感慨に耽るのではなく、圧倒されないよう気を持ちながら、周囲を油断なく探る。
部屋もまた、だだっ広い。板張りの床が、どこまでも続いていた。
廊下の時とは違って、遠くに山のような影が見える。
まるでそちらに誘うように、吊り灯籠が並んで現れた。
驚き、警戒はするが、他にどうすればいいかもわからず歩き出すと、山が徐々に人の形へと姿を変えた。
いつの間にか、殺風景だった部屋に様々な調度品が現れる。
箪笥や文机が並び、忙しなく歩き回る人影が現れた。昔の中国の官吏が被っていたような、棒の刺さった帽子を被っている。
紙に筆を走らせている者もいれば、書き上がった書類を持って早足で追い抜いていく者もいた。
おそらく獄卒だろう。地獄やあの世で働く役人のことだ。奪衣婆や懸衣翁と違い、こちらは普通の成人男性に見える。
朱色に塗られた木柱が現れた。鮮やかな青い塗料と、豪華な金細工で模様があしらわれている。色使いから、沖縄の首里城が連想できた。
日本と中国の文化が混じり合ったような趣に見とれていると、目の前にでかい机が現れた。
そこに、霧が晴れるように人影が色を帯びる。
赤ら顔の巨大な男が、厳めしい顔つきで書類に目を通していた。
直感する。これが閻魔大王だ。
黒と赤を基調にした着物姿で、他の獄卒と同じような帽子を被っている。ただし微妙にデザインは違っていて、金の糸で縁取りされていたりと、こちらの方が豪華だった。
身長は、ざっと二メートル半くらいだろうか。巨漢には違いないが、遠目だと山のように見えていた割には小さい。
眉は太く、口を覆うヒゲは馬鹿みたいにもじゃもじゃだ。みぞおちあたりまで伸びている。どちらもきちんと整えられていて汚らしさはない。厳粛さと威厳が形になって表れているようでもあった。
「……ふむ」
じろりと、眉間に皺を刻みながら、閻魔がこちらを睨んでくる。
手には笏があり、肩を軽く叩いていた。うそをつくと舌を抜かれるなんて俗説もあるが、すくなくともペンチのような器具は見当たらない。
「パパ! あれ、えんま様だよね!」
翔が声を高くして喜ぶ。今より小さかった頃、『じごくのそうべえ』という絵本を楽しんでいたのを、島田は思いだした。
「いかにも。余が冥府の王、閻魔である」
声だけは、想像していたよりもずっと穏やかだった。
瞳も、翔を見つめる様子は優しい。
「そう緊張せずともよい。今までの審問で、あらかたの聴取は終わっている。ここでは特定の罪ではなく、今までの審問と、現世での行い全般を調べて、有罪か無罪かを判断することになっている」
「なあ、閻魔様。相談があるんだが」
島田が先に声をあげる。
「子供と一緒に裁判を受けても構わないか? こいつは人見知りで、一人だとろくに裁判なんかできないと思うんだが?」
「ふむ」
獄卒が別の書類を手渡す。一瞥し、数秒もかからず、閻魔は頷いた。
「いいだろう。どうせ貴様の最後と、その子の人生は重なる。裁判が順調に進むなら、こちらとしても望むところだ」
よし、と島田は心の中でつぶやく。
地蔵菩薩と閻魔が同一人物であることを、島田は知っていた。
地蔵は、子供の守り神として、お地蔵さまとあがめられている。子供に優しいというか、甘い部分があるのではと期待していたが、思った通りのようだ。
「では、島田穣治。島田翔よ。これより二人の裁判を始める」
厳かな声が名を呼ぶ。周囲に並んだ蝋燭や提灯の光は、小揺るぎもしていない。なのに、後ずさってしまいそうになる威圧感があった。
獄卒が差し出した書類がめくられる。
「ふむ。貴様ら親子は、これまでの審問、すべての罪を否定しているようだな」
「当然だ」
「そちらの子供もだな?」
