「あの人、何してるんだろう?」

 それは、彼を文化祭に誘った翌日のことだった。普段と違い、正面に座った山本くんに顔を寄せ、わたしはそう囁いた。

 その朝の〈ユアセルフ〉は、いくつかのことが普段と異なっていた。まずは席。わたしたちはいつもの丸テーブルではなく、店の奥のボックス席に二人で向かい合って座っていた。丸テーブルの方に先客がいたせいだ。山本くんと正面から向かい合うのは初めてで、少し新鮮な気持ちになる。

 そして、店内中央の長テーブル。常連のおじさんから少し離れた場所に、一人の女性が座っていた。年齢はたぶん三十代半ば。奇妙なのは、彼女が何もしていないということだった。少し前にお店に入って来て、飲み物も買わずにただじっと座っている。手元のスマホにすら視線をほとんど落とさず、そわそわと落ち着きのない様子で店内を見回していた。

「どっちの話?」と山本くんが言った。

「どっちって?」

「あの女の人? それとも入口近くの女子高生?」

 山本くんは、わたしたちがいつも座っていた席を指差した。そこにいる彼女のせいで、わたしたちはこの席に追いやられたのだ。まったく、迷惑なことをしてくれる。

「高校生じゃない方」とわたしは答えた。「長テーブルに座ってる女の人。変じゃない? どうして、飲み物を買わないんだろう」

 無人カフェという名前がついてはいるが、この店の実態はワーキングスペースだ。勉強、仕事、読書、その他なんであれ、皆が何かの作業をしている。手持無沙汰にのんびりしているという人はまずいない。友達同士でお喋りをしているところさえ、ほとんど見かけないくらいだ。実際、わたしと山本くんがお喋りしているときに、常連のおじさんが嫌みっぽく咳払いをしてきたこともあった。

 それに、飲み物を買わないというのは、自販機の三百円が入場料代わりになるこのお店では御法度だ。たとえ短時間の利用であっても、必ず飲み物を購入するよう、わざわざ目立つ位置に注意書きも貼ってある(そうでないと、公衆トイレ代わりに使う人が後を絶たないからだろう)。

 飲み物を買わず、スマホすら見ていない女性の姿は、早朝の店内で明らかに一人浮いていた。

「それならあっちの女の子も……」言いかけた彼の声が途中で途切れる。「ああ、いや。今、買いに行くところか」

「うん。普通はそうするよね」

 でも、あの女性はそうしていない。

「何か困っているのかな」わたしは言った。「お店の使い方がわからないとか……」

「不倫相手と待ち合わせかも」

 またそういうことを言う。わたしはさらに顔を寄せて声をひそめた。

「ねえ、勝負しない? あの人がどうして飲み物も買わずに座っているのか。その理由を考えるの」

「……想像力?」

「そう」わたしは頷いた。「山本くんが勝ったら、一週間分のカフェオレを奢ってあげる」

「君が勝ったら?」

「文化祭」とわたしは言った。「いっしょに回って」

 山本くんはしばらく躊躇ったあとで、諦めたようにゆっくりと頷いた。わたしも彼に頷き返す。顔を近づけ、囁き合うわたしたちは、遠くから眺めればきっと恋人同士に見えただろう。

 

 さて。

 わたしはまず、問題の女性──わたしたちは便宜上、花子さんと呼ぶことにした──をじっと観察した。この位置からだと、壁の柱が邪魔になるせいで、かなり身を乗り出さないとよく見えない。やりすぎは禁物だけど、向かいの席には山本くんが座っているから、彼と話している風を装えば、そこまで怪しまれないはずだった。

 まず目につくのは、彼女が着ている花柄のブラウスだ。かなり古風な雰囲気で、ほとんどレトロと言ってもいい。ロングのスカートも似たようなセンスだった。角度的に足元はよく見えなかったけれど、きっと靴も似たようなものだろう。よほど好きなのか、テーブルに置かれたスマホ(かなり大きめ)のケースも花柄で統一されている。うっすら茶色がかった髪が肩まで伸び、神経質そうな手つきで何度も前髪をいている。手荷物の類はなさそうだった。ご近所さんなのかもしれない。

