屋敷に戻る道中、松明丸はしきりに件の船影について尋ねてきた。清光は曖昧に言葉を濁していたが、それが蜃気楼に因る物であろうことは早い内から勘付いていた。
古の人々は、海に棲まう蛟が気を吐いて幻を見せるのだと謳ったが、書物奉行たる清光はそれが単なる光学現象に過ぎないことを理解していた。
海の蜃気楼は早朝に見られることが多い。冷たい海水と温かい空気の差が境界を作り、視界を歪めてしまうのだ。沖合に現われたという巨大な船影も、近くの島々から出た漁船が、偶々うまい具合に蜃気楼と重なって大きく見えたのだろう。
それはいい、と清光は胸の裡で呟いた。問題は、何故それを騒ぎ立てたのかということだ。
悦三郎の陰々とした面影が脳裏を過る。ここ一連の騒動にあの男が関わっているのは間違いない。果たして目的は何なのかと考えを巡らせたところで、清光の頭には天啓のように或る途方もない考えが下りて来た。
「何か仰いましたか?」
先を行く松明丸が怪訝そうに振り返る。知らぬ間に、真逆と呟いていたようだった。
人魚の亡骸。指甲花。羽豆の浜。沖合の巨大な船影──若し己の考えが正しいとすれば、それはあまりにも莫迦げた計画になる。
果たして目的は何なのか。このまま終わるとは到底思えなかった。鹿野の老臣に訴えて悦三郎を捕らえるのも一手だが、それは最後の手段だろう。
火事でも起こすかと清光は口のなかで呟いた。どうしましたか、松明丸が再び振り返った。
床の間の置時計が二つ目を打ったのを聞き届けて、清光はおもむろに腰を上げた。
腰には脇差だけを手挟み、障子を開ける。
むっとして息が詰まるような夏の闇である。今宵は望月にも近い十三夜の筈だが、厚い雲に覆われて今は何も見えない。尤も、既に行灯の火は落としていたため、目は慣れていた。
足音を忍ばせて廊下を進み、庭に出る。蟋蟀と守宮が涼やかな鳴き声を響かせていた。
懐に忍ばせていた草履を履き、葉の裂けた芭蕉を潜って裏木戸を押した。
微かな潮騒が耳朶を打つ。人々が寝静まった夜更にも、何ら変わらず浪は寄せている。当たり前のその事実が、清光にはふと新鮮な驚きに感じられた。
屋敷から東に延びる坂道を下り、小さな浜辺に出た。吹き曝しゆえ、横に吹く風が強い。好都合だった。
師崎の村落からは一里ばかり離れた海岸である。黒々とした海には、少し先の沖合から一寸先も分からぬような濃い海霧が立ち込めていた。
濡れた砂を踏んで浜を横切った先に、打ち捨てられた釣り小屋があった。昼の散策の際に目を付けた物だ。清光は辺りの様子を窺い、人目が無いことを確かめてからその傍らに寄った。
触れた木壁は乾いている。砂浜に膝を突き、懐から火打道具と油紙に包んだ蒲の穂を取り出した。
打ち付けること数回、小さな火種は蒲の穂に伝わり、忽ち燃え上がった。
木壁に燃え移ったこぶし大の焔が、やがてひと抱えもある大きさに広がったのを見届けてから、清光はその場を離れた。
いい加減距離を取ってから振り返ると、先の釣り小屋は既に紅蓮の焔に包まれていた。
近くの木立に身を隠し、暫しその様を窺う。釣り小屋は既に一個の巨大な火柱となっていた。
間も無く数人の足音が聞こえ、少なからざる人影が村の方から駆けて来た。万が一気付く者が少なければ村の半鐘を叩いてでも報せようと思っていたが、どうやら要らぬ心配だったようだ。
騒ぎを聞きつけて、見る見る内に黒山の人だかりが出来た。そのうちに見知った顔を見出した清光は、何食わぬ態でその肩を叩いた。留守を任された鹿野の老臣である。
「あっ、これは入舟様」
「何やら騒がしいと思って出て来て見れば、何事ですかな」
老臣は自らの不始末のように顔を顰め、燃え盛る釣り小屋を見遣った。
「なに、一寸した小火でござる。普段使いの無い釣り小屋ゆえ大事はありませぬ」
「しかし、こう風の強い夜とあっては火の粉がどう飛ぶとも分からぬでしょう。油断は禁物」
「それは無論ですが」
折しも、風に煽られた釣り小屋の火は益々勢いを増した。清光は思案顔で村の方角を振り返った。
