自身番屋が見えなくなると、貞森は振り返り「お寅、養生所に戻る前に、一つ付き合ってくれないか」と言った。

 迷いのない貞森について行くと、日本橋に着いた。高札場を過ぎると、貞森は足を止めた。表通りに面して、海苔問屋伊勢屋はあった。間口十間の大店で、高級品の海苔を扱っているだけあって長暖簾の白抜き文字は眩しいほど真っ白だった。その長暖簾をくぐり店土間に入ると、頬の赤い年若い手代が寄ってきた。

「何をお求めでしょうか」

 客あしらいをしながらも、薬籠を持った貞森を見て怪訝な顔をする。

「小石川養生所の貞森十内と申します」

 手代は目を剥き、小声で「少々お待ちください」と告げ、帳場の帳場格子の中にいる番頭に耳打ちをした。番頭が奥に消え暫くして戻って来ると、奥座敷に案内された。

 奥座敷には誰もいなかった。促され、中に入ると隣の部屋から耳をつんざく高い声が襲ってきた。幼子がかんしやくを起こし暴れているようだ。

「誰か来ておくれ!」

 掠れた女声が聞こえ、番頭は貞森に頭を下げると部屋を飛び出した。貞森が廊下に顔を出し、お寅もなんとなく廊下を見た。

 隣の部屋の障子が開いており、まだ前髪のある手習いを始めたくらいの男児が番頭に羽交い締めにされていた。柱には御札が古い物から新しいものまで、様々な寺社仏閣の御札が張られている。

「ほら、口を開けて」

 かすれ声の妙齢の女性が男児の顎に手をかけ口を開かせる。女性の後ろに控えていた十徳じつとくを着た坊主頭の老人が、手にした薬紙から粉薬を口に注ぐ。女性が急いで水を飲ませ、何とか飲み込ませたが、男児は身体を仰け反らせ、番頭の顔を引っ掻いた。番頭が悲鳴をあげ顔を押さえると、その隙に男児は部屋を出て、庭に飛び降り、裏口へ駆けて行く。番頭は健気に、男児の後を追いかけたが、よろめく身体を見ると顔の傷は深そうだ。

 女性は乱れた襟元をなおすと、坊主頭の老人に深々と頭を下げる。顔をあげると貞森とお寅を見て、眉間に皺を寄せた。

「玄信先生、ゆっくりしていってください。あたしはこれで失礼します」

 女性は手代を呼ぶと、玄信と呼ばれた老人を別室へ案内させ、貞森とお寅の前へやって来た。

「徳松のことは主人ではなく、あたしがお伺いします」

 そう言って、貞森とお寅を部屋へ戻し、障子を閉めた。

「徳松の母でございます」

 懐紙で首元の汗を拭く女性は、徳松の母のお兼だった。目元や鼻筋に徳松の面影がある。疲れてはいたが、肌には張りがあり、お活よりも若そうだ。若い時分に徳松を生んだのだろう。

「この度は、徳松殿を助けられず、誠に申し訳ありません」

 貞森の苦しそうな声に、お兼は狐につままれたような顔をした。

「徳松は川原で殴られた傷が原因で亡くなったと聞きました。自業自得でしょう」

 お兼は、徳松の非を確信しているようだった。

 なんと薄情な母親か。お兼の顔にお活の顔が重なり、お寅は背筋が冷えた。

「最期を看取ったのも何かのご縁。線香をあげさせていただけますか」

 お兼は迷惑そうな顔を隠しもせずに、貞森とお寅を仏間へ案内した。葬式は昨日、済ませたそうだが、仏間の仏壇以外、その名残が一切なく、お寅は切なかった。

 貞森は丁寧な仕草で線香をあげると、手を合わせた。お寅も一緒に手を合わす。

 部屋を出ると、廊下の先を玄信が歩いていた。貞森は近づくと、声をかけた。貞森が名乗ると、玄信は驚いた顔をした。

「これは、申し遅れました。日本橋で子供医者をしております、玄信でございます」

 言葉は丁寧であったが、貞森を値踏みしているような眼だった。医者の世界では身分よりも医者としての格が物を言うらしい。玄信の足袋たびは真っ白で、駕籠医者に間違いなかった。

「養生所の医者が何の御用で? こちらの主治医は先代より私が仰せつかっておりますが」

「縁あって、徳松殿を診察しまして」

 玄信は、首肯した。

「残念なことでした」

 言葉とは裏腹に表情は、いやらしく微笑んでいる。

「玄信先生は徳松殿を診察したことはございますか?」

「はて? 徳松殿は病を得たことなどありませんよ」

「しかし、身体は浮腫み、よく転んでいたようですが」

 玄信は高笑いすると、

「あれは、ただの肥満ですよ。徳松殿は良い歳になっても、葛餅に目が無くてね。年中、葛餅を食べていましたからね。伊勢屋さんも辛くは当たっていましたが、金払いだけは良かったから、たんと黒蜜をかけてねえ」

「徳松殿は、昔から葛餅がお好きだったのですか?」

「いや、ここ一年くらいですかねえ。そういえば、ぶくぶく太りだしたのも、同じ時期だから、やはり肥満ですなあ」

 江戸煩だと知っているお寅は、徳松が葛餅くらいしか口に入れられなかったのだと、わかる。しかし、伊勢屋の誰か一人くらい、徳松の異変に気付いてやれなかったのか。それくらい徳松は、誰からも相手にされなかったのだろうか。