「山本くん」わたしは囁き声で訊ねた。「花子さんの顔、そこから見える?」

「うん。結構な美人だね」

「美人?」彼がそういう言葉を使うのが意外だった。「山本くんの好みってこと?」

「いや。客観的な評価」

 わたしは小さく鼻を鳴らした。まあいい。いくらなんでも、彼があの女性に惹かれているという可能性はないだろう。あまりにも年が離れすぎている。グルーミングと区別のつかない恋愛ごっこにうつつを抜かすほど、彼が愚かだとは思えなかった。

 花子さんはといえば、相変わらず動く気配がなかった。まずは飲み物を買う、というこのお店のルールを知らないのだろうか? いや、それはないだろう。何しろ、彼女の正面に注意書きが貼られているのだ。気づいていないはずがない。

 さらに身を乗り出したところで、彼女の顔がこちらを向いた。慌てて柱のかげに身を隠す。かえって怪しかったかも、と後悔したが、彼女は特にこちらに気づく様子もなく、周囲をきょろきょろと見回していた。

 ひょっとして、誰かを捜しているのだろうか。でも、早朝のカフェはガラガラで、店内にいるのは彼女を除けば四人だけ。その中に、花子さんの相手がいるとは思えない。唯一、可能性があるとしたら常連のおじさんだけだが、彼はひそひそ話をしているわたしたちのことが気になるらしく、小さな舌打ちを繰り返していた。

 そもそも、誰かを捜しているのだとしても、飲み物は普通に買えるはず。きっと、買えない理由が何かあるのだ。そして、飲み物を買えないにもかかわらず、お店を出るわけにはいかない理由が。

 山本くんの方に目を向ける。彼はテーブルにいつものルーズリーフを出しているところだった。

「何してるの?」

「いや。数学の課題。今日の午後までなんだけど終わってなくて」

「勝負は!」

「ああ、高橋さんはゆっくり考えてていいよ」

 ぼくはもう出来たから、と彼は言った。わたしは目を丸くする。わたしの提案から、まだ五分くらいしか経っていない。焦ったような気持ちで、再び花子さんに視線を戻す。

 相変わらず変化はない。彼女はテーブルのスマホを手に取り、自分の正面にかざして、再びテーブルにそれを戻した。

「ねえ」ふいに、山本くんがわたしに訊ねた。「友達とは仲直り、できたの?」

「……ううん」

「早く仲直りした方がいいよ」

「わかってるけど、消えないの。心から」わたしはため息を吐いた。「友達に言われたことが。気を抜くと、すぐに思い出しちゃって、ダメになる。誰かを好きになったことがないくせに、って」

「そうなの?」

 山本くんは言った。ふざけてるのかと思ったけど、大真面目な顔だった。やっぱり、ちょっとずれている。

「まさか」わたしは首を振った。「あるよ、好きになったこと。山本くんは?」

「あるよ」

 彼は答えた。やり取りはそれで終わり、気づまりな沈黙がわたしたちを包んだ。

「とにかく、仲直りはした方がいいよ。友達は大切だし、幼馴染は特に貴重だ。人生で一度しか現れないんだから」

「山本くんが言ってもあんまり説得力がないけど……」

「一応、ノートを貸し借りするくらいの友達はいるよ」

「そんなの、わたしだって……」

 言いかけた言葉が、途中で消える。頭にひらめくものがあった。

 貸し借り(、、、、)。昨日の朝の出来事が鮮やかに蘇る。視界の端をおじさんがゆっくりと横切っていくのが見えた。

 わたしは席を立ち、スマホをテーブルに置いたまま自販機の方に向かった。おじさんはちょうど二杯目の飲み物を買い終わったところだった。カップを手に取り、振り返る。

 あっ、と言う間もなかった。おじさんの腕がわたしにぶつかり、冷たい液体がブラウスの袖にかかる。アイスティーだった。染みになりそうだけど、コーヒーよりはマシだな、という冷静な考えが頭に浮かぶ。

