翼虎のはばたき
一
幕内を埋める人々は、大きく身を乗り出して目を見開いていた。おとなは鼻の穴をふくらませ、子供は口をぽかんとあけて。
期待の波はうねり、たかまり、ひとりで演台に立つフィッツ・ローを押し倒さんばかりだったが、フィッツは平然と前口上を続ける。
「虎に似ていて、虎にあらず。けれども、ほかのどんな動物とも異なる形をしているので、もっとも近いと思われる虎の名を借り、翼のある虎、翼虎と呼ばれておりますこの獣、馬を全速力で走らせても百日かかる、遠い遠い国からやってまいりました」
虎でさえ、この地の人々は見たことがない。いや、この地に限らず、英邁なる〈太陽の君〉がお治めになる広い大地に住む者のほとんどにとって、噂と絵姿だけの存在だ。
かくいう私も、〈太陽の都〉で一度、剥製を見たことがあるだけだ。柵の向こうに置かれた動かない四つ脚の獣は、あえて何に似ているかといわれると猫だったが、子牛ほども大きくて、開いた口から長く鋭い牙がむきだしになっていた。そのうえ、太くがっしりした前脚をわずかに曲げて腰を上げ、いまにも飛びかかってきそうな格好をしているものだから、見物客はみな、息をのんで後ずさり、高額な入場料を惜しがる素振りもなくそそくさと立ち去っていた。
そんな獣の名を借りている、我らが旅芸人一座の仲間、翼虎はといえば、大きさは猫と虎の中間。体形は猫寄りだが、首が太くて頭と胴の区別がつきにくいところが、虎とも猫とも異なっている。そのずんぐりとしたさまが我々にとっては愛らしく、ヨッコと呼んでかわいがっているのだが、不気味ととるむきもある。
けれどもヨッコは、毛並みがすこぶる美しかった。純白の体躯に、虎と同じく縦縞が入っており、それが朝焼けのように輝かしい金色なのだ。顔も半分はその色なので、白い〈翼〉がよく映える。
「翼はとても小さいので、よくぞこんなもので空を飛べるとお思いになることでしょう。けれども、はばたく力がすさまじいので、鳥よりも高く舞い上がれるのです。馬を全速力で走らせて百日かかる遠い遠い国では、草原の上をたくさんの翼虎が、群れをなして飛んでいるのを見られるのだとか」
その光景を思い浮かべたのだろう。幾人かの客が顔を上向け、ほおっと息を漏らした。
ここは、日照と地味のいい土地の広がる農村だ。暮らしにゆとりがあるのだろう。座長が木戸銭を高めに設定したのに、初日からこれだけの人出があり、客の身なりもこざっぱりとしている。
「それでは、もう一度だけ繰り返しますよ。翼虎が現れましたら、大きな声は出さないでくださいね。おとなしい動物ですが、神経質なところがあります。先ほどもお話ししたように、翼に鋏を入れてあるので、飛び立ってしまうことはありませんが、野生では、鳥や獣を喰らって生きていたものです。後ろの脚に鎖はつけてありますが、暴れだしたら何が起こるかわかりません」
ほんとうは、ヨッコにそんな危険はないのだが、こうして脅されるのを見物人は好むのだ。そのほうが、より珍しいものを見た気になれるのだろう。
「ご心配はいりません。万が一、暴れだしたら、私が身を挺してみなさんをお守りします。もともとおとなしい獣です。一人を襲えばそれで気がすむでしょう」
そう言って胸を張るフィッツに観客は、足を踏みならして謝意を示した。
「ありがとうございます。けれども、いまの大きな物音も、翼虎がここに現れましたら、お控えください。いいですね」
客席は水を打ったように静まった。
「それでは、お待たせいたしました。これが幻の珍獣、翼虎です」
「もう、それくらいにしておけ」
座長が、しかめ面を歌姫のララト・アンに向けた。「声が潰れるぞ」
壁に背をあずけて右膝を立て、左脚をのばして座るララト・アンは、口に当てた椀をかえって大きく傾けた。
「まあ、いいじゃないか。今日も大喝采を浴びる活躍だったんだから」
軽業師のホイニー・トッツのとりなしは、当のララトに踏みつけられた。
「私の活躍なんて、ヨッコには全然かなわなかったけどね。いつだって、客がいちばん喜ぶのは、ヨッコが出たとき」
