「20年、30年先の日本はどうなっているのか?」AIの進化による人間の“仕事からの解放”や深刻化する少子高齢化、若者の海外流出、そして移民問題。難題が山積の我が国の未来を予測する論説が今注目を集めている。経済小説のトップランナーとして数々の傑作を世に送り出してきた楡周平氏が『限界国家』と題して描くのは、まさに限界へと向かう日本の姿。文筆家・情報キュレーターとして知られる佐々木俊尚氏がその本質を読み解く。
■『限界国家』楡周平 /佐々木俊尚 [評]
日本人のだれもが薄々気づいているが、とりあえずは見ないことにしている不都合な真実の数々がある。それを本書は真正面から書いている。人口が減り、地方の街は消滅していき、働き手が少なくなって産業を維持するのが難しくなっていく。いっぽうでテクノロジーの進化はもの凄い勢いで進み、職業のライフサイクルは短くなり、AIやロボットに人間の仕事は最終的に奪われていく。
本書はそのような日本の未来を「限界集落」ならぬ「限界国家」と名づけ、日本という国そのものが限界を迎えようとしていることに鋭く斬り込んだ警告の小説である。
本書で語られていることには、冷酷なまでの数字の裏づけがある。たとえば日本の将来の人口。厚生労働省は人口動態調査をもとに将来推計を発表しており、2023年(令和5年)の推計によると、日本の人口は2070年には8700万人に減少。高齢化も進み、65歳以上の人口割合は2020年の28.6パーセントから2070年には38.7パーセントにまで増加するという。
これに伴って、働き手の人口も大きく減少してしまう。15歳から64歳までの生産年齢人口は、1995年の約8700万人がピークでその後減り続けている。現在は7千万人あまりだが、2050年には5300万人弱にまで減ると予測されている。こんなに減ってしまって、産業が本当に維持できるのだろうかと驚愕するばかりの予測である。
高齢者と生産人口の比率を見ると、さらに苦しくなる。1950年には65歳以上の高齢者1人に対して、生産人口は20人だった。つまり1人の高齢者を20人の現役世代で支えていたということだ。しかし現在はこの比率が高齢者1人に対して、現役世代が2人。さらに2070年になると、高齢者1人に対して現役世代は1.3人にまで減ってしまう。1.3人で1人を支えるという異様な構図である。現在のような高齢者医療や介護は成り立ちうるのか。暗澹とせざるを得ない。
この暗い未来を食い止めようと、政府は少子化対策に躍起になっている。さまざまな省庁に分散していた少子化の政策を一元化するため、2023年にこども家庭庁を発足させた。
しかし出生数の低下は目を覆わんばかりで、2024年に生まれた子どもの数は608万6000人あまりと前年より4万人以上減り、統計を取りはじめて以降初めて70万人を下回った。戦後間もないころに生まれた「団塊の世代」の出生数が年間約270万人だったことと比べれば、驚くべき減少ぶりである。
この現状に、年間予算が7兆円以上もあるこども家庭庁への批判も強く、「莫大な予算を投下しているのに、少子化にまったく効果が出ていないではないか」などとインターネット上でも散々に言われている。とはいえ、この批判が的を射ているかどうかは判断が難しい。なぜなら、もし少子化対策に予算を投じなければ、出生数は今以上に減少していた可能性も捨てきれないからだ。
加えて少子化対策にはロールモデルがない。世界中どこを探しても、だ。いっときは欧州の出生数が上向きに転じていた時期もあったが、その後はおおむね減少に転じている。出生数上昇の背景には、1990年代に中東やアフリカからの移民の急増があったとみられている。しかし移民の定着の結果、彼らも欧州の文化に同化して出生数も減少していったということのようだ。
少子化はさまざまな要因がからんでいる。子どもを育てる環境が整っていないことや、結婚さえできない貧困層が増えていることなども原因だが、そもそも工業化・都市化が進んで女性の権利が向上すれば、結婚や出産を選ばない女性が増えてくるという根本的な要因もある。だから「こうすれば必ず子どもが増える」という正解は、今のところ地球上のどこにも存在しない。世界人口はまだ増加基調だが、アフリカや中東の経済成長が進んで都市化が完了すれば、いずれは少子化に転じる。国連の世界人口推計2024年版は、2080年代に世界人口は103億人でピークアウトし、その後は人口減少に転じると予測している。
