別宅の敷地内に廠子が出現したのは、黄が計画を告げてから半年後のことだった。たしかに豪華な建物だったよ。どこから職人を連れてきたのか、四方の壁には、西洋風の彫刻さえ施されていた。内部も籠姫が使っている別宅と同じくらい豪勢な造りだった。大籠はなかったけどね。

 代わりにのさばっていたのは、大ぶりなカン(床暖房を備えたベッドの一種)だった。こいつが三台、距離を置いて横に並べてあり、御簾み すで仕切られている。この大広間は、入口を除いた三方に廊下があり、その先が患者の寝所になっていた。

 初めての患者──いや健康だったから患者というのも変だね──が訪れたのは完成当日のことで、黄に雇われた刀子匠のツテらしかった。この刀子匠は西華門で廠子を構える刀子匠の兄弟子にあたる男で、一時、病で手術刀を握れなくなったために職にあぶれていたらしい。そういう事情があるから、西華門でも引け目を感じていて、黄の計画にも好意的に従ってくれたという話だった。黄という男、こういう人間関係の弱みにつけこむのが実に上手かった。

「同じ敷地で行われていることだからな、一度くらい、観に来たらどうだ」

 あるとき、籠姫は黄に促されて、手術を見学することになった。悪趣味だと思ったけれど、学者の娘として、好奇心もくすぐられたから断りはしなかった。

 そのとき手術を受けたのは、まだ十五歳くらいに見える、色白の少年だった。簡素な着物一枚で炕に寝そべり、すでに股間をはだけていた。鼠径部と、腹の下辺りに白い線が見える。材質はわからないけれど、丈夫な紐で縛ってあるらしい。紐は、アレの先端にも巻き付けてあり、張り詰めた状態で、天井に備え付けられている滑車に通してあった。施術のために、伸ばした状態で固定していたわけさ。

 助手の一人が少年の脚を押さえ、もう一人が腰をつかむ。少年の正面に立つ刀子匠は、小ぶりの鎌のような形をした手術刀を右手にかざした。

「後悔はないな?」

 刀子匠は狼のように鋭い目つきをした男だったけれど、呼びかける声は、深く、優しげだったね。少年が、無言で頷いた。事前に聞いていた話によると、ここでほんの少しでも動揺を見せた場合、手術は中止になるらしい。固く結ばれた少年の唇は、全く揺るがなかった。

 決意は固いと判断したのか、刀子匠は揺らぎのない手つきで刃物を動かした。

 一息で、陰茎と睾丸が切断される。

 少年は悲鳴を上げなかったけれど、薬で痛みを消しているわけではないらしい。顔面はさっきより蒼白で、歯ががちがちと震えている。手足もお腹も、直前より色味をなくし、上等な陶器みたいに白い。

 股間の切断面だけが赤かった。予想していたより血が流れないのは、周囲をきつく縛ってあったためだ。

 ぽっかりと開いた小便の穴に、刀子匠が何か白いものを挿し込んだ。

 ぐ、う、と少年が呻く。

「蝋で作った栓だ」

 傍らで黄が囁く。

「これから三日間、突き刺したままになる。この処置を施さなかったら、尿道が塞がってしまうのだ」

「三日の間、お小水はどうするのですか」

「ひたすら、耐える」

 籠姫が絶句している内に、処置は進められていた。助手が、桶を刀子匠に差し出している。水に浸してあるのは、清潔そうな白い紙だった。取り上げたそれを、刀子匠は少年の股間に貼り付け、余った大部分で腰と股関節を丁寧に包んだ。

 助手の一人が背後に回り、少年の脇の下から両腕を入れる。それからゆっくりと起き上がらせた。少年は炕からも腰を離す。もう一人の助手は横手から腕を巻き付けて腰を支え、一人目の助手は脇の下に手を入れたまま、少年が、一歩、二歩、と足を踏み出すのを助けていた。籠姫のいる方へ向かってくる。なにをするのかと身構えると、直前で向かって右側に曲がった。

「後は、部屋の中を一刻半(三時間)程度歩かせます」

 教えてくれたのは、ひとまず手が空いたらしい刀子匠だった。

「重要な器官を失った肉体の、血液と気の乱れを整えるために必要なのです。その後で寝かしつけたら、本日の処置は完了です」

「その、切り取った部分は捨ててしまうのですか?」

 どうしても気になったことを籠姫が訊ねると、とんでもない答えが返ってきた。

「捨てるなどもったいない。油で一揚げします」

「食すのですか!」

「食用ではありません」にこりともせずに刀子匠は教えてくれる。「何十年も保存しておくために、ひと手間かけるのです。我々の業界では、切り取ったものを『宝』と呼んでいます。宦官は、昇進する度にこいつを上官に見せる決まりになっているので、その都度、返してやり、礼金をもらう手はずになっています」

