5
〈今、話せる?〉
里紗から届いたメッセージはシンプルだった。わたしは山本くんに断って、手早く簡潔に返事を送る。
〈ごめん、無理〉
短い吹き出しが並んだトーク画面をじっと睨む。一分以上経っても、里紗からの返事は来なかった。
「お待たせ」わたしは顔を上げた。「ごめんね。始めてもらっていい?」
「いいの?」山本くんの眉がわずかに上がった。
「うん。いいの」
「あのさ、友達は──」
「いいの」わたしは彼の言葉を遮った。「始めて」
山本くんはため息を吐き、カフェオレを一口飲んだ。
「あの人が、飲み物を買えない状態にあるってところまでは、ぼくも同意見だ」
しぶしぶ話し始めた彼に向かって、わたしは頷く。
「ただ、君はあの人の財布が見当たらないと言ったけど、違うと思う。あそこに小さなポーチが見えるでしょ」
わたしはもう一度、花子さんの手元を観察したが、それらしきものは見えなかった。
「違う違う、もっと下」
仕方なく、腰を浮かせて彼女の足元に目を向ける。たしかに、あった。わたしが使っているのと同じような一〇〇均のビニールポーチが、床の人工芝に半ば埋もれるようにして落ちている。彼女の足元までは注意を払っていなかったから、気づかなかった。
「膝の上とかに置いていたのが、落ちちゃったんだろうね。下が人工芝だから音もしないし、気づかないのも無理ないよ。たぶん、普段からあれに小銭を入れて持ち歩いてるんだと思う」
わたしと同じだ、と思ったけれど口には出さなかった。自分で使っているときには気にならなかったけど、いざ同じことをしている人を見てしまうと、確かにどうかと思ってしまう。
「まあ、せいぜい小銭入れだろうから、カードの類は入ってないと思うけどね。逆に言えば、ちゃんとした財布を捜す余裕もないくらい慌てていたってことになる。とにかく目に付いた小銭だけ持って来たんだろうね」
「でも、ここじゃ小銭は使えない」
「そう。クレジットカードもないから、支払いにはスマホを使うしかない。でも、これまでの様子を見る限り、彼女はそれもできないらしい。その理由は何か? 君は電池切れだと考えたみたいだけど、違うと思う。だってあの人、さっきから何度も画面を見ているからね。電池切れで動かないなら、画面を確認する必要はないはずだ」
「それは──」
「つまり」彼はわたしの言葉を遮って言った。「あの人の持つスマホは電池切れの状態にはない、と仮定する。その場合、飲み物を買えない理由として考えられるのは二つ。一つ目は、そもそもスマホに決済機能がない場合。二つ目は、決済機能自体はあるけど、何らかの理由で使えないという場合」
「何らかの理由?」
「まずは一つ目の方から検討しよう」
彼は再びわたしを遮った。渋っていたくせに、いざ話し始めると饒舌なのがちょっとおかしい。
「スマホ自体に決済機能が備わっていない、という可能性はほぼない。よっぽど昔の骨董品を使ってない限りはね。ここの自販機は、電子マネーなら大抵の支払い方法には対応している。スマホが普通に動くなら、まずは何か使える決済手段がないか、あれこれ試すのが普通だと思うけど、彼女はそれすらしていない」
山本くんは話を続けた。
「そこで二つ目の可能性。スマホのバッテリーはある。決済機能もある。だけど使えない。それはどういう場合か」
山本くんはストローの先でカフェオレを混ぜた。
「答えは一つ。彼女はスマホのパスコードを知らないんだ」
「え? 忘れちゃったってこと?」
SNSのログインパスワードならともかく、パスコードなんて一日に何度も入力しているはず。普通、考えなくたって指が動くものだろう。
「違う。忘れたんじゃなくて知らないんだ。だって、あれは彼女のスマホじゃないんだから(、、、、、、、、、、、、、、、、、)」
「他人のスマホってこと? でも、いったい誰の?」
「問題はそこだね」
山本くんは目を細めた。
