痛みが島田のみぞおちを貫く。
鍛えていた腹筋も、刺身包丁が相手ではどうにもならなかった。
真っ直ぐに突き刺さった包丁を引き抜こうと、手を伸ばす。
筋肉が消えたように、力が入らなかった。
呼吸が詰まり、踏ん張りも利かず、鉄臭さが喉の奥から込み上がり、むせて、激痛が全身を駆け巡った。
直感で、駄目だと悟る。
そこに、二度目の衝撃が来た。無駄なことを。とっくに致命傷だったのに。
刺した女が、目を見開いて後ずさる。自分のしでかしたことに、今さらながら驚いているようだ。嗚咽をこぼしながらくずおれ、床にうずくまったまま、なにやらわめいている。
不思議だ。声は聞こえるが、言葉が理解できない。
ありがたい。
皮肉っぽく、島田は唇の端を吊り上げる。どうせいつものように、自己憐憫と他責思考の入り交じった言い訳だろう。こんなときに聞きたいもんじゃない。第一、もう女のことなど、どうでもよかった。
それよりも、気になることがある。
が、気がつけば目の前に床があって、頬から倒れていた。
動けない。ぴくりとも。
ぬるりとした感触が広がってくる。血だまりの中にいた。
抗えない圧力が、身体に覆い被さっている。
いつの間にか、痛みは嘘のように消えていた。
痛みだけじゃない。あらゆるものが知覚できなくなっていく。
視界も、色が抜けていくように、灰色に染まりだした。
そんな中でも、自らの傷口から溢れ出す血だけは、鮮烈なほど赤い。
これが、死か。
眠ったら最後だ。そんな恐怖もあって、全身の力を込めて目蓋を開く。
抵抗は無意味だった。視界から全ての色が失われる。目を見開いたまま、意識は暗闇に呑まれるように消えて……
一
うとうとしていたらハッとしたような気分で目が覚める。体感的には一瞬だ。
なのに、見上げる景色はアパートの天井ではなく、黄色い曇天だった。
──黄色い曇天?
訳がわからず、島田はそのまま呆然とする。
上半身を起こそうとして、背中の痛みに違和感を覚えた。
刃物で貫かれた痛みじゃない。見下ろすと、石ころだらけの地面に寝転がっていたようだ。
おかしい。みぞおちに突き刺さっていた包丁が消えている。傷痕すら残っていない。
なのに服は血まみれだ。ジャケットやTシャツはもちろん、リーバイスの復刻版ビンテージジーンズにまで、赤黒い染みができている。奮発して買ったのに。
Tシャツには、刃物が貫通した証拠である穴も空いていた。きちんと二箇所ある。痛みを思い出して、口元が歪んだ。
戸惑いながら立ち上がる。
今になってようやく、目の前に川が流れていることに気づいた。だから角が取れた石が多かったのか。
待て。目が覚めたときに、川なんてあったか? 対岸が見通せないような馬鹿でかい川だ。湖か海を思わせるが、滔々と流れている。緩やかながらも傾斜がある証拠だ。
雰囲気としては、テレビで見た中国の黄河や長江を思わせる。それでいて、黄色い曇天をものともしない清流だ。清すぎて魚は一匹も見られない。
こんな川を見過ごすはずがない。さっきまでなかった。いきなり現れたと考えるのが妥当だろう。
刺されて、意識を失い、目を覚ませば河原にいて、でかい川がある。
どういうことなのか明白だ。それでも島田は、馬鹿馬鹿しく呻いた。
「まさか三途の川じゃないよな?」
「ご明察」
しわがれた声が背中に触れた。振り向くと、着物姿の老婆が大きな石の上に腰を下ろしていた。不敵にも、だらりと垂らした左足に右足を乗せ、そこに肘を置いて、頬に手を添えている。
川と同じく、あの大きな石も、老婆も、直前には存在しなかった。
前髪の隙間から、大きな目がぎょろりと覗く。
「ふうん。どうやらろくな死に方じゃあなかったみたいだね」
言うと同時に立ち上がり、近づいて来る。
老婆は、一八〇センチ近くある島田とほぼ同じ身長で、おまけに平均的な男性よりも筋肉質だった。胸板の厚さと両肩の筋肉の盛り上がりが、威圧的ですらある。ちらりと覗く太股も、太いのに無駄な贅肉が一切見当たらなかった。
異様な光景に、異様な人物。異様な物言い。
自分がどうなったか自覚はあるが、ひねくれた性格が島田を惚けさせた。
「ばあさん。北斗の拳にモブ役で出てなかったか?」
「穏やかに死んだ奴ほど、自分が死んだと自覚できないからね。そういう亡者は、ちとめんどくさいんだ。死を認めず逃げ回るからね」