念を押すような質問に、翔は島田の腰にしがみついて答えない。ぎょろりと見つめられ、怯えるように身体を縮こまらせている。
島田がちゃんと答えるよう促すと、ようやく小さな頭が頷いた。
「……はい。パパが、そう言えって」
「よろしい。今からその主張が正しいかどうかを審議する。倶生神!」
閻魔の求めに応じて、島田の背後から二人の鬼が現れた。翔の背後からもだ。
もはやなにが起こっても不思議ではないが、なにもなかった空間からなにかが現れる現象には、毎度驚く。
「この二人は同名天と同生天。二柱一組で倶生神と呼ばれる神である。この二人は生まれたときから一人の人間に付き従い、行動の全てを記録している」
同名天は男の、同生天は女の姿をしていた。島田の背後から現れた二柱は大人の姿をしていたが、翔の方は幼い。取り憑いていた本人と同年代に見えることから、同じように年を取るのではと予想できた。
閻魔が、四人の二柱が差し出す巻物を受け取る。
「浄玻璃鏡!」
続いて、閻魔の後ろから鏡が現れた。
一見するとただの姿見だ。ただ、大きさが尋常ではない。閻魔を一回り大きくしたほどで、縁には金細工による装飾が施されている。アンティークの風格はあるが、鏡面はなにも映さず真っ暗だ。
「オン!」
閻魔が呪文のようなものを口走る。
途端に鏡が光った。おかげでそういう形の液晶テレビに見える。
まさか電源オンオフの「オン」じゃないよな──とは思ったが、島田は黙ってことの成り行きを見守った。ちなみにコンセントやケーブルはもちろん、バッテリーの類いは見当たらない。
「島田穣治。三十五歳。神奈川県川崎市生まれ。現在は東京都八王子市在住。両親は警察官。幼い頃の将来の夢は、おまわりさんになること」
唐突に、島田の過去が読み上げられる。
さらに、浄玻璃鏡と呼ばれた鏡に幼い頃の自分が映っていた。
覚えがある場所だ。父親が家を買う前に利用していた寮で、十歳頃まで住んでいたはずだ。鏡の中の島田は五歳ぐらいで、警察帽を被っている。両親が、温かな表情で見守り、なにかを語りかけていた。
声や音は再現されない。なにを話しているのか知りたい気持ちと知りたくない気持ち、両方が島田の胸に去来した。
「……勘弁してくれよ」
自分の過去を知られているのは、わかっていた。それにしても、小さい頃の将来の夢までとは、赤面ものだ。しかもこんな映像まで用意できるなんて。
動揺を誘っている訳でもないようだ。閻魔は島田親子の様子を探る素振りすらなく、書類に視線を落としている。
「ねえパパ。あれひょっとして、パパなの?」
「……認めたくないけど、そうだよ」
まさか自分の人生がまるごと上映されるんじゃないだろうな。危惧したところで、映像は中学の入学式に飛んだ。
確かに、小学生時代のことなど、島田本人もほとんど忘れてしまっている。中学時代についても、印象深いことしか記憶にない。
その印象深い記憶が、浄玻璃鏡の中で展開されていた。
「中学では柔道部に入部。その際、耳が潰れると女性にモテないと言って、一人だけ禁止されているイヤーガードを付けて練習していたところ、顧問の逆鱗に触れる」
中学時代の島田が、無様にうずくまっていた。みぞおちを殴られ、昼に食べたもの全部を吐き出し、顧問と他の部員に笑われていた。
そんな映像を息子の前で流す必要があるのかと、抗議したくなる。恥をかいた気分だ。
「高校は地元の進学校に入学。一年生が終わると同時に両親が離婚。母親に引き取られるも、苗字が変わるのが嫌で島田姓を使い続ける」
さらには家庭環境まで。
その後も、大学時代の生活や、初めて恋人ができたこと、アルバイト先の居酒屋で仕事が覚えられずクビになったことなどがバラされた。