「道中耳にしたが、既に煙を吸って倒れた者もあると聞く。たかが小火と侮って酷い目に遭った実例は、江戸で幾度も目にしておりますぞ。万が一に備えて、あの医者の、何と云ったか、そうそう悦三郎、あ奴も呼んでおいた方がよいでしょう。何なら某れがしがひとっ走りしましょうか」
「いえいえ、それには及びませぬ」
老臣は慌てて手を振り、傍らに控える家士に何かを命じた。
「左様か。では某れがしは屋敷に戻りまする」
老臣に断ってからその場を離れたように見せかけて、清光はばたばたと駆け出す家士たちの後を密かに追った。
羽豆の浜に殺到した家士たちは、引っ立てるようにして寝起きの悦三郎を連れ出した。騒々しい一同が立ち去るのを見届けて、清光はそっと庵の戸を潜った。
囲炉裏脇の行灯に茫と照らされた屋内は、昼に訪れた時と相違無いように思われた。唯一の違いと云えば、炭と硫黄の臭いが魚の生臭さに変わっている点だろうか。行灯に使われる鰯油のせいだろう。
清光は草履を脱いで早速探索を始めたものの、何も見つからない。元より探るべき家具の類いが少ないのだ。片隅の行李には汗臭い衣類が詰め込まれているだけで、文机も綴じられた反古と貧相な硯箱しか見当たらない。奥の薬箪笥もまた、干した薬草や海藻、それに油紙に包まれた丸薬が幾許か蔵されているだけだった。
床板を剥がして見るべきか。しかし、それで跡が残らないようにするのは至難の業だろう。何よりいつ悦三郎が戻って来るかも分からない。
清光は腕を組み、改めて屋内を見廻した。土間の水甕、囲炉裏、文机、薬箪笥、積み上げられた擂鉢と小皿、そして柱の貧相な掛け軸。
そこには流れるような筆致で、ゆく春や一寸先は木下やみ、傍らの号は也有とある。今より百年近く前、寛延から宝暦にかけて尾張藩の寺社奉行を務めた武家、也有横井時般の書軸だった。
也有を選ぶとは町医者にしては趣味が良いと思いつつ、真夏の今頃に春の句を飾る不筋具合がどうにも気になった。
清光はつと手を伸ばし──掛けられた書軸の奥に隠し戸棚があることを知った。
逸る鼓動を抑え、そっと掛け軸を外す。大きく刳り貫かれた柱には、後から造られたのであろう観音開きの扉が設けられていた。急ぎ開いたそのなかには、長辺が二尺に近い行李が隠されていた。
引っ張り出すと、見た目以上に重量があった。蓋を開ける。清光は思わず唸り声を上げた。
大鋸屑の敷き詰められた行李のなかで先ず目を引いたのは、五つばかりある奇妙な容器だった。
それは二つの茶碗を合わせ、荒縄で十文字に縛り上げられていた。縄の一方は長く伸ばされている。
清光が左右に茶碗をずらすと、その合間からはぱらぱらと黒い粉末が零れ落ちた。濃い硫黄と炭の臭い。火薬だと思い至るのと同時に、清光はこれが、焙烙玉という簡易の手投げ爆弾であることを理解した。
焙烙玉の脇には幾つかの書物が重ねられていた。一冊を取り上げた清光は愕然とした。野呂元丈『阿蘭陀本草和解』に、その基となったドドネウス『草木譜』。青地林宗『輿地誌略』。小関三英『那波列翁勃納把爾的伝』。それに、渡辺崋山『慎機論』。どれも江戸では御発禁となって久しい一流の蘭学書だった。
余程読み込まれているのか、いずれの一冊も表紙は擦れ、手垢染みている。唖然として書物を捲っていた清光は、『慎機論』の途中に一個の竹片が挟まれていることに気が付いた。
なかは刳り貫かれて空洞に、その先は細く削られていた。呼子の類いだろうかと、丁寧に拭ってから先を咥えてみる。息を吹き込むや否や、ひゅううううっと空を切るような、甲高い音が辺りに響き渡った。
清光は慌てて振り返ったが、音が漏れ聞こえた様子は無い。粘っこい唾を呑み込んで、清光は今一度、行李のなかの三品を検めた。
仮製の焙烙玉。御発禁の蘭学書。そして甲高い音の鳴る呼子笛──。
未だ起きていないこの事件の全貌、そして悦三郎の正体に漸く思い至ったのだ。
このまま棄て置くことは出来なかった。清光は竹の呼子を懐に仕舞い、焙烙玉に水甕の水をたっぷりと浴びせてから、足早に悦三郎の庵を辞した。
翌朝、清光は再度悦三郎の庵を訪れた。
