『#ハッシュタグストーリー』の発売を記念して、全4篇の冒頭を公開。今回はカツセマサヒコさん『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』をお楽しみください。麻布競馬場さん、柿原朋哉さんの作品は公開中で、木爾チレンさんの作品も順次公開していきます。
『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』はスカッとするいい話。ストーカーににじり寄られて大ピンチの主人公。そのとき思い出したのは高校時代の文化祭のテーマ。勇気を奮い立たせるあの言葉を胸にストーカーをぶっ飛ばせ。この魔法の言葉を作ったかつての友達・和田はどうしているのか。悩める大人に勇気を与える傑作短篇です!

 

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#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ

 

 なんだっけ、それ。

 頭の中に浮かんだ文字列に、南条涼香は覚えがあった。だが、単語の並びまで正確に把握しているのに、その言葉が持つ意味までは思い出すことができない。

 携帯で調べれば、何か出てくるかもしれない。しかし今は手元になく、あるのは膨らみ続ける恐怖心と、現実から逃避しようとする正常化の本能だけだった。

 南条は頭の中で、稚拙な単語のつながりを繰り返す。ウルトラサッド、アンド、グレイトデストロイクラブ。ウルトラサッド、アンド、グレイト、デストロイ、クラブ。ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ。徐々にその言葉の真意に近づいている気がするが、あとわずかのところで、輪郭はぼやける。そのうち脳では処理しきれなくなり、南条は経を唱えるように、ぶつぶつとその言葉を口にし始めた。

 ウルトラサッド・アンド・グレイトデストロイクラブ。

 絶望的な状況を前にして、捻り出された言葉の音とリズム。意味はわからずとも繰り返しているうちに、南条は、全身から抜けていたはずの力が、再び湧き起こってくる気がした。

 いけ。ぶっとばせ。いけ。いけ。

 呪文に背中を押されるように、南条は一気に床を蹴って、体を起こした。リビングから扉一枚隔てた先の寝室に駆け込むと、すぐに鍵をかけようとする。しかし、男の腕が一秒未満で戸の隙間に入り込み、それを防いだ。

 南条は渾身の力で、扉を押し返した。

 ウルトラサッドだよ。

 誰かに言われた言葉。なんだっけ。踏ん張るために腰を低くすると、後ろに伸ばした左足が、何かに触れた。ずっと使っていなかったゴルフバッグが、出番かと南条に呼びかける。

 南条は腕で押していた扉を肩で押し替えると、ゴルフバッグを斜めに倒し、手探りでクラブを抜き出した。その瞬間、扉にぶつけていた力が弱まったせいか、男の体が、勢いよく寝室に入り込んでくる。

 いけ。ぶっとばせ。

 男が勢い余ってベッドに突っ込んだ瞬間、南条は両手に握りしめたそれを、スイングした。壁や天井に当たらぬように鋭い軌道を描く必要があり、うまく力が入らない。しかし、クラブのヘッドは男の側頭部を、確かに擦める。

 男は、視界に一瞬、南条の姿を捉えた。だが彼女が持っていたクラブを目で追うと、すぐその視界は揺れ、膝からストンと崩れ落ちた。

 男の細くて大きな体が、うつ伏せになって倒れ込む。

 なにこれ。なにこれ。なにこれ。

 荒くなった呼吸が、余計に頭を混乱させた。

 全身が心臓にでもなったように、体は激しく脈打ち、伸縮を繰り返している。下半身に力が入らなくなり、その場の重力に負けるように、南条も座り込んだ。

 分泌されたアドレナリンが、目の前の光景をスローにさせて、南条は走馬灯のようなものを見た。

 あれは、十年前の記憶。十七歳だった南条たちの、最強だった高校時代の記憶。

 

 

 二年E組は、文化祭で何をするか、もしくは何もしないのか、その選択を迫られていた。文化祭も体育祭も、やる気があるのは運動部の一部の人間だけであり、教室に二割もいない彼女ら彼らが決めるクラスの意向は、帰宅部だった南条からしてみれば、実に退屈なものばかりだった。