腹を上に向けただらしない格好でフィッツの膝に頭をのせているヨッコは、確かに今日いちばんの人気者だった。これくらいの規模の村だとどうしても、歌や踊りは大受けしない。一座を組むほどでない歌い手や踊り手が、長い道のりをものともせずに流れてくるから、さして珍しがられはしないのだ。そして、残念ながらララトの歌は、流しの芸人を大きくしのぐほどではない。
「ヨッコを初めて見たら、誰だってびっくりするからね。だけど絶対、拍手はおまえのほうが大きかったよ」
ホイニーが、ララトの手から椀を取り上げながら言った。
「それは、フィッツが静かにするようにって注意したからでしょ。どうせ私の歌なんて、ヨッコのあくびにかなわないのよ」
ヨッコはあくびなどしていない。フィッツの指示に従って、口を大きく開いただけだ。観客は、翼虎の獣らしい牙を見るのが好きなので、合図すれば口をあけるよう訓練してあるのだ。またこれは、ヨッコが実は着ぐるみで、中に人間の子供がひそんでいるのではないかという疑いを、晴らすためでもあった。
「ララト姉は、ほんとはヨッコをやっかんでるんじゃないのよね。お酒を飲む口実がほしくて、すねてるふりをしてるんだよね」
踊り手のレンガ・ニイの挑発には、ララトもそのほかの者も言葉を返さなかった。レンガはそれを気にするふうもなく、双子の弟オルド・ニイの肩に寄りかかってぼんやりしている。
誰も何も言わないまま時が過ぎ、フィッツが静かに立ち上がって、半分眠っているヨッコを箱に押し込んだ。ララト・アンは、ホイニーから取り返した空の椀を手にうとうとしはじめている。
八人きりで旅してまわれば、どんな会話も、すでに何度も繰り返されたものとなり、中途半端に立ち消えても誰も気にしない。すべてがいつものことなのだ。ララトがヨッコをやっかむのも、公演初日の疲れから安酒を過ごすのも。
慣れ親しんだ沈黙に各人が身を沈めていたとき、板戸を叩く音がした。いちばん近くにいたのは私だったが、いつものようにホイニーがさっと立ち上がり、振り返ってヨッコがちゃんと箱に入っているのを確かめてから、扉を開けた。
そこには、ふたりの男が立っていた。どちらも四十がらみだが、ひとりは小柄で頬がこけ、もう一人は丸顔の巨漢だった。
「おやすみのところを、すみません」
大男が小声で言った。これは、旅芸人に対する言葉遣いとしては、かなり良い。
「あんたらは、認可板を持っていて、ややこしい事件のあらためをすると聞いたが、ほんとうか」
小柄な痩せ顔のほうは、顎を上げた尊大な態度で、旅芸人へのふつうの物言いをした。
座長が立ち上がって、両手を胸の前で重ねて辞儀をした。
「我が一座は、たしかに、英邁なる〈太陽の君〉よりの認可を示す石板を所持しております。そして、〈太陽の君〉と〈星辰の臣〉がお定めになった規則によって、旅先で重大事件が起こっていれば、あらためをおこない、真実をつきとめることを任としております。村長にご挨拶したとき、この村にいま、そうした事態は起こっていないとお聞きしましたが、その後、何かありましたでしょうか」
「なければ、何もしないというのか。もったいなくも、英邁なる〈太陽の君〉より事件あらための知恵を授かっておきながら」
小男は、なぜか喧嘩腰だった。
「ギャンさん。まずは、何を訊きたいか説明しないと」
大男が身をかがめて小男の耳元に口を寄せ、ささやくしぐさでいながら部屋にいる誰にも聞こえる声量でそう言うと、我々に視線をめぐらせ、はにかんだような笑顔をみせた。
「実は先日この村で、少々、いや大変に、とてつもなく、おかしなことが起こりまして、そのせいで我が村は、少しばかりというか、かなりというか、大変に困ったことになっているのです」
そのまま黙ってしまったので、座長が先回りして問題点を明らかにした。
「ところがそれが、認可板を持つ者の管轄事項ではないと、そういうことなのですね」
「カンカツ……。ああ、受け持つという意味ですね」
大男はテン・ハングリと名乗り、口をへの字にしている小男をギャン・チュカンだと紹介した。ふたりは、この村で造っている酒の袋詰めと出荷の責任者だという。
