと考えて、私は問いを重ねた。今度はもっと事件と関係のある問いを。

「家穴の扉の前に土を盛って、人の出入りを確かめていたと聞いたんだが、珍しいやり方だよね。この集落の昔からの風習かな」

 少年の足がぴたりと止まった。二歩ほど先んじてしまってから私も立ち止まり、振り返ったら、少年はきつい目をして私をにらみつけていた。

「それがあんたに、何か関係あるのか」

 それから早足で私の前に出ると、肩を揺らしてずんずんと進んでいった。

 

 斜面に入ると道は細かく分岐して、それぞれが獣道のように細くなり、鬱蒼とした林の奥へと続いていた。少年はどの分岐でも迷うことなく足を運び、まもなくわたしたちは下草刈りをしている男たちのそばに出た。少年は、その中でひとりだけ帽子をかぶっている男に近寄った。

「オスタ・マカ。集落長からの伝言です。この人は、〈太陽の君〉の認可板を持つ、今度の件の〈あらため〉をするお方。訊ねられたことには、何でも正直に答えるように」

 この少年は私に対してでなければ、憎々しげでない声で話ができるとわかった。地方によくいるよそ者嫌いかもしれない。

 少年は、話が聞こえない程度はなれた所に遠ざかった。オスタと呼ばれた、四角い顔の長身の男以外の働き手も、先のほうの下草を刈るべく移動した。

「どんなことを知りたいんだい」

 オスタ・マカは、手にしていた山刀を鞘におさめると、目をすがめて下唇を突き出した。私を警戒しているのか。事の成り行きが不安なのか。

 わたしも不安を感じていた。オスタは、ニボイが父親を殺していないと主張した人物だ。何を訊ねてもきっと、事実よりも感情をぶつけてくるだろう。最初に話を聞く相手として好ましくはない。だが、考えてみれば、集落長はニボイがやったと決めつけていた。これで両方の立場を知れるのだから、そう悪くない出発点かもしれない。

「あなたは、ニボイ・ナダの友達ですね」

 答えやすい問いから入ったのに、オスタはぶっきらぼうに言い放った。

「子供のころの遊び仲間」

 友達と認めたくない理由があるのだろうか。発言の意図はよくわからなかったが、いまここで追及しなくてもいいだろう。

「あなたも、家穴に住んでいるのですね」

「ニボイとは、別の段だが」

「ニボイの父親が死んでいるのを発見された朝、あなたもその様子をご覧になりましたか」

「別の段だから、入り口に人が集まっているのを見ただけだ」

 段が違うというのは、ここまで強調しなければならないことなのだろうか。

「ご遺体や、ご遺体が運び出されたあとの家穴の内部は? それも、ご覧になってはいない?」

「だから何だ。俺は、ニボイを子供のころから知っているんだ。あいつが人殺しなんかするわけがない。まじめで気の優しい男なんだ」オスタの顔は興奮で赤らんでいた。「それに、父親との二人暮らしを心の底から楽しんでいた。あいつは、まったく、珍しいくらい父親が好きなんだ。好きだったんだ」

「アシンとニボイの親子は、ずっと二人で暮らしていたんですか」

 オスタは、目元の湿りをこぶしでぬぐってから、これまでより落ち着いた調子で答えを返した。

「ニボイが結婚していなかったことを言いたいんだろうが、この集落は、男のほうが人数が多い。独身を通す男は珍しくないんだ。ニボイは口下手だし、面相もまあ、女受けするほうじゃないしな。あいつが十五のときにお袋さんが死んで、それからずっと、父親とふたりであの家穴に住んでいた。ほんとに仲が良くて、口げんかのひとつもしたことがなかった。ニボイが孝行息子ってわけじゃなくて、なんというか、とにかく仲が良かったんだ」

 オスタは腕組みをして小首をかしげ、記憶の彼方をのぞきこむようにしていたが、急に顔がほころんだ。

「あいつが話すことの半分以上は、父親のことなんだ。それも、愚痴とかはなくて、今朝、父さんがこんな冗談を言ったとか、そんなどうでもいいことを嬉しそうに話していた」

「仲が良かったから、殺すはずはないと思っておられるのですね」

 オスタは一度大きく目を見開いてから、ふたたび下唇を突き出した。

「俺も、段長を任されている人間だ。役場の話し合いで、この男は人を殺していないと言うからには、もっとちゃんとした理由があった。ニボイの手は、まったく汚れていなかったんだ」

 その言葉の意味は集落長から聞いていたが、私は目で説明を求めた。

「俺は、人が殺されるのを見たことはないが、事故で自分の喉を切っちまった男が死ぬのなら、見たことがある。首が切られると、血はすごい勢いで噴き出す」

 私がうなずくと、オスタは手や顔や服を血で汚すことなく誰かの喉をかき切ることはできないという、集落長も言っていた理屈を懸命に述べた。

「町から来たお人にはわからないかもしれないが、家穴の中には飲み水くらいしか置いてない。水を外に逃がす溝もない。手や布を洗うことはできないんだ。だから、ニボイのお父さんは、ニボイに殺されたんじゃない。自殺でもない。夜中にあの家穴にこっそり入った人間がいるにちがいないんだ」

