誰かに頼み事をするのが苦手だった。

 相手に借りを作るなんて、自分に自信がなければ出来ないことだ。残念ながら、わたしはそういうタイプじゃない。反対に、お願いをきいてあげて相手に貸しを作らないと、誰とも対等でいられない気がしてしまう。幼い頃からのそんな悪癖は、高校生になった今でも治っていない。

 その日の朝、いつものカフェで山本やまもとくんに頼み事をすることは、だからわたしにとってとても勇気のいることだった。季節は秋。衣替えから二週間経って、ようやく肌に馴染み始めた冬服の袖を、きつく握る。わたしの視線に気づいたのか、山本くんは怪訝そうに眉根を寄せた。

高橋たかはしさん、どうかした?」

 大きく息を吸ったその瞬間に話しかけられて、わたしは不自然な表情のまま固まった。吸い込んだ息が行き場をなくし、身体の奥で迷子になる。

「えっと……、何が?」

「なんていうか……、ちょっと変だよ。何かあった?」

「ああ、うん」わたしはとぼけた。「色々あったよ。弟はまたパパと怒鳴りあってるし、昨日の夜から低気圧のせいで頭が痛いし、幼馴染とは喧嘩中だし……」

「弟さん、中学生だっけ」

「うん。十四歳。一七〇センチ、五八キロ。考えなしですぐに口と手が出るタイプ」

「両方出るパターンなんだ」

「最悪だよ。なんで、男の子って反抗期があるんだろう」

「別に、女子にもあるでしょ」

 山本くんは苦笑いした。「まあ、高橋さんはそういうのなさそうだけど……」

 わたしはこくりと頷いた。ママ曰くまったく手のかからなかったわたしとは対照的に、今年十四歳になった弟は反抗期の真っただ中で、高橋家の朝はいつもピリピリとしている。そういう空気が何より苦手なわたしにとっては、実際かなりのストレスだった。もっとも、そのおかげで、避難所であるこの店のお金を出してもらえているのだから、悪いことだけではないのだけど。

「でも、高橋さんでも友達と喧嘩するんだ。意外だな」

「喧嘩っていうか……」わたしは躊躇ためらいがちに言葉を選んだ。「一方的にひどいこと言われてさ。その場で言い返せればよかったんだけど、何も言えなくて。誰かに怒ったりとか、そういうの苦手で」

 ──自分のことしか、好きじゃないんでしょ。

 ぶつけられた言葉が、耳元ではっきりと蘇る。あれからもう一週間以上が経つのに、いまだに耳の奥にこびりついて消えてくれない。

「ところでさ」

 無理やり明るい声を絞り出し、わたしは言った。

「山本くんにお願いがあるんだけど」

 仕切り直す意味を込めて、隣に座った彼の方に向き直る。細い黒髪。肘までまくり上げられた制服のシャツと、そこから覗く白い腕。山本くんは、淡い色のカフェオレをストローの先でくるくると混ぜた。

「何?」

「スマホ、貸してもらってもいい?」

「忘れたの?」

「ううん」わたしは首を振った。「電池が切れちゃって。昨日の夜、充電コードが抜けちゃってたんだと思う」

 ちらり、と。彼にわかるよう、自販機の方向に視線を向ける。ここの自販機は電子決済のみで、現金払いには対応していない。クレジットカードがないわたしたち高校生にとって、スマホは唯一の決済手段だった。

「お願い。明日はわたしが払うから」

 もちろん、わたしの主張にはよく考えれば穴がある。バッテリーがないなら、充電ケーブルを家から持って来れば済む話だからだ。すぐ足元にコンセントの穴があるし、わたしの家はここ──無人カフェ〈ユアセルフ〉からすぐ近く。さらに言えば、電池切れというのも嘘だった。単に電源をあらかじめ切っておいただけだ。

 でも、そのことを気づかれるわけにはいかない。彼に借りを作ることが、この後の計画にとって何よりも重要だった。

「いいよ」

 はたして、彼はあっさりと自分のスマートフォンを渡してくれた。シンプルなケースに入った、iPhone11。わたしと同じ機種だから、使い方はよくわかる。とはいえ、実際に使えるかは別問題だということに、わたしは今更気づいた。

