あんたのことだ、どうせ嫪毒なんて名前、今回が初耳だろうから詳しく教えて上げよう。

 後にこの中華を初めて統一して始皇帝と名乗ることになる秦王の太后(母親)は、控えめに言ってもまあ、立派な母とは言い難い女だった。夫が逝去したことをいいことに、息子の臣下であり秦の宰相である呂不韋とよろしくやっていたんだからね。

 しかし愛人の呂不韋としては、秦王の逆鱗に触れたくなかったから、よろしくやり続けるのは好ましくなかった。そこで思いついたのは、別の愛人をあてがって、そいつとよろしくしてもらうという発想だ。

 それが嫪毒という役人で、こいつは、人並み外れて立派なアレの持ち主で、アレを軸代わりにして馬車の車輪を回転させることができるっていう、すごいんだかすごくないんだかよくわからない特技の持ち主だった……

 この話を、わざと太后の耳に入るよう取り計らった呂不韋は、愛人が興味を示すのを待って、嫪毒を太后の住まいに送り込んでやったんだ。当然、太后の住まいに男なんて連れていけるはずないから、罪を犯して宦官になったと偽った上でね。

 その後、太后は嫪毒を寵愛したあげく、子供まで身ごもり、息子の秦王を玉座から引きずり下ろして嫪毒の子をその座に就かせようとしたものだから、まあ大変。尋常じゃない騒乱に発展するわけだけど、そこはあんまり関係ないね。肝心なのは、嫪毒を通じて、貴人らしき二人が要求している事柄だ。

『史記』の該当部分を読み終えた黄は、

「つまり、こういうことか。第二の嫪毒を、今の後宮に送り込む手伝いをして欲しい、と」

 飲み込みの早さに、籠姫は感心したね。無学で無遠慮、無作法でも、無能という評価からは遠い男だったよ。

「どうして私のところに? いや、想像はつくな。西華門の廠子は国に認められている手術場だ。あそこの刀子匠も、国の役人という位置づけになっている。時折、お上の視察が入ってもおかしくないから、そこまで危ない橋は渡らないだろう。建前の上では、西華門の分家みたいな位置づけになっているうちの廠子だが……こちらの方が、無理を通しやすいと見られてもおかしくはないな」

「皇帝のお嬢様かお妃様か、はたまた嫪毒の事例と同じく、お母様かは存じ上げませんが、以前から、その貴人は欲望をもてあましていらっしゃったのでしょう。そんな折、新たに廠子が作られたと聞き、藁をもつかむ思いでいらしたのでしょうね」

「生やしたままの男を、後宮に送り込めとはな。とんでもない依頼だ」

 全く、黄にとっては予想外もいいところだろう。『明鏡は形を察する手段であり、古事は今を知る手段である』なんて孔子は語っていらっしゃるけど、ろくでもない昔話まで参考にしてどうするんだか。籠姫に推測を吹き込まれた黄は、しばらくの間思案している様子だった。受けるか、断るか。当然ながら、善悪ではなく損得勘定が基準だったろうね。

 やがて約束の時刻となり、戸口に昨日の婦人と男が連れ立って現れた。

「謎かけの答え合わせをさせていただきたい」

 籠姫の予想が正しかった場合、この婦人はそうとうお偉い方の腹心のような立場になるはずだから、黄ときたらいつになく緊張していたね。それでも腹をくくったようで、声を絞り出した。

「車輪を回すことができる人材を所望されているのですな?」

「ご明察にございます」

 婦人は頭を下げた。深々としたものではなかったけれど、所作が美しかったよ。それから傍らの男に視線を送りながら、「宦官に仕立てていただくのは、この男です。百余日の間、たった一つを除いて、他の宦官志望者と同じ扱いをしてください」

「なるほど、疑いを招かないよう、しっかりした廠子で処理を受けていた、という見せかけが必要なのですね」

「話がお早い」

 婦人は控えめな笑顔を見せる。傍らの男は眉一つ動かさなかった。

「大変ぶしつけで申し訳ないのですが、礼金について伺ってもよろしいでしょうか」

 ためらいがあるせいか、黄の歯切れが悪い。とはいえ、お偉い人に交渉を持ちかけているのだから当然だった。

「先日差し上げた袋を、後三つ差し上げます」

 迷う素振りさえ見せずに返答した婦人に、黄は満足した様子だった。口元を綻ばせ、「充分です」と言った。

「それでは、一月後の同日に預けに参ります。それまでに色々と準備をお願いいたします」

 もう一度婦人は頭を下げた。

 準備というのは、口止めの手はずを整えておくように、という指示だろう。この件、刀子匠を初めとする廠子の面々に隠したままではいられないから、小金を握らせて口をつぐませる必要があるわけだ。

 婦人が去ってからも、黄は戸口の前で立ち尽くしていた。四半刻はそのままだったかな?

