「やあ、お寅」
医師見習いの河口橘平に声をかけられた。今日も血色の良い顔をしている。夜鷹殺しの一件では、貞森を助けて欲しいばかりに河口に縋ってしまったが、お寅は河口が嫌いだった。河口こそ、何もかも持っている人間だ。与えられる人間のはずなのに、養生所の病人たちを馬鹿にしたような態度をとる。
「あの、貞森先生は?」
「ああ、診察室にいる。昨日連れてきた病人に一晩つきっきりだったようだが、今朝、息を引き取ってね」
お寅は歓喜した。あの浮き死体まがいが死んだ。もう、おのれの悪事が露見することはない!
晴れ晴れとした気持ちで仕事が出来そうだ。
戸の開く音がして、診察室から貞森が出てきた。中には小石川養生所肝煎(病院長)の小出宝生の姿も見える。板敷の上に寝かされた男は、昨日よりも更に白かった。確かに血の流れが止まっているようだ。
「河口先生、少々、ご意見を伺ってもよろしいですか」
貞森の声は、珍しく力強かった。
河口は不思議そうな顔をしつつ、招き入れられるままに診察室に入る。貞森は戸を閉めなかった。お寅は立ち去れず、戸口に立ち続けた。
「河口、この病人はなんの病だと思う?」
病人? 川に身を投げたのではなかったのか。
河口は腰を下ろし、男の身体を触っていく。
「歳は二十歳頃でしょうか。小柄ですが骨はしっかりしています。顎がずいぶん細いですが、歯がないせいでしょう。身体は浮腫んでいますが、水太りのようです。手の指はふやけていますね。太股の内側には股ずれが出来ている。それに、身体のあちこちに古い痣がある。若いのに、何度も転んでいたのでしょう」
「蘭方で、このような病はあるか」
河口は一度、腕を組み逡巡してから言った。
「聞いたことがありません」
「それでは、やはり江戸煩だな」
小出の言葉に、貞森も頷いた。
江戸煩は、享保年間に流行した奇病だ。症状は全身の倦怠感や食欲低下、手のしびれ、足のもつれ。病が進むと息苦しくなり寝込んでしまい、遂には心の臓が止まってしまう。江戸から離れ、箱根の関所を越えれば治るとも言われており、江戸煩という名がついた。
「江戸煩の患者を見て、陸の土左衛門と揶揄する輩もいます。お寅が浮き死体と勘違いしたのも仕方ありません」
貞森が、お寅を慰めるように言った。
「しかし、江戸煩の患者がなぜ、川原で倒れていたのでしょうか」
河口の呟きに、小出は頷くと男を横にして、後頭部の乱れた鬢をかき分けた。
「膨隆している。殴られたんですね」
河口が納得した声を出す。
「その可能性は高い。おそらくこの傷が悪さをして、この者の命を奪ったのだろう」
小出の言葉に、貞森も頷いている。
お寅は背中に汗が伝い寒気がした。病人が死ねば、弔えばいい。だけど、事件となったら。
「宇田川さん、頼みますよ」
宇田川と共に、町奉行所の定廻り同心、杉野郁太郎が廊下を歩いてきた。杉野の後ろには岡っ引きの文蔵も続いている。
「ここは、病人を治す養生所でしょう。なんで俺が毎回出張らなきゃなんねえんだ」
すでに、自身番屋には届けていたようだ。文蔵が気を利かせて杉野を呼んできたのだろう。杉野を前にすると、夜鷹殺しの際に打たれた頬が疼く気がする。
「しかも下落合村で拾ってきた男なら、俺の仕事じゃありませんぜ」
「死んだのはこの養生所だ。奉行所の管轄で不審死が起きたんだ。お前の仕事で間違いない」
宇田川の苦虫を噛み潰したような顔に「屁理屈こねて」と、杉野は鼻息を吐く。
「これが仏か」
部屋に入り、杉野はどかっと、腰を下ろした。
「この男は、誰かに殴られて倒れていたんですよね。それだけじゃあ、動きようがないですぜ。まずは、身元を特定しなきゃなんねえが、先生方に心当たりはねえんですかい」
養生所の医師三人が揃って首を傾げる。
「着物は上等だし、顔立ちも女みてえな顔だから、どっかの商家の倅ですかねえ」