「ホストクラブみたいなカフェ開こうぜ! 女子がたくさん来そうなやつ!」

「えーやだ! キャバクラやろうよ! 男子がボーイしてさ!」

「てかお化け屋敷よくね? ガチこえーやつやろうや!」

 サッカー部と、バスケ部と、野球部の連中が、おもしろくもないアイデアを次々に投げ込む。南条はそれら全てをくだらないと思いながら、ただ黙って時が過ぎるのを待っていた。おそらく南条だけでなく、多くの生徒がみな、そうしていた。

「なんで誰も意見言わねーんだよー。協力しろよ、協力。団結だよ、こういう時こそ。オールフォーワンだろー? ほら。じゃあ、えっと、和田! なんか言えよ、和田!」

 学級委員であり、サッカー部のレギュラーでもある渡良瀬が、和田を指名した。すかさず野球部の男が「和田って誰だよ。え? あいつ、和田っていうの? 知らねー!」と椅子に乗って叫び、運動部の人間を中心に、教室がそれを笑った。

 最前列の端に座る和田ひかりは、頭を下げたまま、机の一点だけを見続けていた。

「和田ー、なんかねーのかよー、言えよなんでもいいからー」

 野球部の男は椅子の上から和田を責付いた。南条は和田のすぐ後ろの席にいて、こんなひどい状況において誰も声を上げない教室を、憎んでいた。頭の毛が薄くなってきたことを呑気に気にしている担任の安藤にも、同調圧力に屈してヘラヘラしたまま黙っているクラスメイトたちにも、それらと同じように沈黙を貫いている自分にも、同じだけ腹が立った。しかし、どれだけ憎しみが溢れても、行動するという一点には、どうしても辿り着くことができなかった。

 沈黙が、教室を通り過ぎた。「場が冷めるからなんか言えや」と野球部の男がまた責付き、学級委員の渡良瀬は、じっと和田を見ていた。

「無茶苦茶にするのがいいと思う」

 そんなとき、小さな声が聞こえた。

 そう。無茶苦茶にするのがいいよな、と、南条も素直に頷いた。

 もうこんなクラスは、無茶苦茶に壊れてしまえばいいんだ。

 深く共感して、ふと前を見れば、その発言が、目の前に座る和田から出たものだと気付いた。

 和田の声は本当に小さく、今にも裏返りそうなほど揺れていた。

 運動部の人間たちは、特大の豆鉄砲でも食ったように、目を見開いて黙っていた。あの大人しそうな、名前も覚えてもらえないほど存在感のない和田の口から、「無茶苦茶」だなんて乱暴な言葉が飛び出すとは、微塵も思っていなかったようだった。

「なんだそれ」

 例の野球部が、茶化そうとした。しかし「無茶苦茶にする」という言葉の響きは、高校生が持て余したエネルギーを発散させるキーワードとしては、十分すぎるほどの魅力を放っていた。

 学級委員の渡良瀬が、「え、おもろそうじゃん!」と、これを認めると、「いいね、無茶苦茶にするやつ、やろうよ!」と教室はにわかに盛り上がり始めた。

 その盛り上がりに反比例するように、和田の背中は、さらに小さくなったように感じた。次のチャイムが鳴るまで、和田の頭が上がることはなかった。

 

「和田」

 放課後、すぐに教室を出ようとした和田の腕を、南条が掴んだ。和田の腕はこれまで陽を浴びたことがないように白くて、細かった。

「さっき、ごめん」

「え、どれ?」

 和田は表情を変えず、雲にでも乗れそうな、やわらかい声を出した。

「文化祭のやつ。私、なんか言えばよかった」

「え、なんで? 指名されたの私じゃん」

「いや、そういうんじゃなくて。ごめん。ひどかったじゃん、ミセシメみたいで」

「別に、あんなのいつもでしょ」

「そうだけど」

「それに、ムカムカしてたから、言えてよかったよ」

「え?」

 予想外の言葉に、南条は固まった。

 さっきの「無茶苦茶」という発言も、和田から出てきた言葉とは思えなかった。

「意外だった」

「なにが?」

「和田の口から、あーゆー場で、そーゆー言葉が出ること」

 説明せずとも、和田には伝わったようだった。

「ああ。別にわざわざ口に出さないだけで、思ってることや考えてることは、うるさいくらいにあるよ。南条もそうでしょ?」

 和田が何かを企むように笑った。自分は和田ほどいろいろ考えているだろうかと、南条は思った。

 前を歩く和田の、癖毛のショートボブが揺れている。

 和田の髪の色は入学当初から明るく、頭髪検査でしょっちゅう引っかかっていた。特に担任の安藤はどうしても和田をこらしめたいらしく、何かあるたびにそのことに触れた。ガッツリと染めているサッカー部の男子のことは何も言わないくせに、和田ばかり責めた。その説教があまりにしつこかったので、クラスの女子から反感を買っていた。