 話を聞く限り、切り取られた『宝』は廠子の財産になるようだ。そういう契約なのか、持ち主が手術の後でそれどころじゃないことにつけこんで取り上げちまうのかはわからない。

「この廠子のどこかに、保管場所を用意してあるのですか」

「ここには貯め込まない」

 籠姫の質問に答えたのは黄だった。

「こちらで得た『宝』はすべて、西華門の廠子へ持っていく。刀子匠を回してくれた謝礼だよ。そもそも私は、手術で儲けるつもりはない。求めているのは、お上へのツテだからな」

 全くずるがしこい、と籠姫は感心したよ。黄っていう悪党、引くべきところはわきまえている男なのさ。

「この後も面白いぞ。あっちへいってみよう」

 こっちに綺麗な花があると教えるような気安さで、黄は大広間に通じた廊下の一つを指し示した。促された籠姫が進んでいくと、これまで耳にしたことがないような音が響いてきた。

「みず……」

「みずをくれ……」

「助けて……」

 乾いた泥が風に崩れるようなうめき声だったよ。

 前進することをためらった籠姫が立ち尽くしていると、隣に立った黄が目を閉じ、掌を耳に当てている。

「この先の部屋で寝ているのは、二日前に施術された患者だよ。つまりさっきの栓は、明日まで抜いてもらえない。当然、それまで水は飲ませてもらえないわけだが、身体を切り取られて熱を帯びた身体は、はげしい渇きを覚えるものらしい。だからこんなに面白い音を出す」

「思いもよりませんでした」

 黄と顔を合わせたくなかった籠姫は、前にある御簾を見つめたまま言った。

「施術後の方が、ずっと苦しいのですね……」

「自宮経験者も、みんな語っているよ。切り落とすその瞬間より、その後の三日間が地獄だと」

 後でもう一度観に来よう、と黄は言った。

「三日経った患者の股間から栓を引っこ抜くとき、小水が噴水みたいに噴き出すのだ。その光景も傑作だぞ!」

 

 さらに半年が経った。すでに最初の自宮者は廠子を去り、後宮での採用も決まり宦官の実務を習っているらしい。籠姫は、手術の一部始終を目の当たりにした、あの少年のその後が気掛かりだった。あんなに痩せ細った身体で、手術やその後の苦痛に耐えきれるものだろうかと心配になったからだ。

 廠子を訪れて訊いたところ、とくに不自由もなく出ていったと知って、胸を撫で下ろす。身体の一部を切り取るなんて、傍から見るとひどく残酷で大雑把なやり方に思われるけれど、伝統の技術ってものは侮れないもんだ。この方法で死に至った者は、皆無に近いという話だった。

 籠姫は、自分の心が鈍く固まりつつあるような心地だった。

 恐ろしい自宮手術を観て、栄達のために我が身を犠牲にする患者を観て、彼らの苦悶の表情を見世物みたいに楽しむ黄を観てもなお、それほど心が騒がなかったからだ。紛れもないクズ野郎である黄の側で過ごすうちに、黄の色に染め上げられてしまったのかもしれない。それが不幸なのか、幸福なのか。答えを出すことは難しかった。

 ある夏の夜、いつものように黄を迎えた籠姫が杯へ酒を注いでいたとき、表から召使いの声がした。

「旦那様にどうしてもお話をしたいという方がいらっしゃっております」

「……戸口まで来てもらえ」

 妾と過ごすひとときを中断せざるを得ず、不機嫌そうに眉を寄せた黄だったが、たちまち、にこやかに繕い直した。籠を出て、戸口へ歩いていく。籠姫は、編み目から外を眺めた。

 女が一人、外に立っている。地味な色合いの服装だったが、仕立て自体はしっかりしており、安物の生地ではないとこの距離からでも見て取れる。お偉い方だ、と推測した。

 ──許可を得て外出している後宮の女官だろうか、と考えたのはね、身分の隠し方に慣れているような気配を感じたからなんだ。女官の中でもかなり上の立場で、さらに偉い方から命令を受けてやってきている。

