その日から、わたしと山本くんは友達になった。友達、という表現は少し大げさかもしれない。ただ、毎朝同じ店で隣に座って、短い時間おしゃべりをする。そんな関係だ。

 山本くんは毎朝六時五十分にお店に来て、必ずアイスのカフェオレを買った。晴れの日も雨の日もアイスカフェオレだった。一方のわたしは雨の日も晴れの日も味のしないアイスコーヒーを買っていて、そんなわたしの行動を〈約束された無意味さ〉への依存だと山本くんは評した。意味はよくわからない。彼くらいの年頃の男子は、そういう持って回った言い回しを好むのだろう。

 わたしと違って、彼は勉強のためにこの店に通っているわけではないようだった。たまにルーズリーフを出していることはあったが、大抵はカフェオレを片手に文庫本を読んでいた。日本の小説を読んでいることはあまりなく、カタカナの作家がほとんどだった。そして読んでいる本の大半が暗く、陰鬱な話だった。

 たとえば、彼が特に好きだと教えてくれた『リスボン発、午後八時四十分』はこんな話だ。

 今年で五十歳になる高校教師のプラドは、ある日不幸な偶然によって見ず知らずの男を死なせてしまう。慌ててその場から逃げ出し、リスボン発の夜行列車に飛び乗った彼は、けれどその状況に奇妙な解放感を覚える。列車を下りたプラドは、自分を知る人間が誰もいない街でまったく別の名前を名乗り、新しい暮らしを始めるが、そこでも人を殺してしまう。再び列車に乗り、次の街を目指すプラド。殺人と逃亡を何度も繰り返しながら、彼は当てのない旅を続けていく。

 物語の言わんとすることはわかる。中年を過ぎ、人生に行き詰まっていたプラドは、人殺しになったことで初めてしがらみから自由になる。全てを捨てて逃げ出したことで、何者でもない人間になれたのだ。その一時の解放感を忘れられず、殺人を繰り返すことになる。逃げるため、逃亡者となるためだけに、彼は人を殺し続けるのだ。

「もしかして」とわたしは訊ねた。「こういう本ばっかり読んでるから、ここに来てるの? 家族に知られたくないから?」

「半分は、そうかな」

 彼は笑って、カフェオレを一口飲んだ。ひどく暑い日だった。七月で、夏休みが近づいていた。夏休みの間も彼がこの店に来るのか知りたかったけど、それを口にすることはできなかった。

「色々あってね。ぼくが本を読むこと自体、家族は快く思っていないんだ。学校で読んでもいいんだけど、落ち着ける場所がなくてさ」

「それは……、そうなんだ」

 何て声をかけてあげるべきなのか、わからなかった。どうやら思っていたよりも、複雑な家庭事情があるらしい。わたしも本を読むのが好きだから──読むのは人の死なない「日常の謎コージー・ミステリ」ばかりだけど──彼の置かれた境遇には、何だか同情してしまった。

 でも、とわたしは思った。どうして、このお店なのだろう。彼の学校はここから少し離れているし、話を聞く限り家が近いわけでもないらしい。

〈ユアセルフ〉が入っているのは、十階建てのマンションの一階部分。当然、利用者にもマンションの住民が多くなる。わたしもその一人だったが、山本くんはそうではない。正直、あまり繁盛している店ではないし、近所でもないのにここの存在を知っている方が珍しい。だとすると……。

「山本くん、もしかして青アカに通ってる?」

 彼は本から顔を上げ、こくりと頷いた。

 やっぱりだ。青葉アカデミーは、このあたりでは有名な予備校の一つだった。わたしは通っていないけど、もちろん存在は知っている。ここから歩いて二分ほどの場所に建っている特徴的な形のビルがそれだ。授業が始まるまでの時間潰しに、夕方この店を使っている学生たちも多い。

