「海の人と書く物の怪──否、そう断ずるのは宜しくないか。我等とは異なる種族で、その名の通り海に棲まう者共を指しまする。艾儒略という明代の宣教師が認めた『職方外紀』、また、同じく明代の学者、葉子奇が書いた『草木子』に由れば、全身は弛んだ肉の皮で覆われており、その手脚には鴨のような水掻きがあると云います。志摩守様、二体目の遺骸は如何でした。垂れ下がった肉皮なぞはありませなんだか」
「扨、どうだろう。実物を確かめて貰うのが一番良いのだろうが、生憎とそうもいかぬ」
「何ですと」
「あいや、これは云い方が悪かった。しかしこればかりは已むを得ない仕儀とご理解頂きたい。何せこの暑さじゃ。我が屋敷に担ぎ込まれた時点でいずれの遺骸もとろとろに融け、最早掴み上げることも出来ぬ有様。どれだけ薬草を撒いても腐臭凄まじく、汚汁は滴り、蛆が湧き、蠅も集る。急ぎ全身は模写させたものの、仮にも龍宮よりの遣いやも知れぬ者を虫の喰らうままには出来ぬ。一片の骨に至るまで当家の氏神たる羽豆神社の水で洗い清めたのちは、離屋に祭壇を設け安置してある。これ、図画を此処に」
師景が手を打つと、座敷の隅に控えていた若侍が音も無く立ち上がった。彼は細長い木箱を恭しく掲げ、取り出した巻子をそっと広げて見せた。清光は拳で口元を押さえ、その図を覗き込んだ。
左右に並ぶ二体共に、仰向けの屍骸を真上から描いた絵だった。使われているのは薄墨で、所々に朱墨が散らしてある。粗い筆致ではあるものの、なかなかどうして特徴は上手く捉えているように思われた。
人魚と云われたのならば、確かにそうとも見えるだろう。朱色の髪と崩れた顔面は話に聞いていた通りだった。右は腰から下が一枚の布巾のようになっているのに対し、左は両脚が揃っている。いずれも肉が融け落ちたと思しき箇所は多くあったが、清光が述べた肉皮なる様子は見られない。両掌の指は水掻きのように広がって見えたものの、単に皮膚が融けただけと見えなくもなかった。
「二体目は両脚だけでなく、性器も残っていたようですな」
低い唸り声と共に吟味を続けていた清光は、やおら脚の付け根を示した。確かにその辺りには、黒い茂みのような恥毛と共に、棒状の膨らみが描かれていた。
「即ちこれは雄ということになる。志摩守様も実物は御覧になりましたか」
「無論。実に酷い臭いでしてな──」
「この図の陰部ですが、実物も斯様な有様でしたか」
苦笑する師景を遮り、清光はぐっと身を乗り出した。
「腑に落ちぬのはこの毛でござる。此処なるは黒く描かれておりまするが、実物もまた黒うござりましたか」
「確かそうだった気もするが」
「よく思い出して下され。確信がござらぬのならば是非家人等にも御確認を」
師景は怪訝そうな顔で、それでも数人の家士を呼び付け確認した。矢張り、恥毛は黒かったという。
「入舟殿、それが一体何だと云うのです」
「人魚の髪といえば赤い髪で知られております一方、陰部の毛は黒いのかと思いましてな。いや余談でござった。成る程、実に興味深い。それでは早速、肝心の骨を確認いたしましょう」
「うむ、案内いたそう。これも参考にはなったかな?」
「無論にて。ささ、骨を骨を」
師景の先導で長い廊下を進む。家士たちも当然付き従うため、ぞろぞろと長い行列になった。
右へ折れ、左に曲がり、いい加減草臥れて来たところで外へ出た。
広大な庭には、隆々とした黒松が屏風のように揃っている。騒然たる蝉時雨を浴びつつ幾つかの渡り廊下を越えた先に、漸く目指す離屋が姿を現わした。
「さ、此方だ」
師景が手ずから正面の観音戸を開けた。促されるまま足を踏み入れた清光の鼻は、忽ちその臭気を嗅ぎ取った。
腐臭である。密閉されていたからか、その妙に甘ったるい臭いは辺り一面に漂っていた。
屋内は十畳ばかりの造りだった。師景の命で家人たちが動き、左右の窓を開ける。暑い風が流れ込み、厭な臭いをほどほど払った。
正面には、真新しい白木の壇が設けられていた。その上にはひと抱えもある匣が二つ、並んで安置されている。
