5
以来、占いの小部屋「ゆうなぎのユリア」には、定期的に予約が入ってくる。
最初のお客は「club燦燦」の従業員の女性たちだった。ママに紹介されたから、という理由でやってきた彼女らは、他人から享楽的に見られがちということも含めて、それぞれに悩みを抱えていた。将来の不安、健康の不安、恋人への不満、離れて暮らす家族との関係。以前勤めていた会社の同僚たちが持っていた悩みとほとんど変わらない。いや、同僚たちよりもずっと、不安定な暮らしを嘆いている。
わたしは彼女たちの背中を押す。
今はつらくても人生は好転する。チャンスを逃しては駄目です。しない後悔よりする後悔を。わたしは当たり前のことしか言っていないのに、タロットカードが出してきた答えだと受け入れられるようだ。
前向きに、前向きに。そうすれば道は拓ける。
売れないミュージシャンのカレシをこの先も支えるべきかという相談に対してだけは、一考をうながすことを伝えたけれど。
わたしが彼女たちを励ます方向でカードを切ったおかげか、次は、彼女たちの友達がやってきた。その次は、さらにその友達たちが。
わたしはこれまでと同じ姿勢で占っている。なのにどうして今回は勢いがあるのか。
それは彼女たちが塊でやってきたからだ。バラバラの口コミではなく口コミが口コミを呼び、どんどんと拡散してくれる。
ようやく、わたしは予約の取れない占い師になったのだ。
最初の売り上げを使って、すぐさまベールを豪華にした。黒地に紫色と銀色の刺繍を施したものだ。水晶玉占いはしていないけれど、雰囲気作りとして背後に水晶玉を置いた。
予約と予約のすきま時間に、功おじさんがコーヒーを淹れてくれた。そして言う。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし、だな」
「なにそれ」
「在原業平、知らないのか?」
「知ってるよ。中学だか高校だかで習ったもん。けどそれが、なに?」
「世の中に桜というものがまったくなければ、春を過ごす人の心はさぞのどかでありましょうにね、って意味だ。自家製のサクラがなくなって、友里の心は穏やかになりましたねえ」
功おじさんはニヤニヤと笑っている。
「嫌み? その意味なら、それ、桜を讃える歌だよ」
「嫌みじゃないよ。友里ががんばった結果だし、うちの店も売れ行きが上がってるよ。喫茶も古本も両方な」
占いまでの待ち時間に、喫茶を利用するお客が増えた。本を買ってくれる人もいる。もっとも最初は外見の派手な女性ばかりやってきていたから、功おじさんは目を白黒させていたっけ。
「とはいえ、禍福は糾える縄の如しだ。いいことの次には悪いことがやってくるから、足をすくわれないようにな」
「わかってる。でもこんなの初めてのことなんだもん。少しは浮かれさせてよ」
「それはそうだな」
そう言われたところで、次のお客の時間が近づいた。わたしは占いの準備に入る。
「予約をした板垣やよいです。少し時間が早いけどいいですか」
二十代半ばで、おとなしそうな雰囲気の女性だった。服装はオフィスカジュアル、安く済ませたいのかプチプラでまとめている。会社員時代のわたしもこんなかんじだった。
「はい。はじめましてユリアです」
「……はじめまして、ではないんです。以前、オンラインで一度お願いしました。でもここのところは、オンラインをやってないんですね。それで遠かったけれど、思いきって来てみました」
そういえば名前に覚えがある。画面越しだったからさほど印象に残っていないけれど、兼光さんの前に占っていた人だ。
「ごめんなさい、たしか転職のことで相談をなさった方ですね。今、少し忙しくてオンラインのほうを休んでいるんです」
「嬉しい。思いだしていただけたんですね。あれから私、ユリア先生の言葉を胸にがんばっているんです。それで今回なんですけど、そのぉ、恋というかまだそこまでではないっていうか――」
持ってまわった話し方ではじまった今回の相談は、恋愛についてだった。熱烈にアプローチをかけてくる相手がいて、少し気になりかけているという。
だったら占いなど求めずに、心のままに突き進めばいい。
自分に自信のある人は、そう思うだろう。だけど自信のない人は自分の気持ちにさえ不安を感じるものだ。この気持ちは本物なのか、なにかに目を眩まされていないか、この先を進んでいいものか。いろいろ考えすぎて、最初の一歩が踏み出せない。
前回も一度行っていたが、占星術と姓名判断で板垣さんの全体像をつかむ。このふたつは名前を変えない限り変わらないので、使う言葉は多少変わるけれどベースは同じだ。