「私たちは、英邁なる〈太陽の君〉が認可の石板をお授けになるほどのお知恵のある方に、ひとつだけものを訊ねるために来ました」
「さて、どういったお訊ねでしょう」
それだけですむのならと、ほっとした様子で座長が合いの手を入れた。
「訊きたいのは、酒が水に変わることがあるかどうかです」
「酒が水に?」
座長は私に視線を向けた。しかたがないので立ち上がって戸口に近寄り、ふたりの来訪者に向かって言った。
「長い年月を経た酒が、酢のようになることなら、あると聞きます。さらに年月を経れば、水のようにもなるかもしれませんね」
「そんなことは、認可板を持った知恵者じゃなくても知っている。我々が訊きたいのは、三月やそこらで、そういうことが起こるかだ」
ギャン・チュカンが怒り顔を私に向けた。
「そういう魔法とか呪いとか、もしかしたら手品のタネがあるんじゃないかと訊いているんだ」
「つまり、こちらの村で、三月の間に酒が水に変わったということですか」
訊ねると、ギャンとテンは、いたずらを見つけられた子供みたいな顔で目を見合わせ、次の瞬間、猛烈な口喧嘩をはじめた。
二
ギャン・チュカンとテン・ハングリの言い争いは、酒が水に変わった現場である倉庫に私を案内するかどうかにあった。
ギャンは骸骨みたいな顔を朱に染めながら、よそ者にこれ以上相談する必要はないと怒鳴りちらし、テンは、今後のために知恵のある人の意見を聞くほうがいいのに、どうしてそれがわからないのかと、丁寧な口調でギャンをなじった。
「相手はしょせん、旅芸人だぞ。どんな知恵が期待できる」
まるで私がそこにいないかのようにギャンが叫んだときには、むっとさせられたが、私はそこにいないかのように黙っていた。できればギャンに勝利してもらって、この件から手を引きたかったのだ。
英邁なる〈太陽の君〉のご英断で、他の国々では警察や探偵が調べる事件を、旅芸人一座が調べて裁きまで下すようになってから、さほどの年月は経っていない。人々の信頼が厚くないのは当然だ。まずは、実績を積み重ねていくことだと、〈太陽の街〉の人々にも言われている。真相を解明して人々を納得させることを繰り返すしかないのだと。
これは容易なことではない。真相の解明自体も大変だが、事実を納得したがらない人間は多いのだ。
そんなわけで、管轄外の事件まで引き受けたくないのが本音だった。相談者の二人がやたらといがみあうのが見苦しくもあったから、彼らとは早々に別れを告げて、同じ不機嫌でも気心の知れた仲間内のものにひたりたかった。ところが――。
「その酒とは、ビク酒ですかな」
頭の後ろで声がした。のけぞりながら振り返ると、いつのまにか座長が戸口まで来て、満面の笑みを浮かべていた。
「道中、噂を耳にしました。こちらの村ではビク酒という、大変に美味で貴重な酒を造っておられるそうですね。到着したとき村役の方に、一口味見を所望したのですが、断られてしまいました」
そんな話は初耳だった。
興行先についての噂を聞いたら、競うように教えあうのが常の私たちだ。どんなささいな噂でも、八人であれこれ批評し、話をふくらませたり想像で補ったりしていると、旅の無聊が大いになぐさめられるのだ。座長など、噂の披露を楽しむ筆頭だったはずなのに、こんな話を黙っていたとは驚きだ。
そういえば、村に到着したときめずらしく、興行の打ち合わせに一人で赴いた。他の七人も同席するのが通例なのにおかしいなと思ったが、ビク酒とやらが理由だったのか。高価なものなら、八人全員の口に入れるのは、きっとむずかしい。一人でこっそりねだろうと、道々考えていたにちがいない。
座長には、そういう小ずるいところがあった。露見しても悪びれずに笑っているから、私たちは肩をすくめてやりすごしているのだが、今回の抜け駆けは成功しなかったようだ。
「しかたがないんです。村役に悪気があったわけじゃありません。ビク酒は、一袋残らず、すべて引き渡す約束で、高く買ってくれる商人がいるんです。大切な約束なんで、すべてというのは文字通り、きっちり守らなきゃならなくて、私たち造り手が利き酒をするとき以外、村長だろうと村役だろうと、誰ひとり、ひと舐めすることもできないんです」