「たとえば、道で誰かとぶつかって偶然スマホを取り違える、なんていう可能性は低いだろう。ありえそうなのは、家族の誰かだ。両親か兄妹かあるいは配偶者か……。恋人や配偶者の可能性が一番高いかな。一緒のベッドで寝てるなら、朝寝ぼけた状態でスマホを取り違えることはあるだろうし」
わたしは自分が誰かと同じベッドで寝ているところを想像した。ほんの、一瞬だけ。
「でも」とわたしは慌てて言った。「相手が家族なら、いくらでも解決の方法はあるんじゃない? とりあえず、一旦家に戻ってみるとか……」
「そうだね。相手の番号を知ってるなら、どこかから電話をかけることもできるし、とりあえず家に戻ってみるのもいいし、相手の方もそうするだろう。スマホを取り違えたまま一日過ごすのは大変だから、何かしら手を打つはずだ。それは取り違えられた相手の方も同じこと。彼女はともかく、相手の方はいったい何をしているんだろうね?」
「それは……、ここでその相手と待ち合わせている途中ってことはない?」
「ないとはいえない」彼は認めた。「でも、どうしてわざわざこの店に? 家で待っていればいいだけの話じゃないか。それに、さっきの小銭入れの件もある。彼女は財布を捜す余裕もないほど慌てて家を出てきたんだ。待ち合わせでそこまで焦る必要があるかな?」
わたしは少し考えた。待ち合わせに遅れる可能性があるなら、慌てて家を出ることもあるだろう。でも、さっきからずっと、彼女は一人でこの店にいる。待ち合わせの相手がやって来る様子はない。
「ここで最初の疑問に戻る。彼女はいったい、この店で何をしているのか。どうして飲み物を買えない状況なのに、いつまでも席に留まっているのか」
そう。それが問題だ。あの女性がわたしと同じ馬鹿正直な人間だから、というのがわたしの答え。山本くんはどう考えているのだろう。
「奇妙なのは、彼女が座っている席だ」彼は言った。「監視カメラの真正面、すごく目立つ場所に座っている。普通、飲み物を買えないってわかったら、もう少し目立たない席に移動したくなるはず。そうしないのは、カメラに映ること自体が彼女の目的だから、と推測できる。わざわざ監視カメラに映る目的は何か──アリバイだ」
アリバイ?
急に物騒な言葉が出てきた。いや、別にアリバイ自体は物騒な言葉ではないのだけれど。
「飛躍しすぎじゃない?」わたしは笑った。
「ところが、そうとも限らない」
山本くんは大真面目だった。
「気になる点が二つある。一つ目はスマホのケース。大きな花柄で、彼女のファッションと雰囲気が一致している。あれが他人のスマホだとしたら、ちょっと奇妙な偶然だ」
「じゃあ、やっぱり自分の物なんじゃ……」
「二つ目は、スマホの置き方と持ち方」
山本くんはわたしを無視した。
「彼女はスマホの背面──ケースの側を上に向けてテーブルに置いている。持つ時もちょっと変だ。軽く持つんじゃなくて、五本の指でしっかり握り込んでいる。それに、わざわざ目の高さまで持ち上げて、真正面から画面を覗いている」
彼の推理はもっともらしく聞こえたが、女性のわたしからすれば反論できる点もあった。とはいえ、ひとまずは黙っておく。
「ここから推測可能な結論は何か。つまり、スマホ自体は他人のもので、ケースだけが彼女自身のものなんだ。他人のスマホに、自分のケースをつけているのさ。持ち方がやたらとしっかりしているのは、スマホ本体とケースのサイズが合っていないから。画面を伏せてテーブルに置いたり、目の高さまでわざわざ持ち上げているのは、監視カメラにケースが映るようにするため。本当は他人のものであるスマホを、自分のスマホに見せかけるためだ」
「……何のために? 他人のスマホで出来ることなんて、ほとんどないと思うけど」
「その通り。やれることは限られている。時間を見る、ライトを点ける、カメラを起動する。それから、電話をかける」
「電話?」