松明丸も連れて行こうかと思ったが、万が一のことがあっては師景に申し訳が立たない。結局単身で赴くことにした。
断りもなく戸を開ける。昨日は整理されていた屋内が、今朝は足の踏み場も無い。床中にあらゆるものが溢れ、上下がひっくり返ったような有様だった。最早隠す積もりも無いのか、柱の書軸は外され、件の行李も床に引き出されていた。
大いに髪を乱した悦三郎は、その中央で爛々と目を輝かせていた。
「──何の御用で」
「昨日は釣り小屋の小火で叩き起こされて難儀だったな。しかし、そのお蔭で怪我人も出ずに済んだとか。鹿野の者共も感謝していた」
「それは何より。申し訳ありませぬが、今は少々立て込んでおりまして。急ぎの御用でないのならばお引き取りを願いとう存じます」
「物捜しか」
悦三郎は目を薄くして、何故そうお思いにと硬い声で云った。
清光はその問いには答えず、袖口から件の竹笛を取り出した。悦三郎は大きく目を見開き、次の瞬間には猫のように清光に飛び掛かろうとした。難なく躱し、その場に悦三郎を組み伏せる。
「火薬を湿らせたのも貴様だな。この泥棒野郎、返しやがれ!」
「それは出来ない話だな。お前の計画は失敗だ。これでもう、異国船が師崎を攻めることはなくなった」
全身で暴れていた悦三郎の顔が大きく歪んだ。
「案ずるな。今更お前をどうにかしようなどとは考えておらん。考えてもみろ。若しそうなら鹿野の家士を使って、一も二も無く引っ捕らえておるわ。いいか? 俺はただ、俺の読みが正しいのかを知りたいだけだ」
悦三郎は身悶えしながら、罵詈雑言を吐き続ける。清光は構わず、相手の腕を更に強く捻り上げた。
「初めに可怪しいと思ったのは矢張りあの人魚だ。俺が検分した骨は、我等とそう違わぬ形と並びだった。無論それだけで人魚に非ずと断ずることは出来ぬものの、問題はその毛髪よ。あれは、触れた俺の指先を赤く汚した。つまり染められた物だった」
清光は窓辺に目を遣る。そこには乾いた指甲花──赤い染料となる薬草が逆さに干され、力無く揺れていた。
「あの屍骸は、羽豆の浜に流れ着いた土左衛門の髪を何者かが染めた物だと俺は考えた。しかし、人魚に見せ掛けることが目的ならば、続いて見つかった二体目に両脚が揃っているのは可怪しい。同じく髪は赤く染められ、顔面も叩き潰されているのだからな。恐らくは流れ着いた土左衛門に細工をしている最中か、若しくは小舟に移し運んでいる途中で腰から脚にかけての骨が外れたのだろう。それぐらい構わぬと思って放っておいたら、豈図らんや、溶けた肉が鰭のように見えて忽ち人魚に祀り上げられてしまった。一連の仕掛人、即ちお前にとってそれは不本意な結果だった。だから慌てて二体目を用意した。そうだろう?」
悦三郎は何も答えない。清光は試しに押さえる力を弱めてみた。抗う素振りは見せない。清光は腕を離し、上がり框に腰を下ろした。
「人魚でないとしたら目的は何か。俺は考えを巡らせ、漸くその答えに辿り着いた──即ち紅毛碧眼」
起き上がり身体中の土埃を払っていた悦三郎の手が、瞬刻止まった。
「流れ着いたのは異人の屍体である。そう思わせるため、お前は屍体の髪を赤く染めた。瞳の色と顔立ちばかりは如何ともならぬから、それを誤魔化すために二目と見られぬほどに顔面を叩き潰した。では何のために異人の屍体を拵えたのか。近くに、それを流した異国船がいると思わせるためだ。だからお前は、早朝の蜃気楼を上手く使って巨大な船影を沖合に創り上げた」
「そんなことも知ってやがんのか」
悦三郎は背を向けたまま、吐き棄てるように云った。
「全く見事な手際だと云う他にない。しかし、それらもまた、のちに控える大芝居のための布石に過ぎなかった」
清光は下駄履きのまま座敷に上がり、行李の蓋を開けた。焙烙玉は除かれ、今は書物だけが収まっている。
「お前の云う通り、俺は昨日の晩、この小屋に忍び込んだ。そしてここに隠された焙烙玉を見つけた。師崎の海は濃い霧が立ち込める。特に霧の濃い晩を狙って師崎の各所でそれらを破裂させる。そしてその際に、至る所でこれを吹く」