「祭りや祝い事のために、手元に残すこともできないのですか」
テンが首肯するのを見て、座長は実に悲しそうな顔をした。
「せっかく造っているのに、せつないことでございますね」
「そのかわり、村には金がどっさり入る。俺たちだけは、利き酒で、ちゃんとビク酒を味わえる。年に一度の一口でも、たいそうな役得だ」
ギャンがにんまりと笑った。
「ああ、羨ましい。とても高価で美味だと聞いています」
「ビミ……。おいしいという意味ですね。はい、ビク酒は非常においしい酒です」テンがくいと胸を張り、大きなからだをさらに大きくみせた。「でも、値段が高いのは、それだけが理由ではありません。ビク酒はこの村でしか造れません。それをまるごと買い取った商人は、よそでは手に入らないものを売るわけだから、好きな値段をつけられるんです」
「なるほど。独占販売によって、その商人も、売り手であるあなたがたも、どちらも得をしているということですね」
座長が、感心したように顎をなでた。
「はい。それに、私たちは畑で生きる人間です。たくさんの物を売るのは得意じゃない。一度にすべてが売れるってのは、ありがたいことなんです。あ、それに、商人たちに感謝することが、もうひとつあります。英邁なる〈太陽の君〉にわが村からお納めさせていただくものは、ビク酒と決まっていて、おかげで芋やら麦やら金銭やらはいっさい出さずにすんでるんですが、町まで運ぶのはけっこうな手間で、親父たちの代には、畑仕事の忙しい時期に何人もの手をとられて難儀していたんです。その運搬も、どうせ通り道だからということで、代わってやってくれるんで、いまではわれわれは、ただ造りさえすればいい」
「造って、ぶじ引き渡しさえすれば、だな」
ギャンの言葉で、テンは私たちのもとに来た理由を思い出したのだろう。肩を落としてうつむいた。ギャンのほうは、目をいからせ、口をへの字にしている。
酒が水に変わったことは、最初に思った以上に村にとっての一大事であることに、私はようやく思い至った。
西の丘陵地と呼ばれるこの地方は、山村に比べて日々の暮らしは厳しくない。だから興行もにぎわいをみせているのだが、水利の関係で人の住める場所が限られるため、村々は距離を隔てて散らばっている。隣の村が遠いだけでなく、最寄りの町もはるか彼方にあるのだ。
食べ物や普段着などは村内でまかなえるだろうが、贅沢品や書物、葬祭に必要な祈祷済みの用具、平原に森林は乏しいので家屋を建て替えるときの木材などは、よそから取り寄せねばならない。距離があるぶん高くつく。村の外に良い値で売れる特産品は、そうした費用をまかなってくれているにちがいない。
今年の酒については、もうどうにもできないだろうが、来年また同じことが起こらないよう調べてみるべきだと、私はほぞを固めた。
「テン・ハングリさんのおっしゃるように、ビク酒の倉庫に行ってみたいと思います。それで、酒が水に変わった理由を解明できるとはかぎりませんが、少しでも何かわかれば、来年のビク酒造りがより安全になるかもしれません」
ギャンは顔をしかめたが、もう反対をしなかった。私たちは一座の宿舎となっている小屋を出て、寝静まった家並みを横目に、村はずれのほうへと歩を進めた。空は薄曇りで星は見えず、ぼんやりとした半月と各人が持つ角灯の明かりを頼りに進んだが、暗がりの中でも、家々のたたずまいに村のゆとりが見てとれた。裏通りにも破れ屋はひとつもなく、どの家もよく手入れされている。
そのゆとりのもとが、いま脅かされているのだ。
倉庫は、切石を漆喰で固めた壁に木材の陸屋根を載せた真四角の建物だった。正面から見える範囲に窓はなく、入り口がひとつぽっかりとあいているだけだ。
角灯を持って近づくと、暗い穴の左右には、破壊された切石と漆喰くずが乱雑に積まれていた。人がふたり並んでなんとか入れる幅の入り口は不整形で、扉のたぐいはついていない。のぞきこんで確認すると、窓は左右や奥にもなく、出入口はここだけだった。