無視して、老婆は島田の腹を指さした。
「けどあんたは、ちゃんと死んだ自覚がある。いや、殺された自覚だね。刺されたんだろう。二回もだ。片方はみぞおちかい。息が詰まって、さぞかし苦しかったろうねえ」
ひゃひゃひゃ、と老婆が肩を揺らす。アニメかドラマでしか見ないような笑い方だ。余計に現実感が遠のく。
島田は妙な感慨を覚えながら、改めて老婆を眺めた。
これが、人が死んで最初に出会う冥府の官吏、亡者の服を脱がすという奪衣婆か。
「俺は無神論者なんだ。死ねば意識は消滅すると思ってたんだけど、まさか死後の世界があるなんてな」
「おや?」
ぎょろりとした目が、島田の後ろに注がれる。
振り向く間もなく、下半身に軽い衝撃が来た。
「パパ!」
「翔!?」
警戒するのも忘れて、子供の名を呼ぶ。見下ろせば、小さな男の子が島田の足にしがみついていた。
「うそだろ。だって、さっきまで誰も……」
改めて周囲を見回す。島田と翔と奪衣婆しかいない。間違いなく、翔の姿はさっきまでなかった。川と同じく、唐突に現れたんだろうか。
一瞬、息子が偽者ではと疑った。けれども、寂しそうに見上げて来る瞳や、捨てられるのを怖れるように抱きついてくる仕草は、間違いなく翔のものだ。抱きしめた感触も、声も、匂いまで記憶と一致する。
「本当に翔なのか?」
こくんと無言で頷き、顔を押しつけるように腰にしがみついてくる。一人での留守番を言い含めるときに、よく見せた仕草だ。
間違いない。この子は本物の翔だ。
──どうしてここに?
問いかけて、口を噤んだ。
ここが本当に三途の川なら、健康的な七歳児がいる理由はひとつしかない。本人に答えさせるのは、あまりに酷だ。
女に対する怒りはあったが、息子への憐れみが勝る。
思わず、奪衣婆に向かって口を開こうとするが──
「死者を蘇らせることは不可能だ」
口にするより先に、背後からの低い声が遮った。
振り向くと、老爺が佇んでいた。
やはり、さっきまでこんな奴はいなかった。間違いない。
誰なのかは察しがつく。三途の川に奪衣婆ときたら、残りは懸衣翁しかいない。奪衣婆が剥いだ衣類を、衣領樹と呼ばれる樹の枝に吊す官吏のひとりだ。その枝のしなり具合で、罪の有無を測るという。
油断なく距離を取りながら、島田は呻いた。
「……あの世の官吏ってのは、人の心が読めるのか?」
「人間の考えることなんざ、似たり寄ったりってことじゃ」
こちらも、老人にしてはガタイがいい。殴り合いを避けたいと思わせる程度には、筋肉が発達している。奪衣婆と並ぶと威圧的ですらあった。
かか、と懸衣翁が笑う。同時に大地が揺れた。
「ひゃっ!」
翔が悲鳴と共に強くしがみつく。
河原が割れ、なにかの植物が芽吹いたかと思うと、めきめきと音を立てながら大樹へと生長した。現実ではあり得ない生長速度だ。
おそらくこれが衣領樹だろう。幹から無数の枝が縦横無尽に伸びていく。
奪衣婆が指を鳴らした。
「さあ、服を脱いでもらおうか。服ってのは、纏う人間の生き様さね。そいつで罪の重さを量るのが、私らの仕事なのさ」
「運がよかったな、お前ら。裸なら、皮を剥いでいたんだがな」
懸衣翁の口元が歪み、わざとらしく顔を近づけ、睨みつけてくる。
「やだ! パパ! パパ!」
「大丈夫。言う通りにするんだ」
怯える翔をなだめながら、島田は指示に従った。
懸衣翁が服を枝に吊す。あの枝がしなればしなるほど、罪は重いとされているはずだ。
島田の目には、物理法則に則ったしなり程度にしか見えない。
「どうなんだ? まあ、聖人君子とは言わないが、品行方正には生きてきたんだ。極楽行きはかたいだろ?」
「そいつを判断するのは、閻魔の裁判次第だよ」
おどけた島田だが、奪衣婆が口にした名前に、さすがに緊張が浮かぶ。
閻魔の名を知らない日本人はいないだろう。さらに島田は、職業柄一般人よりも知識があった。
元は人間で、人類最初の死者であり、冥府の王となったあの世の裁判官のことだ。
地獄の裁判は、手順がしっかりと決まっている。
死んでから最初の七日目に、不動明王に殺生を。
続けて七日ごとに、釈迦如来に盗みを。
文殊菩薩に不貞を。
普賢菩薩に妄言(うそや詐欺)を。
最後に地蔵菩薩によって生前の行いを総合的に審議され、判決を下される。
地蔵菩薩とは、閻魔の別名だ。現世に存在するお地蔵さんは、閻魔が子供を見守るための仮の姿とされている。