たまらんなと、島田は俯く。あげくに、就職浪人中、当時の恋人に「あなたと一緒にいても幸せになれる未来が見えない」と捨てられたことまでばらされた。
咄嗟に翔の頭を抱きしめ、両目両耳を塞ぐ。七歳児にはわからないだろうが、それでも聞かせたくないことだった。
その後も閻魔は、島田の経歴を次々と読み上げた。
新しいアルバイトを始めたこと。そのアルバイト先で新しい恋人ができたこと。正社員になる話が消えたこと。恋人から五十万円を借りて逃げたこと。などなど。
まるで自分の歴史年表を聞かされている気分になる。
「アルバイトを辞めた後は、仙台の清掃会社に就職。入社して一週間後に退職」
忘れていたこと──いや、忘れようと努力していたことまで、ほじくり返された。
「一か月後に印刷工場に就職するも、こちらは半年で退職。会社の寮を追い出されホームレスとなり、神奈川へ帰郷。そこでアパートを借りるため母親に保証人を頼むも、母親の再婚相手に断られる」
無一文で帰ってきた島田を出迎えたのは、冷たくあしらう母親と、ニヤニヤと小馬鹿にするその再婚相手だった。
閻魔が指摘したように、保証人になってほしくて連絡を取り、数年ぶりに再会したというのに、母親の態度は冷淡だった。
それどころか、何故かその場に連れてきた再婚相手が、説教を始めたのだ。
曰く、ものを頼む態度にしては頭が高い。
曰く、努力など結果を出さねば無意味。
曰く、男なら母親に仕送りをするのが普通だろう。
曰く、ここから這い上がれば君も一人前だ。できなければ負け犬だ。
曰く、土下座すればなんとかなると思うなんて、考えが甘い証拠だ。
これを一時間、土下座の格好で聞かされ続け、その間母親は冷たい顔で島田を見下ろしていただけだった。
島田姓を使い続ける自分のことを、母親が快く思っていないのは知っていた。大学時代に父親と会っていたのも。それに当時は、思春期特有の潔癖症のせいで、警察を辞めてホステスになった母親と、うまく打ち解けられなかった。気にくわないと思われていたことは知っている。
だからって、土下座の強要を見て見ぬ振りするなんて……そんなに自分のことが嫌いなのか? この時、島田の心は絶望で締めつけられていた。
母親の再婚相手とも、ウマはあわなかった。
初対面の時から、見下すような態度だった。それは、実の父親が違法捜査で逮捕されてから、より強く、ハッキリと感じるようになった。
次々と思い出したくもない過去が、それも映像付きでばらされ、もはや島田の心はずたぼろだ。
ちなみに母親との関係は、未だに修復できていない。死んでしまった今、二度とかなわぬことだ。どうでもいいことだが。
「コロナ禍の時には、給付金を代理請求する仕事に従事。その後所属していたNPO法人の代表が逮捕され、団体は解散する」
苦味が口の中に広がる。
黒いもやもやとした感情が胸に満ち、意識して、深呼吸を繰り返した。
おそらく次に告げられるのは……
「東京へ拠点を移し、学習塾に就職。そこで知り合った女性と結婚し、一年後、妻が不倫をして息子を置いて逃げる」
やっぱりだ。
浄玻璃鏡に、放心する島田の姿があった。不倫を見抜けなかったからでも、捨てられたからでも、貯金を根こそぎ持っていかれたからでもない。
まだ二歳にも満たない翔と二人で、これからどうすればいいのか、途方に暮れていたからだ。
なにしろ翔は、逃げた妻の連れ子だ。母子手帳がどこにあるかわからないし、アレルギーの有無も、既往症も、どこの保育園に通わせているのかも、まったくわからなかった。
「思い出したくもないことを、次から次と……」
こぼれそうになるため息を飲み込んで、閻魔に向かって呻る。