 家穴にこっそり出入りできるなら、ニボイがそれをして、父親を殺害したあと外で手を洗ったかもしれないということに、オスタは気づいていないようだ。

「扉の前に土を盛って、人の出入りがわかるようにしてあったと聞いていますが」

「集落長がしゃべったのか」オスタは顔をしかめた。「段長以上の者しか知らない話なんだ。頼むから、誰にも言わないでくれ」

「そうなんですか。集落長に口止めされなかったので、案内の少年にしゃべってしまいました。でも、あの子は知っているようでしたよ」

「木の家に住んでる子だからな」

 オスタは、はなれたところで谷底のほうをぼうっとながめている少年に目をやって、下唇を突き出した。私が少年に話したことをとがめているのではなさそうだから、木の家に住んでいる子は「段長以上」の身分で、不満の的はそちらのほうなのかもしれない。

「土を盛ると言っても、ごくごく低いものなんだ。一度扉を開けてしまえば、地面に散らばって、そこにあったことなど誰にもわからなくなる」

 オスタはいからせていた肩から力を抜くと、すぐ脇にあった岩に腰掛けた。私も近くの切り株に腰を下ろした。

「だからまだ、誰も気づいていない。少なくとも、噂はいっさいたっていない。俺としては、このままなかったことにしたいんだ。頼むから、誰にも言わずにいてほしい。この集落でも、よその土地でも、絶対に」

 オスタはくどいほど念を押してから、事の次第を説明した。

 それによると、扉の前に土を盛ったのは、果物泥棒を見つけるためだった。こうした集落の畑や林は、集落全体の持ち物だ。食事は共同炊事場で作ったものを食べ、子供のおやつも収穫物の管理者が配るものだけ。そんな土地では、姫リンゴ一つといえども、勝手にもいではならないのだ。それなのに、夜な夜なリンゴが減っていく。わずかな数だが、世話をしている者の目はごまかせない。誰かが夜中に盗んでいるのは明らかだった。

 この集落には、獣やよそ者の谷への侵入を見張るための物見台が役場の屋上にあり、昼も夜も二人組の番人が見張りをしている。盆地を取り巻く山の上部は白い岩がむき出しなので、闇夜であっても人や獣の動きがあれば見てとれる。けれども下のほうは見通しがきかないから、家穴を出た住人が、夜陰にまぎれて果樹をもぎとることはできるわけだ。

 各段長が住人にそれとなく警告したが、盗みはまなかった。小さな姫リンゴのことでも、共同財産を勝手に我が物とすることは、集落の秩序を乱す大きな罪だ。このままにしてはおけない。罪といっても、〈太陽の君〉の定められた法とは関係のない、集落の掟やぶりの罪だから、事件あらための芸人一座を待つことなく自分たちで解決することにして、役場で相談をもち、扉の前に土を盛る方法が考え出された。

「果樹園に一晩じゅう見張りをおくと、たくさんの人手がいるし、泥棒に気づかれてしまう。みんなが寝静まったあと、扉の前に、開いたら必ず崩れるくらいの土の山をつくっておいて、どこの家から夜中に人が忍び出たかを確かめれば、多くの人に知られることなく、ことをおさめられる。こんな恥ずかしい盗みがあったなど、できたら内密にしておきたかったんだ」

 狭い集落でこの先もずっと暮らしていくのだ。泥棒という破廉恥な行為はきつく戒めねばならないが、死ぬまで後ろ指をさされつづけるはめにはしたくないと、集落の役職者たちは考えたようだ。

「でも、家穴には水場も排水溝もないんですよね。夜中に水を飲みたくなったり、用を足したくなったりして、外に出る人がいるんじゃないですか」

 いくつもの扉の前で盛り土が崩れていたら、犯人の目星はつかない。

「いるものか。どの家穴にも、飲み水と尿瓶くらいは備えてある。町から来た人間にはわからないだろうが、夜中の階段は、明かりがあっても踏み外しやすい。外がとっぷり暮れきったあとに家穴を出るような愚か者は、果樹泥棒以外にはいないんだ」

 外が暗くなって人の出入りが絶えたあと、夜の見張り番の二人が、段長の家穴や平地の木の家も含めてすべての住居の扉の前に土を盛り、夜明け前の見回りで変化がないかを確かめる。そういう手はずに決まったそうだ。

「それで、崩れた山はあったんですか」

「いいや、土の山を盛りだして二日ほど、姫リンゴは減っていくのに扉の前の土はすべてそのままで、みんな首をひねってたんだ。だが、三日目に盗みは止まり、それからも扉の前に土を盛ることは続けていたが、以後十日間、扉を開いた痕跡はなかった。姫リンゴもずっと無事だった」

 私は話の続きを待って黙っていたが、オスタがいっこうに口を開かないので、質問した。

「以後十日間とおっしゃいましたが、十一日目には、どうなったんですか」

「アシンさんが殺されて、それどころじゃなくなった」

 

 

(つづく)