昔話を聞かせてほしい?
おやまあ、こいつはどういう風の吹き回しだい。
家業も手伝わず遊びほうけてる悪童が、おばあちゃんの昔話なんかをせがむなんてねえ。腐った果物でも食べたかい?
まあいいさ。どの話が聞きたい? 弓術の腕を磨き続けたあげく、肝心の弓を忘れちまった達人の話かい? 偏屈をこじらせたあげく、虎になっちまった詩人の物語かい?
なに、そういうのじゃない、話してほしいのは大人の話だって?
ははあ、ようするに艶っぽい話かね。このおませさんめ、とうとう色気づいちまったか。しかし、こいつは困ったものだね。色恋沙汰に関しては、おばあちゃんの手札はお寂しい限りなんだ……
仕方ない、誰にも話すつもりはなかった、とっておきを開陳してあげよう。こいつは面倒事に色々と絡み合っている話だから、他人には教えるんじゃないよ。わかったね?
今から五十年ばかり昔……乾隆二十年代半ば(一七六〇年頃)の話だ。ここ、北京の街外れに、とある裕福な商人が別荘を構えていた。
黄某というこの男は、外国との貿易を仕切っていた大商人の使い走りみたいな立場だった。ようするに小物だが、頼りにする相手があまりに強大だった場合、肥え太るし、才覚も身につける。当時、小物の中の大物ってくらいの位置づけにまで成り上がっていたんだ。
三十も半ばの歳になり、財を蓄えた黄は、すでに妻帯していた身上とはいえ、豪商たる者、妾の一人や二人、囲ってしかるべきと考えた。目をつけた相手が、都から程近い農村に居を構えていた劉家の令嬢だった。
この一族は由緒正しい学者の家系で、本来なら、無学な商人なんぞが手を出していい相手じゃなかったんだが、金の力ってやつは恥を忘れさせる。道理をねじ曲げる。劉家は学者一家らしいつましい暮らしぶりだったが、黄は、世間知らずの家長に目をつけたんだ。
家長の友人を抱き込んで、いかがわしい賭場へ連れ込み、詐術の限りを尽くして大負けさせた。たったの一晩で、家長は、それまでの暮らしぶりでは一生かかっても返しきれないような借金を抱えちまったんだ。
途方にくれる一族の前に、善人面をして登場したのが陰謀の張本人様だ。黄は、家長の借財を肩代わりしてやる代わりに、娘をよこせと要求した。
いやらしいのが、肩代わりの形でね。一度に返済するわけじゃなく、毎年ちょっぴりずつ払う取り決めにしたから、娘が逃げ出しでもしたら、一族は路頭に迷ってしまう。だから劉家は、娘を差し出さざるを得なかった。
実はその娘には、幼なじみで、互いに好き合っていた許婚もいたんだけどね、そんなつながりは引き裂かれちまった。親きょうだいを助けるために、泣く泣く娘は、黄の別邸へ引っ張られていったっていう次第だったのさ。
その屋敷は、当時の金持ち連中が見栄を張るためにしつらえる別荘のお手本のような造りだったがね、母屋の中に、風変わりなものが用意されていた。大きな鳥籠だ。どれだけ大きいって、大の男を十人くらい雑魚寝させても余裕があるくらい馬鹿でかかった。黄は、学者の娘を籠の中で生活させて、使用人達に籠姫と呼ばせていたんだ。
なに、妾とはいえ、鍵をかけて閉じ込めておくなんてひどい扱いだって?
違うんだよ。籠には鍵なんてかかっていなかったのさ。そもそも鍵穴自体こさえられていなかった。籠姫は、罪人でもなんでもなかったから、散歩したかったら使用人を連れて街に出ていけたし、なんなら実家を訪ねても問題なかった。
けどね、その自由は、黄に許されたものに限られていたんだ。聡い娘だった籠姫は、借金を背負わされた経緯が黄の手回しによるものだろうってうすうす勘付いてはいたけれど、どうしようもなかった。
言うならば、見えない籠に囚われていたんだ。鳥籠は、お前は俺から逃れることはできないんだぞって無言でわからせる首輪みたいな役割を果たしていたんだね。
なになに、惚れ込んで手に入れたはずの妾を、どうしてそんな風にいじめるのかって?
