第1章
【1】今日はひきずりの日
信号が点滅していた。
セーラー服姿の私はツンと上を向きながら、堂々と横断歩道を歩いていく。
私のすぐ横で、ずらりと顔をそろえる車が、今にも走り出そうと得意気にエンジンのうなり声をあげている。なかでもせっかちな運転手が窓から顔を出し、警笛を鳴らした。
でも信号はまだ青だ、無視してやる。
先に渡っていた久美ちゃんと合流すると、たちまち大量の車がフライング気味で走り出した。次々とんでくる排気ガスをくらった久美ちゃんは、ハンケチを口にあて苦しそうな咳をする。慌てて彼女のそばに寄ると、私たちは歩道の奥へ避難した。
「通勤の人かな、自家用車っていうの? ……急に増えたよね」
久美ちゃんがハンケチの下からそう言った。彼女は気管支が弱いのだ。
「うん」
私はムカムカしながら道路の方へ目を向ける。名古屋人のせっかちな運転はきっと、いつか、悪名高いものになるに違いない。
少し前までまりつきやメンコ、ホッピングなどで遊んでいる子供の姿が見られたのだが、交通事故が増えたせいだろう、――なかには亡くなった子もいたと聞いている。近頃、道路で遊ぶ子供の姿をめっきり見なくなってしまった。
「市電」と呼ばれ親しまれている路面電車は、ハンガーに似たパンタグラフを頭上に乗せ、道路を我がもの顔で走りまくる自動車に遠慮しながら、コトコト走っていく。
まったく、私は市電が気の毒で仕方がない。車に乗った人たちは市電先輩に遠慮するということを知らないのだろうか。
「碧ちゃん、すごい目してるよ。三角形の目」
ハンケチを当てたままの久美ちゃんが、自分の目尻をついと指であげた。慌てて表情を直す。でも気持ちはなかなかおさまらない。
「だって市バスもあるんだし、最近は地下鉄だってどんどん路線を広げてるんでしょ? そんだのに張り切って自家用車に乗るってどういうこと?」
「名古屋の人は新しいものが好きなんだよ。それにみえっぱりだから」
「久美ちゃんだって名古屋の人じゃない」
「私は名古屋の人より、大須商店街の子って言われるほうが嬉しいな」
「それ、私も賛成」
歩くたび、私のおかっぱ頭の横のツンとした切っ先が頬の横でゆれる。わずらわしいの
で右も左も耳にかけてやる。
久美ちゃんはきれいにお下げ髪を結んでいる。彼女は生地屋と仕立て屋が二軒並んだ「一色洋服店」の娘さんなので、髪型を工夫するといった手作業が得意だ。
そういえば先日の体育の着替えの時間、久美ちゃんは既製品店では見たこともない、目もさめるようなピンク色の毛糸のパンツをはいていた。たぶん自分で店にある毛糸を指定し、彼女のお母さんが機械編みでこしらえてくれたのだろう。久美ちゃんは私よりおとなしい子だが、服の趣味は主張が強い。
「碧ちゃん、ほら怒らないで。もうすぐくるよ花電車」
花電車と聞き、私のアンテナがピンと立つ。私たちは大須商店街からほど近い市電の停車場へ急いだ。
「大須」と書かれた看板の立つ停車場には、すでに子連れのお母さんや学生たちが、わくわくした様子で一列になって待っていた。みんな花電車を見にきたのだろう。
道路のなかほどにある停車場は、細長いかたちに地面が盛りあげられているだけで柵がない。そんな狭いところを小さな子がちょろちょろと走りまわっているものだから、今にも車の進路へ飛び出しそうで怖かった。母親は背中の赤ちゃんをあやしつつ、必死に首を伸ばし、花電車がくるのを待っている。
「お子さん、危ないですよ」
と久美ちゃんが声をかけたとき、動きまわっていた子が停車場の端でよろけた。
――あッ!
