遡ること十二年前の天保八(一八三七)年夏、浦賀沖に突如アメリカの大型商船が姿を現わした。泡を食った幕府は従来の異国船打払令に則って遮二無二な砲撃を加え、反撃する暇も与えずに退散させたのだが、果たして一年後、国交のあるオランダ商館を通じてモリソン号という件の商船には日本人漂流民が乗り合わせていたことが報告された。相手の目的は飽くまで漂流民の送還とそれをきっかけにした通商交易であり、反撃が無かったのも、日本を刺激せぬため敢えて武装を撤去していたからに過ぎなかった。
その事実が世に広まるや否や、江戸に住まう蘭学者たちは挙って幕府の対応を批判した。旧態依然とした対外政策や海防の不備を槍玉に挙げ、このままでは異国に攻め込まれて終いであると、それらの見直しを迫る書物を次々と著した。談論風発する酒宴や知的交流の場での戯れに過ぎない一面はあったものの、その多くは真にこの国の行く末を憂いてのことだった。
しかし、それが命取りになった。
儒教思想を奉じ、基より蘭学を憎悪する一部の幕閣は、全てを蘭学者たちの揶揄ないし嘲弄と受け取った。激怒した彼らはこれを蘭学追放のきっかけにすべしと、毒蛇のような執念深さで密偵を続け、遂に天保十(一八三九)年五月、田原藩年寄の渡辺崋山を筆頭に町医の小関三英や高野長英など江戸在住の蘭学者を幕政批判の廉で一斉に逮捕した。のちに云う「蛮社の獄」である。
松明丸は神妙な顔で頷いた。
「江戸での騒動はこの師崎でも耳にしたことがございます。確か、田原藩のご家老様が罰せられたのですよね?」
「崋山渡辺登殿だな。よく知っているではないか」
「田原はここからも近うございますので。あの辺りになりますでしょうか」
松明丸は腕を伸ばし、東方を指した。淀んだ海の先には低い山々が霞んで見える。三河国田原藩を抱く渥美半島と思われた。
「ご家老様は自ら腹を召されたとか」
「国元蟄居で済む筈だったが、藩に累が及ぶことを畏れられたのであろう。まあ、陪臣の身で国政に容喙しては謗りも免れぬ」
「他の者共も、皆死罪だったのですか」
「真逆。処罰を恐れて自害した者は数名、他は悉くが伝馬町の牢屋敷に押し込まれた。多くは吟味中に獄死したんだったか──ああ、高野長英とかいう町医者だけは火事の切り放しに乗じて逃げ出したそうだが、そのまま逃げ切れるとも思えない。何処かで野垂れ死んだことだろう。しかし困ったものだ。あの事件以降、御文庫は無論のこと、江戸中から凡そ蘭学に関する書物は一掃されてしまった。江戸城からは蘭方医すら追放された。俺から云わせたら愚の骨頂よ」
「では、入舟さまは西夷の書物もお読みになるのですか」
「当たり前だろう。何を厭うことがある」
「しかし異国の書物など」
莫迦莫迦しいと清光は思わず声を荒げた。
「紅毛だ碧眼だと云うて異人を恐れる歳でもあるまいに。得るべき智慧に西も東もあるものか。いいか松明丸、智慧は力、否、智慧こそ力ぞ。孫子も、彼を知り己を知れば百戦殆からずと云っているではないか」
「それはそうかもしれませんが、しかし──」
「しかしも案山子もない。おい松明丸、お前は今年で幾つになる」
「は、十五になります」
「ならばそろそろ元服だろうが。いいかよく聞け。操舵ひとつ、大砲ひとつ以てしても、お前が忌み嫌う西夷とこの国では最早比ぶべくもない。遥か沖合から放たれた相手の弾はこちらに当たるが、こちらの弾は到底相手に届かない。お前はいずれ御父君の跡を襲って尾州の船奉行となるのだろう。お前が斯様な体たらくでは先が無いぞ。考えを改めろ、莫迦者め!」
ふた廻り以上歳の離れた大人に大喝されて、松明丸は頬を張られたような顔になった。
悄然と項垂れる、しかし道案内は務める松明丸の先導で、清光は白く乾いた路を暫く進んだ。熱を孕んだ磯臭い風が吹き上げ、路傍の茂みを騒々と揺らした。
漸く浜辺に出た。どろりとした緑の波が寄せては返す度、魚の腐ったような汚臭が辺り一面に撒き散らされる。
先を往く松明丸が、不意に清光の名を呼んだ。
「某れがしは間違っておりました」
「ほう」
「全く以て仰せの通り。得るべき智慧に西も東も、北も南もありませぬ。そしてそれは、何物にも代えがたい力となる。目から鱗が落ちるとはまさにこのこと。この松明丸、入舟さまのお言葉をしかと肝に銘じましてございまする」