 でも、山本くんは早朝のこの時間にしか、〈ユアセルフ〉には来ないらしい。予備校に通う他の生徒に会いたくないのかもしれない。あまり友達がいないとか……。

「何か失礼なこと考えてない?」

 わたしの視線に気づいた山本くんが鋭く言った。ううん、と慌てて首を横に振る。

「言っておくけど、ノートを貸し借りする友達くらいはいるからね」

「何人?」

ひと……、二人」

 山本くんは恥ずかしそうに苦笑いして、文庫本に視線を戻した。やっぱり、人付き合いが苦手なのだろう。とはいえ、わたしも他人のことは言えないけれど。

 世の中には二種類の人間がいる。自分のことを好きな人間と、嫌いな人間だ。自分を好きでいられる人間は大抵社交的で、友達も多い。相手に負い目を感じずに済むからだ。

 自分が嫌いな人間は違う。人間関係は、いつだってマイナスからスタートする。自分が存在するだけで、他人の気分を害するかもしれないという可能性が、いつも心のどこかに付きまとって離れない。でも、だからこそ他人に優しくあろうとするのだ。

 わたしと山本くんは、たぶん似ている。自分のことが嫌いで、どこかに逃げ出したくて、だけどどこにも逃げられない。

「ねえ」ふと気になって、彼に訊いた。「山本くんの友達って、どんな人? ひょっとして、わたしと似てたりする?」

「高橋さんに? どうして?」

「だって、わたしも山本くんの友達だから……」

 自分で言っていて恥ずかしくなり、わたしは思わず目を逸らした。

「ごめん。図々しかったね」

「いや」彼は真っすぐにわたしを見た。「驚いただけ。ありがとう」

「ありがとう?」

「友達になってくれて」

 天井のファンがからからと回る。暑い、とわたしは思った。

「あのさ……。山本くんって、変なところで素直だよね」

「ぼくはいつでも素直だよ」

 嘘つき。わたしが笑うと、山本くんも微笑んだ。

 

 夏の終わりに、一度だけお店の外で彼と会ったことがある。

 酷暑を生き延びた蝉たちがようやく鳴き始めた、蒸し暑い夕方だった。道はひどく混みあっていて、浴衣姿の若者たちがあちこちではしゃぎ回っていた。

「ユウちゃんは」

「ちゃんづけ止めてってば」

 隣を歩く里紗に、わたしは言った。このところ、彼女は何故かわたしを「ちゃん」付けで呼びたがる。むず痒いし、子ども扱いされている気分になるからやめてほしいと、そのたびに言っているのだけど。

「ユウは」里紗は言い直した。「今夜の花火大会、行かないの?」

「やめとくよ」去年と同じ答えを返す。「人混み、苦手だし……。里紗は?」

 答えはわかっていたけど、一応訊く。コミュニケーションってそういうものだ。

「ん、彼氏と行く。たぶん」

「だよね」

 知っていた。わたしの幼馴染は、わたしが名前も顔も知らない男の子と花火を見に行く。友達同士で無邪気に夜空を指差していた頃とは、何もかもが違うのだ。

「まあ、わたしは真っすぐ帰るよ。弟に怒られるし」

「祐樹くんが? どうして?」

「たぶん、女の子と約束してるんじゃないかな。家族にばったり会うのが恥ずかしいんでしょ」

 わたしは素っ気なく言った。弟が「男」になっていく様を見せられるのは、かなり複雑な気持ちだった。

「カレシがいないんだから絶対来るなって言われた」

「ひどい」里紗はくすくす笑った。「じゃ、やっぱり行かない方がいいね」

 里沙の家の近くの交差点で、彼女と別れる。一度家に戻ってから、彼氏との待ち合わせ場所に向かうらしかった。念入りにシャワーを浴びて歯磨きをして……、そんなところだろう。