「無茶苦茶にしてやりたいのは、安藤だな、私」

 南条が言うと、和田はクスリと笑って、「安藤デストロイだ」と呟いた。

「何それ、ダサ」

「ダサい単語、面白いから好きなの」

 褒めたわけでもないのに、和田は照れた様子で言った。

「まあ、安藤もいいところあると思うけどね」

 何故か安藤をフォローしながら、和田は別れ際、南条に手を振った。

 南条がひとりになった途端、ポツポツと雨が降り出した。

 その翌々日に、和田の父親が死んだと、学校に訃報が流れた。

 

 

 まだ、生きてる。

 南条は、気を失って倒れている男の手首の脈を恐る恐る確認し、大きく息を吐いた。

 もしも、殺してしまっていたら。自分の人生がこの男に黒く塗りつぶされる未来を想像し、現実がそうならなかったことに、強く安堵した。

 南条はベッドに手をついて重たい体を持ち上げると、引っ越しの際に使ったガムテープを机の引き出しから取り出した。男の手首と足首に、それを強く巻きつける。その途中で、男のデニムのポケットから、何かがはみ出ていることに気付いた。

 ナイフ。

 刃渡り一〇センチにも満たない、携帯用の果物ナイフだった。

 男は、これで自分を刺すつもりでいたのだろうか。

 血の気が引く感覚があり、南条もその場で倒れそうになった。どうにか持ち堪えて、ナイフを男から取り上げると、ゆっくりと寝室の扉に向かった。

 部屋を見回し、男に反撃される心配がないことを確認してから、リビングまで戻る。キッチンカウンターに置かれた携帯電話を手に取ると、一一〇番を押し、深呼吸した。

 できるだけ、簡潔に状況を伝えようと、気持ちの整理を試みる。しかし、南条はそこにきてもなお、自分の身に起きたことに実感が湧いていなかった。

 荻原武。確か、そんな名前だった。五年前に出会ったきりだった男。そいつが突然、マンションまで来た。オートロックのエントランスを潜り抜け、インターホンも鳴らさずに、まるで自分の家かのように、悠然と玄関の扉を開け、リビングに入ってきた。

 部屋の鍵を、かけ忘れていたのだろうか。夕飯の支度をしていた南条は、突如現れた男の姿を見て、声をなくした。固まって立ち尽くしていると、荻原が静かに笑みを浮かべた。一七〇センチある南条よりもずっと背が高く、芯から細い印象は変わらないが、出会った当時よりもずっと髭が伸びていて、顎全体を、真っ黒な綿が覆っているようだった。

「涼香ちゃん」

 口元は笑っているものの、瞳は大きく見開かれ、その端は少し血走っている。その状態で荻原武は、ゆっくりと南条に近づいた。南条は、ダイニングテーブルの反対側に逃げるように距離を取る。逃げろ、という緊急信号だけが、脳内でけたたましく響いていた。

「付き合お。全部、許すから」

 荻原が、手を広げながら距離を詰めてくる。南条は、拒否するように両手を突き出した。

「来ないで」

 殺される、と思うより早く、腰が抜けた。その場にしゃがみこむと、もう、土下座の姿勢でも取るほかなかった。

「帰って。帰ってください」

 あの言葉が、頭をよぎったのは、その直後だ。

 ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ。

 南条は、湧き出てきた力によって走り出し、ゴルフクラブを手にすると、男を撃退した。

 警察官は電話越しに、五分ちょっとで駆けつける、と言った。どうしていいか分からず、リビングに置かれたソファに腰掛けると、南条は大きく息を吐いた。

 過ぎ去ったはずの恐怖が、まだすぐそこにいる気がしてならない。

 ゴルフクラブを取りに戻り、寝室に体を向けたまま、意識的に呼吸を繰り返す。そして何度も、あの呪文を唱え直した。ウルトラサッド、アンド、グレイトデストロイ、クラブ。

 

「#ハッシュタグストーリー」は全4回で連日公開予定