私は反射的に身を乗り出し、子供の腕をつかんだ。引き寄せると、その子の重さが一気にのしかかる。パーンと責めるような車の警笛が響いた。
「死にたいかッ、味噌樽に閉じ込めたるぞ!」
「なんでだッ、おまえがとばしすぎだろうが!」
子供を抱えたまま後ろに倒れ込むと、私の声に驚いたのと、引っ張られた腕も痛かったのだろう。たちまち腕のなかの子は泣き出してしまった。
すみません、ごめんなさいと頭を下げてやってきたお母さんを見ると、どうやら女中さんのようだった。年は私より少し上の十六、七歳くらいだろうか。
女中さんが泣きやまない子に囁いた。「ほら、もうすぐチンチンが来るよ」
車のさわがしさのなかに、チンチンと鐘の音が混じると、子供はぴたりと泣くのをやめた。あたりが薄闇に染まり、自動車がぽつぽつとライトを点け始めた頃、百メートルほど先を曲がってきたのは、造花と電球でたっぷり車体をかざった一両の市電――花電車だった。
キャラメルの箱のような車両が時速三十キロほどで、ゆっくりレールの上を走ってくる。ピンク、黄色、オレンジ、緑、白……なんの統一性もない極彩色の造花は灯りに照らされ、発光しているようだ。
あまりのまばゆさに喜びの声があがった。久美ちゃんと私も色めき立つ。
けばけばしい配色は左右を走る車の最新のデザインに比べ、少しまぬけな感じがする。車体の腹には「昭和三十四年/第五回名古屋まつり」という看板が貼り付けられ、新聞社の名前も書かれていた。
つまり花電車はなにかを宣伝するために走らせるものなのだが、それ以上に単純に私たちを楽しませようという、そぼくな雰囲気にあふれていて、私などは毎回そのサービス精神にやられてしまうのだった。
チンチンとまた鳴って、車両はきしむ音をたてながら私たちの前に停まった。
私は感激の鼻息を洩らし、その場で足踏みしながら叫ぶ。
「乗りたい、花電車に乗ってみたい!」
思わず後方の乗り口へ走った。しかしロープが張ってあるので乗れない。チンチンと鳴った。もう出発しますよという意味なのだろう。
ゆっくりと停車場を離れていく花電車。にぎやかな光の洪水をなびかせ、自家用車のあふれる夜の道路をコトコト、ゆらゆらと走っていく。
その後ろ姿が小さくなるまで満足な思いとともに、停車場のみんなと見送った。
隣にいた若い女中さんは子供の手をにぎりながら、震えるような表情で涙を浮かべている。私と目が合うと、粉を吹いた傷だらけの手で目尻をぬぐい、恥じらいながら言った。
あんまりにもきれいだから、どうしてか涙が出て……、救われます。
二つの大型ちょうちんを彩るネオンのなかにはそれぞれ、「大」と「須」の字がぴかぴか光って大須。――そんなわかりやすい電光看板の下を、私たちは毎日くぐって学校へ行っている。
大須商店街は入り口もなかも花電車の姿に負けていない。
にぎやかで、派手で、なんの統一感もない店がごっそり並んでいるさまは少しまぬけでほっとする。花電車、大須の街なみ。それらのまぬけさに私は何度救われたことだろう。隙があるのはいいことだ。その隙間はたくさんの人を受け入れてくれる。もちろん私も受け入れてもらったうちの一人だ。
名古屋市内の大通りぞいは自家用車がやたら増え、背の高いビルもどんどん建っている。
だけど長方形のかたちで区切られたなかに、何本もの通りが縦横に走る大須商店街は昔とあまり変わらない。いや、もしかしたら数百年といった長い目で見れば変わっているのかもしれない。
でもやっぱり、昭和二十年九月二十六日、戦後生まれの十三歳である私の目には特別な変化はないように映る。
いつでも人と活気にあふれ、店は夜でもこうこうと灯りを放って営業中。チンドン屋とすれ違ったり、色っぽい服を着たおねえさんが男の人と腕を組んで歩いていたり、かと思うとそのすぐ横をランドセルを背負った小学生が駆けていき、家の軒先ではおじいさんが将棋を指していたりする。
昭和三十四年の今、射的場やパチンコ、居酒屋やキャバレーなど、あらゆる娯楽施設が大須にはそろっている。なかでも今いちばんの集客を誇るのが映画館だ。成人向けも含めると大須内に十四軒ある。どこも連日超満員。二本、三本立ては当たり前。立ち見まで出るほどの盛況ぶりだ。
映画館に客が入ればそのまわりにある店――既製服店、美容院、家具屋、食堂、たばこ屋、酒屋、喫茶店などにも客は流れてくる。だから店の多くは夜十一時くらいまで開いている。