 やがて籠姫の方へ振り向き、引きつった笑顔を浮かべた。

「運が向いてきたぞ……正直なところ、報酬は無料でも構わなかったくらいだ。これで私も、お偉方とお近づきになれる!」

 黄が帰った後、籠姫はなにをするでもなく、大籠の中で佇んでいた。籠の中には燭台があり、高級品の蝋燭が薄橙うす だいだいの火を灯している。ふう、と息を吐きかけると、真っ暗になった。

 籠姫にとって、籠の編み目もわからないくらい黒々とした闇は、これまで、自分の不幸を嘆く場所だった。この五年間、数え切れない涙が、夜に吸い込まれていった。

 ところが状況が変わると、真っ暗闇が、考えを巡らせるお膳立てのように見えてくる。頭の中に、鋭い風が吹き始めた。

 

「あの婦人はやんごとないお方のおつきといった辺りだろうな」

 翌日も別宅にやって来た黄は、杯を傾けながら籠姫に今後の展望を語った。

「仕事が首尾良く終わったところで、偉いお方が、ただちに私を重用してくださるとは限らないだろう。口の堅い男、秘密を漏らさない男。最初はそんな風に思っていただけるだけでありがたい。これまでは目上の商人が独占していた貴人へのツテを、直接手に入れたというだけで儲けものだ……」

 黄の話によると、刀子匠たちへの口止めは、すみやかに片付いたそうだ。金をつかませ、彼らの親族の働き口を探すと約束したところ、簡単に応じてくれたらしい。何もかも上手くいっているようで、黄は上機嫌だったよ。でも、籠姫の目には段々と、上機嫌を装っているだけのように見えてきた。だって、酌をする度に同じような話を繰り返すからだ。

「あの婦人は、宮女の中でも、相当偉い方に仕えている人だろうな。すぐに信頼してもらえるはずもないが、それでも、俺より遥かに裕福な商人の頭上をすっとばして話を振ってもらった点には意義がある」

 二週間経っても、黄は同じ話題を繰り返す。まだ耄碌するような歳じゃなかったから、さすがに放っておけなくなった。

「旦那様は、不安に思っていらっしゃるのですか」

「私が? なにを?」

 わかりやすいうろたえぶりだった。やがて、いくらなんでも隠し通せないと悟ったのか、咳払いを一つして、黄はぶちまけてきた。

「なあ籠姫、嫪毒の末路はどのようなものだった?」

「太后の寵愛を笠に着ておごり高ぶり、秦王に叛旗を翻した結果惨敗、最後は車裂くるま ざきの刑を言い渡されて落命しました」

 車裂というのは昔の刑罰で、両手両足にそれぞれ縄をしばった上、縄の先に牛や馬をくくりつけ、四方に走らせるんだ……どうなるかはわかるね? こら、また青い顔をしない。

「車裂か……嫪毒を後宮に届け入れた連中は?」

「呂不韋は嫪毒と同じく太后の愛人であったために反乱への関与を疑われ、毒杯を呷って自害しました」

「私は呂不韋ほどの大物じゃない」

 黄は不遜なのか謙虚なのかわからない言葉を漏らしたよ。

「せいぜい、呂不韋や嫪毒の尻馬に乗っかり、おこぼれに預かろうとしていた名も無き官吏その一、程度の扱いだろうよ……そういう奴らも、ただで済まなかったろうな」

「旦那様は、第二の嫪毒も、失敗すると考えておられるのですね?」

「貴人をたらしこみ、反乱を起こすときまで隠しおおせるのならマシな方だろうよ……俺も詳しくはないが、後宮の規則も監視の精度も、始皇帝の時代と今とでどちらが厳しいかといえば、決まり切っている」

「では、やっぱりお受けできないとお断りするしかないのでは?」

 籠姫があえて後ろ向きな提案を口にすると、黄は不服そうに眉根を寄せた。

「今更受けられないと答えて、無事で済むと思うか? 貴人に従っている女官という立場が、どれほどの権力を備えているか計り知れないし、貴人ご自身を怒らせたら、もっと恐ろしい」

 

 そんなわけで、毎日のように別宅を訪ねてくる黄は、約束の日が近づいてくるにつれ、溜息を漏らす回数も増えていったんだ。

「具体的に、どうやって隠すのだろうな」

 ある夜の黄は、このままだと百数十日後に「完成」することになる偽宦官の行く末を案じていた。

「ここまで大がかりな準備をして、貴人を一晩や二晩、楽しませるだけで終わらせるとは思えない。長い間、生えてないふりを通すなんて、どんなやり方があるのだろう? 貴人の周辺に仕える女官や宦官の何人かが事情を承知していたとしても、そうではない連中の方が多いはずなんだ。そんな手品が存在するのか?」