「これって、顔認証?」

「ううん。パスコード」彼は言った。「そっか。ぼくが買ってきた方がいいね。アイスコーヒーでいい?」

 彼はわたしからスマホを受け取ると、自販機の前に行ってそれをかざした。氷の詰まったプラスチックカップに、真っ黒な液体がなみなみと注がれる。

「ありがとう」

 わたしはお礼を言って、コーヒーを一口啜った。薄い。それから、ふと思いついた風を装いながら、足元のスクールバッグを右手でまさぐった。そして目的のものを──ない。わたしは慌ててバッグを膝に置き、中身を漁った。ペンケース、問題集二冊、ルーズリーフ、小銭の入った(本当にダサいからやめてくれと友達に言われている)一〇〇均のビニールポーチ。でも、肝心のものがない。

「もしかして、これを捜してる?」

 山本くんは床に落ちていたものを拾って、わたしに見せた。水色のファスナーがついた透明のビニールポーチ。小銭入れに使っているのと同じデザインだけど、こっちには子猫のシールが貼ってある。

「あ、それだ。ごめん、ありがとう」

 慌てて彼の手からポーチを受け取り、中身を確かめる。大丈夫、ちゃんと入っている。きっと、バッグの中を漁っているときに落としてしまったのだろう。〈ユアセルフ〉の床には人工芝が敷かれていて、歩き心地は良いのだけど落とし物に気づきにくいのが欠点だった。

「えっとね、コーヒーのお礼ってわけじゃないんだけど。良かったら」

 ポーチから取り出した紙切れを、彼に差し出す。

「チケット?」

「うん。わたしの学校の文化祭なんだけど、チケット制でさ。あ、別に絶対来てってわけじゃないんだけど、もしよかったら。結構面白いと思うんだ。山本くん、男子校だし……」

 わたしは早口でまくしたてた。その声に滲んだ焦りの色に、自分で自分が恥ずかしくなる。まったく、絶望的に不自然だ。

「記名式なんだ」

「うん。わたしが山本くんの名前を書いて渡せば大丈夫」

 言うなり、ボールペンで彼の名前をチケットに書き込む。

 山本たく

 それが、彼の名前だった。

「はい、どうぞ」

 震える手で、それでも声だけは平静を装いながら、わたしはポーチごとチケットを渡した。

「ありがとう。でも、これ──」

 言わないで!

「いいの、いいの。本当に。来られなかったら、しょうがないし。わたしがあげたいだけだから。ほら、今日も助けてもらったし」

 彼は少し困ったような顔で──それでも確かに頷いた。

 わたしは大きく息を吐き、それから椅子に沈みこんだ。頭の中で、ぽつぽつという雨音が蘇る。彼と話した、最初の朝の音だった。

 

***

 

 今から四か月ほど前、六月の第一金曜日。早朝のカフェ店内はいつものことながら空いていた。

 カフェといっても、普通の喫茶店とは違う。無人カフェ〈ユアセルフ〉は、店員さんが一人もいない、二十四時間営業のセルフカフェだ。各々が店内の自販機で飲み物を買って、それを利用料代わりに席を使う。

 足元には緑の人工芝が敷き詰められ、天井には青空をイメージした壁紙。道路側は全面ガラス張りで、外の様子がよく見える。とはいえ、この日の天気は荒れ模様で、大した景色は見えなかった。湿気がひどく、髪の毛の先がうねって暴れる。嫌な朝だった。床に敷かれた人工芝で、スニーカーの靴底を拭う。

 普通の喫茶店と違い、〈ユアセルフ〉の席はほとんどが一人用だ。入口から見て左手の壁側には、自習室のような仕切りのあるカウンター席、右の壁側には一人用の丸テーブルが並んでいる。その間には巨大な十四人掛けの長テーブル。奥にある二つのボックス席だけが、店内で唯一の四人用のスペースだった。最近、リモート会議用の個室ブースが一つ出来たけれど、あまり利用者は見かけない。