「息子と二人暮らしを始める。その息子に、レアカードと偽ったニセカードの販売をさせる」
聞き逃せない言葉に浄玻璃鏡を覗き込めば、翔が三人の男にカードを手渡しているところが映された。モンスターを集めて戦わせる人気のカードゲームだ。中には七億円で落札されたレアカードもある。浄玻璃鏡に映った翔は、カード一枚につき十万円を受け取っていた。
「そして!」
まるでクライマックスにでもさしかかったように、閻魔の声が大きくなる。
「マッチングアプリで知り合った女から、息子が病気になったと称して五百万円を受け取り、二年後にその女に刺し殺された。享年三十五。ただしこれは満年齢とする」
浄玻璃鏡が、刺身包丁でみぞおちを貫かれる島田を映していた。真正面から受け止め、背中まで貫いている。
錯乱した女が、もう一度突き刺す。映像の中の島田は、吐血して、自らが作った血だまりの中に倒れた。
その後、女は怯えてうずくまる翔の首に手を伸ばし……そこで映像は暗転する。
翔の両目両耳を塞いでおいてよかった。こんな残酷な光景、見せられない。
「ここまでの話に、なにか異論や申し開き、質問はあるか?」
「柔道部の顧問は三年前に癌で死んだらしいけど、ちゃんと地獄に行ったんだろうな?」
「個別の裁判には答えられない決まりになっている」
苦し紛れに尋ねるも、官僚的な返答に笑ってしまいそうになる。
「参ったな……」
島田はわざとらしく肩をすくめてみせた。
困ったことに、全部本当だ。
おまわりさんになるのが夢だったことも、両親の離婚も、就職浪人も、その時の恋人に手ひどく振られたのも、二人目の恋人から金をだまし取って逃げたのも、マッチングアプリで知り合った女に刺されたのも、全部本当にあったことだ。
この結婚詐欺師! と罵る女の声が、生きている時に聞いた最後の言葉だ。他にも何か言っていた気はするが、覚えてない。
「これまでの人生を鑑みるに、島田穣治よ、貴様は規則や法律を守る意識が低く、人を騙して金品を巻き上げることに躊躇がない。おまけになにも知らない子供まで犯罪をそそのかし、共犯とした。その子が殺され死んだのは、貴様のせいではないか?」
「おいおいおい、ちょっと待ってくれ。他人の行動まで俺のせいにするのは、やりすぎだろ」
認めれば即刻地獄行きが確定しそうで、とにかく否定する。
「人は人。自分は自分。人生の一部を他人のせいにした時点で、そいつはもう、考えが甘いんだ。気に入らないからって人を殺していいなら、現世は犯罪者だらけだろ?」
「そういう問題ではない!」
「ひゃあ!?」
地鳴りのような声に、耳と目を塞いでいた翔が跳びはねた。
そのままいつものように、足にしがみついて隠れようとする。
「子供まで罪を犯すことになったのだぞ。おかげで二人揃って地獄行きだ。親である貴様の責任でな!」
「かわいそうに思うなら、子供だけでも極楽へやるべきだろ。第一、地獄へ行かなきゃならないほどの罪が、子供にあるかよ」
でないと、蜘蛛の糸を垂らしてもらう作戦が使えなくなる。
心の中でわざとらしく付け加えた。
「あ、あの……」
翔が、おずおずと閻魔を見上げた。
「悪いことしてごめんなさい。あやまるから、許してください」
閻魔が、沈痛な面持ちで眉間に皺を刻む。
睨まれたと思ったのか、翔が悲鳴をあげて身体を縮ませた。
なだめるように頭を撫でながらも、島田は内心焦っていた。
このままでは二人揃って地獄行きだ。
覚悟を決めて、島田は深く息を吸って、止めた。
ろくなことのない人生だった。せめて死後は安らかでないと、割に合わない。
この裁判で必ず極楽行きを勝ち取る。
閻魔とはいえ元は人間、つけいる隙はあるはずだ。