きれい。
神田川を辿り下落合村まで来ると、それまでお寅の邪魔をしていたお天道様が沈み、田畑は薄明かりに包まれた。晩秋の風は刺すように冷たかったけれど、きらきらと輝く川面に、お寅はうっとりした。ささくれ立って疼いている心の痛みが消え、おのれじゃないような不思議な気持ちになった。けれど、それもほんのひと時で、すぐに陰鬱ななすべきことが脳裏をよぎる。どうやら、胸の奥と頭の中は全く違うものらしい。きっと浮世の垢は頭にこびりつくのだろう。
一体、人の身体はどのようになっているのか。貞森にきけばすぐに答えてくれそうだが、お寅は聞いたことがない。聞いたところで、おのれの身の上が変わるはずないからだ。小難しいことを考える暇があれば、腹を膨らますために行動しなくてはならない。それが、お寅の身の上だった。
小石川の養生所を出てそろそろ一刻が経つ。お寅は道を外れ川原に足を向けた。膝上まで伸びる草草を根から踏みつぶしながらがむしゃらに進む。
川原には虫の声が鳴り響いていた。甲高い音は耳に障る。まだ、養生所の病者たちの呻き声のほうが我慢できた。
浮世は喧噪に溢れている。唯一の静寂は、貞森のそばだけだ。小石川養生所の医師、貞森十内の隣にいると、なぜか一切の声が耳に付かなくなる。貞森の幽霊のような佇まいが浮世を忘れさせるのだろうか。貞森の隣にいられることが、今のお寅の唯一の安らぎだった。
お寅が目指していたのは川が蛇行し、わずかに浅瀬になっている場所だった。
あった!
望んだ物を見つけられ、お寅の心が高く弾んだ。駆け寄ると、樺色の上等な着物を纏った着流し姿の若い男の浮き死体だった。
川で浮き死体を見つけた時ほど、心が浮き立つときはない。そう言ったのは同じ長屋で育った幼馴染の鶴次だ。齢は、お寅と同じ十四歳。年が明ければ前髪を剃り、大人になる。
二人の長屋は関口水道町にあった。江戸市中でも、昔からある東の町人地と違い、西の町人地は歴史が浅く面積も少ない。住んでいる町人の数も東とは雲泥の差で、表店も生活必需品の商店が並ぶ程度だ。裏長屋は、割長屋よりも安い棟割長屋がほとんどで、住人は、その日暮らしの商いや日雇いの仕事をしている者ばかりだった。
お寅の父は大工をしていたが、三年前に屋根から落ちて首の骨を折り死んだ。それ以来、母のお活と二人暮らしだ。父が存命の頃は、仕事が天気や現場の状況に左右され日銭がまちまちだった。父が死に、お活が小石川養生所の女看病人として働き出してからのほうが、ひもじい思いはしなくなった。
鶴次の家は、両親と下に妹弟が四人いて、総勢七人でお寅の部屋と同じ大きさの部屋に住んでいた。鶴次の父は、井戸を修繕する井戸職人だった。若い時はそれなりの日銭を得ていたようだが、年々、修繕費が下がり仕事への意欲を無くしていた。仕事に出ている日はまれで、朝から酒を飲んで酔っ払っていた。正気の時は、子供たちを五月蠅いと叱り飛ばし、お寅の肝も冷やすので、お寅は鶴次の父が苦手だった。
鶴次は父を避けるために、父よりも長く長屋を離れていた。その足は朱引き外にも及んでいて、お寅よりも遠くの場所を知っていた。おかげで、お寅も朱引き外の村々のことまで詳しくなった。
この場所を見つけたのも鶴次だった。幼い頃、鶴次の後について辿り着いたこの場所で、初めて浮き死体を目にした。もう姿形も朧気で、ただ長屋の裏下水のような臭気を感じたことは覚えている。泥水に汚れてはいたが、木綿縞の着物はまだまだ使えそうだった。
鶴次が浮き死体に飛びつき、着物を剥ぎ取った。罰が当たるのではないかと、恐ろしくなり、鶴次を諫めたが、鶴次はたじろぎもせずに「でえじょうぶ」と言った。その声があまりにも澄んでいて、追い剥ぎも鶴次がすれば悪事ではないのだと、雷に打たれたような思いがした。
鶴次と二人で、剥ぎ取った着物を内藤新宿の古着屋に売った。大した額にはならなかったが、鶴次は銭をお寅に分けてくれた。手にした数枚の銭は輝いていた。
気にしてみると、江戸では、よく浮き死体を見かけた。浮き死体になる理由は様々だ。災害や事故は勿論、心中もある。あまりの多さに、海や川に漂う浮き死体は、岸に流れ着かなければ、お役人は調べないことになった。むしろ、浮き死体の多さに、岸に流れ着いても、突き流して川に戻したほうが喜ぶお役人は多いと聞く。
お寅は浮き死体に近づくと顔をまじまじと見た。
小柄な若い男だった。背丈はお寅と同じくらい。けれど、鼻下や顎にはうっすらと髭が生えており、歳は二十歳前後か。肌が白く、頬の雀斑がやけに目立つ。瞼がしっかり閉じていて、目玉はもげていないようだ。耳や口からは泡は出ていないが、左の上唇が赤く腫れ上がっていた。川に漂う間に岩にぶつけたのかも知れない。その腫れ上がった唇の隙間から、歯が見えた。