それは無理だろう、とわたしは思った。かかってきた電話を受けるならともかく、こちらから発信するにはパスコードの入力が不可欠なはずだ。
「確かに、普通の電話はかけられない。でも、エマージェンシー・コールなら別だ」
何だっけ、それ。
わかっていない表情のわたしを見て、山本くんが説明してくれる。エマージェンシー・コールというのは、緊急時に一一〇や一一九にかける電話のことを指すらしい。機種にもよるけれど、大抵のスマホにはそういう機能がついていて、緊急電話だけはパスコードなしでかけられるのだそうだ。
わたしは手元にある自分のスマホで試してみた。確かに、パスコードの入力画面の左下に、「緊急」という小さな文字がある。ここをタップすると、パスコードの入力を省略して、一一〇や一一九に連絡できる仕組みらしい。
「ここからはぼくの想像だ」
山本くんは再び話し始めた。
「花子さんはおそらく、このマンションの住人だろう。同居している相手と折り合いが悪く、日常的にトラブルを起こしていた。そういう人物に、君も心当たりがあるはずだ」
彼の言葉で思い出す。魔の三階。同じ階に住んでいる、顔を知らない──けれど怒鳴り声だけはよく知っている女性のことを。
「そして今朝、彼女はついに相手のことを殺してしまう。計画的な犯行ではないだろう。カッとなって、勢い余って……、珍しくもないありふれた事件だよ。中学生だって人殺しになる時代だ。さて、自分のしでかしたことにショックを受けた彼女は、救急車を呼ぼうとして、そこで冷静になった。今ここで一一九に電話をかけたら、まず自分が犯人として疑われる。焦った彼女はマンションの一階にあるこの店の存在を思い出した。凶器の指紋を拭き取り、被害者のスマホに自分のケースをかぶせる。そしてこの店に来たんだ」
カフェオレの中で氷が鳴る。遠くの席から、花子さんの探るような視線がこちらに近づいてきて、そして遠ざかった。わたしたちはますます顔を近づけ、小声になる。睦み合う恋人たちのように。
「ここの店内はカメラで常に監視されている。アリバイ作りにはうってつけだ。カメラの前でこれみよがしに時間を潰したあとで、被害者のスマホを使ってエマージェンシー・コールをかける。最近の機種だと、名前や住所なんかをあらかじめ登録しておける機能があるんだ。通話ができない状態でも、最低限の情報は相手に伝えられるってわけ。こうすれば、自分がカフェで過ごしている間に事件が起こり、被害者自身が救急に電話をかけたという図が出来上がる──彼女はそう考えた」
「彼女がこのマンションの住人だって推測する理由は?」
「位置情報」彼は答えた。「機種によっては、スマホの位置情報も相手に共有されることがある。もし犯行現場がここから離れたところにあったら、すぐにバレるから意味がない。それに、救急車を呼んだあとで家に戻る必要があるからね。じゃないとスマホを戻せない。そんなに遠くまでは行けないよ。上のマンションに住んでいるなら話は簡単で、救急車の音に驚いたふりをして店を出て、自分が家族だと伝えればいい。あとは一緒に部屋に向かって、隙を見てスマホを被害者の手元に戻すだけ。たぶん、そういう計画なんだろう」
一番の誤算は、と彼は続けた。
「この店が電子マネーしか使えなかった、ってこと。一旦家に戻るのはリスクが高すぎるし、かといって被害者のスマホでは決済できない。パスコードを知らないし、何より決済記録が残ってしまうからね。とはいえ他に手もないから、ああして時間を潰しているんだ」
「かなり危うい計画じゃない? うまくいくのかな」
「微妙だね」彼はあっさり答えた。「いくらアリバイを作ってみたところで、彼女が第一容疑者であることは動かないだろう。それに、稼げる時間もせいぜい一時間くらいだ」
「意味ないじゃない」
「それは外野の意見だよ」
山本くんは静かに言った。
「彼女は人を殺してしまった。その事実は変えられない。だったら、あとは手を尽くすしかないんだ。たとえどんなに馬鹿げた考えでも、一パーセントでも可能性があるなら、それに賭けたくなるのは自然なことだと思うけどね」