 徳松が江戸煩だと見抜けなかった玄信の藪医者ぶりに、お寅は呆れたが、貞森は表情を変えずに、

「徳松殿は与之助殿に毒を飲ませたとか」

「毒と言うのは、大げさですがね。私に断りもせずに、売薬を勝手に飲ませていたんですよ」

「売薬?」

赤蛙丸あかひきがんです」

 赤蛙丸は、麹町の橘屋が売っている小児のかんの虫の薬だ。そもそも赤蛙が疳の虫の妙薬と言われ、生きた赤蛙を売り歩く赤蛙売りもいる。赤蛙丸は、江州や丹州の新樹を食す清浄な赤蛙を使用しているとして人気がある。

「赤蛙丸であれば、問題ないのではないですか」

 貞森は不思議そうな声を出した。お寅から見ても、与之助は疳の虫が強そうだ。赤蛙丸ならよく効きそうなのに。

「いやいや、私がちゃんとした薬を処方しているんですよ? 赤蛙丸なんて流行りの薬を勝手に飲まされちゃ困りますよ。治療妨害だって、きつく言ったのに、止めないから私も困り果てましてね」

 玄信が徳松を追い出したのか。お寅は目の前の藪医者に、怒りを感じずにはいられなかった。

 手代が、駕籠が来たと玄信を呼びに来て、貞森は玄信に礼を言って頭を下げた。玄信は満足そうに店先に向かう。手代は、貞森には何も言わなかった。貞森には駕籠は呼ばれていないらしい。店を出ると、貞森は玄信の駕籠を見送った手代に声をかけた。

「徳松殿は、与之助殿を可愛がっていたのですか」

 手代は目を見開くと、声を潜めながら言った。

「徳松坊ちゃんは、与之助坊ちゃんをそりゃ可愛がっていましたよ」

 その口ぶりは、徳松に同情しているようだった。

「しかし、毒薬をあげたとか?」

「違いますよ。赤蛙丸ですよ。そいつをあげていた頃は、与之助坊ちゃんも良くなっていたのに、坊ちゃんを追い出してからは、また疳の虫がぶり返して。駕籠医者だってお手上げですよ」

 そういう手代の頬には赤みが差して、手代も玄信には怒りを感じているらしい。

 貞森はしばらく考え込むと、

「ここに、こちらの娘と同じ年ごろの少年が来たことはありませんか」

「はあ。こちらの?」

 手代はお寅を眺め、記憶をたどる手間をせずに即答した。

「ありませんね」

 

 貞森が、お寅の身代を引き受けたから、今日はどうするのだろう、養生所にでも泊まらされるのかと思ったら、駿河台で貞森はあっさり帰っていった。貞森は本当に、お寅を疑っていないのだ。

 嬉しい反面、腹も立った。貞森は本当のお寅を知らない。知ろうともしない。本当のお寅は、貞森の考えるような勤勉な女看病人ではないのに。

 

 長屋に帰ると、鶴次がいた。

「お寅、なんでここに」

 飛び上がりそうになった鶴次を見て、玄信や貞森に向けられていた仄かな怒りが、大きな怒りになった。

「鶴次! あの男が伊勢屋の倅だって、知っていたのに、何であたしに黙っていたんだい!」

「何で、おめえに教えなきゃいけねえんだい」

 鶴次は口の端を歪めて言った。いやらしい顔にぞっとする。

「一体、うちに何の用さ! とっとと帰っておくれよ!」

「なんだよ。おまえが自身番屋に泊まらされるかと思って、おっかさんの面倒を見てやろうと思ったのに」

「あんたが?」

 鶴次がお活の心配をしてくれたことなど、一度もない。鶴次はいつも、おのれが一番不幸だと思い込んでいる。さすがに、お役人にお寅の名前を出して、申し訳ないと思ったのだろうか。

「おまえ、お役人に何て言ったんだ」

 鶴次は執拗に聞いてくる。

「何だって良いでしょう」

 お寅が突き飛ばすと、鶴次の眼が燃えるように赤くなった。その眼をお寅はよく見ていた。

 河口を見る病人たちの眼だ。

 お前ばかり、なぜ苦しみから逃れられるのだ。そんな眼だ。

 鶴次は外に出ると、唾を吐いて木戸のほうへ駆け出した。もう日も暮れるのに、おのれの部屋には戻れない。鶴次が戻れるのは、おっとうが寝静まってからだ。酒浸りだから、木戸が閉まる相当前に寝てしまうそうだが、鶴次は木戸番が木戸に立つ頃に戻って来る。雨漏りがしようとも、屋根の下にいられるお寅より、鶴次のほうが不幸なのだろうか。

 いや、不幸比べをしても仕方ない。鶴次の不幸も、お寅の不幸も、病人の不幸もどの不幸も不幸である限り、同じ重さであり、重いと思わないことでしか、やり過ごすことはできないのだから。

「お寅、あんた鶴次と良からぬことをしてんじゃないだろうね」

 お活が布団の中から険のある声を出す。

「自身番屋って、なんのことさ。鶴次は養生所に泊まりこむって言っていたけど」

 鶴次はお活に多くを語らなかったらしい。

「ちょいと、養生所で亡くなった病人について聞かれただけ」

「本当かい? あんな殊勝なことを言っていたけど、鶴次は何か探していたよ」

「うちで?」

「間違いないね。落ち着きなく歩き回っていたからね」

 部屋を見回すが、家財なんて布団と炊事道具くらいだ。もしや、と思い枕屏風の裏を除くとこうの蓋がわずかに傾いていた。今朝、出かける時には確かに閉めた。そうしないと、鼠が入ってなけなしの着物が食われてしまうからだ。鶴次に違いない。

 お寅は行李の蓋を開けた。中には着古した夏物の浴衣が入っている。その上に徳松の入れ歯が載っていた。盗られてはいない。鶴次は何を確かめたのだろうか。

 

(つづく)