杉野は顎を掻くと、
「ひとまず、自身番屋に運んで調べまさあ」
と言って立ち上がった。しかし、ふと動きを止めて、
「この男を見つけたのは、貞森先生なんですよね?」
「いえ、私が見つけた時には、すでにお寅と……」
お寅は名前を出されて飛び跳ねそうになった。何も知らない貞森は、ただ事実を述べただけだ。けれど、お寅の心の臓は早打ちして止まらない。
「鶴次です! 同じ長屋の鶴次もいました!」
始めに見つけたのはお寅なのだから、鶴次の名前を出す必要はなかった。しかし、言わずにはおれなかった。
「そうかい。それじゃあまずは、鶴次とやらに話を聞こうか」
杉野がぽつりと言うと、文蔵がすかさず駆けて行く。
「肝煎、近々、お寅にも話を聞かせてもらいますよ」
「仕方あるまい」
小出が頷き、お寅は唇を噛んだ。養生所の仕事を言い訳に、杉野の取り調べから逃れられないかと思ったが、それは難しいようだ。
宇田川が養生所の同心を呼び、死体を板敷に載せ運び出させた。杉野もそれに続き、貞森は死体が見えなくなるまで目で追っていた。
「大丈夫だ、お寅。杉野様も悪いようにはしないはずだ」
立ち尽くすお寅に、廊下に出てきた河口が柔らかい声を出す。河口は気遣っているつもりのようだが、お寅の心を逆なでするだけだった。何も知らないくせに、偉そうに。お寅は河口に会釈だけすると、仕事に戻るために井戸へ向かった。
二日後、文蔵が養生所を訪ねてきた。ついに来たのだ。
川原から帰って以降、鶴次とは顔を合わせていない。後ろめたさから、鶴次を避けて長屋を出入りしていたのだ。けれど、いざ、おのれの番となると、どのようなことを聞かれたのか、鶴次に聞いておけばよかったと思う。
「あたしは何も知りません」
文蔵に促されると、お寅は早鐘を打つ胸を押さえながら言った。
「かまわねえ」
そう言う文蔵の目は鋭く、普段は目にも入れない女看病人のお寅を、しっかりと映している。もしもお寅が逃げ出したとしても、すぐに捕まえられるだろう。
お寅は唇を噛んで、おのれの情けなさを呪った。貧乏人の罪は罪ではないとうそぶいていたのに、いざ糾弾されそうになると開き直れない。
「なるべく早く返してください。お寅がいなくては病人たちが困ります」
貞森が、やんわりと言う。
「わかっていますよ」
もとはと言えば、貞森があの男を養生所に運んだのが発端なのだ。文蔵は多くを語らなかったが、貞森を厄介に思っているのは間違いなかった。
文蔵に連れられ、お寅は小石川村の自身番屋へ向かった。
自身番屋には、杉野が待っていた。上がり框の先の畳間で腕を組んで座っている。あの男の遺体はなく、更にどこかに移されたのだろうか。奥の板の間の仮牢はがらんとしていたが、そこにおのれが繋がれるのではないかと、お寅は身震いした。
お寅は杉野の前に座らされ、文蔵は戸口前の玉砂利の上に仁王立ちした。
「そう、固くなるな」
杉野は、首を掻きながら言った。
「あの男を見つけたのはお前が先らしいな」
お寅は頷いた。鶴次に事実を捻じ曲げてお寅を庇う義理はない。
「詳しい話を聞かせてくれるかい」
今日の杉野は穏やかだった。頭ごなしにお寅を疑っている訳ではなさそうだ。
「その、たまたまあの川原を通りかかって、浅瀬にあの浮き死体が上がっていて」
「浮き死体じゃなかったがな」
杉野は眉間を寄せて、病人のような顔をした。仕事が増えた怒りではなく、死者を労わっているようだ。夜鷹殺しの件でも思ったが、杉野は生きた人間よりも、死者に心を寄せているようだ。
「あの男が誰か、お前は知らないのか?」
「まったく! 見たこともありません!」
「そうか、あの男は、日本橋の海苔問屋、伊勢屋の倅だ」
お寅は驚いた。もう身元が知れたのか? いくら、お役人の仕事とはいえ、早すぎないか?