二年前から商店街の各通りにアーケードが設置されるようになったのだが、あと数年もしたら全部の通りにかけられるという。すると雨の日も関係なく集客できるというわけだ。
街の中心ともいえる寺院「大須観音」は戦争で全部焼けてしまった。それから十四年たった今も予算が集まらず仮本堂のままだ。しかしその境内でさえも、モツ煮や古本屋、みせもの小屋などの店がひしめき、商売をする人のたくましさを見せつけられる。
来る者拒まず去る者は追っかける。楽しければなんでもあり。子供の教育上よろしくない……なんて細かいことは二の次で、どんな店も拒まない。大須が「ごった煮の街」といわれる理由はそこにある。
ちなみに、そんな街で育ったせいか、私は映画やおしばいが大好きだ。お母さんや他の大人をさそって観にいくと、私は暗くなるまで同じ映画を何度でも観ているものだから、とちゅうで相手が帰ってしまう……なんてことはしょっちゅうだ。
まだ六時だが酔っ払いが千鳥足で歩いていた。迷惑そうに男を避けた久美ちゃんが私の二の腕を引っ張って聞いてくる。
「ねえ、なんで碧ちゃんは花電車に乗りたいの? 花電車って見物するものでしょ? さっきいた人たちだって新聞にのった時刻表を確認して、わざわざ見にきてたくらいだし」
「そうなんだけど。……私ね、花電車の上から一度、大須の街を見てみたいと思ってるんだ」
えー、と洩らした久美ちゃんだったが、ふと表情が変わった。
「わかった。碧ちゃん……そんな無理しなくても大丈夫だよ。人生に一度は思いっきり注目されるときがあるから」
私が首をひねると、「お、よ、め、さ、ん」と嬉しそうに言った。
「結婚するときはね、トラックにめいっぱい花嫁道具をつんで、移動するときはイヤってくらい注目されるから。別に花電車なんか乗らなくたっていいんだってば」
どうやら久美ちゃんはド派手な名古屋の花嫁行列のことを言っているようだ。
「違うよ。人からちやほやされたいとか、注目されたいから乗りたいんじゃないんだってば。私の将来の夢言ったよね。映画とか舞台の監督だよ」
「女優さんじゃなくって?」
「ううん」と私は首を振る。「女・黒澤明みたいな感じ」
「……ふーん、よくわかんないけど。それだったら普通の市電にでも乗ればいいんじゃない?」
「市電は普段から乗ってるもん。花電車は一般の人は乗れないでしょ? きっと市電とは全然違う世界が、花電車の足元には広がってるんだよ。だって、さっきの若い女中さん見た? すごく嬉しそうだった」
「それは単純に見てきれいだからじゃないかなあ」
私たちは角を曲がった。平屋の家から夕食の香りが漂ってくる。
「ただきれいなだけじゃ、だめなんだよ。ぱっと見てきれいなだなっていう人と、見ているうちにぐっと惹きこまれて思わず涙があふれてしまうくらい魅力がある人と、違うじゃない。きっと花電車にはたこの吸盤みたいな強い力があるんだよ。乗ってみたらきっとその秘密がわかると思うんだ。その秘密を私は知りたいの」
「へえ。映画監督ってよくわからないけど……。普通の人と違う考えでものを見ることが求められるのかな?」
「うん。たぶん私、花電車に乗って、街や人の姿を別の角度から見てみたいんだと思う」
でも、私が「監督になりたい」と言ったら、ある人に言い返されたことがある。
――監督はなるもんじゃない、結果的に行き着くもんだ。
久美ちゃんのお父さんが電柱の前に立っていた。背広姿のにこにこしたおじさんといった風情の人だが、彼は腕のいいテーラーだ。
「遅くなってごめんなさい。碧ちゃんと花電車を見ていたの」
「すみません、私のせいで」
久美ちゃんのお父さんはきれいに整えた頭髪を照れくさそうに撫でた。
「いやいや、責めてるわけじゃないんです。うちの店は夜は暇だから、迎えにきただけですから」
彼は久美ちゃんのお母さんより十歳上の再婚相手だ。久美ちゃんの実のお父さんは彼女が生まれる前に戦死したのだという。
さようならと言って、老けたお父さんと歩き出した久美ちゃん。ともに暮らしてから五年以上たったとはいえ、まだお互いに気遣う気配が残っている。
久美ちゃんのお父さんが振り返った。
「そうだ、野坂さん。さっき富江さんとすれ違ったんですけど。早く帰ってくるようにって言ってましたよ」
すっかり忘れていた。今日は二ケ月に一回あるひきずりの日だった!