お寅は浮き死体の口に手を入れ、歯を掴み取り出した。総入れ歯だった。左の上部にわずかな凹みはあるが、上下ともに本物の歯と見間違える精巧さだった。木彫りの総入れ歯はお寅も見たことがあったが、これは歯の部分を蝋石で作っているようだった。歯の一本一本が、真っ白だ。これを作るのに、どれくらいの金子がかかったのだろう。
歯草と言われる歯茎が腫れる病に罹り、歯が自然と抜ける年寄りは多いが、若者でも虫歯になれば抜くしかなく、歯がない人は多かった。江戸の往来に歯抜き師が多く立ち、すぐに抜いてもらえるのだ。
総入れ歯は高価だから、歯が数本、無くても我慢して食事をする町人は多いが、この浮き死体は上等な着物を着ているだけあって、残った歯も抜いて総入れ歯にしたのかも知れない。
そんなに裕福な暮らしをしていたのに、浮き死体になるなんて。ざっと見たところ、浮き死体には唇の傷以外に、出血している所はない。辻斬りにあったとか、物盗りに襲われたとかではなさそうだ。最近は大雨や大地震もないから、災害にあったわけでもないだろう。心中が一番、可能性がありそうだった。どこかの川に浮いている女の浮き死体を想像して、お寅はやるかたない気持ちになった。金持ちは、この世になんの未練もないのだな。お寅は、美味しい物を食べたい、とか、綺麗な着物を着たいとか、流行りの化粧をしたいとか、もう未練だらけなのに。
お寅は、総入れ歯を力強く帯の間に滑り込ませた。
遠くから草を踏み折る音がして「やっぱり、あった」と息を弾ませながら、鶴次がお寅のそばに腰を下ろした。鶴次もお寅と同じく、浮き死体を捜していたようだ。
鶴次の手入れをしていない前髪は鶏の鶏冠のように毛羽立ち、それを無造作に後ろ髪と結び、頭頂の月代もわずかしか見えない。髷は歪に曲がっていて、元々は萌黄色だったと思しき、濡れ落ち葉のような色の木綿の着物の肩にふけが落ちている。裾は帯に挟んで尻はしょりにし、その下には無いよりまし、程度の薄い股引を穿いている。お寅だって、半襦袢や綿入れの着物は買えないが、着物の下にどてらを仕込む余裕はある。鶴次の家は年々、貧しさを極めており、長屋の店賃も滞りがちだと聞いた。
お寅は立ち上がり、鶴次のために場所を空けた。上等な着物は鶴次に譲ろうと思った。けれど鶴次は、浮き死体に触れもせずに「さっさと流そう」と、足で浮き死体を蹴り転がした。浮き死体は浅瀬を回転し、鶴次はさらに足で浮き死体を押しやり川の流れに戻そうとする。
「流しちゃって良いの? 着物は?」
「うるせえ。お前は何か盗ったんだろ。だったらさっさと流そうぜ」
鶴次の顔は、いつもと変わらない。それなのに、なぜ着物を剥がないのだろう?
浮き死体はどっしりと動かなかった。本来浮き死体は軽いものだ。これは本当に浮き死体なのだろうか。鶴次の態度といい、調子が狂うことばかりで、お寅の胸に不穏な心持ちが広がる。浅瀬のぬかるみのせいだと、必死におのれに言い聞かせた。
「お寅?」
吐息のような声を聞き、お寅は驚いた。
振り返ると、道の上に薬籠を手にした男がいた。背後に宵の闇を背負い、上半身だけが西日でぼんやりと浮いている。ほつれ髪が頬の上をなびいていた。貞森だ。外診の帰りのようだ。
「何をしている?」
貞森は川原に足を踏み入れ、お寅たちに近づいて来る。
「ちょっと、薬草を探していまして」
お寅は慌てて立ち上がった。貞森を近寄らせないように、貞森に向かい合う。浮き死体が貞森に見つからないことを祈りながら。
「お活の腰は、まだひどいのか。明日、養生所で新しい薬を渡そう」
お寅の母を心配しながら、貞森はお寅のそばに寄って来る。
「いえ、それには及びません!」
その薬は、貞森の持ち出しで用意される。貞森には十分すぎるくらい薬を貰っていて、これ以上は貰えない。
そんな気持ちと同時に貞森を追い返そうと、声を張ったつもりだったが、貞森は怯まなかった。
足を止めると「血の匂いがする」と言いながら、お寅を押しのけ、息を呑んだ。お寅は観念した。貞森を見ると顔色を変えている。その眼は横たわる浮き死体を見ていた。
「この者はどうした?」
貞森は、浮き死体の脇に腰を下ろし、鶴次に声をかける。
「浮き死体ですよ。ここに流れ着いていたから、川に戻してやろうと思って」
迷いのない鶴次の声に耳を傾けながらも、貞森は浮き死体を見まわし、首に手を当て、口に耳を近づける。