 一人になると、周囲のざわめきがさっきよりもずっと大きく感じられた。賑やかな場所は苦手だ。自分がひとりぼっちだってことを、強く思い知らされるから。

「高橋さん」

 とつぜん、聞き覚えのある声がした。びっくりして顔を上げると、私服姿の山本くんがそこにいた。シンプルなポロシャツが、ちょっとだけジジ臭い。

「久しぶり。帰るとこ?」

「えーっと、ううん」わたしは嘘を吐いた。理由は自分でもわからない。「ちょっと散歩。駅前の本屋さんに行こうと思って。山本くんは予備校の帰り?」

「うん。駅に行くところ」

「そっか」

 そのまま、自然と二人で駅に向かう流れになった。駅の方角から押し寄せるたくさんの人をかき分けて歩く。二人ぼっちのモーセみたいに。

「混んでるなあ」と山本くんがぼやいた。

「花火大会なんだよ」

 わたしは教えてあげた。「この後、八時から」

「そうなんだ」

 一緒に見に行く? とは言われなかった。わたしも言わなかった。わたしたちは二人とも夜空に背を向けていて、その限りにおいて並んで歩くことができた。

 女の人の怒鳴り声が頭上から聞こえてきたのは、見慣れたマンションの前に差し掛かったときのことだった。買い物袋を提げた年配の女性が、顔をしかめながらベランダの方向を見上げる。

「またか」思わずため息がこぼれる。

「知ってる人?」

「うちのマンションの佐々ささやまさん。同じ階に住んでるの。旦那さんと仲が悪いらしくて、毎日ずーっと喧嘩してる。顔は見たことないんだけど、窓が開いているから声がよく聞こえるんだ。魔の三階って呼ばれてるんだよ、うちの階」

「他にも誰かいるってこと?」

「うちの弟」

 わたしはますます深いため息を吐いた。山本くんはちょっとだけ笑って、それから言った。

「高橋さんは、嫌いなんだね。喧嘩とか、そういうの」

「喧嘩っていうか……。誰かが怒っているのを見たり、聞いたりするのが苦手なの。別に、自分が怒られてるわけじゃなくても。自分が誰かに怒るとか、考えただけで無理だし……」

「静かにしてほしいって頼んでみたら? 同じ階なんでしょ」

「うん……。でもさ、きっと何か事情があるんだよ。あれだけ毎日喧嘩しているんだもん」

「そうかな」山本くんは釈然としないようだった。「事情があったとしても、高橋さんには関係ないでしょ。困ってることには変わりないんだし」

「それはそうだけど……」わたしは首を振った。「でも、やっぱり大事だよ。想像力っていうかさ。相手にも何か事情があるのかもって、考えてみるの」

 わたしは前方から駆けてきた小学生の一団をかわし、見慣れた夕暮れの街に目を細めた。太陽が沈み、家々の光が夜の中に増えていく。作りかけのプラネタリウムみたいだった。

 昼と夜が混じり合った時間のなかを、二人で進む。

「想像力って?」と山本くんが訊いた。

「うーん、たとえば、コンビニのレジでひどい対応をされたとするでしょ。そういう時に、ただ怒るんじゃなくてまず考えるわけ。この人はどうしてこんな態度をとるんだろう。何か事情があるのかも、って。昨日恋人と別れたのかもしれないし、家族の介護で疲れてるのかもしれない。少し前に理不尽なお客さんの対応をしてくたびれているのかも、って」

「なんだか、探偵みたいだね」彼は笑った。

「そう。優しい探偵。別に正解する必要はないんだ。推理すること自体に意味があるっていうか……。みんながそうできれば、今よりずっと優しい世界になるでしょ」

「優しい世界?」

 山本くんは足を止めた。信号が赤だった。

「それは無理だよ」

「どうして」

「優しさっていうのは、相対的なんだ。みんなが優しくなったら、また別の新しい優しさと、優しくなさが生まれる。そうやって、優しさの基準がどんどんインフレして、一部の人間だけが優しさを独占する社会が維持される。人間が自分の優しさを意識するためには、優しくない人間がどうしたって必要なんだ」

「……意地悪」

「一部の人間が優しさを独占する世界より、みんながそれぞれに優しかったり、優しくなかったりする世界の方が、ずっと平等だと思うけどね」

 信号はまだ赤だった。行き交う車の音を聞きながら、わたしたちは互いの隣に釘付けにされていた。

「優しい人間は嫌い?」わたしは訊ねた。

「まさか」彼は答えた。「好きだったよ」

 それがどういう意味なのか、わたしは訊き返すことができなかった。

 信号が青に変わり、わたしたちの夏が終わる。

 山本くんの秘密を知ったのは、それから二か月後のことだった。

 

(つづく)