次の日、まだお天道様が顔を出す前にお寅は家を出た。布団の中で、鶴次の行動が気になり、まともに眠れなかった。養生所の勤めが始まる前までに、行かねばならない場所がある。お寅は早朝の町をかけた。趾がかじかみ、すぐに感覚がなくなる。
徳松を見つけた川原の浅瀬から、杉野の言う通り九町ほど川沿いを進むと、辺りは鬱蒼とし、林の中に寒中寺を見つけた。お天道様が昇り出し、朝靄が川面のように煌めいていた。寒中寺の前では若僧が竹箒で門前を掃いていた。
「あの、こちらは徳松坊ちゃんがいらっしゃったお寺様でしょうか」
「そうですが」
若僧は、突然の訪問者に面食らっていた。
「あの、徳松坊ちゃんが亡くなったと聞いて、私、私」
「残念ながら、確かにこちらで徳松殿をお引き受けしていましたが、それは町医者の玄信先生の伝手でして、伊勢屋さんは我が寺の檀家ではないのです。墓はここにはありません」
若僧は、お寅が墓参りに来たとでも思ったようで、申し訳なさそうな顔をした。
「あの、鶴次が、こちらの寺子屋に来ていたと聞いて。あたし鶴次と幼馴染で」
柔和だった若僧の顔が、急に仁王像のような顔になった。
「お前も、あの悪餓鬼の一味か!」
お寅は、驚いた。確かに鶴次は悪童だが、仮にも仏に仕える僧が、怒号をあげるとは思わなかった。
「死して尚、徳松殿を謀るつもりか!」
若僧は、今にも竹箒でお寅に殴りかかりそうだ。お寅は後ずさりしながら、首を振った。
「違います。ただ、徳松坊ちゃんと鶴次の仲がどんなものか知りたくて。鶴次は徳松坊ちゃんに悪事を働いたのですか?」
「知らないのか? 徳松殿は鶴次に買い物を頼んでいたのだ」
「買い物?」
「弟君に赤蛙丸を買って、届けるように頼んでいたのだ。私たちからすれば徳松殿のほうが、御加減が悪そうに見えたが、仕送りの金子も決まっていたので、そのほとんどを、弟君の薬代に充てていた。それなのに」
怒りのせいか、若僧は言葉を詰まらせた。
「鶴次は、赤蛙丸を買っていなかったのですね」
お寅は、伊勢屋で貞森が番頭にした質問を思い出した。鶴次は伊勢屋に出入りしていない。徳松が厄介払いをされ、伊勢屋と連絡が取れないのを良いことに、金をおのれの懐に入れていたのだ。
「そうだ、金子を猫糞し、赤蛙丸を買わなかった。それを知った徳松殿の落胆ぶりと言ったら、見ていられないほどだった」
若僧は、徳松の様子を思い出したのか目元にうっすらと涙を浮かべた。
「わかったなら、さっさと帰れ!」
若僧に竹箒で追い払われて、お寅は仕方なく背を向けた。木々の間から、ごおっと川の流れる音が聞こえていた。
小石川養生所の表門に着くと、宇田川と共に文蔵が待っていた。
「長屋に行ったが、ずいぶん早く出かけたようだな。どこに行っていたんだ」
文蔵の声はいつにもまして冷たかった。お寅は火照った身体が急速に冷えるのを感じた。
「寒中寺か?」
文蔵に当てられ、お寅は足元を見た。草履に葉がついている。林の葉だ。
「後始末でもしていたか」
「後始末? なんのですか」
「自身番屋で話そう」
そう言って、文蔵は勢いよくお寅の腕を掴んだ。痛さに、お寅は声をあげた。
「あ、あたしはやっていません!」
「何をだ」
口にしたらいけないような気がした。
「おやめください!」
貞森が養生所の玄関から駆けて来る。
「貞森先生、勘弁してください」
「昨日も、お話ししたはずです。お寅は下手人ではありません」
「そのお話は、徳松があの川原で殴られてはいない、というだけで、お寅が下手人ではないとは言えません」
「いえ、お寅は下手人ではありません」
貞森は一歩も譲らなかった。
「では、先生もご一緒に自身番屋に来て、直接、杉野の旦那に話してください」
文蔵が根負けした。貞森は宇田川に目配せすると、お寅と共に文蔵に連れられ自身番屋に向かった。
自身番屋には鶴次がいた。畳間で杉野の後ろに控えている。
杉野は貞森を見て、驚いた顔をして頭を抱えた。文蔵を睨みつけるが、文蔵は表情を変えず控えている。
