偽宦官に仕立て上げられることになっている男を廠子へ案内すると、女官らしき婦人はほっとしたように息を吐いた。
「肩の荷が下りました」
一礼して別宅を離れる。門の外には従者らしき男女が待機していた。三人の姿が見えなくなったのを確かめ、黄が耳打ちしてくる。
「子供はいない。幼児より少し上くらいの年頃。子を宿している心配もない……つまり、年若い公主(皇帝の娘)といったところだな。どうだ。籠姫の見立て通りだったか?」
「ありがとうございます。これであの方達がなにをされるつもりなのか、はっきりわかりました」
「私には見当もつかない」黄は自分を蔑むように口を尖らせる。「さ、教えてくれ。あいつらはどうやってごまかすつもりなんだ? この件を、私はお上に届け出るべきか? 流れに任せるべきなのか?」
「それほど難しい話ではありません。あの方々が罰を免れる方策はいくつかあるでしょうが、完璧に、絶対に、罪に問われないやり方はたった一つしかあり得ないんです」
「なんなのだ? その方法とは」
「すでに自宮を済ませている殿方を送り込めばいいのです」
黄は異国の言葉を初めて耳にしたような顔つきになった。
「はあ?」
「突拍子もない結論ではないと思います。仮に新任の宦官が後宮へ送り込まれた後、間違いなく去勢を済ませているか確認する制度が敷かれていたとしても、本当に自宮を終えているのなら、罰を受ける心配もないはずですよね」
「いやいやいや、なにを言ってるんだお前は。では、ついさっきやってきたあの男は、すでに自宮を完了していると?」
「おそらくは。ただし、刀子匠などに確認はさせない方がいいでしょうね。あの婦人は、そのことを伏せておられるわけですから、こちらも知らないふりを通しましょう」
「それはそうするべきだろうが……なんのために、こんな企みを? すでに自宮を終えた男を、まだしていない状態だと偽り、私の廠子で自宮を施したことにして、後宮へ送り出してなんの意味がある? そいつは、普通の宦官と同じだろうが」
「これまでの婦人の態度、口にされていたお言葉から、ある程度推し量ることは可能です」
ここが正念場だった。籠姫は、黄に語りかける声と身振り、表情に意識を注いだ。
「後宮に、女性の貴人がいらっしゃいました。先程の婦人の説明を信じる限り、この方は、男性を知らない年若い公主なのでしょう。おそらく最近になって、この方の中に男性に対する興味が芽生え、その欲求は、抑えが効かないくらい深刻な淫蕩さに転じてしまった。この方は、身近な女官に命じ、第二の嫪毒を仕立て上げ、自分の元に連れてくるようお命じになったのでしょう。
困ったのは、命じられた方達です。おそらくこちらへいらした婦人が代表なのでしょうが、嫪毒の故事を鑑みても、そのような秘事は隠し通せるものではないと判断されたのです」
「うん、私もそう思ったからな」
黄がうなずいた。
「露見すれば、皇帝陛下の怒りはすさまじく、関係者全員の破滅は免れません。しかし、主人である公主の要求を断れば不興を買うことも確実。そこで女官の皆さんは思案されたのです。いずれにしても詐術を用いざるを得ないのであれば、どちらを騙す方が安全なのかと」
「どちらと言うのは、公主と、それ以外という選択か?」
それまで戸惑っていた黄だけど、やっぱり理由もなく成り上がったわけじゃなかったね。ここに至って、籠姫も舌を巻くほどの聡さを見せた。
「嫪毒のように、切っていないものを切ったと偽って送り込む場合、事情を知らない宦官や女官、他の皇族、宦官の身辺調査を担当する役人、究極的には皇帝陛下まで、公主の周辺を除いたあらゆる人間の瞳から、嘘を隠し通す苦労を強いられる……ところが、切ったものを切っていないと偽って送り込む場合、騙す相手は少人数で足りる。場合によっては、公主一人で済むかもしれないわけだ。するとこの廠子へあの男を連れてきたのは、自宮していない男を自宮したように印象づけるためではなく」
籠姫が結論を引き取った。
「自宮済みの殿方を、まだ自宮していないように見せかけ、廠子で『自宮するフリをした』と印象づけるためだったのでしょうね。そのような手間をかけたと説明することで、公主様も納得されるでしょうから」
「なんとややこしい話だ」
頭を抱えていた黄だったけれど、すぐに目を見開いた。
「待て、公主の元に連れてきた後はどうすればいい? すでに切ってしまっていると一目瞭然ではないか」