画面越しでは伝わらなかった板垣さんのようすも、直接会ってよくわかった。
典型的といっていいほど自分に自信を持てない人だ。ホロスコープからみて生まれつきの部分もあるけれど、勤めている会社で幾度も気持ちを折られてきたことがわかった。傷つきやすくかつ悪いほうに受け取りがちで、言動が萎縮している。先日は、しばらく今の職場でがんばってみるよう勧めたけれど、早めに転職したほうが板垣さんのためになるのでは。
とはいえ今回の主題は恋愛だ。相手の名前を聞き、板垣さんの名前との相性を見る。
――よくない。
姓名判断の基となるのは文字の画数だから、調べようと思えば素人でもある程度わかる。嘘がつけない……いや、盛れないのだ。こういうときは、婉曲な言い方で結果を伝えることにしている。お互いがお互いを大事にする気持ちがあれば、共に歩むための努力が必要で、などとやんわりした表現にした。
「もしもですよ、もし結婚したら……運勢は変わりますよね。私のほうが彼の苗字にすると思うんですが」
板垣さんはうっとりした表情だ。少し気になりかけている、なんて言っていたけど、すっかり惚れ込んでいるじゃない。
「板垣さんが彼の姓になったら、ですねえ……」
――これまたよくない。
姓の最後と名の最初の文字の画数を合計して性格や人間性などを見る「人格」が凶だ。すべての文字の合計で人生全体を総合的に見る「総格」も、そこから人格の数を引いて対外関係などを見る「外格」も、悪い。
とはいえ元々の名前、「板垣やよい」の「人格」も、凶だ。そこは同じまま。
「今と……同じですね」
わたしはそう答えた。
「同じ? 変わらないんですか」
「ええ。ただ板垣さんの姓のままがよりいいでしょう。先祖から受け継いだ板垣という姓、『天格』は吉なんです。よい苗字です。相手にとってもよい変化になります」
わかりました、と板垣さんがほほえんだ。実は天格は先祖からの影響を示すもので、個人を見るものではない。とはいえ唯一のよい材料は、積極的に押しださねば。
それではと、本番のタロットカードに移る。
自信を持てない板垣さんを励ましたい。この人をポジティブにしたい。
そのきっかけになるのはやはり、好きな相手との仲が深まることだろう。
恋愛運は今、盛り上がりを見せている。勇気を出して相手に飛びこんで、などと、つとめてよいカードを出した。仕事についても、そろそろ転職先の目星をつけたほうがいいとアドバイスする。
板垣さんは嬉しそうに幾度もうなずき、ユリア先生のおかげですと手を握ってくる。
帰りぎわ、功おじさんがコーヒーはどうかと勧めていたけれど、時間がないのでと板垣さんは帰っていった。功おじさんは姓名判断のできる人だから、少しほっとした。結果をストレートに教えられかねない。
数ヶ月ほどが過ぎた。
占いの小部屋「ゆうなぎのユリア」はこれまでにも増して賑わっている。それというのも、青山に分院を出した野島さんの歯科医院の売り上げが良いからだ。予定外だったそうだが院長の病気により閉院した歯科医院のあとに居抜きで入る形となり、お客、いや患者もごっそりいただくことができたという。すごいなユリア先生、あんたの占いがここまで当たるとはな、なんて言って花を送ってきた。患者にも宣伝してくれたようだ。
偶然とはいえ、正直、怖い。
いや、わたしがびびってどうする。もっと名を上げて、一過性ではない人気をつかまなくては。
人間は流行りものに弱い。だから潮が引くように、別の占い師に流れることがある。そんな例はいくつも見てきた。禍福は糾える縄の如しと、功おじさんも言っていたけれど、福から禍の状態になったときに持ちこたえられるようにしておかないと。
6
「正直、気に入らないのよね。どうして野島に有利な占いのカード、出しちゃったのよ」
カウンターに身体を預けながら、兼光さんが口を尖らせている。突然「ゆうなぎ」に現れて占いの空き時間にわたしを呼び出し、愚痴を連ねてきた。
「どちらに分院を出すべきか、それが野島さんのカードへの問いかけでした。だからよいほうをカードに決めてもらいました。それだけです」
「あなたの予約も、全然取れないってうちの子たちも言ってるしさあ」
「すみません」
わたしは軽く頭を下げる。
「VIP枠みたいなのはないの?」
「考えます。……あの、お話は小部屋のなかで」
「別に、占ってもらいに来たわけじゃないもん。コーヒーを飲みにきたの。美味しいですね、ここのコーヒー」