「ありがとうございます。おやすみなさい」
鞄を肩にかけると慌てて駆け出した。商店に群がる人々のかたまりを右に左に避けながら、暖簾の出ている銭湯の前を通りすぎ、さびたトタン屋根をかぶった長屋が密集している一画に走り込んだ。
手前の長屋の前で足に急ブレーキをかける。舗装されていないから土ぼこりが舞った。
「帰りましたッ」
引き戸を開けると小さな玄関があり、その先一段あがったところが六畳間。ここは居間を兼ねた食堂兼台所でもある。和服に割烹着姿の富江さんは奥で夕食の仕込みをしているようだった。彼女は私の住んでいる長屋の大家さんで今年還暦を迎えたばかり。
裸電球の下では、紅玉さんがちゃぶ台をふいていた。
「ひきずりの日に遅れるなんてめずらしいね」
長い髪を後ろで束ね、ひざ丈のシュミーズそっくりのスカートにカーディガンを羽織った紅玉さんは、ふき終わったちゃぶ台にお椀を四個並べ、卵を割り入れている。彼女は少し面長の庶民的な美人さんだ。
私はごまかすように笑い、鞄を置いて座布団に座ろうとした。
「碧、手」
富江さんから注意が飛んだ。私は小さな洗面台で手を洗い、戻ったところで富江さんから切った野菜などを乗せた皿が渡される。ねぎ、焼き豆腐、しいたけ、春菊、……かんじんのものがない。
「その服かわいいね」
「これ、何回も使った衣装なんだ。ここのスパンコール、自分で縫いつけたんだけど、だいぶ取れちゃった」
紅玉さんはカーディガンのボタンを開けて見せてくれる。豊かな胸の谷間を鱗のようなスパンコールがおおっていた。
「舞台ではこう、横のチャックをすーッと開けてやらなきゃいけないんだけどさ。なんだか動きが悪くなっちゃって。だからこの服、現場は引退させてやったの」
「チャックの動きが悪いときは蝋燭をすり付けてやればいいのさ」
「さすが富さん、長いこと生きてるだけあるね」
紅玉というのはストリップをやるときの源氏名だそうだ。本名は別にあるようだけど、誰も本名では呼ばない。ストリップの仕事もひっくるめて彼女自身であると認めているからだ。
遠くから下駄の音が近付いてくる。それが家の前で止まると、スパンッと勢いよく引き戸が開いた。
全身黒ずくめの男――山高さんが前かがみになって入ってくる。
「ちいせェんだよ、この家は入口が。茶室かよ」
「小さくて悪かったね。文句言う前におまえがそんな下駄はかなきゃいいんだよ」
富江さんはそう言いながら鍋を持ってくる。
山高さんは背が高い。その上、山高帽をかぶって高下駄をはき、黒マントを羽織っているから、さらに大がらで異様な感じがする。本名は山田隆というらしい。
下駄を脱ぎマントを外すと気流し姿だ。ちゃぶ台に手をかけて座ろうとする彼に、「山高、手。それに帽子も」と富江さんの声が飛んだ。
うるせェなあとこぼしながら手を洗い、戻ったところで富江さんに袂から出した巾着袋を渡していた。たぶんかんじんの材料の「かしわ」が入っているはずだ。
山高さんは持参した一升瓶の封を開け、コップに注いで紅玉さんと乾杯をする。
「碧、おまえも飲むか」と山高さん。
「いらない」
前に飲んだとき、あっという間に目がまわりひどい思いをした。お母さんは酒が強いが、どうやら私は弱い体質らしい。
切ったかしわが運ばれてきた。皿に乗ったざくろ色の身には黄色い脂がからみついている。
富江さんは熱した鍋でまず鶏の脂身を焼いた。そこへかしわを並べ、砂糖をまぶし醤油をまわし入れる。