「経験があるみたいなこと、言うね」
わたしの言葉に、彼は微笑んだ。そして何も答えなかった。
大きく息を吐き、ソファにもたれかかる。入口近くのテーブル席は、すでに空になっていた。店内に残っているのは、わたしたち二人と花子さんだけだ。
「それで、どうしようか」山本くんは静かに言った。
「何が?」
「答え合わせだよ。これ、勝負だったんでしょ」
「それは……」
わたしは言い淀んだ。確かに、勝負を提案したからには答え合わせが必要だ。どちらの推理が正しいのか。より真実に近いものだったのか。
それを確かめる方法は一つだけ。実際に、あの女性に話しかけてみるしかない。ついさっきまでは簡単なことに思えたそれは、けれど今ではひどく難しいものに感じられた。
「まあ、いいんじゃない」
山本くんは表情を緩め、ふっと笑った。とても冷たい笑顔だった。
「別に、答え合わせはしなくても。君の目的は達成されたみたいだし」
「……目的?」
嫌な予感がした。透明なカップの外側を、汗のような水滴が伝う。
「あの女子高生、帰ったみたいだよ」
彼は入口近くの丸テーブルを指差した。
「立花里紗。君の友達でしょ」
自分の両耳が真っ赤に染まっていく音を、わたしは確かに聞いた気がした。
6
あんたに何がわかるの、と里紗は言った。誰かを好きになったことなんてないくせに。自分のことしか好きじゃないくせに。
どうして、そんな酷いことを言うんだろう。間違っているのは彼女の方なのに。わたしは傷つけられた被害者なのに。
許せない、と思った。だから──。
「……いつから気づいてたの」
「最初から、おかしいとは思っていた」彼はあっさりと答えた。「君が勝負を提案した時、店内には不審な客が二人いた。一人は君が選んだ女性。もう一人は入口近くに座っていたジャージ姿の女子高生。二人ともこの店に不慣れな様子で、飲み物を買う気配がなかった。どっちを選んでも良かったはずなのに、君は迷わず前者を選んだ。女子高生のことは話題にすら出さなかった」
「たまたま、目についた方を選んだだけかも」
「それなら、女子高生の方を選ぶはずだ。君が座っている場所からは、柱が邪魔になってあの女性がよく見えない。無理に観察しようとすれば不自然な体勢になるし、そのせいで相手に不審がられる可能性もある。事実、君は落ちていたポーチに気づかなかった。そういうリスクを冒してまで、わざわざ見にくい相手を選んだ。女子高生の方を選ぶわけにはいかなかったんだ。君はぼくの意識を、彼女から逸らしたがっていた。それで、何かあるのかもって思ったんだ」
山本くんは淡々と言葉を紡いだ。その声には、およそどんな感情も滲んでいないように思えた。
「それに、君は彼女のスマホの機種を知っていた。ブラウスが汚れたのに、家に帰ってジャージに着替えることも拒否した。着替えたら、君たち二人が同じ高校の生徒だとぼくに知られてしまうからだ」
「……全部ただの推測でしょ」
「そう。だから、彼女に直接聞いて確かめた」
「聞いた?」
背中がかっと熱くなった。
何かを言おうとしたが、言葉は一つも出てこなかった。
「君がブラウスの袖を洗うために席を立った時。ぼくは彼女に話しかけて、君にもらった文化祭のチケットを見せた。彼女は立花里紗だと名乗り、君の幼馴染だと教えてくれた。喧嘩になって、今は互いに口もきかない状態だってことも。それで今日、君と何とか話をするために、朝からこの店を訪れたってことも」
わたしは手の中のスマホをきつく握った。互いが見える距離にいるのに、わざわざ遠慮がちに送られてきた、彼女からのメッセージを思い出す。
「彼女はぼくのことを、君の恋人だと認識していた。君にそう言われた(、、、、、、、、)と。それを聞いて、全てがわかった」
「違うの、それは──」