御免と断って、清光は壇に近付く。臭気がぐっと濃くなった。
一礼ののち、恭しい手付きで右の匣を取り上げる。其方が一体目だのと、背後から師景の声が飛んだ。
匣を床に置き、そっと蓋を開ける。無惨に砕かれた髑髏が此方を見上げていた。匣のなかには、所々褐色に汚れた大小様々な骨片が積み重なり、大きな頭蓋骨はその上に置かれていた。
ふうむと唸った清光は、首だけで振り返った。
「志摩守様。差し支えなければ此方を並べて見とうござります。毛氈の類いをお貸し願えませぬか」
「それは構わぬが。並べるというと骨をか?」
「左様。凡そ生きとし生ける全ての生き物は、種族によってそれぞれ骨の形や並びが決まっておりまする。それに由れば此方が如何なる種に属する物かも判別出来ましょう」
師景は顎を引き、早速傍らの家士に用意を命じた。
持って来られたのは、二畳はあろうかという緋毛氈だった。
清光は骨片を一つ一つ採り上げ、さっさと並べていく。凡その骨学は頭に入っているため、配置に困ることもない。そのため、一体目の骨を全て並び終えるのに四半刻も掛からなかった。
毛氈の上に現われたのは、腰から下の無い人型の骨だった。詳しい確認は後に廻し、清光は直ぐ二つ目の匣に移った。
二体目は数も多いため、全て並び終えるのには半刻ばかり掛かった。一体目と同じく頭蓋骨の前面こそ叩き砕かれているものの、此方はほぼ五体の揃った人型の骨格だった。
二体分の骨を覗き込んでから、師景は如何かなと顔を向けた。
「一体目は兎も角、二体目の骨は大きさや並びから見ても、限りなく人のそれに近う感じられまする」
「では──」
「いやいや、それで以て人魚に非ずと決めつけるのは早計ですぞ。怪しゅうはござるが、仮令人の骨の形、大きさ、並びに似通っていたとして、人魚のそれが異なると断言出来ぬ以上、人に似た何かとしか明言は出来ませぬ。それよりも、某れがしが気になるのはむしろ此方で」
清光は一つめの匣の底から、緩やかに曲がった薄煎餅のような物を摘まみ出した。その表には、長い毛髪が数本引っ付いている。
乾いた頭皮と毛髪だった。頭蓋骨から剥がれた欠片だろう。長く垂れたその内の一本を、清光は指に引っ掛ける。白木の壇を背景に見たそれは、確かに柿のような、幾度も文献で触れた通りの色をしていた。額の汗を拭い、清光は成る程と嘆息した。
「志摩守様。まこと以て忝のうござるが加えて二点お頼みしたいことが」
「何なりと」
「一つ目は、先ほどの遺骸の模写と併せて、この二体の骨の並びも描き写して頂きとうござりまする。記録として江戸に持ち帰り、上様はじめ御一同のお目に入れ奉る」
「承知した。暫し間を貰うが、しかと描き揃えた物を用意しよう。して二つ目は?」
「他でもありませぬ。これを見つけたという漁師共の話を聞いてみたいのです。どうにもこれだけではまことに人魚の遺骸か否かを判断しかねまするゆえ、発見当時の事情も鑑みたいと思うた次第」
「成る程、それも道理じゃ。心得た。直ぐに呼んで参ろう」
師景は振り返り、早速家士たちに諸々を命じた。
緩やかな風が吹き込み、清光の手元から頭皮を飛ばした。慌てて駆け寄り、床に落ちたそれを拾う。
「入舟殿、それでは一先ず先の座敷に戻りますか。喉も渇かれたであろう」
「はあ、それでは」
骨はそのままに一先ず頭皮を匣に納めた清光は、ふと己の親指が赤く汚れていることに気が付いた。
汗の付いた指である。どこかで切ったかと懐紙で押さえてみたが、創の類いはどこにも見当たらない。付着した汚れは、血よりも明るい赤色をしていた。
もしやと思い、そっと匣のなかを覗き込む。先ほど触れた長く赤い髪は、どういう訳かその一部が黒く変色していた。
師崎村の漁師たちは瞬く間に集められた。
庭に敷かれた筵の上に縮こまるようにして四人が平伏しているその様は、清光に白洲を思い起こさせた。
先ず師景が清光を紹介し、その後の訊問は清光が行った。
あの遺骸は何処で発見したのか──この先の羽豆の浜でございます。