じゅッと醤油の焦げる匂い、脂が溶ける香り。それらが湯気とともに充満する。富江さんは火の通ったかしわを三個の椀に投げ入れると、次に野菜や豆腐を並べていく。
「碧、ほら、ちゃっと食べやあ」
「いただきます」
と、手を合わせた。箸で卵をからませ口に放り込む。きゅっと鳴るような歯ごたえとともに、甘い脂が口じゅうにまわった。「うみゃあ」と、紅玉さんが幸せそうな顔をする。
「コーチンだからな。わかるか碧? まだおまえには早いんじゃねェか?」
「わかるよコーチンの味くらい。これが本物のひきずり鍋だ」
「ナマ言いやがって」
山高さんは私の頭をげんこつでぐりぐりした。
彼は眉がりりしく目鼻立ちがはっきりした男前である。五十を超えているおじさんだが、無声映画の時代は顔もひっくるめて人気弁士だったというのもよくわかる。今はなにをしているかというと、劇団「地下」の監督・演出家兼脚本家、大須商店街の仕掛け屋、自警団と称する怪しげな集団を率いるボスと、……いろいろ陰で活躍しているらしい。
ちなみに私は山高さんが監督した舞台を一度見たことがある。十八歳以下は入場禁止というものだったが、特別に見せてもらった。……内容はグロテスクで、エッチで、アダルト向け。劇団「地下」というだけあって、明るいところでおおっぴらにやれるようなものではなく、私にはまだ早いというか難しく感じられた。山高さんいわく「前衛的」「アングラ」という種類で、大人のファンは多いようだ。
「山高、あんたこのまえ変な女に追いかけられてたね」
と紅玉さんが言った。
「変な女じゃねェ。あいつは俺の財布だ」
「また女にツケ払わせてんのかい? いったいどういう……」
「子供の前だよ」
富江さんのひと声で紅玉さんが黙った。
「ん?」
私は箸を止めると耳をひそめた。
あッ、うう~ん、アシャーッ、あふ~ん、と、さかった猫のような声がする。
「猫のケンカかな?」
富江さんを見ると、彼女は小さな目のついた顔をゆがめ、ぱんと箸を置いた。襟足に湿布を貼っている。
「少し前に入ってきた役所勤めの若夫婦だよ。まったく、ダンナの稼ぎが少ないからって早い時間からあれさ。朝だってうるさくって仕方がない」
「あれって?」
私が聞くと誰も答えない。紅玉さんは平然と鍋にかしわを追加する。
猫の声に艶めかしい気配が強まると山高さんが腰をあげた。
つかつか入口へ行って下駄をはき、戸を開けて表に出るとドスのきいた声で、
「おいッ、うるせえぞ! 子供だっているんだ、ばかやろう静かにしろ!」
と怒鳴りつけた。たちまち水を打ったように静まり返る。
「ぼろい長屋なんだぞ! わかってんのか? やるんなら朝も夜もなあ、ここの長屋の壁の厚さに合わせた声でやれ!」
スパン、とまた戸が閉まる。……ったくよう、とボヤきながら戻ってきた。
「ぼろくて悪かったね」
と富江さん。山高さんは耳をほじると思いついたように言う。
「ところでなあ紅玉。昨日の振り付けだが、おまえ、足を広げるときはもっとこうゆっくり広げろよ。見てる客の気持ちも考えずにびしッとやり過ぎなんだよ、びしッと。Vの字じゃねェだろそこは。シンメトリーよりエロスはアシンメトリーにありだ。もっとこう客のスケベ心を引きつけてだなあ」
「子供の前だよ」
今度は紅玉さんがさえぎった。
私は、無精ひげのはえた顎を不満気に撫でている山高さんに目をやった。ストリップの演出もやっているなんて、まさにごった煮の象徴のような人だ。