「養生所に運ぼう」
貞森の声に、お寅は仰天した。
「貞森先生、これは浮き死体です」
貞森は首を振る。
「唇の血はまだ固まっていない。微かに息もしている」
お寅の息が詰まりそうになった。それは隣の鶴次も同じだったろう。
浮き死体が息をしている? それでは、この男は浮き死体ではないのだ。もし、意識を取り戻せば、おのれの悪事がばれてしまう。
お寅は、懸命におのれの取るべき行動を考えたが、血の気の引いた頭では妙案など浮かばなかった。
お寅の様子には目もむけず、貞森は浮き死体だと思っていたその男を担ごうとした。しかし、すぐに呻き声をあげる。
貞森は先月、夜鷹殺しの下手人に肩を刺され、大けがを負っている。まだ傷も痛むようだ。貞森に頼まれ、お寅と鶴次は近隣の農家へ走る。井戸で身体を拭いていた男衆に声をかける。礼は弾むと言う貞森の言葉を伝えると、迷惑そうな顔から急にほころんだ顔になって、若い男がついてきてくれた。
若い男に担がれ浮き死体と共に貞森は去って行った。お寅と鶴次は長屋まで無言で帰った。お寅は不安でたまらなかった。こんな時はおっかさんに抱きしめて欲しい。そう思いながら戸を開けると、暗闇に薄布団が浮かび上がった。
「お寅、帰ったのかい」
もごもごとはっきりしない声を聞き、お寅の心に外気よりも冷たい風が吹いた。お寅が思い描いたおっかさんは、お活ではない。
「腰をさすっておくれ」
お活がのっそりと、綿がすり減った筵よりも薄い敷布団から身体を起こし、お寅は仕方なくお活の腰をさする。
「ああ痛い」
お活の声に耳をふさぎたくなる。いつまで、こんな情けない声を出し続けるつもりだろうか。お活が腰を痛めてそろそろ三月になる。貞森のおかげで良薬も使っている。それなのに、いまだに治らない。治す気がないのか、それとも治っているのに治っていないふりをしているのか。
「おっかさん。また、こんなに残して」
お活のために用意していた朝餉がそのまま箱膳の上に載っている。
「だって、固くて飲み込めないよ」
箱膳の上にあるのは、冷や飯と沢庵を刻んだものだ。
お活は歯がなく、固いものは噛み切れない。
「茶漬けにして、食べれば良いじゃない。沢庵もこんなに小さく刻んだでしょう」
お寅が責めるように言ったせいか、お活は無言で掻巻を頭からかぶり不貞寝した。
お寅が物心ついた時から、お活には歯がなかった。お寅の死んだ父親と結婚してすぐに、口の中が盛大に腫れて歯が全部抜けたそうだ。医者にかかっていれば少しは違ったのかも知れないが、その当時は養生所も出来たばかりで、気軽に診てもらえなかったようだ。
歯がない事情には同情するが、お寅の作った食事を食べない姿には腹しか立たない。
養生所で働いていた頃は、しっかり食べていたのだ。あの素晴らしい食事を。
お寅がお活の代わりに養生所で働くようになって驚いたのは、白米をたらふく食べていることだ。男は一日五合、女は一日四合、炊き立ての白米を食べさせてもらえる。しかも、入所時は鰹節が一節もらえ、月末には干し魚も二枚、支給される。裏長屋に住んでいても、江戸にいれば白米を食べるが、金子が厳しい時は麦をまぜる。干し魚なんて食べられない。看病中間や女看病人も病人と同じものが食べられるが、それをお活はすべて平らげていたのだ。なぜ、あたしに持って帰ってきてくれなかったの?
お寅の心中からお活への純真な気持ちが失われたのは、その時だった。親であれば、子に美味しいものを十分に食べさせたいと思わないのか。親ならそう思うだろう。しかし、貧乏人は犬畜生と一緒なのだ。いつも腹を空かせていれば、目の前の食事を平らげる間に子の顔など浮かばない。そうわかっていても、許せない気持ちが勝ってしまう。だから、お寅はおのれがして欲しかったことをお活にしない。与えられていない物を与える義理がどこにあるというのだ。
心に怒りが湧くと、不安な気持ちはすっかり消えた。あたしは悪くない。悪いのは、おっかさんだし、おっかさんとあたしを残して死んだおとっつぁんだし、そもそも、おっかさんのおっかさんのおっかさんの、つまりご先祖が貧乏なのがいけないのだし、この先あたしもずっと貧乏なままだろうし。ちょっとばかり、悪事をしたところでそれを責めるのは何もかも持っている人間で、そんな人間に責められたって痛くも痒くもない。
そんな勇ましい思いは、次の日、目が覚めるとともに萎んでいた。小石川養生所に出勤すると、挨拶をかわす小石川養生所見廻与力の宇田川伝兵衛の顔を、まともに見られなかった。お寅は顔を伏せながら、中へ進んだ。