発見した時はどのような有様だったか──古い手漕ぎ舟の底に横たわっておりました。
初めに見た時は何と思ったか──人の形をしておりましたので土左衛門かと。しかし髪は赤く、腰から下は鰭のようになっておりましたため、これは人魚に相違ないと相成りましてございます。尤も、悦三郎先生などは莫迦莫迦しいと仰せでしたが……。
「悦三郎? 何者だそれは」
「浜辺に住まう医者ですよ」
師景が横から口を挟んだ。
「何処から流れ着いたのかは分かりませぬが、いつの間にやら羽豆の浜の近くに庵を結んで暮らしている四十絡みの男です。医術の心得があるとかで、金も取らずに村人たちを診ていますから追い出してはおりませんが。しかし──」
師景は険しい顔で漁師たちに向き直った。
「あの場には悦三郎もおったのか? 聞いとらんぞ。それなのにどうして彼奴は来とらせんのだ」
「いえ、それは」
漁師たちは口籠りながら怖々と顔を見合わせた。
「鹿野様のお召しだもんですから行かん訳にはいかんと再三口酸っぱくして云うたのですが、昨日の晩から茂作のとこの倅が非道く腹を下しとるとかで、それを看にゃならんから行けんと……」
「おう、おれの命より茂作の餓鬼が大事か」
片眉を吊り上げる師景に、漁師たちは蒼褪めた顔で只管平伏している。まあ良いではありませんかと、清光は割って入った。
「医者が病人を棄て置けぬと云うのは至極尤も。いずれにせよ人魚が流れ着いたという羽豆の浜はこの目で見たいと思うておりました。その道中、悦三郎とやらの庵も訪ねてみましょう」
師景は眉間に皺を刻んだ顔のまま、申し訳ないと頭を下げた。
「それでは早速ご案内をと云いたいところだが、実は先ほど、ここから少し離れた常滑の沖合で船同士のぶつかる変事がありましてな。船奉行として急ぎ検分に向かわねばならぬのです。そのため、暫しの間は貴殿に同行が出来ぬのです。ま、急がれる話でもなかろう。一両日中には戻りますゆえ、それまではゆるりと過ごされよ」
痛み入りますると、清光は笑って応えた。
師景が出立したのを見計らって、清光も屋敷を出た。散歩とは断ったものの、実際は亡骸の見つかった羽豆の浜に赴く腹積もりだった。
留守を任された鹿野家の老臣は、当然護衛として数名の家士を同行させようとした。しかし、独りの方が身軽に動ける清光は丁重にこれを断った。聞けば悦三郎とかいう男はかなりの偏屈者だそうで、左様な相手に大勢で押し掛けてはむしろ裏目に出るだろうと考えたのである。
尤も、老臣もまた清光のような賓客を一人では出歩かせられないと必死に食い下がった。結局、折衷案として、松明丸という師景の長子が同行することになった。
海に向かって延びた長い坂道を、ゆっくりと下る。
「こちらでございます」
父親に似て背の低い松明丸は、鯱張った顔のままきびきびと先導役を務めている。短い脚をせっせと動かす度に腰の大小が大きく揺れ、その姿はどこか森の鴉を思わせた。
「なあ松明丸」
「はいっ」
「お前も人魚の実物は見たのか」
松明丸は身体ごと振り返り、再度はいと勢い込んで答えた。
「どうだった。本当に人魚だったのか」
「分かりません。確かに腰から下は魚のようでしたが、そうではないと云われますと、そうではなかったような気もします」
「他には」
「とにかく臭かったです」
「はは、それはそうだろうな」
「入舟さまはいかがお考えでしょうか。並べた骨は人のそれと同じでしたが」
「さてなあ」
清光は大きな掌で顎を撫でた。
「コレ人魚ノ骨格ナリという見本でもあれば、それと照らし合わせて終いだ。だが、左様な書物を生憎と俺は知らぬ。だから今は何とも云えん」
「人魚に関する資料は、ご公儀の御文庫にも無いのですか」
「無いことは無い。ただし古い物ばかりだ。ここ十年はとんと外からの書物が増えぬのでな。もっと読みたい物もあるのだが」
「外と仰いますと──」
「蘭学よ」
清光はあっさりと云ってのけた。
「お前は知らんだろうが、今より十年前、江戸では蘭学者に対しての大弾圧があった。あれが全てを変えてしまった」