 わたしの定位置は、右の壁沿いに並んだ丸テーブルの、奥から三つ目の席だった。カウンター席は嫌いだし、ボックス席は一人だと使いにくいから、自然とここを狙うことになる。その朝も、わたしはいつもの席に荷物を置き、コーヒーを買いに自販機へと向かった。

 店内にある自販機は一台だけ。ちょっと変わった仕組みで、自分でカップをセットしてから注文ボタンを押さなければいけない。さもないと、滝のように流れていく三〇〇円分のコーヒーを、為すすべもなく見つめている羽目になる(わたしはこの半年間で三回やった)。

「薄っ」

 真っ黒な液体に口をつけ、わたしは小さく呟いた。アイスコーヒーは、相変わらず薄くてあまり味がしない。そのくせ、香りだけは強かった。

 顔を上げると、自販機の上のモニターに自分の顔が映っていた。険しい表情をした、生真面目な雰囲気の女の子。自分でも華のない見た目だと思う。制服を着ていなければ、とても十七歳の高校生には見えないだろう。

 モニターは四つに分割され、店内四か所の監視カメラの映像がリアルタイムで流れる仕組みになっていた。スタッフが一人もいない分、目立つ場所に監視カメラがたくさんあるのも、ここの特徴の一つだ。飲食物の持ち込みは厳禁だから、それを見張る意味もあるのだろう。

 カップの中の氷を軽く揺らしながら、自分の席に戻る。席からは店内の様子がくまなく見渡せた。お客はわたしの他に二人だけ。個室ブースを使っている女性と、中央の長テーブルに陣取っている中年の男性。女性の方は顔が見えないが、たぶん、常連客ではないだろう。

 反対に、男性の方はわたしと同じ常連客だった。小太りで、眼鏡をかけている。白いワイヤレスのイヤホンと、珍しい折り畳みスマートフォンの組み合わせ。いつもサンダル履きなのは、家が近所だからだろう。ここを仕事場代わりにしているのかもしれない。

 男性はパソコンを閉じ、財布をポケットに入れて立ち上がった。たぶん、タバコだ。むっちりしたお尻がわたしのテーブルにぶつかり、カップのコーヒーが少しこぼれる。彼はそれに気づかず、さっさとお店の外に出てしまった。

 わたしはため息を吐き、テーブルにこぼれたコーヒーを紙ナプキンで拭いた。こういう時、どう反応すればいいのか、いまだによくわからない。怒るべきだと頭ではわかっていても、身体がついてこないのだ。ゆう、なんていういかにも優しげな名前を両親につけられたせいかもしれない。

 弟のゆうなら、きっと反射的に怒りの言葉を口にしただろう。あるいは幼馴染の立花たちばな里紗りさなら。二人とも、自分の気持ちを言葉にすることに躊躇がない人間だから。

「ユウはさ、ちょっと優しすぎて怖いよ」

 昔、里紗にそんなふうに言われたこともある。優しすぎると何がどう怖いのか訊き返してみたけれど、彼女は困ったように苦笑いするだけだった。

 わたしからすれば、誰かに怒ることの方が怖い。みんなどうして簡単に怒った顔を見せられるんだろう、と思う。相手を怒鳴りつけてしまった後で、自分の方が間違っていたとわかったらどうするんだろう。相手に何か事情があったら? 自分が何か大切なことを見落としているだけだったら?

 口にした言葉は、もう二度と取り消せない。その責任を、どうしたら意識せずにいられるのだろう。

 ぶるり、とスマホが震える。

〈ユウちゃん、今日の夕方って空いてる?〉

 通知欄に現れた里紗からのメッセージに、わたしは思わず吹き出した。

〈なんで、ちゃん付け?〉

〈いいじゃん、別に〉

〈あいてるよ。七時には帰らなきゃいけないけど〉

 OKのスタンプが返ってくる。相変わらず、里紗の考えることはよくわからない。わざわざこんなやり取りをしなくたって、二時間後には教室で顔を合わせるのに……。

 ルーズリーフを取り出し、電子辞書を開いたところで、お店のドアが開いた。黒いリュックを背負った男の子が俯き加減で入って来る。わたしと同じ高校生。制服から判断するに、隣町の男子校だろう。話したことはなかったけれど、彼もまた常連客の一人だった。一瞬、目が合ったような気がして、わたしは慌てて視線を逸らす。それでも、視界の端では彼の姿を追っていた。