清光は摘まみ出した竹笛を口に当て、ひゅうううっと甲高い音を鳴らして見せた。それはまさに、砲弾が飛ぶ音と相違なかった。
「爆発と同時にこれが聞こえたのならば、視界を遮られた人々は、必ずや霧の奥に先達ての巨大船を思い描くだろう。遂に異国の船が攻めて来たのだと思い込むことだろう」
「けっ、長々とよく喋りやがる」
悦三郎は、肩越しに憎々し気な一瞥を寄越した。
「今更騒いだってどうもなるかい。逃げも隠れもしやしねえよ」
「意趣返しの積もりだったのか」
清光は一番上にあった『慎機論』を取り上げた。悦三郎は素早く腕を伸ばし、清光の手からそれを引っ手繰った。
「恰も異国船の襲撃があったかのように見せかけ、その事実で以て、かつて江戸中の蘭学者が再三指摘をし、しかし受け容れられることもなく、却って大弾圧の引金ともなったこの国の海防を公儀に見直させる。それが、それこそがお前の目的だった。だから斯様に並外れた大芝居を企てた──どうだ悦三郎、否、大獄の罪人、高野長英、俺の説明で間違っている箇所はあったか」
悦三郎──高野長英は観念した、というよりも不貞不貞しいほど落ち着き払った態度で清光に向き直った。
「さて、俺の知ったことじゃない。それで? あんたは俺を捕まえんのかい」
「真逆。俺が仰せつかったのは人魚の亡骸の吟味。追跡と捕縛は御役目違いだ」
「冗談のつまらねえ男だ」
「何度も云わせるな。冗談で済ます積もりなら元より鹿野の家士にこの小屋を囲ませておるわ」
長英は怪訝な眼差しを向けていたが、やがてその口の端に薄い笑みを滲ませた。
「妙な御役人様もいたもんだな。礼は云わねえぞ」
「元より求めておらぬ。ただ一つ望むとすれば、どうせお前は直ぐにでも姿を晦ませるのだろう? ここにある蘭学書は俺に呉れないか。これだけの物は江戸でも滅多に見つからぬ。よく集めたものだ」
「これまでの道中で身銭を切って掻き集めた物よ。なんです、紅葉山の御文庫にでも入れて下さるんで?」
「それも考えたが、今年元服を迎える志摩守の長子が蘭学に興味を持ち始めた。折角だから残してやろうと思うてな」
長英は破顔した。
「構わねえ。どうぞあんたのお好きなように。ただ、こいつだけは貰ってくぜ。こればかりは大事な一冊だ」
長英は『慎機論』を懐に仕舞い、草履を突っ掛けて外に出た。清光もその後を追う。
いつの間にか雲は晴れ、久方ぶりの蒼天が雲間から覗いていた。
清光は先を往く長英の名を呼んだ。
「ひとつだけ教えて呉れんか。どうしても俺には理解出来ぬことがある」
「ほう、天下の書物奉行様にもお分かりにならないことがねえ」
長英は色の濃い眉を歪め、痩せた頬を引き攣らせるようにして嗤った。
「お前はあくまで追われる身。斯様な大芝居を打てば厭が応にも人の目が集まることだろう。それを懸念はしなかったのか」
「生憎と此方は、やらずに後から思い置くよりやっちまって後悔したほうが性に合いますもので」
「それよ。折角異国船の襲撃を演ずるのならば、江戸の御膝元ないし近場の浦賀で催した方が余程よかろうに。なにゆえこんな場所を選んだ」
「なに、偶々ですよ。逃げ込んだ漁村の沖合に見事な蜃気楼が立って、浜辺には指甲花が咲いていた。あとは夜の霧だ。それでふと思い付いただけのこと。考えてみれば、尾張徳川家は御三家でも筆頭。公儀を直接突くより、尾州に騒がせた方が後からじわじわと効いて来ますわな」
そう嘯く長英は、ふと遠くを眺める目付きになった。
「後はまあ、これはどうでもいいことだが、彼方には俺の友人が眠っておりますもので」
足元を濡らす浪も気に掛けず、長英は汀を進んだ。
「異人の土左衛門が流れ着いたとなりゃあ、江戸から役人連中が飛んで来るだろう。真逆人魚に間違われるとは思ってもみなかったがね。……見せてやりたかったのさ。ここで異国船の襲撃を演じて、俺たちの意見に耳を貸さず、それどころか俺たちを虐げた連中が、俺たちの云った通りになって慌てふためくその様を、折角なら見せてやりたかったのさ」
遥かに望む渥美半島──三河国田原藩元家老、崋山渡辺登が葬られたその地に、夏の陽は燦々と照り付けていた。