それはねえ、そういう愛し方しか知らない男もいるって話なのさ。よくわからない? 若い内はわからなくたっていいよ。一生わからない方が幸せかもね。要は、賢くて綺麗なお姫様みたいな娘が、悪党に囚われていたって話だけ覚えてもらったらいいよ。
それから、五年の月日が流れた。黄は籠姫に飽きることなく、週に二、三度は別宅を訪ねてくる。その夜も、鳥籠の中で籠姫に酌をさせていた。
「男というものはな、皇帝陛下だろうが、飴売りだろうが、三つの宝を常に求めているものだ。金・権力・女の三つをな」
黄は持論をまくし立てた。自分が男の代表であるような言い草だった。
「俺はその内、二つを手に入れたんだから、最後の一つも欲しくなるのは自然の成り行きだ……とはいえ、権力ってやつはややこしい。お上にありったけの金を納めて、代わりに官職を手に入れるようなやり方をしたところで、それが権力かと問われたら、必ずしもそうとは言えないわけだな。重要なのは、交わりだ。お偉い方々と友誼を結んでいること自体が権力なのだ」
酔いが回っても、全く弁舌が乱れない男だった。もしかしたら、そこが成り上がりの秘訣だったのかもね。
黄の長口上をまとめると、茶会なり食事会なりに顔を出して気に入られる、なにかと手助けして感謝される、って働きを何度も繰り返し、偉い人にとってなくてはならない人間だと見なされる必要があるわけだが、別のやり方も試してみようって話だった。
地道なやり方も、もちろん捨てるわけじゃない。ただ、それは他の人間も手を出している方法だから、競争相手を出し抜くためには、他人が採り上げないような手段も用意しておきたい、という理屈だね。
「俺が狙いを定めるのは……宦官だ」
黄が口にしたのは思いもよらない言葉だった。
子供でも、宦官は知っているよね。へえ、聞いたことがあるってだけか。近所のお兄さんがジキュウするつもりだって言っているけど、それがなんだかわからないって? うん、そこがわかっていないと話にならないね。詳しく説明しておこうか。
宦官というのはね、皇帝陛下のお側でお仕えするために、またぐらのアレを切り取り去勢した男達のことだ。
アレは、どっちのアレかって? 両方だよ。
ちょっとちょっと、そんなに震えなくてもいいじゃないか。なぜ切り取ってしまうかって? そりゃあ、皇帝陛下と言えば、後宮に住んでいらっしゃるからさ。後宮には大勢のお妃様方がいらっしゃる。宮女も大勢働いている。そんなところに、ついたままの男を放り込むのは差し障りがあるだろう? だから取っておく。
そこまでする必要があるかって? 仕事は、宮女に任せておけばいいじゃないかって?
ううん、それについては、「ずっと昔からそうだったから」と濁すしかないねえ。宦官というものが、どういう経緯で後宮にはびこるようになったかは、多分、皇帝陛下ご自身でさえご存じないだろうからね。何しろ、儒教のありがたい書物である『周礼』にさえ、「皇帝の星の周りを宦官の星がある」なんて記されているんだからさ。
それでもまあ、あえて理屈をあてはめてみるなら、最初は見せしめのために生み出されたものじゃないかねえ。
大昔、この国は一つじゃなく、しきたりや言葉も異なる様々な国が入り乱れていた。そんな時代に、ある国の王様が、別の国を滅ぼしたとする。戦争で勝った方はやりたい放題だ。負かされた国の偉い人たちは、みんな、ひどい目に遭わされる。それが女だったら、わかりやすいね。勝った方の妾にされるんだ。
すると、男たちは? 殺されるより、もっと恥になる仕打ちを受けたかもしれない。つまり、男のしるしみたいな部分を切り取られる。そして召使いにされて、元は自分の奥さんや娘だった妾達の世話を押しつけられるんだ。
こいつは相当な辱めだったろうね。勝った側の恨みから始まったのか、悪趣味から始まったのか、それとも国を滅ぼすとはこういうことなのだと見せつけるために始まったものなのかはわからないけどさ、最初は、負けた側の男を貶めるために考え出されたものだったんじゃないかねえ。
時代が下ると、切り取ることを王様の好き勝手に委ねはしないで、法律で、「宮刑」という刑罰として定めるようになった。死刑に値するものより一段軽い罪を犯した人間に科せられる罰で、理屈としては、戦争で負かした相手を裁くのと変わらないね。王様や国にとって、戦争の相手と同じくらい許せない人間に対して与えられる仕打ちというわけだ。
歴史家の司馬遷は、友達を弁護したせいで皇帝の怒りをかい、宮刑を施された後で、『史記』という歴史書を書いている。そのせいか、皇帝への恨み節が、文章のそこかしこにじんわり漂っているというよ。
話がそれちまったね。
大事なのは、切ることそれ自体じゃなく、切られた人間の話だ。
どの時代も、ほとんどの王様や皇帝陛下は、大勢の宦官を従えていた。お偉い方々は、どうして宦官を気に入っているかって? ご本人に伺わなかったら本当のところはわからない話だが、そもそも後宮で生を受けた方々は、生まれたときから近くに宦官が侍っているのだから、当たり前になっているのかもしれないね。
別の解釈として、宦官は子孫を作れないから、という考えもある。臣下に権力を与えると、そいつは皇帝や民草のためじゃなく、自分の親族のためになるように働きがちだ。まあ、宦官だって養子はとってもいいし、ひとりぼっちでも、権力を独り占めにしていた宦官も少なくないんだが。