「君たちの喧嘩は、恋愛に関することだった。彼女は君に恋愛経験がないことを詰った。誰のことも好きになったことがないと。自分のことしか好きではないのだと。君はそれが許せなかった。否定したかった。だから、咄嗟に嘘を吐いた。偽物の恋人をでっちあげることにしたんだ。その相手が、ぼくだった」
違う、と言いたかった。
そうじゃないのに。
そうじゃなかったはずなのに。
「ぼくを選んだ理由はわからない。他に候補がいなかったのかもしれないし、どうせもうすぐ会わなくなるから──」
彼は〈閉店のお知らせ〉の貼り紙をちらりと見た。
「後腐れがなくていいと思ったのかもしれない。友達に嘘を吐いた後で、君はぼくにチケットを渡した。そうして、彼女の前であたかも恋人同士のように振舞うつもりだった。ところが、その翌日に──つまり今日だ──予想外のことが起きた。彼女がここにやって来たんだ。君は焦った。同時にチャンスだとも思った。奥のボックス席にぼくを誘って、君は勝負を持ちかけた」
彼はわたしにそっと顔を寄せた。さっきまで、何度もわたしがそうしていたように。
「君の目的は二つあった。一つは、ぼくの意識を友人の方から逸らすこと。もう一つは、ぼくと二人で話している姿を友人に見せつけること。勝負の最中はどうしても、互いに顔を近づけて、囁き合うような格好になる。傍からは恋人同士に見えるだろう。それが一番の目的だった。推理の内容なんて、本当はどうでも良かったんだ。ぼくと親しげに話しているところを見せつけられれば、それで目的は達成できた」
「わたし、そんなことしない」
思わず飛び出した声には、自分でも驚くことに怒りが滲んでいた。そんな資格も権利も、わたしにはないはずなのに。人は誰かに追い詰められるほど、それを埋め合わせるかのように怒りを生み出す生き物なのだと、わたしはその時初めて知った。
「全部、山本くんの勝手な妄想だよ。わたしが誰かを利用したり、貶めたりするなんて──」
「これは別にどうでもいいんだけど」
山本くんは静かに言った。テーブルの上で重ねられた両手の、その細い手首に幾筋もの血管が浮き出していた。
「どうして自販機の前に行ったんだい?」
「え?」
「さっきだよ。あの男に飲み物をかけられた時。席を立って、自販機のところに行っただろ?」
「それは……、飲み物を買おうとして……」
「スマホをテーブルに置いたまま?」
わたしは黙った。
「君は最初から、彼とぶつかるために席を立ったんだ。わざとぶつかって、自分から飲み物をかぶるつもりだった」
「何のために?」
「男を店から追い出すため。彼はAndroidユーザーで、君の推理に都合が悪い存在だったし、何より君はあいつのことが嫌いだった。君は怒りを表に出すのが苦手だけど、だからといって他者に寛容なわけじゃない。怒りを発散できない分、相手を許すことも出来ずに、ただ憎しみだけが募っていく。良かったね。これでもう、あの男はこの店に顔を出せなくなった。全部君の意図した通りだ」
わたしは底にわずかに残ったコーヒーを飲んだ。苦みはほとんどなく、ただ色だけが黒かった。
「とにかく、彼女の方は君と仲直りしたがっていたよ。どうして喧嘩になったのかは知らないけど──」
「キスしてたの」
わたしは言った。言葉にすると、自分でも驚くくらいの怒りがわき上がってきた。
「弟と。里紗はね、わたしの弟と付き合っていた。そのことを、ずっとわたしに隠していたの」
ユウちゃん、と。
彼女はそう呼んでいたのだろう。弟の──祐樹のことを。それを誤魔化すために、わざとわたしのことも時々ちゃん付けで呼んでいたのだ。ふざけているふりをして。
気持ち悪い、と思った。心の底から嫌悪感がわき上がってきた。弟も許せなかったが、里紗のことはもっと許せなかった。中学生の男の子、それも幼馴染の弟に手を出すなんて、人間としてあり得ないと思った。
だから言った。そんな不健全な関係は、今すぐやめるべきだと。
──不健全?