「す…すみません」

 おじさんは申し訳なさそうに頭を下げた。どうしたらいいのかわからず、情けない顔でうろたえている。わたしは相手を安心させるように微笑んだ。

「いえ、こちらこそすみません。気にしないでください」

「しかし……」

「袖にちょっとかかっただけですし。家で着替えるので平気です」

「はい……。本当に申し訳ありませんでした」

 何度も謝りながら、おじさんは席に戻っていった。さすがに居づらくなったのだろう。パソコンを閉じ、買ったばかりのアイスティーを流しに捨てて、そそくさと店を出て行く。たぶん、しばらくは気まずくてお店に来られないだろう、とわたしは思った。

「うまく避けたね」

 わたしが席に戻ると、山本くんはにやっとして言った。

「これ見ても、そう言える?」

 わたしはすっかり染みになってしまったブラウスの袖を彼に見せた。クリーニングに出しても完全に消えるかどうかは怪しいところだ。

「ちょっと洗ってくるね」

「家で着替えてきたら? この上なんでしょ」

「他のブラウス、洗濯中なんだよね……」

「ジャージとかは?」

 わたしは首を振った。確かに、ジャージの上とスカートの組み合わせで通学している子も多いけど、わたしには理解できなかった。みっともない、と思ってしまう。それに、山本くんと一緒に過ごすこの時間を、なるべく無駄にしたくなかった。

 お手洗いに向かう途中に、小さな掲示板があった。近くの予備校の宣伝や、世界一周旅行のポスターが貼りだされている。その中に、一際シンプルな貼り紙があった。二週間前にとつぜん掲示されたお知らせの紙。

 ──閉店のお知らせ。

 無人カフェ〈ユアセルフ〉は来月半ばに閉店する。

 そうなったら。

 わたしたちの関係は、いったいどうなってしまうのだろう。

 

 

 カフェオレは不思議な飲み物だ。

 コーヒーにミルクが入っているわけではなく、ミルクにコーヒーが混じっているわけでもない。コーヒーとミルクがちょうど半々になった時だけ、コーヒーでもミルクでもない、新しい名前を与えられる。

 食べ物や飲み物には山ほど名前をつける一方で、わたしたちが自分の気持ちを言い表す言葉はびっくりするくらい貧弱だ。

 恋と友情が半分ずつ混じった気持ちは、いったい何と呼べばいいのだろう。

 期待と不安が半々になった気持ちは?

 嘘と本音が混じりあった言葉は?

「どっちから話そうか」

 お手洗いから戻ってくると、両手を組んだ山本くんが待っていた。

「それともまだ時間が必要?」

「ううん」わたしは首を横に振った。「いつでもいいよ。わたしから話す?」

「どうぞ」

 山本くんは微笑んだ。わたしはぐっと顔を寄せて、話し出す。

「まず気になったのは、あの人がどうして飲み物を買わないのかってことなのね」

 わたしが小声で囁くと、山本くんは頷いた。誰もが疑問に思う点だから、彼にも異論はないだろう。

「単に飲み物代を節約してる可能性もあるけど……、それはやっぱり考えにくい。あの人、さっきから何もしてないもの。トイレにさえ行ってない。お店のルールを破ってまで、椅子に座ってぼーっとしたいっていうのは、可能性としては低いよね。つまり、彼女には何か、飲み物を買えない理由があるってことになる。じゃあ、それは何か?」

 わたしは女性に気づかれないように、こっそり彼女を指差した。

「ここの自販機は電子マネーにしか対応してないから、スマホがなければ基本的に飲み物は買えない」

「クレジットカードは? そもそも、彼女はスマホを持っているように見えるけど」

「カードは持ってないんじゃないかな。財布が見当たらない。服にポケットはついてないし、ハンドバッグとかもないでしょ。たぶん、スマホだけサッと持って来たんだと思う。他のお客さんでも、たまにいるでしょ、そういう人」

「なるほど。それで、スマホの方は?」

「うん」わたしは頷いた。「確かにスマホは持ってる。でも、持ってるだけで使えない状態だったとしたら? 要するに、電池切れだよ」

 いくらスマホがあっても、バッテリーがなければ何もできない。きっと、夜に充電したつもりで、ケーブルが抜けていたのだろう。近所に住んでいて、ここまで歩いて来たのなら、気づかなくてもおかしくはない。