 その日、三杯目の杯を飲み干し、籠姫に四杯目を注がせた後で、

「……いや、案外、秘密にできるかもしれない。十数年以上、仕事で顔を合わせている仲間でも、全員の一物を見たことがあるとは限らないからな。しかもお堅い宮廷だ。見せずに済むとも考えられる!」

 勝手に納得して、四杯目を空にした黄だったけれど、五杯目を片付けた頃には、また不安が湧き出した様子だった。

「後宮の女官や宦官は、『史記』を読んでいるだろうか。嫪毒の逸話を知っているだろうか」

 これは自問自答ではなく、質問らしかった。籠姫は少しだけ頭を傾けた後で、

「お忘れですか? そもそもあの女官らしき方は、『史記』の記述になぞらえてご依頼を伝えてこられました。あの方が特別な才人ではなかったら……」

「ああー、それでは、だめだ」

 黄はがっくりと頭を垂れちまった。

 翌日の黄は、一杯目の杯を手に握ったまま目が据わっていた。

「逆に考えるべきかもしれん。あの婦人は、不正の手助けをしろと働きかけてきた。一旦、応じたのは、その不正が私の得になると考えたからだ。しかし不正の内容がお粗末なもので、露見したあげくに、この私まで罰せられかねないのであれば、偽宦官の話をお上に訴えた方が得をするのでは? そうだ、そうした方がいい。不正に応じるふりをして、悪を告発した好漢として名を上げるべきだ!」

 杯のない手で拳をつくり、天井へ向けて突き上げたものの、すぐにふにゃふにゃと振り下ろしてしまった。

「だめだ。話を持ちかけてきた連中全員が獄に下されるのならともかく、貴人あたりは軽いお仕置きで終わるかもしれない。そうなれば、後々で、報復を喰らってしまう……」

 

「俺は腹をくくったぞ」

 偽宦官になる男が訪れる前日のことだった。この日の黄は三杯の杯をゆっくりと飲み干した後で、目を瞑ってから、おごそかな調子で宣言した。

「成り行き次第で、このまま偽宦官を用意するか、不正をお上に密告するかを決めることにした」

「それでは、くくっていないことになるのでは?」

「まあ聞け。結局、思い悩んでいても仕方がないと肝を据えたのだ。わからないなら、知るために行動すべし。なんとか探りを入れて、あいつらの計画がしっかりしたものか、杜撰なものかを見定めればいいわけだ。籠姫、なにか智恵はないか? あの女官たちが、後宮で偽宦官をどうやって守り通すつもりか、推し量るための智恵だ」

「少し考えさせてください」

 推論を伝えた後に発生するだろう様々な事柄に思いを馳せた後で、籠姫は口を開いた。「明日お二人がいらしたとき、偽宦官を欲しておられるやんごとなきお方が、お若い方なのか、お歳を召しておられるのか、さらには旦那様がいらっしゃる方なのかを聞き出してください。難しいかもしれませんが、旦那様の話術にお任せします」

 

 翌日、別宅の戸口に、くだんの二人がやってきた。

「それでは、この者をお任せいたします」

 女官らしき婦人は、日焼けした男を一歩、前へ進ませる。二人の顔が戸惑いを隠せない様子なのは、目の前に立つ黄が、頭のてっぺんから肩の辺りまで、すっぽりと絹の袋を被っているからだ。

「その姿、どうなさったのですか」

 問いかける婦人に対して、袋が震える。

「………………」

「あの、なんと仰っているの?」

 笑いをこらえながら、籠姫は背後から助け船を出した。黄のやつ、なかなか愉快な口実を思いついたものだよ。

「使用人の一人から、風邪をうつされまして……もうすっかりよくなっているのですが、万が一にもお二人にうつしてはよくないと、こんな姿になっています」

「ただの風邪なのでしょう? そこまで気を遣っていただかなくても」

「お医者様が仰るには、大人がかかっても大した苦痛もなく数日で快癒いたしますが、幼子や老人、それからお子を宿しておられる方にうつると、咳がはげしく、大層苦しむらしいのです。お二人は大丈夫でしょうが、後宮にいらっしゃる方や、その方のご家族にご迷惑をかけては心苦しいということで……」

「でしたら、問題ございません」

 婦人が保証する。

「私の主にお子様はいらっしゃいませんし、もう幼児と呼ぶようなお歳でもありませんから。身ごもっておられるはずもありません」

 話がさっぱり聞き取れないので取ってください、と急かされた黄は、袋を取る前に、賭けに勝ったかのように右の拳を固めていた。

 

(つづく)