 男の子は真っすぐ個室ブースの方に行き、ちらりと中を覗いた。珍しいな、と思う。わたしの記憶が正しければ、彼はいつもカウンター席の真ん中あたり──ちょうどわたしの席からよく見える場所──に座っていたはずだ。

 ブースを諦めた男の子は、今度は自販機の方に目を向け、モニターを数秒じっと見つめた。それからこちらに近づいてきて、わたしから一つ離れた丸テーブルの席に座る。自販機のすぐ隣だ。リュックをテーブルの上に置き、周囲にさっと視線を走らせる。

 その様子を見て、ピンときた。声をかけるなら今しかない。わたしは立ち上がり、男の子の前に移動すると、上から覆いかぶさるような体勢で声をかけた。

「気を付けて」周囲に聞こえないよう、声をひそめる。「この席、カメラにばっちり映ってるから」

 彼は驚いたように顔を上げた。綺麗な澄んだ瞳だった。

 

 男の子は山本拓海という名前だった。別に、自分から名乗ったわけじゃない。がばりと開いたリュックの中に、名前の書かれたノートが見えたのだ。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ」

 急ピッチで口に詰め込まれるサンドイッチを見下ろしながら、わたしは言った。

「わたしがこうやって立っていればカメラには映らないから」

 山本くんは頷き、最後のパンを飲み込んだ。濡れたシャツにくっついたパン屑をつまみ、ビニール袋の中に捨てる。雑に床へ払ったりしないその丁寧さに、わたしは好感を抱いた。

「ごめん、ちょっと飲み物買ってくる」と彼が言った。

 わたしは頷き、それから少し悩んだあとで、彼の隣の席に腰を下ろした。さりげなく、慎重に、自分の荷物を引き寄せる。

 山本くんが選んだのは、アイスのカフェオレだった。コーヒーとミルクがちょうど半分ずつ混ざった、淡い色合いの飲み物だ。

「ありがとう」

 席に戻り、山本くんはお礼を言った。

「助かったよ。普段はここまでの道で食べちゃうんだけど、今日はこの天気だったから……」

「だと思った」

「ぼく、そんなに怪しかったかな」

「ちょっとだけね」

 わたしは微笑んだ。

「あなたのこと、何度かこのお店で見たことがあるの。たぶん、同じくらいの年だし、いつか話してみたいなと思っていたから、覚えてた」

「そうなんだ」彼は苦笑いして、目を逸らした。

「えっと、それでね。あなた、いつも同じ席に座っているでしょう。あっちのカウンター席。ここに来る人って大抵そうで、みんな自分の定位置があるの。でも、今日はそこに座らなかった。真っすぐ個室ブースの方に行ったよね。そこが埋まってるってわかるとがっかりして、少し迷ったあとで、この席を選んだ。でも、その前に一瞬あれを確認したよね?」

 わたしはモニターを指差した。画面が分割され、四つの監視カメラの映像がそれぞれ流れている。

「あのモニターを見れば、四台のカメラがどこを映しているのかがすぐわかる。当然、どこが死角かってことも。で、一番わかりやすい死角が……」

「この席」彼は頷いた。「でも、本当は違うんだね?」

「うん。ちょっと観察すればわかるんだけど、ここには明らかに四台以上のカメラがあるの。流れている映像は四つだけだけど、それは全部じゃない。当然、この席を映しているカメラもある。だから、ちょっとまずいかなと思って、声をかけたの。このお店、基本的には食事の持ち込み禁止だしね」

「すごいね、まるで名探偵だ。ええっと……」

「高橋」わたしは名乗った。「高橋優子」

「そっか。ありがとう、高橋さん」

「どういたしまして、山本くん」

 わたしの言葉に、彼は困ったような笑みを浮かべた。

「ひょっとして、ぼくの名前も推理した?」

「ううん。これはただの観察」

 わたしは答えた。

 ノートのことは言わなかった。

 

(つづく)