「でも」と山本くんが言った。「電池切れでスマホが使えないって気づいた時点で、普通は店を出るものじゃない?」

「ここが普通の喫茶店なら、そうだね」

 だけど、違う。ここはそういう店ではないのだ。

 普通の喫茶店では、飲み物にお金を支払う。コーヒー、紅茶、カフェオレ、ケーキ……。商品はあくまで飲食物で、座席はそれを消費するためのスペースに過ぎない。

 でも、〈ユアセルフ〉はそうではない。支払うのは、コーヒーの代金ではなくスペースの利用料だ。わたしたちは店内に入った時点で、入場料代わりに飲み物を買うことを義務づけられている。それが、ごく短時間の利用であっても。

「普通のお店なら、コーヒーを買わずに店を出ても無銭飲食にはならない。でも、ここは違う。お店のルールを文字通りに解釈するなら、ここの椅子に座った時点で、お金を払う義務が生じる。何も買わずにお店を出ることは許されないってことになる」

 たとえ椅子に座った後で、スマホの充電が切れていることに気づいたとしても。

「いやいや」

 山本くんは苦笑した。「そんなの、一旦店を出て充電器でも買いに行けばいいだけじゃない。店側だって事情を話せばわかってくれる。そこまで真面目にルールを解釈して、動けなくなる人間がいると思う?」

「ここにいるけど」

 わたしは自分を指差した。

「ああ」山本くんは困ったような、呆れたような顔をした。「まあ、高橋さんはそうかもね……。だけど、あの女性が君と同じタイプだっていう根拠は?」

「そうじゃないって証拠は?」わたしは言い返した。「それに、いつまでも動けないってわけじゃない。状況を打開する方法はちゃんとある。あの人もそれがわかっているから、チャンスを待っているんだと思う」

「わからないな。ぼくたちからスマホを借りるとか?」

「山本くんなら貸してあげる?」

「……高橋さんなら、貸してあげるんじゃない」

 まあ、そうかもしれない。でも、見ず知らずの人間からスマホを借りるのは、かなりハードルが高いだろう。何かの詐欺かと怪しまれてもおかしくない。

「逆に聞くね。それじゃ、山本くんは何なら貸してあげられる?」

 わたしの言い方に、彼もピンときたようだった。

「……充電器のケーブル」

「そう」わたしは頷く。「このお店には、全ての座席にコンセントがある。長時間利用の人も多いから、誰かが充電ケーブルを持っている可能性は高い。モバイルバッテリーは現代人のたしなみだしね。十分くらい充電すれば、多少は電池も回復するし、飲み物も買える。一番現実的な解決法だよ」

「それなら、彼女がまだ動かない理由は……」

「今、このお店にいるのがiPhoneユーザーだけだから」

 スマートフォンの充電端子には、大きく分けて二つの種類がある。iPhoneに使われているのがライトニング・ケーブルで、それ以外のほとんどの機種はタイプCと呼ばれるものを使っている。一方のための充電ケーブルは、もう一方には使えない。花子さんの持っているスマホは、大きさから判断しても、明らかにiPhoneではなかった。つまり、充電端子はタイプC。一方で、わたしも山本くんも使っているのはiPhoneだから、わたしたちの充電ケーブルは彼女のスマホには使えないということになる。

「ついでに言うと、あのジャージの子もiPhoneだよ」

「最新型……、ってことはないか。十万以上するもんね」

 先月発売されたばかりのiPhone15はシリーズの中でも例外で、唯一タイプCの充電端子を採用しているらしい。とはいえ、発売されてまだ一か月も経っていないし、価格も十万円以上するから、高校生が持っている可能性は低いだろう。

「成程。つまり、君の考えによれば、あの女性はiPhone以外のスマホを使っている人間が来るのを待っているわけだ」

「うん。ちなみに、その必要はないんだけどね」

 わたしはバッグの中から自分の充電ケーブルを取り出し、彼に見せた。ライトニングとタイプCの二股ケーブル。半年前に父が中国土産に買ってきてくれたものだ。

「もう少し経って、他のお客さんが誰も来なかったら、声をかけてみるつもり」

「やめた方がいいと思うけどな」

 山本くんは肩をすくめた。

「そう? じゃあ、山本くんの話を聞かせてよ」

 わかった、と彼は言った。

「さて──」

 ぶるり、とスマホが震えて、里紗からのメッセージを伝えてきたのはその時だった。

 

(つづく)