「この穴には、こちらの石が積まれていたのですね。すなわち、これらの石を壊してはずすまでは、倉庫は密閉されていた」
三か月のあいだに酒が水に変わったと彼らが断言するからには、よほど厳重に保管してあったにちがいないと考えての推測だった。
「当たり前だ」ギャンが地面に唾を吐いた。
「毎年、そうするんです。三か月間、静かに寝かせるために、ネズミもネコもアナグマも、もちろん人も、絶対に入れないようにするんです」
倉庫の中は奇妙な匂いで満たされていた。生臭いようでいて快い。頭よりも心に、心よりも喉元に呼びかけてくる匂いだ。そのうえ、嗅げば嗅ぐほど快さがまさってくる。
いつのまにか口の中に唾が湧いていた。しかし、匂いのもとを欲しているのは胃の腑ではない。顎だ。喉だ。頭の中を巡る何かだ。
私は、ごくんと唾を飲みこんでから左右を見たが、目に入るのは切石の壁ばかり。倉庫の中は空っぽで、匂いの元とおぼしきものは見当たらなかった。
「この倉庫には、いちばん奥からこのあたりまで、ぎっしりと、ビク酒の詰まった袋が積み上げられていたんです」テンが十歩ほど進んで、両手を広げて見えない壁をつくってみせた。「真ん中に通路をあけて、こっち側には売るための酒が六十七袋、こっち側には〈太陽の街〉に納めるための酒が二十袋、積まれていました。三か月前に、酒の造り手全員で、ここに運んで並べたんです。それから、全員が外に出て、漆喰と石で出入口を閉ざしました」
私は、そのときの倉庫の情景を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。
「こちらの村では、酒を樽ではなく袋に詰めるのですね。どんな袋ですか」
訊ねると、ギャン・チュカンは口をぽかんと開けてから、「こいつ、あほか」とつぶやいた。どうやら私は、常識以前のことを訊ねたらしい。今度もテン・ハングリが解説してくれるかと目をやったが、ギャンがみずから語りだした。
「うちの村で造る酒が、どうしてビク酒と呼ばれていると思うんだ。ビクの皮の袋に入っているからに決まってるだろ。あんたは、ビクすら知らないかもしれないから教えてやるが、四つ脚の動物だ。あんたらの翼のある獣みたいに珍しいものじゃない、ここらの野原にふつうにいるやつだが、鎖につないで見世物にするしか使いようのない獣とちがって、実に役に立つ」
この男の機嫌のいい顔を初めて見た。フィッツがヨッコのことを語る表情とどこか似ていた。
「肉は食えるし、毛は椅子の詰め物なんかに使える。そして皮は、極上の皮袋になる。ただし、これには特別な技が必要だ。その技をもっているのは、我が村の三人の職人だけ。だから、ビク酒が造れるのはこの村だけ。そういうことだ、わかったか」
ビクが何かは私も知っていた。この丘陵地でよく見られる、羊に似た動物だ。ただし毛は、羊のものより短くて硬い。糸に縒るのはとても無理で、いみじくもギャンがみずから述べたように、座布団の詰め物にするくらいしか用途がないと聞いている。肉のほうも、煮ても焼いても固いので、薄切りにしてかちかちに干して飢饉への備えや旅の非常食として売ることがある程度だ。安い肉が買えない地でのヨッコの餌はこの手の干し肉で、フィッツが水に浸して戻したものを与えると、なかなかうまそうに食べているが、とても人の口に合う味ではない。
つまり、どちらも大した値では売れないのだ。
飼育しても元がとれないので、牧場のようなものはない。野山にいるのを、不猟の帰りの狩人が、手ぶらよりはましだと捕まえるくらいだという。
すなわちビクは、ギャン・チュカンが言うほど役に立つ動物ではないのだが、その見解は胸の内におさめておいた。
私は床と壁と天井をよく調べて、この倉庫に石積みを壊した穴以外の出入口がないことを確かめてから、ふたりに訊ねた。
「三か月前に運び込んだ八十以上の袋は、今どこにあるのですか」
「商人宿です」
「できれば実物を見たいので、その宿に案内していただけませんか」
「断る」ギャンが言下に拒絶した。「なんであんたを、あんな遠くまで連れて行かなきゃならないんだ」