「貞森先生が下手人を知っているそうです」
杉野の眼に力がこもる。
「女看病人を身贔屓しているだけだったら、帰ってもらいやしょうか」
杉野の眼が鶴次を一瞬、捉えた。お前には庇ってくれる人もいない、と鶴次を気の毒に思っているのか。弱者に寄り添う眼にお寅は驚いた。町奉行所の同心なんて、河口と同じ生まれついての与えられた者だ。それなのに市井を見ているだけあって河口と違い、与えられない者を気遣う心があるのだ。
「私は真実を伝えに来ただけです」
「真実? そりゃあ良い」
杉野が、目を光らせながら片笑んだ。
「まず、お寅を連れてきた理由をお聞かせください」
「これですよ」
杉野が袂から徳松の入れ歯を取り出した。お寅は息を呑んだ。文蔵は長屋に行った時に、家探しもしたのだ。
「入れ歯ですか? 徳松殿の物だと?」
「お寅には母親しかいねえ。女の入れ歯なら、歯は黒いはずですぜ。これは間違いなく男の入れ歯です」
貞森は杉野から入れ歯を受け取り、しげしげと眺めている。
「それに鶴次が、見たと言うんですよ。お寅が入れ歯を盗むために徳松殿を殴り、川に突き落とした所を見た、と」
「鶴次!」
お寅は、杉野の前ということも忘れ、鶴次に叫んだ。同じ貧乏長屋で育った幼馴染だ。下手人の濡れ衣を着せるなんて、鶴次は少しの情もお寅に感じていないのだろうか。
「その通りです。でも、お寅はあの浅瀬によく浮き死体が流れ着くことを知っていたから、心配で見に行ったんですよ。おいら、お寅の後をつけて、案の定、徳松坊ちゃんは浅瀬に流れ着いていて、川に戻そうとしていたところを、養生所の先生に見られたんだ」
鶴次の眼を見て、お寅は悟った。鶴次の眼は涸れた井戸のように昏く、乾いていた。鶴次はお寅なんて足元にも及ばないほどの、真の悪人になったのだ。戦わねば、おのれが食い殺される。
「嘘を言うんじゃないよ! あたしはさっきまで下落合村の寒中寺に行ってきたんだよ。御坊様が言っていたよ! あんたが徳松坊ちゃんから伊勢屋の与之助坊ちゃんに赤蛙丸を買って持っていくように頼まれていたって、だけどあんた、赤蛙丸を買わずに、その金を猫糞していたんだろう! 怪しいといったら、あんたのほうじゃないか!」
「おいらは猫糞なんてしてねえよ。ちゃんと、伊勢屋に届けていたさ」
「伊勢屋の手代は、あんたなんか知らないって言っていたよ!」
「そりゃ、手代に見つからないようにしたさ。見つかったら、藪医者に告げ口されて、また取り上げられちまうからな」
鶴次は落ち着いていた。下手人は鶴次に間違いなかった。お寅に罪を着せようと覚悟を決めたようだった。
お寅は胸元を押さえ、必死に息を整えた。考えなきゃ。でも、頭に血が上って何も浮かばない。
「貞森先生の真実とやらは、いかがですかい」
杉野が一瞬の静寂を破る。
「なぜ、寒中寺の僧は、ひいては徳松殿は、鶴次が薬を届けていない、とわかったのでしょう。徳松殿は厄介払いされた身。伊勢屋と親交が続いていたとは思えません」
「あとで聞いてみますがね、それがそんなに大事なことですか?」
「寒中寺に、来たのではないですか?」
「誰が」
「母御と与之助殿です」
杉野はあっと声をあげた。お寅も与之助の部屋の様々な虫封じの札を思い出す。
寒中寺とは、もともと疳虫寺と言ったのではないか? だから、小児科の玄信とも親交があるのだ。徳松の母と与之助が、虫封じに行ってもおかしくない。
「鶴次に、おそらく赤蛙丸を頼んでいた徳松殿は、寒中寺に二人がやって来て、虫封じの祈祷を受けているのを見て驚いたでしょう。そして、鶴次にどういうことだと聞いたとしてもおかしくない。昨日言った通り、徳松殿は遠出が出来ない身体だ。おそらく、鶴次を寒中寺の裏にでも呼び出したのでしょう」
「違う! お寅が、入れ歯を盗むために、徳松坊ちゃんを殴って川に捨てたんだ!」
「鶴次、お寅は入れ歯をいつ盗った?」
「そりゃあ、寒中寺で殴った時だよ」