その後、弥勒菩薩により刑が決定し、薬師如来によって最終判決が下される。ちょうど四十九日だ。
「私らは、罪があるかないかを調べてるだけさ。判決は、後の楽しみにとっておきな」
奪衣婆の説明で、諒解した。
現世の捜査にあてはめて考えるなら、普賢菩薩までが警察による証拠や証言集めで、それらを元に、閻魔による裁判が行われるということだろう。
「ふん……こいつは考えようによっちゃあ、好都合かもな」
なにかを思いついたように、島田が翔の頭を撫でながら、口元をニヤリと歪めていた。
あまりに自信たっぷりだったせいか、奪衣婆と懸衣翁は訝しむ。
島田は、わざとらしく肩をすくめた。
「子供に地獄へ行く罪なんかあるはずないだろ」
「まあ、普通に生きてればそうだろうねえ」
「つまり、この子が極楽へ行くのは間違いない。だったら、そこから蜘蛛の糸を垂らしてもらえば、俺も極楽へ行けるってわけだ」
奪衣婆と懸衣翁が歯を剥いて仰け反った。
「つまり、自分には罪があるって自覚はあるんだね」
「やはり、人間の考えることなんざ、似たり寄ったりだな。浅はかなところも同じか」
服が投げ返され、顔に被さる。
引き剥がしたときには、島田と翔は船にいた。奪衣婆と懸衣翁の姿は消えていて、馬鹿でかい川を下っていた。周囲を見回すも、衣領樹も見当たらない。
「ねえ、パパ。ここ、どこなの? あのお姉ちゃんは? さっきいたおじいさんとおばあさんは? どうしていきなりいなくなっちゃったの? 木がいきなり大っきくなって、船はどこに向かってるの?」
それまで我慢していたのか、反動のように質問が来た。幼さ故に言葉は整理されていないが、それだけに本人の混乱振りがよくわかる。
ごまかすことなく、島田は告げた。
「どうやら俺たちは死んだらしい」
ぽかんと、幼い顔が見上げてくる。よくわかっていないのか、理解した上で呆気にとられているのか。親子といえどしょせんは他人だ。そこまでは島田にもわからない。
「わかんなくてもいいよ」
ここはまだあの世ではないことを、島田は知識として知っていた。
彼岸と此岸、現世と常世。この世とあの世。言い方はいろいろあるが、その中間地点である中陰と呼ばれる空間だ。
おそらくは、死を受け入れさせるための準備期間だろう。奪衣婆や懸衣翁、突然現れる三途の川や、見ている間に大きく育つ大樹などは、その一環に違いない。現実離れした現象を続けざまに見せつけることで、もはや現世にいないと自覚を促しているのだ。
ここまで知識通りなら、この後待っているのは地獄の裁判だ。
「まあ、なんとかなるだろ」
うそぶいて、島田は船に身を委ねる。
どうせ死んでるんだ。焦ったところでどうしようもない。
地獄の裁判は、思った以上にスムーズに進行した。
七日ごとの審問も、通り一遍の質問がなされるだけで、激しい追及などはなかった。
もともと島田は、この点を心配してはいない。
殺生も不貞も、された側だ。
妄言についても、ゼロとは言わないが、地獄に落とされるようなものはついていないと主張し、それ以上は追及されなかった。
いよいよ、閻魔とまみえる日になる。
船に導かれ、三途の川を越え、決められた審問をこなし、長い道を歩きながら、馬鹿でかい朱色の門にたどり着く。ざっと見積もって、十メートルはあるだろう。
最上部には『閻魔殿』と書かれたどでかい表札が掲げられている。文字からして重々しい。
こんなの、どうやって開ければいいんだ? 島田が悩んでいると、勝手に開いた。
中に、向こうを見通せないほどの長い廊下が続いている。
恐る恐る中へ入ると、やはり勝手に門が閉じた。戻ることはかなわず、導かれるように島田と翔は廊下を歩き出した。
途端に、立ちくらみのような眩暈が平衡感覚を失わせる。
不思議な空間だった。歩いても歩いても、前に進んでいるように感じない。
なのに、一歩ごとの間隔が数メートルあるような、奇妙な浮遊感がある。
地面ではなく空間を移動しているような感覚だ。
戸惑っていると、不意に広い部屋に出た。
うそだろ? まだ数歩しか歩いていないのに? あの長い長い、端すら見通せなかった廊下を、こんな短時間で?
空間認識が滅茶苦茶になって、島田は胸の奥を押さえた。気をしっかり持っていないと、吐いてしまいそうだ。
「ここが閻魔庁か……」