「それは、なんとでもなるのでは?」
闇の中、燭台の灯火にじんわりと輪郭を浮かび上がらせている大籠を眺めながら、籠姫は冷ややかに語った。
「やんごとない方々が、そういうことをどのように愉しまれているのか、私は存じ上げておりませんが……目映い光の中、裸をお互いに晒し合うような形でなさっているとはとても思えません」
「まあ、それもそう、か?」
黄は果実がつっかえたときのように、もごもごと口を動かしている。
「後宮には、寂しい夜を送っている女官たちのために、男の代わりになる道具も伝わっているという話を聞いたこともあるからなあ。公主様の周辺がすべて示し合わせていたならば、それらを使ってごまかすことも難しくないか」
ここまで言って手を叩き、
「なるほど、お前が貴人のお年頃と、旦那様の有無を知りたがっていたのはそういうわけか。流石に男をご存じの方なら、だまし通すのは難しいだろうからな」
無言で頷いた籠姫の前で、黄は首を右、左と順番に傾けた。
「これ、私はどうしたらいいのだ? 告発は必要ないか」
「先程申し上げたように、経緯を把握していないふりをして、あの男性が自宮済みだということにも触れず、気づかない風を装ったまま送り出すのが賢明でしょう。男性が後宮へ送り込まれた後で行われるのは、宦官が公主様の情欲にお応えした、というよくある話ですから」
「よくあるのか?」
「後宮の女性は、宦官をそういう対象にする例もあると伝わっています」
「すると気をつけるべきは、公主様がこの詐術に気づかれたとき、恨みを買わずに済むかという点だな」
「それについては、おつきの方々が弁明すれば足りるでしょう。公主様が罰を与えようとしたら、皇帝陛下に訴え出ればいいのです。たとえ公主様の命令とはいえ、男性を後宮へ連れ込むなどという大罪に手を貸すことは憚られたため、恐れながら、公主様を欺かざるを得なかった、と。道理はおつきの方々の方に傾くかと」
「なるほど、私はなにもしなくていいわけだ」
黄は満面の笑みを浮かべた。
それから百余日が経ち、偽りの自宮者は廠子を出て、件の婦人に引き取られていった。謝礼として大量の金塊を得た黄は上機嫌で、これで後宮ともツテが生まれそうだし、この金で新しいなにかを始めることができると笑っていたね。
その数日後、籠姫は、自分が身ごもっていると知った。黄に伝えると、子供が生まれること自体は喜んでいる様子だったが、それから籠姫のところへ通う回数がめっきりと減った。籠姫のお腹が膨らんでいる間、黄のやつと来たら、よそに新しい妾を三人こさえていたっていうから全く呆れちまうよ!
ばちが当たったのか、そういう運命だったのか、黄は、籠姫の子供を目にすることなく世を去った。
医者の見立てによると、酒の飲み過ぎか、荒淫のどちらかのせいだって話だけれど、四番目の妾の家に泊まった翌日、閨の中で冷たくなっていたらしいよ。訃報を耳にしたとき、籠姫は一抹の寂しさを感じた。紛れもない悪党だったけれど、憎みきれない愛嬌を持った男だったねえ。
まあ、それはそれとして、籠姫は訃報を聞いた瞬間、大籠を庭へ運ばせ、火を放ってあっという間に灰にしちまったけどね。
それから少し経って、籠姫は男の子を出産した。するとややこしくなるのが、黄の財産をどうするかって問題だ。妾の子供だから立場は弱い。でも、正妻さんに子供はいなかったから、籠姫が欲を出した場合、厄介な相続争いが起こりかねない状況だった。
でも籠姫は、足るを知る、という言葉を理解していた。正妻さんの元へ出向いて膝をつき合わせて語り合い、黄の財産の大部分も、別宅も、商いの分け前も要求しないから、実家の借金の残り分を返済してもらうことと、自分と子供が幸せに暮らしていけるだけのちょっぴりの財産だけ分けてもらえばいいと話をつけたのさ。
まあ、ちょっぴりって言っても、そいつは金持ちの目線から見たちょっぴりではあったんだが、まあいいじゃないか。
実家へ戻った籠姫を、一人の男が訪ねてきた。それは、黄の差し金で引き裂かれていた幼なじみの許婚だった……
程なくして二人は結ばれた。籠姫は籠姫じゃなくなったのさ。彼女の、幸せな日々の始まりを祝う宴席には、少し大きくなった赤ん坊も笑顔を見せていた。その顔は、幼なじみにそっくりな男前だったよ。
え、黄が産ませたはずの赤ん坊が、なんで幼なじみに似ているんだって?