兼光さんが、カウンターの内側にいる功おじさんに流し目をする。おじさんがそれを受けて静かに笑った。
「コーヒーを持っていきますから、あちらでお話をしましょう」
「ケーキもつけてくれる? そこのレアチーズケーキ、ブルーベリーが敷いてあって美味しそう」
兼光さんがウインクを寄越してきた。
改めて占いの小部屋で兼光さんと向かい合う。
「喫茶店は一般のお店なんです。誰がやってくるかわからないところで、プライバシーにも関わる占いの話はできませんよ」
「そうねえ。いかさまの話なんて聞かれたら大変だものね」
「いかさまではありませんよ。兼光さんの依頼を手伝っただけです。分院を出す場所は一切の細工をせずに占っています」
誓って本当のことだ。わたしの実力だ。
「ものは言いよう。……やだ、睨まないで。ごめんね、ちょっと苛立ってるのよ。だって、痛い目に遭わせたつもりの野島が儲かってるなんて、悔しいじゃない」
「めんどうは嫌だから、復讐されたとは気づかせずに掠め取りたかったんですよね。野島さん本人は痛い目に遭ったとは思ってませんよ」
「そうねえ。計画が甘い……いえ、あたしが優しすぎたのかしら」
「兼光さんご自身が被害を受けたわけじゃないじゃないですか。お名前は伺わないままだったけど、独身だと騙されてたのは、以前いらした従業員さんでしたよね」
「かわいがってた子だし、店に必要な子だったのよ。それを傷つけて、あいつだけウハウハで。気に食わないわよ。これは義憤なの。いっそ不幸になってほしいじゃない」
たしか兼光さん、星座と姓名判断から、一度こうと決めたら諦めない意志の強さを持っている、と出ていた。なにより蠍座は、執念深さではナンバーワンの星座だ。
「人の不幸を祈るのは、よいことではありませんよ。いずれ自分に跳ね返ってきます」
そう言うと、凄む目を見せてきた。
「そんな誰でも言いそうなことを言われてもねえ。いろんなものが跳ね返った結果が今の自分ってこと? あたし、いろんな人を、不幸になれって思ってきたけど、充分幸せにやってるわよ」
わたしは占いに来た「club燦燦」の従業員の女性たちから、兼光さんの情報を得ていた。二代目ママとは、言葉どおりママの二代目で、先代の娘だという。会社員をする傍らお店も手伝っていて、先代の引退で代替わりとなったそうだ。一度結婚したけれど、離婚して今は独身。いつ代替わりをしたのか、なぜ離婚したのかといった細かい部分を知る人はいないとか。起伏の多い人生のようだけど、それを不幸ととらえない人もいる。占いという心の薬が要らない、前向きな人なのだ。
「兼光さんが今、幸せなら、それはいいことだと思います。以前言っていらした、気になる相手ともうまくいってるんですね」
「気になる相手って?」
兼光さんの口がぽかんと開く。
「最初にお見えになったときに言ってらした方です」
「あれは作り話よ。野島を騙すためにあなたを探りにきただけ。なあに、あなた、すべてわかったような顔してうちの店にやってきたのに、そこは疑ってなかったの。おめでたいわね、純粋ちゃん」
「それは失礼しました」
笑顔で応えながらも、内心では腹を立てていた。なんなんだこいつは。だいたい、なにをしにきたんだ。嫌みだけ言いにきたわけじゃないだろう。
気持ちが伝わったのか、兼光さんはにやりと笑う。
「でさ、ものは相談。もう一度、野島を占ってよ。それで不幸に導いてほしいんだけど」
「占いは呪詛じゃありません。そんな占いはできませんよ」
「呪えとは言ってない。野島、株をやってるんだって。だから大損する銘柄を、さぞ儲かるように吹きこんでほしいわけ。これなら溜飲も下がるってものよ」
「嫌ですよ。なによりわたし、株はわかりません」
「あたしが教えるから言うとおりにすればいい。店のお客に詳しい人がいるの。その情報を回すから」
「できませんって。なにより野島さん自身が、取引する株を占いで決めたいと思ってここにこなければ、占いようがありませんよ」
「患者として近づいて引っかければいい。あたしがやったみたいに」
「矯正にもホワイトニングにも興味はありません。そんなお金もありません」
兼光さんはなかなか折れない。できる、できない、と同じ話をぐるぐる繰り返したあと、兼光さんが腕時計を見て舌打ちをした。開店準備があるから帰るという。わたしもまた、占いのお客の予約が入っている。
「もしこの先誘導してほしい人がでてきたら、あなたは協力する、それが最初の約束だったはず。忘れないでよ。あなたがいま儲かってるのは、全部あたしのおかげなんだから」