意気軒昂な松明丸の口吻に、清光は苦笑した。全く、若さとは柔軟性である。
足下の砂がさくさくと鳴り、行く手に古びた小屋が現われた。
「あすこが悦三郎の小屋になりまする。ささ、向かいましょう」
板壁と柱を寄せ集めただけの粗末な造りだった。強く壁を押せば忽ち崩れてしまいそうだ。
入るぞと声を掛けて、清光は建付けの悪い戸をがたがたと引いた。
薄暗い土間に踏み入る。炭と硫黄が混じったような、妙な臭いが鼻を突いた。
四畳ばかりの屋内は、真ん中に小さな囲炉裏があるだけの簡素な造りだった。家具の類いと云えば、奥の壁にある小振りな文机と薬箪笥しか見当たらない。柱の一本には、日に焼けて皺も多い書軸が掛けられていた。
囲炉裏の傍らで擂鉢を抱えていた男が、のそりと顔を上げた。
「お前が悦三郎か?」
「──左様で。御武家様はどなたの御方でしょう」
痩せこけた、目付きの悪い男である。清光が素性を名乗ると、男は切れ長の双眸を更に薄くさせた。
「御代官が尾州様へ遣いを出されたとは聞き及んでおりましたが、よもや御公儀の御役人様が斯様な土地にまで足をお運びなさるとは──ああ申し遅れました、当地にて医者をしております悦三郎と申します」
悦三郎は緩慢な動きで擂鉢を置き、床に両手を突いた。清光の横から、松明丸が威勢よく歩み出る。
「おい悦三郎、お前はあの人魚の遺骸を初めに見つけた者のなかにいたのであろう。なにゆえ呼び出しに応じない」
「おやおや、これは鹿野の公達まで。誠に相済みませぬ。只今受け持っております患者のなかに急ぎ薬を作ってやらねばならぬ者がおりまして、そちらを優先したまでで。いったい、同じ物を見て御報告申し上げますのに、三人も四人も雁首を揃える必要がありますでしょうか」
松明丸は顔を赤らめ、お前はと一歩踏み出した。清光はその肩を掴んで引き戻す。
「茂作とやらの倅が腹を下しているんだったか。別に構わん。ただ、念の為お前からも話を聞いておきたいと思って足を運んだ訳だ」
「誠に畏れ入ります」
悦三郎は両手を突いたまま、低く頭を垂れた。
「それで? あの日、お前も漁師たちと一緒に海に出たのか」
「左様でございます。火傷の手当には石蓴がよく効きますゆえ、漁に同行して分けて貰おうと思ったのです。そういたしましたところ、浜辺であのような舟を見つけまして」
「人魚だとは思わなかったのか」
「何ですと」
「あの亡骸を見た時分の話だ。俺は骨しか見ていないから何とも云えんが、遺骸を模写した図画を見る限り、赤い髪に腰から下の鰭、誰もが人魚と思うだろう」
「さて、考えもしませんでしたな」
「それは何故」
「何故と云われましても、当方、人魚なぞ見たこともありませぬもので」
「おいっ、口の利き方に気を付けろ!」
平然と嘯く悦三郎に、松明丸の鋭い声が飛ぶ。しかし、それも道理である。これは一筋縄ではいかぬぞと思いながら、清光は屋内を見廻した。
ふと、気に掛かる物が目に付いた。
「成る程、理に適っておる。ところで、あれは指甲花か?」
清光が目で示した窓辺には、白い花の付いた枝葉が束になって吊るされていた。悦三郎は首だけを巡らせてその方を見遣った。
「流石は書物奉行様、よく御存知で。如何にも指甲花にございます。あの葉を乾かし擂り潰した物は、切り傷の類いによく効きます」
「琉球や薩摩の方では自生していると聞いていたが、こんな所でも育つのか」
「ほどよい降雨が育成に適しているのでありましょう」
そうかと呟き、清光は再度件の干し草に目を遣った。遠く離れた二点が頭のなかで繋がったのは、まさにその時だった。
悦三郎の小屋を辞して砂浜を歩く。
「申し訳ございません。口の利き方を知らぬ無礼者で」
「構わん。それよりも気に掛かるのはあの花だ」
はなと松明丸は繰り返す。
「シコウカでしたか。見掛けぬ草花でしたが、それが何か」
「あれはヘナとも云う。南蛮では赤味のかかった染料としても使われているのだが……。まあそれは措いておくとして、それよりも人魚が流れ着いたというのは」
「はい、あすこになりまする」
松明丸はたったと砂浜を駆ける。