そんなの、当たり前だよ。その子は黄の子供じゃなかったんだから。愛する二人の間に生まれた赤ん坊なのさ。
なになに、そんな機会がいつあったのかって? 決まってるさ。廠子だよ。あの女官らしき婦人に連れられてやってきた男こそが、幼なじみの青年だったんだよ。幼なじみは、百日以上も廠子に留まっていたんだから、黄や使用人の目を盗み、あるいは使用人を懐柔して籠の中へ通い詰めるくらい、そんなに難しくはなかったんだ。
いや、婦人が連れてきた男は、自宮済だったんじゃないかって? うん、嘘なんだよそれ。籠姫は、あの男の身体を検めない方がいいって黄に進言して、黄も受け入れていただろう? だから黄は、アレがついたままでいることを知らないままだった。
わけがわからない? そりゃそうだろうね。こいつは、幼なじみの青年が黄を騙すために始めた策略に、後から籠姫が乗っかったお芝居だったからさ、一通り聞いただけで、解き明かせたのなら大したもんさ。
種明かしをしよう。まずは幼なじみの話だね。黄の差し金で、許嫁との仲を引き裂かれた青年は、郷里を離れ、必死に勉学を重ねて科挙に合格したんだ。
科挙は知ってるね。そう、突破すれば、官僚の頂点に立つことが許されるとても難しい試験だよ。偉い人になる道が開かれた時点で、青年は、籠姫を助け出してやりたかった。でも、科挙を突破したからといって、すぐに権力が手に入るわけじゃない。色々経験を積んで、重要な官職に就いた後の話なんだよ。お給金だって、すぐに使い切れないような金額が転がり込んでくるわけじゃない。籠姫の実家をがんじがらめにしている借金は膨大なもので、進士(科挙の合格者)の信用を元にして金を集めても、とても足りるものではなかった。
それでもなお、籠姫に一目会いたいと想いを募らせていた青年は、人づてに、黄が自宮希望者のために廠子を建てることを知った。その場所は、籠姫が囲われている屋敷と同じ敷地内だった──
当初、青年が想定していたのは、自宮希望者を装って廠子の世話になり、籠姫に会いにいくという作戦だった。青年は黄と面識はなかったから、疑われはしないと思っていたけれど、廠子で百余日を過ごすには自宮が必要だ。だが、それは許容できない。智恵を巡らせた青年の思いついた作戦が、「偽の宦官を後宮に送り込む」という、でっちあげの物語だったのさ。
そういうこと、男に興味を持ち始めた公主様なんて最初からどこにもいなかったんだ。青年を連れて訪れたあの婦人はね、引退した元・宮女で、青年にはちょっとした借りがあり、そのよしみで役者を引き受けてもらったそうだよ。本物だったからこそ、黄を騙し仰せるくらいの振る舞いも可能だったわけだ。
青年は、籠姫の頭の良さを知っていたし、信頼していた。だから少しの間だけ顔を見せて、『史記』を引き合いに出した謎かけをするだけで、こちらの企みを理解してくれるだろうと疑わなかったのさ。
あの謎かけは、「嫪毒のような偽宦官を用意して、彼を求める女性の元へ送り込む」計画を表していた。
けれどもその対象は、居もしない後宮の公主様なんかじゃなく、籠の中に囚われたお姫様だった。
ここまでの話だと、幼なじみが一人で策を練って籠姫の元を訪れたように思われるだろうけれど、籠姫だってなにもしなかったわけじゃない。籠姫が危惧していたのは、自分と幼なじみのつながりを、黄に気づかれるんじゃないかっていうところだった。
黄も馬鹿じゃあなかったからね。偽宦官計画に従った場合、自分の妾を囲っている屋敷と同じ敷地内に自宮していない、見目麗しい青年が滞在し続けることになるって状態を怪しんだかもしれないし、そうなったら籠姫は、よそへ移されてしまったとも考えられる。
そこで籠姫は、偽宦官計画を危ぶみ始めた黄の心境を利用して、廠子へ滞在する予定の青年が、実は自宮を終えているのだという嘘を信じ込ませたのさ。籠姫の言葉に乗せられた黄は、青年の身体を確認させなかった。その結果、黄に睨まれることなく、籠姫は青年と逢瀬を重ね、愛を育む結果となった。
後になって教えてもらった話だけどねえ、青年は、実のところ強引に妾にさせられてしまったとはいえ、籠姫が黄との生活を気に入り始めているんじゃないかとも想像していたらしい。自分が権力者になって、もっと強引な手段で籠姫を奪い取ろうと思わなかったのは、そういう心情も手伝っていたみたいだね。まったく、まじめすぎる人だったよ。
籠姫としては、複雑な心境だった。実家を助けるために、青年の子を黄の子供と偽って、借金を返済させる切り札に使ったわけだからねえ。もう無垢な心を失っていたわけだ。なんでそんな風になっちゃったかというと、それは近くに悪党がいたからとも思われるけど、黄の悪辣さを学ばなかったら、なにもできないままだったのもたしかだからね。人間万事塞翁が馬、この辺りは、深く考えない方が吉というべきかねえ。
てなわけで、籠姫のお話はここでおしまい。
あんたが聞きたがっていたような艶っぽい話じゃなかったかもしれないけれど、そこは堪忍しておくれ。
えっ、それから元の籠姫は幸せに暮らしたのかって?
どうだろうねえ。好きな男と一緒になれたことは嬉しかったけれど、それなりに出世したせいで、政治のあれこれに巻き込まれてさ、随分苦労もかけられたもんだよ。結局、先立たれちまったしね。
じゃあ、不幸せだったのかって?
いいや、それは違うねえ。苦しみも悲しみも、後になって振り返ったら、一つなぎの天の川みたいに輝いているよ。
おばあちゃんになるまで生き延びて、今じゃあかわいい孫に昔話を語って聞かせている。不幸せなんて言ったら、バチが当たるってものさ。