「鶴次が、知っていたのですか?」
杉野は返事をしなかったが、そうとしか思えない。鶴次はあの男を知っていたのだ。
だから、あの男から金目の物を盗まなかったの? だけど、それならなぜ、一緒に川に流そうとしたのだろう? 身元を知っているのなら、せめて家族に知らせはしないか? 日本橋の店の息子なら、礼の一つでも貰えるかも知れないのに。
「もう一度聞く。なぜ、あの場所にいた?」
杉野の声が冷たくなり、お寅は顔をあげた。杉野の目は先ほどまでとは違い、お寅を追い詰める眼だった。
「それは」
言えない。川に流れている浮き死体は届けなくて良いとは言え、浮き死体から金目のものを盗んで良い訳ではない。お役人の耳に入らなければ見逃してもらえる、というだけだ。それに、実際は浮き死体ではなかった。杉野に洗いざらい話して、無罪放免とはならないだろう。
「言えないのなら、今夜はここに泊まってもらおう」
今夜どころか、下手人にされるのではないか? お寅は目まぐるしく頭を働かせたが、何も思いつかない。
「なぜ、鶴次は伊勢屋の倅を知っていたのですか」
戸口から声が聞こえ、目を向けると貞森が立っていた。
「先生は呼んでいませんぜ」
杉野が、ため息をついた。
「外診が早く終わりまして。患者は快方に向かっていました」
嬉しそうに貞森は微笑んだ。
「伊勢屋と言えば、日本橋の大店です。そこの倅を、鶴次のような子供が知っているとは、にわかには信じられません」
杉野は夜鷹殺しで貞森を下手人と見誤ってから、貞森を苦手としているようだ。ばつの悪そうな顔をして、あっさりと話し出す。
「徳松、伊勢屋の倅の名前ですが、徳松は伊勢屋の女将の連れ子でしてね。悪さをして、下落合村にある寒中寺に預けられていたんですよ。そこで、鶴次と知り合ったようです」
「悪さとは?」
「伊勢屋には徳松の下に、主人と女将の子供の与之助という幼子がいましてね。その幼子に毒を飲ませたらしいんですよ」
いくら父親が違うとはいえ、おのれの弟に毒を飲ませようとするだなんて、大悪人じゃないか。
「まあ、徳松は主人に冷たく当たられて、女将も庇おうとしなかったらしいですからね。恨みに思ってもおかしくはねえ。たいした毒じゃなかったのか、与之助に何事もなく、お上には届けず、厄介払いで済ませたらしいですがね」
「なんの毒なのでしょうか」
「さあ? そこまでは知ったこっちゃないですよ」
杉野は首をすくめると、言葉を続けた。
「鶴次は、寒中寺の手習いに通っていたらしいですよ。その寒中寺は手習いの後に子供たちに食事を振舞ってやるらしく、それが目当てだったそうです」
知らなかった。手習いが出来て、食事にもありつけるなんて、そんな夢みたいな場所があったんだ。療養所の仕事は重労働だ。一瞬、鶴次への羨望を感じたが、お寅は首を振った。養生所で働けば、温かい食事を食べられ、賃金も貰えるのだ。ありがたいことだ。
「徳松は、寒中寺で僧侶に交じって子供たちに手習いを教えていたそうです。ずいぶん、子供たちから慕われていたようです。特に、徳松は鶴次を気にかけていたようで、二人で会うこともあったようです」
「弟に毒を盛るのに、子供に慕われるとは、徳松殿は不思議な方ですね」
貞森が目を伏せて、何かを考えているようだ。
「まあ、鶴次のことは、今は良いんです。お寅。あの日、なぜ、あの場所にいた」
「だから、たまたま通りがかって」
そう言いながらも、こんな言い訳では帰してもらえるはずがない、とお寅自身がわかっていた。
「お寅は下手人ではありません」
貞森が力強く言った。
「徳松殿は江戸煩も末期でした。それこそ、お寅が浮き死体と見間違えるほどに。そこまで病が進めば数歩、歩くだけでも息が上がり、心の臓は苦しくなります。寒中寺から川原まではどれくらいかかりますか?」
「九町(約1キロメートル)はあるでしょうか」
「それでは、とても寒中寺からあの川原まで歩いて来られたとは思えない」
「駕籠でも頼めばいいじゃねえですかい」
「そんな事実はあったのでしょうか」
「そこまで聞いちゃいませんがね」
杉野は唇を噛んだ。おそらく、ないと踏んだのだ。駕籠を呼んで出かけていれば、寒中寺の者がそのように話しただろう。
「徳松殿の指の皮膚はふやけておりました。少なからず、水に浸かっていた証。おそらく、あの川原のもっと上流で殴られて川に落ちたのではないでしょうか」
「寒中寺の裏には川が流れています。では、そこで殴られたと?」
「お寅を帰していただいてよろしいですか」
杉野は息を吐くと、
「貞森先生が、責を負ってくれるなら、かまいやせんぜ」
「異論はありません」
「貞森先生、いけません」
勿論、お寅は下手人ではないが、お寅の身代まで貞森に背負わせるのは申し訳ない。しかし、貞森は微笑むと、足早に自身番屋を出る。慌ててお寅も貞森に続いた。