打ち上げられた流木に海藻が絡み合い、背の低い堤のようになっていた。清光も足を進め、松明丸の横に立つ。
だだっ広い羽豆の浜のなかほどである。笠の縁から海を望んでみた。高い浪がよせては返し、白い泡のような飛沫を方々に飛ばしている。左手に渥美半島が見え、その端からは巨大な入道雲が顔を覗かせていた。
浜の端には、無数の木材が山のように積み上げられていた。大半が全壊ないし半壊の有様だが、なかには、無論古びてはいるものの、破損を免れた小舟の姿もちらほらと見受けられる。
「流れ着いた船の残骸でございます」
清光の視線に気が付いた松明丸が云った。
「ここに来る途中で耳にしたのだが、師崎には色々な物が流れ着くのだそうだな」
「はい。潮の流れの関係で、丁度この辺りに辿り着くのです」
「それはこの海辺に限った話か」
「いえ、他の浜にも色々な物が流れ着きますが、数が多いのはこの辺りかと存じます」
「成る程。話は変わるが、ここ最近でいなくなった者はおらぬか」
「は?」
「村人や、この近辺の者でも構わぬ。ああでも男に限るな。年齢は問わぬが、子どもではない。行方知れずとなった者はおらぬか」
松明丸は暫くの間首を捻っていたが、やがて困惑気味におりませぬと答えた。
「では、この浜には他にも漂着する物があるか」
「他と仰せになりますと」
「土左衛門の類いだ」
「はあ、それはまあ、無論」
「多いか」
「はい?」
「数は多いかと聞いている」
「それはもう、多いときは日に二、三も流れ着くことはありますが。しかしそれが一体?」
「少々気に掛かることがあってな」
足を向けた廃材の山の蔭では、頬かむりをした老人が鉈を振るっていた。舟板を割き、割り木としているようだ。よく見れば、先ほど鹿野屋敷に召喚された漁師の一人だった。
清光たちに気が付いた老漁師は鉈を放り、慌てて砂浜に平伏した。
「そう畏まらんでもよい。お前は、人魚の亡骸を見つけた内の一人だったな」
左様でございますと、老人は絞り出すような声で答えた。
「丁度よい。訊きたいことがあったのだ」
「はあ、何なりと」
「お前は今も沖に出ているのか」
「へえ、そりゃ勿論でございます」
ならばと清光は砂浜に膝を突いた。老爺は益々畏まる。
「最近沖合で変わった船を見たりはしておらぬか」
「は、変わった船?」
「左様、それも途方もなく大きな船だ」
「と、途方もなく大きな船、ですか」
老漁師は脂汗を流しながらしきりに首を捻っている。
「ええいじれったい。要は異国船だ」
何ですってと松明丸は叫び声を上げた。清光に鼻先まで迫られて、老爺は瘧にでもかかったようにぶるぶると震えながら、それでも首を横に振った。
「いえ、いえ、左様なことは決して」
「お待ちください入舟さま! そんな、この師崎に異国船など」
「お前は黙っておれ。おい漁師、それは本当か。よく思い出せよ。嘘を吐くとためにならんぞ」
「う、嘘など申しませぬ。無論──」
只管平伏していた老漁師は、そこではっと顔を上げた。
「そう云えば、幾日か前に沖合で大きな船影を見たと申す者がいたような」
「何だと」
清光は丸太のような腕で相手の肩を掴んだ。老爺はひいと小さく叫んだ。
「おい、それはどういう訳だ。詳しく話して見ろ」
「あ、朝方でありました。羽豆の浜の南の沖合、丁度伊良湖の度合辺りに、それはそれは大きな船影が現われまして、朝漁に出る者たちの間であれは何だと騒ぎになったのでございます」
「お前も見たのか」
「いえ、いえ、儂は生憎とその場にはおりませんで」
おい待てと松明丸が割って入る。
「そんな話は聞いとらんぞ」
「へえ。それが、どういう訳かその船は直ぐに見えなくなってしまいまして、なんじゃ儂らの見間違えかとなりましたもんですから、敢えて御代官様にもお報せはせんかったのです。後で篠島と日間賀島の者どもにも訊いてみましたが、やっぱりその時分に羽豆の浜からも見えるような大きな船は通っとらせんかったようでしたから、見間違いだったのでしょう」
「もう一度訊くが、この浜から沖合に大きな船影が見えた。しかし、そう間もない内に消えてしまったのだな?」
「はい、はい、左様でございます」
「ちなみに、それを初めに見つけたのは」
はあと老漁師は顎を引いた。
「悦三郎先生でございました」