貞森は悲しそうに眼を細めると、鶴次から杉野へ視線を移した。
「この入れ歯が何よりの証拠」
「これが?」
杉野は貞森から入れ歯を還してもらうと、上下に転がし、眺めながら首を傾げる。
「徳松殿の唇は腫れていました。おそらく、川に流されている時に岩にぶつけたのでしょう」
杉野が入れ歯を転がす手を止めた。
「そこに、凹みがあります」
貞森に指差された場所で、視線を止める。
「確かに、わずかだが凹みがある」
「そのような凹みができるには、余程の力が必要です。通常ではありえない。お寅は確かに、徳松殿からその入れ歯を奪ったのかもしれません。しかし、それは、あの浅瀬に流れ着いた後で違いありません」
「それでは、誰が寒中寺で徳松を」
そう言いながら杉野が、ゆっくりと鶴次を見る。
「違う!」
お寅は息を呑んだ。鶴次は明らかに狼狽えていた。
「下手人はお寅だよ!」
「赤蛙丸はどこの店で買った?」
「それは」
唇を噛んだ鶴次の額に汗が浮かんでいる。「橘屋」と思わず鶴次に教えそうになり、お寅は言葉を変えた。
「鶴次、本当に徳松坊ちゃんを殺したの?」
「違う!」
鶴次の顔は青ざめていた。この世の全てを恨むような眼をしていたのに、今は生き仏を探すような頼りない眼をしている。
「あいつから襲ってきたんだよ! ちょっと、金を猫糞したくらいで、おいらを殺そうと襲ってきたんだ。殺されそうになったのは、おいらのほうなんだ!」
「徳松殿は厄介払いされて尚、父違いの弟の病を気に掛ける優しい男だった」
貞森の声に、鶴次の生気が戻った。
「そうだよ! あいつは性懲りもなく、まだ弟に毒を飲ませようとしていたんだ。だから、おいらはそんなもの、伊勢屋に届けちゃなんねえと思って、買わなかったんだ。大悪人は徳松なんだよ!」
「赤蛙丸は毒薬ではない。ただの売薬だ」
「伊勢屋では毒扱いだったんだから、一緒だろう? それなのに、徳松は弟が虫封じに来たのを見て、おいらを殺すために呼び出したんだ!」
「殺すためではない!」
「だって襲い掛かってきたんだぜ!」
「徳松殿は全身が浮腫んでいた。相当覚束ない足取りだったはずだ。足が縺れて倒れただけだろう」
「違う! あいつの目は、おいらを殺そうとしていた!」
鶴次と貞森の会話は平行線だった。どちらの言葉も迷いがなく、相手の言葉を聞き入れる気配もなかった。
「訳を聞こうとしただけだ」
「どんな人間だって、腹が立てば何をするかわからねえ!」
「人を助けようとする人間は、けして人を傷つけない!」
「誰だって、おのれが一番可愛いんだ! 奪われれば奪い返そうと思うはずだ!」
お寅の頬に涙が伝った。鶴次の顔は獣だった。けれど、それは鶴次のせいではない。
「先生。そろそろ良いかい」
杉野の声で、貞森が先に居住まいを正した。
「これから先は、俺の役目だ。悪いが先生たちは、お帰りいただきましょうか」
杉野の声に、貞森はお寅を誘い立ち上がった。文蔵に見送られ自身番屋の外に出る。
戸口を出る時に、お寅は鶴次を見た。鶴次は口を引き結び、空を見ていた。その顔は、いつもの鶴次の顔だった。
鶴次の沙汰は過料だった。徳松の治療代を伊勢屋に払う、というものだ。
鶴次の齢が十五歳以下であり、伊勢屋が徳松の死に関して騒ぎたてなかったので、その程度で済んだのだ。そもそも、養生所で手当てをしたので、治療代など存在せず、そういう意味では無罪放免と言っても過言ではなかった。
けれど、鶴次一家は夜逃げした。鶴次の罪は町一帯に知れ渡り、面目を潰された長屋の差配人に辛く当たられた。長屋の住人からも嫌われて、居られなくなったのだ。
別れも言えなかったが、それまでの関係だったのだ。悪事をするだけの関係。お寅も鶴次と大差ない。お寅もまた、夜逃げするような人生を送るのだろうか。
鶴次が消えて暫くすると、お寅は小出に肝煎屋敷に呼び出された。