そして、馬で五日はかかるところにある町の名前を口にした。ビク酒の袋――いや、酒から変わった水の入った皮袋はすでに、そんな遠くまで持ち去られていたのだ。
三
部屋に戻ると、灯火は消され、荷物の合間に横になっている座員たちを、窓から入る淡い月明かりだけが照らしていた。誰もが寝入っているようにみえたが、私が自分の場所に腰を下ろすと、フィッツ・ローがのっそりと起き上がって、そばに来た。
「結局、どういう相談だったんだ」
いつもとちがって小声だったのは、ほかの座員を起こさないためではないようで、楽士のパクシが不快げにうなりながら寝返りをうっても、ささやき声に落とすことなく質問を重ねた。
「長くかかったな。解決したのか」
「いや。しかし、どういう問題なのかは、ほぼわかった」
私も小声で答えた。フィッツが気にしているのは壁の向こう、この村の住人の耳なのだ。
事件あらために関わることに限らず興行先について話すとき、土地の者に聞かれないよう用心するのは、私たち全員の習性だった。悪く言うつもりがなくても、どんなせりふがそう取られるかわからない。少しでも害意があると思われたら、地方の町や村や小さな集落は、よそ者にとってきわめて居心地の悪い場所になり、ときには危険さえ生じるからだ。
「ほぼわかった問題を、俺に話したいか」
フィッツが私をのぞきこんだ。元気がないときのヨッコに声をかけるときみたいな顔をして。
そもそも事件あらためは、旅芸人の一座に課された仕事だ。本来なら全員で取り組むべきで、よその一座では座長を中心にみんなで聞き取りや調べ物をし、知恵を出しあっていると聞く。
ところがわが一座では、公式の任務でも今回のようなただの相談でも、私がひとりで引き受けることになっている。それについて話し合ったことも命じられたこともないのだが、座長が最初からそう決めつけて、動かしがたい事実にしてしまったのだ。
ひとりで調べることはかまわない。嫌いな仕事というわけでもない。ただ、人々を愉しませる芸の披露という場から、ひとり弾き出されるようで、心が沈む。
そんななか、フィッツはときどき手をさしのべてくれる。話を聞いてくれるだけの助けでも、人に話せば頭の中が整理されるし、なにより孤独が軽くなる。
私は、倉庫の様子と中が空だったことを語った。魅惑的な匂いについては省略した。
「ビク酒というのは、ビクの皮で作った袋に芋焼酎を詰めて、三か月寝かせることで完成するのだそうだ」
「そうなのか。どんな酒なのか、匂いだけでもかいでみたいな」
フィッツは、ララト・アンのこぼした安酒やヨッコの尿、一座の荷物のほこり臭さに、この貸部屋の木材の匂いが混じった空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「今年もいつものように、袋職人三人と酒の造り手十四名の計十七人で、大樽から袋に酒を注いで、袋詰めの責任者であるギャン・チュカンの指揮のもと、倉庫に運び、出入口を石と漆喰で封印した」
「皮袋に注いだものは、たしかに酒だったんだよな」
「そのようだ。何人もが味見をしている。その時点では、ただの芋焼酎だが」
「その芋焼酎が、地元の人間すら口にできない高価な酒に変わるなんて、酒が水に変わる以上の不思議だな」
私は同意してから続きを語った。
「三か月がたって、すべてを引き取る約束のある商人の一行がやってきた。荷馬車の列が村に近づいてくるのを物見台から見つけた酒の造り手たちは、利き酒をするため、倉庫の入り口を壊して、十四人がそろって中に入った。出荷の責任者であるテン・ハングリが、皮袋に注ぎ口を突き刺した。これは、片方を斜めに切って尖らせた葦に似た植物の管で、反対側には栓が取り付けてある。長さはてのひらの幅ほどで、一度突き立てたら、穴の周囲を糊で固めて、中身が空になるまでそのままにしておくものだ。村の人間は、利き酒のために一袋だけ注ぎ口をつけていいことになっていた。そして、全員がひと啜りずつ味見をする」
「ギャンって人が言っていた、役得ってやつだな」