里紗は引き攣ったような声で笑った。その声には、わたしの知らない彼女の残酷さが込められていた。
──あんたに恋の何がわかるのよ。誰かを好きになったことなんてないくせに。いつだって、自分のことしか好きじゃないくせに。
だから、わたしは──。
「わたし、自分のことなんて好きじゃない」
下を向いたまま、言葉を吐き出す。
「逆だよ。嫌い。大嫌い」
「自分が嫌いなんて発想は、自分のことが好きじゃなきゃ出てこないと思うけどね」
「わかったようなこと、言わないで。わたしのこと、何も知らないくせに」
「知らないよ」彼はあっさりと認めた。「ぼくは君のことを知ろうとしなかった。君もぼくのことを知ろうとしなかった。お互い様だろ」
山本くんは自嘲するような笑みを浮かべた。
「君とぼくはよく似ている。箱の中身は、箱を開けることでしか確かめられないのに、それをしない。ただ、外側だけを見て、あれこれ空想を弄んで決めつける。でも、そういう人間は必ず痛い目を見るように、この世界は出来ているんだ」
「何が言いたいの」
「夕陽が嫌いなんだ」と彼は言った。「だから、ここには朝しか来ない。夕方は西日が差し込んで眩しくて、昔のことを思い出すから」
言葉の意味するところはわからなかった。でも、夏の終わりを思い出した。
昼と夜が混じり合った時間の中を、彼と二人で歩いたことを。あの時間がもう二度と戻ってはこないことを、わたしは悟った。
彼はポケットから紙切れを取り出し、テーブルの上に置いた。名前の書かれた文化祭のチケットだった。
「これは返すよ。ぼくには使えないものだから」
「行きたくないなら、そう言って」
「いいや」彼は微笑んだ。「使えないんだ」
わたしは彼の顔を見た。それからチケットに書かれていた名前を見た。山本拓海。ノートに書かれていた、彼の名前。
ノート。
わたしの喉が、勝手に鳴った。思い出す。山本くんはいつだって、わたしと同じでルーズリーフを使っていた。ノートを使っているところなんて、一度も見たことがなかった。
「言っただろ。ノートを貸してくれる友達くらいいるって」
「……どうして」擦れた声が出た。「なんで、黙ってたの」
「君と同じさ」
彼は答えた。「自分のことが嫌いなんだ。だから、少し嬉しかった。別の名前で呼ばれて、新しい他の人間になれた気がした。君の前でだけは、自分であることをやめられたんだ」
ありがとう。
それが別れの合図だった。彼は立ち上がり、余所余所しく会釈をした。
わたしの人生から、永遠に立ち去るために。
「待って」わたしは囁いた。「名前くらい、教えてよ」
「東」
彼はもう、わたしのことを見ていなかった。
「東智之」
さよなら。
別れの言葉は、声にならないままエアコンの風に紛れて消えた。
***
どのくらい、そうしていただろう。
「あの、すみません」
遠慮がちな声に顔を上げると、目の前に花柄のブラウスを着た女性が立っていた。緊張しているのか、指先で前髪を何度も繰り返し梳いている。
「これ、お連れの方の落とし物じゃないかと思って……」
差し出されたそれを見る。子猫のシールが貼ってある、空っぽのビニールポーチだった。
「いえ、違います」わたしは震える声で答えた。「わたしのです。ありがとうございます」
彼女は不思議そうな顔でわたしを見た。それから、左手に握ったスマホを無意識に撫でた。画面は真っ暗なままだった。
「あの」
わたしはお腹にぐっと力を込めて、立ち去ろうとする彼女に声をかけた。二股の充電ケーブルをずいと差し出す。
「これ。もしよかったら、お貸ししましょうか?」
女性はびっくりした顔になった。そして何度もお礼を言ってケーブルを受け取り、自分の席に戻っていった。
思わず、乾いた笑いがこぼれる。
「バカ」とわたしは呟いた。「ざまあみろ」
それから、彼が残していったカフェオレを引き寄せ、ストローの先に口をつけて飲んだ。
苦くて甘い、嘘と本当の味がした。