 そんな想像を弄んでいたけれど、籠姫の意識は、すぐに女性の隣に現れた男に惹きつけられた。

 一見質素だが、実は値の張る服装に身を包んでいることは同じだった。その肉体と顔に、籠姫はしびれるような光を感じたんだ。ほどよく日焼けした肌、夜陰にも輝きを失わない双眸。それらは五年前、籠姫が失った青春の影と同じ形をしていたんだよ。

 どうすればいいのかわからず固まっていると、戸口の二人は程なくして消え、黄が戻ってきた。いつになく困惑の色が見える。

「商売のお話でしたか」

 籠姫が訊くと、そうらしいが、と黄は右手を差し出した。小さな布袋をぶら下げている。受け取ると、ずしりと重い。中を開いてみると、燭台の明かりがきらきらと反射した。

「悪ふざけではない証だと言って、差し出してきたものだ」

 黄金だ。貨幣ではなく、溶かしたものをそのまま詰め込んである。

 商売に明るいわけではなかった籠姫にも、これは危ないことだってわかった。

 ──この金塊、しこたまためこんでいる黄にとっても、軽くはない量だ。そいつを溶かした状態で渡してきたってことは、出所がわからない細工をしているって意味。ようするに、大金と引き換えにしてろくでもない仕事を頼もうとしている。

「さっきの方々は、どちらからいらしたのでしょう」

「それがわからないのだ。名乗りさえしなかった」

「素姓さえ明かさずに、仕事を頼んでこられたのですか」

「それがな、なにをさせるかもはっきりしない」

 引きつった顔で、黄は左手を出した。掌を開くと、小さな紙切れに文字が記されている。

 

 乾隆四 二十四・一・本・六 あるいは二十四・一・列・二十五

 

「『内密にお伝えしたい依頼であり、他人に漏れ聞こえると大事を招きます。そのため、この言葉から察していただきたいのです』あの女はそう言った。明日、同じ時刻にまた来るとも」

「一緒にいらしていた男の方は?」

「男の方は、口を利かなかった」

 籠姫は紙切れを眺めていた。間違いなく、自分に送られた文だとわかったんだ。

「この数字の、どこをどう読めばいいのだろう。これだけ金をよこしたんだ、検討くらいはしてやるべきだが、わからないことにはどう返事してよいやら……」

「私は正解を知っているかもしれません」

 籠姫の言葉に、黄は飛びついてきた。

「なんと書いてある?」

「明日、使用人を私の実家へ送ってよろしいですか? 持ってきてもらいたいものがあるんです」

 

 翌日、籠姫の実家から使用人が持ち出してきたのは、司馬遷の『史記』だった。

 時刻は昼過ぎ、後半日で昨日の二人がやってくるはず。籠の中、答えを待ちわびて落ち着かない風の黄に、籠姫は自分の推測を語って聞かせたんだ。

 

「乾隆四年(一七三九年)に、皇帝陛下が我が国に伝わっている歴史書の中から、正式なものと見なす二十四冊を選定されました。この中には、まだ刊行が終わっていない書も含まれていますが……二十四の一、つまり最初の一冊は、『史記』を指し示していると思われます」

「『史記』なら私も名前は知っている」

 黄は歴史書の表紙に視線を注いでいた。普段は自信満々なのに、未知の事柄に出くわすと、落ち着きをなくしがちな男だったね。

「次に『本・六』、『列・二十五』の意味するところですが、『本』は帝王の業績を年代順にまとめた『本紀』を、『列』は様々な分野で名を馳せた人物について記した『列伝』という章を表していると思われます。本紀は十二篇、列伝は七十篇に分かれていますから、そこに六、二十五という数字を当てはめてみます。本紀第六『秦始皇本紀』、列伝第二十五『呂不韋りよ ふ い列伝』。この二篇に共通している事柄が、旦那様への依頼に関連しているはずです」

「はずと言われてもなあ……」

 黄は目次を開き、首を傾げている。

「書いてある事柄が多すぎるだろう。そこからどうやって依頼を見分けたらいいのやら」

「足がかりはあります。自宮です。あのお二人は、旦那様が廠子を建てられてから、廠子のあるこの敷地を訪ねていらっしゃったのですから、自宮と関係のある事柄を探せばいいのです。すると、嫪毒ろう あいという名前が浮かび上がります」

「何者だ、それは」

 結論を知りたがっている黄に、籠姫は教えてあげたのさ。

「去勢を終えていないにもかかわらず、施術済みと偽った男です」

 

(つづく)