フィッツが羨ましそうに唇をなめた。
「うん。ところが今年、注ぎ口から出てきたものは、焼酎ですらない、水だった。まずテンが味見をして驚き、続いて啜ったギャン・チュカンも、確かに水だと騒ぎだした」
ギャンが騒ぐとどれくらいうるさいかを先ほど耳にしていたフィッツは、苦笑いした。
「さらに何人もが、その袋から出てくるものが水だと確認したあと、ほかの袋を調べようとの声があがった。注ぎ口を他の袋に突き刺すのは取り決め違反だと反対する者もいて、言い争いになった。袋の匂いをかいで判別しようともしたが、毎年ビク酒を納めてきた倉庫には、その匂いがしみついて、床や壁までぷんぷんしている。はっきりしたことはわからなかった」
「そういえば、おまえのからだ、うっすらだが、なんか匂うな」
フィッツが鼻をひくひくさせて、ふたたび舌なめずりをした。
「そうしているうちに、商人が到着した。彼らの了解のもと、別の袋に新しい注ぎ口を突き刺した。出てきたものは、やはり水だった」
「誰がそれを確かめたんだ」
「商人と村の者、ひとりずつだ。そうやって、テンとギャンと隊商の長が無作為に選んだ計六つの袋に注ぎ口をつけて、同じように味見をした。どれも水だった」
「注ぎ口から直接飲んだのか」
「椀に少量注いでから、啜ったそうだ」
「その椀に、もともと水が入ってたってことはないのか」
「村の大事だからな、全員が目を光らせていた。注ぎ口を突き立てるときも、栓をひねって椀に中身が注がれるときも、味見の者が椀を傾けるときも」
「ふむ」とフィッツが首をひねった。
「商人たちは腹を立てたが、約束に従い、すべての皮袋を持っていった。中身が水なのだからこれが相場だと、とてつもなく安い金と引き換えに」
「村の人たちは、それに反対しなかったのか」
「酒が水に変わったことに呆然として、それどころではなかったらしい。袋代くらいにしかならなかったが、何も貰わないよりましということで、了承した。それに、倉庫の中には、〈太陽の街〉に納めるためのビク酒もあった」
「おいおい」と、フィッツの声が少し高くなった。今度は座長がぶつぶつ言って寝返りをうった。
「それもみんな、水になっていたのか」
座長がふたたびいびきをかきはじめてから、フィッツが訊ねた。
「それが、不思議なことに、例年通りにビク酒が出来上がっていた」
フィッツは目を丸くした。
「そりゃあ、いったい、どういうことだ」
「倉庫には、売る酒と、〈太陽の街〉に納める酒が、通路となる空間をはさんで区別して置かれていた。売る酒のほうは水に変わり、納める酒はみな無事だった」
「ひとつ残らずか」
「すべての皮袋に穴をあけるわけにはいかないし、用意してある注ぎ口の数も限られるから、全部は無理だ。売るほうが、さっきも言ったが、最初に二つとそのあと六つの計八つ。納めるほうが三つ。場所を変えて適当に選んで試して確認した――と、テンとギャンが証言した」
フィッツは大げさに眉を上げただけで、何も言わなかった。
「まあ、そのあたりについては、ビクの皮の袋がどんなものかわからないと、ちゃんとした理解ができない。なにしろ倉庫は空っぽで、酒や水だけでなく、袋すら見ることができなかったからね」
「それにしても、ビクの皮にそんな使い途があるなんてなあ」
そう言うとフィッツは、合図を受けたヨッコのように大きく口をあけた。これは、正真正銘あくびだろう。私は話を終えることにした。
「最後にひとつだけ、聞いてほしいことが、いや、意見を聞かせてほしいことがある」
「なんだい。ひとつでも、ふたつでも、かまわないぜ」
「倉庫の中には、商売ものの酒と、英邁なる〈太陽の君〉に捧げる酒とがあった。商売ものだけが、どうしてだか水に変わった。そう聞いたら、おまえはどう思う」
「どうって、不思議だなと思う。現にいま、そう思ったし」
黙りこむ私の顔を、フィッツがまたのぞきこんだ。
「どう思えばよかったんだ」
「さあ」
ギャンとテンはその事実を告げたあと、ふたりそろって、期待に満ちた目で私を見たのだ。話がここまで来れば、結論はひとつだろうといわんばかりに。
(つづく)