つまるところこれは、壮大な「撤退戦」なのである。軍事用語としての撤退戦は、被害をできるだけ減らしながら、できるだけ有利な状況を維持しつつ退却する戦術のことをいう。撤退戦に輝かしい勝利はなく、どんなに頑張っても少なからず被害は出るので、批判されやすい。少子化対策もこれと同じ構図である。つまり出生数の減少をできるだけ食い止めつつ、人口減少に耐えていくしかないということだ。劇的に人口が増えて万歳! というゴールを期待するのは難しいのだ。
このような「撤退戦」は、いまや日本社会のさまざまな局面に顔を出している。テクノロジーに人間の仕事が奪われていく問題もそうだ。本書では「職業寿命」が短くなっていくということが指摘されている。
「職業寿命?」
「技術の進歩はこれから先もすさまじいスピードで進む。今は有望とされている仕事でも、20年後には過去の仕事になっていても不思議じゃないんだと……」
職業寿命が短くなっていく問題を解決するには、ここで言われている「過去の仕事」に就いていた人たちを、別の新たな仕事に就かせることが必要になってくる。これを労働問題の専門用語で「労働移動」という。転職や就職、定年後の再就職などで人が別の仕事へと移動することである。
過去にも労働移動は何度となく起きている。たとえば戦後の高度経済成長期には、農村や漁村にいた若者たちが集団就職で都市に移動し、工場などで勤務するようになった。第一次産業から第二次産業への労働移動が大規模に起きたのである。1990年代には、第三次産業の隆盛や非正規雇用の増加などで、労働移動は再び増えている。
現在の労働の分布を国勢調査から見ると、第一次産業が200万人弱、第二次が1300万人なのに対し、第三次が4000万人と圧倒的に多い。また同じ第三次産業の中でも労働移動は起きている。たとえば2000年代の出版不況で、出版社からインターネット業界に人材が移動し、紙媒体の編集やデザインをしていた人たちがウェブメディアに携わるようになるということが起きた。
今後、AI(人工知能)などのテクノロジー進化が加速していく中でも、こうした労働移動がなめらかに進むかどうか。新しいスキルを身につけ直し、変化に対応するという意味の「リスキリング」が盛んに言われているが、そう簡単ではない。たとえば古い営業スタイルに慣れきって仕事をしてきた中高年社員が、いきなりDX(デジタルトランスフォーメーション)の仕事に就けと言われても難しいだろう。
現代のテクノロジーの中でも、最も進化の著しいAIは、マイクロソフト・エクセルやパワーポイントなどのオフィスツールを使って行うさまざまな雑務を人間の手から奪いつつある。このような雑務をAIが担ってくれれば産業全体の生産性は上がることが期待できるが、雑務を奪われた人たちがどこに労働移動すればいいのかという新たな頭の痛い問題が浮上してくる。AIが進化すればするほど、人間の手にのこるのは経営判断などきわめて高度な業務ばかりになっていき、そういう高度な仕事をこなせる人材はそう多くはないからだ。
つまりテクノロジーの進化をテコにして前に進もうと思えば、必ず取り残されてしまう被害者が出てくる。「誰一人取り残されないデジタル化」は日本のデジタル庁の理念だが、この理念を貫き通そうとすれば、「撤退戦」的な戦いにならざるを得ない。ここには大きなジレンマが隠れている。
このジレンマの問題を見事に象徴しているのが、本作の終盤で展開される若きベンチャー経営者・根本誠哉と、老いたフィクサー前嶋栄作の対話である。
根本の会社は日本人にこだわらず世界中から人材を集め、しかも正社員を雇用せず、事業のプロジェクト単位で人を動かすシステムによって最先端のビジネスを展開している。規模の小さな日本市場は相手にせず、世界市場を狙うという。そしてこう言い放つのだ。
「人口減少を心配するなら移民を受け入れたらいいだけの話じゃないですか。でも、それはダメだって言うんでしょう? いまさら、日本人が何人も子供を産み始めるわけがないのに、だったらどうしろって言うんですか?」
それで日本の文化や伝統が消滅するのなら、それでも構わないのではないかと根本は嘯くのである。
本作は、日本人に向けて「そのような覚悟はあるのか?」と突きつけてくる。根本のような考えはひとつのあり得る可能性だが、それで日本人の全員が幸せになれるわけではない。しかし「誰一人取り残されない」を追い求めようとすれば、いずれは敗退する宿命の長くつらい戦いを強いられることになる。
この厳しい二択を、われわれはどう受け止めればいいのだろうか。そういう困難きわまりないテーマを、本作は物語のかたちをとって強く提示しているのである。