捨て台詞を吐いて、兼光さんが出ていった。それにしても、どうして野島さんにこだわるんだろう。
その夜、お客がすべて帰ったあとで、功おじさんがわたしを喫茶店のカウンターに呼んだ。
「あの兼光って女性はなにものなんだ?」
「ほかのお客さんを紹介してくれたお客さん。……クラブのママさん」
功おじさんが、わたしの目をじっと見てくる。
「彼女はよくない顔をしているぞ。意味はわかるな?」
「美醜の問題じゃないってことだよね。おじさん、顔相も見れる人だったっけ」
わたしは笑った。はぐらかしたかったのだ。
「占いじゃなく、年の功として見たんだ。あの女性は人を騙そうとする目をしている。目は口ほどにものを言う、だ。口のほうも次第に尖り、遠からずゆがむだろう。政治家の顔がだんだんとゆがんでいくだろ? ああいうのと同じだ。早く手を切ったほうがいい」
「お世話にもなったからすぐには」
そう言うと、功おじさんはうつむいた。けれどすぐに顔を上げて話しだす。
「友里には悪いと思ったが、気になったので話を聞いてしまった。彼女の指示で、ノジマという人を騙そうとしている、いや一度は騙したんだな? それはよくないことだ。友里ならわかるだろう」
「わかってる。だから断ったんだって。そこも聞いてたよね」
自分の恥部を見られた気がして、身体が熱くなった。
「ああ。なにを言われても断り続けるんだ。俺が表に立ってもいい。彼女を店に入れないようにする。いいな?」
「……いいけど、でも」
「でも、じゃない。友里はおまえの親から預かってる娘だ。俺が守る必要がある」
功おじさんの真剣な表情に、申し訳なさがこみあげてきた。
「でも、ってのはね。兼光さんと扉を挟んで押し合いっこしたら、おじさん負けるかもよ、その細い腕じゃ。って言いたかっただけ」
「なにを言うか。俺が持つのはコーヒーポットだけじゃない。古本だ。本は重いんだぞ」
功おじさんがシャツの袖をめくって皺々になった腕を曲げ、上腕にわずかな筋肉のふくらみを見せた。わたしはありがとうとうなずく。
でもそれはむずかしいかも、あの人執念深いから。
ごまかしたけれど、それがさっき言おうとしたことだ。
兼光さんからの連絡は、翌日遅くに、電話で入った。
「依頼したい占いがあるんだけど」
「昨日も申しあげましたが、野島さんを占う件はお断りします」
わたしの返事にかぶせるように、スマホから明るい笑い声がやってくる。
「それはもういいの。ほら、たまにあるじゃない。企業の偉い人が神がかりで会社の方針を決めるとかいう話。あんなふうなことができないかなって思ったわけ。今回は別件」
「別件?」
「たいしたことじゃないわ。あなたも一度占ったことがあると思う、うちの女の子よ。どうやら別の店に行きたいみたいなの。それを止めてほしい」
そうか。これはドア・イン・ザ・フェイスだ。最初に大きな要求を提示し、できないと断られたあと小さな要求を提示する。言われた相手が、その程度ならできる、さっきは断って申し訳なかった、と思う気持ちにつけこむ交渉術だ。
野島さんにこだわっていたわけがわかった。彼の成功への憤りは見せかけの大きな要求で、先につなげたかったのだ。
「でもその人が別のお店に行きたいと考えるには、それなりの理由があるんじゃないですか? 占いの結果でどうこうなるものじゃないと思うんですが」
「理由はお金よ。あの子の判断基準はいつもお金。今の報酬に不満があるのよ」
吐き捨てるような声だった。
「だったらアップをなさっては」
「そのつもりよ。でもただアップするだけじゃ足元を見られるじゃない。占いの結果、留まってみようかなと思い、実際にそうしたらアップした。これなら自分の選択が正しかったって、納得して続けるでしょ」
たしかにそれはそうだ。
「迷いはあるみたいで、ほかの子にも相談しててね。この話はその子からの情報。だからその子からあなたのところに行くよう勧めてもらうつもり。よろしくね」
「わかりました。ただ、条件があります」
「条件?」
「誘導に協力するのはこれきりです。もともとは兼光さんが勝手につけてきた約束です。それを解除するのが条件、どうですか」
「……あなたねえ」
「嫌ならこの案件もお受けできません」
なんだかんだ言っても、わたしが占わなければ話は進まないのだ。
ふん、と鼻で嗤うような音が聞こえた。
「わかったわ。女の子の名前は谷口明音。キャンセル待ちでもなんでも受けなさいよ」
命令口調で告げられた。でもいい。これで功おじさんが諭してきたように、兼光さんと手を切ることができる。