とにかく重要なのは、後宮には宦官が大勢いるってところだ。今の清王朝の一つ前、明の時代には、なんと十万人もの宦官が、皇帝や皇族に仕えていたらしい。清に代わってからは、康煕の四十九年(一七一〇年)に雇いすぎるなってお触れが出たせいで、五百人くらいに減らされたらしいけど、それから五十年以上経っていたから、揺り戻しは始まっていただろうね。
さっき説明したように、宦官は、そもそも刑罰を受けてアレを切り取られた人間がなるものだった。じゃあ後宮にいる宦官たちが、全員、死刑を科されるものよりわずかに軽い罪を犯したろくでなし揃いかというと、そうじゃない。今の時代、あまりに残酷じゃないかって理由で、宮刑は廃止されてるのさ。じゃあ後宮の宦官は何者かっていうと、ほとんどが、自分の意志で切り取った連中なんだ。
また震えだした……そんなにおっかないかい? 別にあんたのを切り取るってわけじゃないから、そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。
でもまあ、あんたは幸せだよ。あんたと同じくらいの年頃で、もう宦官になるために切り落としたって子供も珍しくないんだ。近所のお兄さんがジキュウするかもって話を聞いたんだろう? 刑罰ではなく、自分の意志でアレを切り取ることを、「自宮」って呼ぶんだよ。
今説明したように、お偉い方々は宦官を信頼しがちだ。そうした宦官は、貧しい家庭の生まれで、後宮に入った当初は掃除や細々な仕事を押しつけられる立場だったとしても、皇帝陛下のお気に召した結果、国全体を取り仕切るような大任を仰せつかるという大出世を果たす例も見受けられる。
つまりね、貧乏な家で、なんとしてでも息子を栄達させたかったら、切らせるのも思案の内に入ってくるって話さ。
こら、股間を押さえない。あんたの家はそこまで追い詰められちゃいないよ。多分。
随分と遠回りをしちまったけれど、宦官についての説明は、これくらいで充分だろう。黄は、権勢を得るために宦官に目をつけたと語った。きっかけは、西華門(北京・紫禁城の西門)の近くにある「廠子」の前を通りかかったことだと言う。
そこは自宮を担当する建物で、お上に認められたアレを切り取る手術の専門家──「刀子匠」が数人、働いている。宦官になることを望む者は、ここで手術を施され、傷が治るまで看護もしてもらえる。
「廠子の近所に住んでいる知り合いに教えてもらったんだが、誰でも手術をしてもらえるかといえばそうではないらしい。第一に身元保証人が必要で、第二に、銀六両を支払う必要もある」
酌をする籠姫に黄が語った金額は、自宮しか立身出世の道が残されていないような貧しい連中にとっては、ちょっと厳しい額面だ。保証人だって同じだろう。
「貧しい宦官志望者には、本当の意味での自宮、もしくは知り合いに手伝ってもらうという方法しか残されていない。それは大変な苦痛を伴うものだろうし、命だって落としかねないだろうな。さらに言えば、支払う余裕がある者だって、それほど快適というわけでもなさそうだ。廠子なんて外側から眺める限り、粗末な建物だったよ。あんなところで大事なものを失って、傷が癒えるまで寝かされ続けるなんて、私だったら願い下げだね。だが、そんなみじめな連中が、場合によっては皇帝陛下のお気に入りとして、権勢を得ることもあり得るのだ。恩を売っておくのもいいかと思ってな」
杯を高く掲げ、黄は挙兵を宣言するような声で言ったんだ。
「そこで自宮者のため、豪華で安上がりな手術場を建てる」
籠姫が反応しないでいると、黄は傷付いたような面持ちで再び声を張り上げ、
「傷が癒えるまでの間、召使いを侍らせ、美食を堪能させる。自宮者たちが、それまでの人生で味わったことがないくらいの贅沢を体験させるのだ。男の大事な部分を切り落としたことが霞んでしまうくらい良い思い出が残ったら、栄達を果たしたとき、一人や二人くらいは、私に感謝して重要なつながりをもたらしてくれるはずだ」
「ですが、刀子匠の商売を妨げることになるのでは? 恨みを買いませんか」
黄の身になにかあったら、実家の借金を返してもらえなくなってしまう。籠姫が心配するのも当たり前だった。
「その辺りは、丁寧にことを進めている。そもそもお上は、出世のために自宮に走る貧乏人が後を絶たない現状を、快くは思っておらんからな。西華門の刀子匠に話をつけて、あちらの手術場で処置してもらうには懐が寂しい男をこちらで引き受ける、という建前でやらせてもらうつもりだよ。手術人も、西華門からよこしてもらう。ようするに、あくまで施術を担当する本家は西華門の連中で、私は分家として場所を貸しているだけに過ぎないって言い訳だな……そもそも商売というものは、長続きしている方が信頼される。ましてや大事な部分に関わる手術なんだから、余裕がある人間は、本家を選ぶはずだ。こっちを選ぶのは、貧乏人と命知らずだけさ」
すでに西華門との間に話の大筋は通してある、と黄は言った。思いつきを語っていたんじゃなく、すでに動かし始めている企みだったみたいだね。この話を籠姫に伝えたのは、廠子を、籠姫がいる別宅の敷地内に追加するつもりでいたからだと説明した。
「この家の敷地には、まだまだ余裕があるからな。遊ばせておくにはもったいない」
壮大な計画を喋るだけ喋ってから、黄は閨にも入らず帰ってしまった。籠姫は、別に意見を求められていたわけじゃない。ただの聞き役だった。