覚悟はしていた。むしろ遅かったくらいだ。鶴次の件と結びつかないように、配慮してくれたのかも知れない。与えられる人が羨ましいとは思わなかった。羨ましいと思うことすらできなかったのだ。
「ここは御公儀の養生所だ。宇田川様や同心の皆様は目をつぶってくださったが、わかるな」
「はい」
お寅が、徳松から入れ歯を盗んだことはなかったことにできない。盗人を置いておくわけにはいかないだろう。
「お世話になりました」
お寅は深々と頭を下げると、肝煎部屋を出た。養生所を出る前に薬園に足を向ける。
「お寅、もう行くのか」
寒空の下、貞森が消え入りそうな声を出した。お寅の処分は前もって知らされていたのだろう。お天道様の下でも、貞森は幽霊のようだった。
「一つだけ聞いてもいいか?」
お寅は頷いた。
「なぜ、徳松殿の入れ歯を盗んだ? 入れ歯は確かに高価だが」
「知っています。口の形は人によって違うから、どんなに高価でも、他人の入れ歯なんて二束三文の値しかつかないって」
売ろうとした訳じゃない。お活に頃合いを見て、渡そうと思っていた。徳松とお活の顎は、若い頃に歯を失ったもの同士、よく似ていた。ぴたりと合わなくとも、歯があれば、もう少し食が進むと思ったのだ。
お寅は悔しかった。おのれの心根に腹が立った。なぜ、徳松を目にして、お活のことを考えたのだろう。お活のことなんて考えなければ、鶴次に下手人の濡れ衣を着せられることもなかった。
「あたしは、ただ、優しいおっかさんが欲しかっただけです」
ひもじくても良い、綺麗な着物を着られなくても良い。ただ、お活に優しく笑って欲しかった。抱きしめて欲しかった。お寅の心配をして欲しかった。それだけだった。
貞森は何かを呟いたが、身を切るような北風に遮られ聞こえなかった。
「先生。あたしはこれから、どう生きて行けばいいのでしょうか」
「お寅は、お寅のままで良い」
優しく微笑む貞森に、お寅は落胆した。貞森の言葉が、心の上辺だけをなぞっていく。
ふと、貞森と鶴次のやり取りを思い出した。あの時、貞森は徳松の人徳を信じ、人を疑うしかない鶴次の心にちっとも寄り添ってくれなかった。鶴次の身の上を考えてくれれば、少しは鶴次の気持ちもわかっただろうし、鶴次もおのれの罪と向き合ってくれたかもしれないのに。
お寅は貞森に深々と頭を下げ、足早に養生所を出た。
お寅は頼りない川を眺めていた。風はどんどん乾燥して肌がかゆい。ぼりぼりと腕を掻くと、白い粉が埃のように空を舞った。
鶴次は、このまま悪の道に進み、更に罪を犯すのだろうか。おのれはどうだろう?
小さな悲鳴が聞こえて、声のするほうを見ると、川原の中で河口が尻もちをついていた。
「や、やあ、お寅」
「河口先生。何をしているんですか」
そういえば河口は、非番だった。
「貞森先生に赤蛙を取って来てくれ、と頼まれてね」
おかしな話だ。この川原に赤蛙はいない。赤蛙がいるのはもっと山間だ。案の定、河口の手に握られていたのは蝦蟇だった。貞森は河口に、お寅の様子を見に来させたのだ。
「先生、それは蝦蟇ですよ」
白けながらお寅は言った。
「そうか、蝦蟇なら傷薬になるな」
「その前に、先生の手がかぶれますよ?」
河口は大きな声を出して、蝦蟇を投げ出した。蝦蟇は悠然と叢の中に消えた。川の水で必死に手を洗う河口の後姿を見ながら、お寅の腹から笑いが込み上げてきた。貞森も、河口のこんな醜態までは想定外だろう。
お寅は笑いを抑えて息を整えると、遠くに見える山々の稜線を見た。徳松を見つけた日のように、お天道様は沈みかけ山は闇と同化している。
眼を瞑ると、山間の川で岩の上をのそりと歩く赤蛙の姿が見えた。
鶴次やおのれのような罪を犯した人間は、這いつくばって身を低くして生きていくしかない。だけど、這いつくばって生きている赤蛙が子供たちの役に立つように、おのれだって誰かの役に立てるはず。生きる甲斐とは、与えられることではなく、与えることではないのだろうか。
そうだよ。お前のように、あたしも生きるよ。お寅は、山々にいる赤蛙に、そう誓った。