現在(承前)

 

 夕焼けが水平線に溶け込む中を能代港に入港する漁船に偽装する被疑船は、予約していた岸壁に係留された。操舵室から五十がらみの船長の男が岸壁に飛び乗った。そしてキャップのつばを反対側に回して辺りへ目をやった。すっかり日が落ちて人気もなかった。

 その光景を双眼鏡で観察していた秋田県警組織犯罪対策課の警部は眉間に皺を寄せた。この現場を海上保安庁から任されていたが、受け取り側が誰も現れないのだ。異変を感じた警部は強行措置をとることを決断した。それもこれも、何かが妙だ、と感じたからだ。

 突然、眩いハロゲンライトが被疑船を真昼のように浮かび上がらせた。直後、十台のパトカーにつづいて大量の捜査車両が突進してきた。

 紙のタバコを燻らす船長はニヤニヤしてその光景を見つめていた。

 船長を聴取したのは県警の警部だった。

 船長は自分はタイ人だとして名前を名乗った後、「何事ですか?」と尋ねる警部を見回してニヤつきながら聞いた。

 甲板の荷物の任意提出を求めたところ船長は二つ返事で応じた。荷物は、これまで薬物密輸で使われてきたのと同じタイプのパッケージだった。鑑識課員がミニスコップ型の道具をパッケージの隙間から突き刺して中から少量の白い粉を抜きとった。すぐに試験管の中に入れて試薬での検査を始めた。数分経っても色が発生しなかった。

 鑑識課員は警部に向かって力なく左右に頭を振った。

「シュガー! シュガー!」

 船長が笑いながら声を張り上げた。

 

 

 ミニバンから降りたって千葉県の勝浦漁港にゆっくりと歩み寄った水無瀬は、そのまま岸壁に飛び移り、沖へと延びるコンクリートの細い道の手前で二人の部下をハンドサインで止まらせた。

「装備! 弾倉確認!」

 水無瀬は拳銃の据銃と発射態勢をとることを命じた。先ほど情報班から、被疑船の甲板に武装した者たちが存在することをシーガーディアンが捕捉したとの情報があったからだ。彼自身も、上着の裾を大きく跳ね上げ、肩から吊したショルダーフォルスターから回転式拳銃を抜き出すとローキャリアーで据銃した。振り返ると二人の部下も素早く同じ態勢をとったのを確認した。

「自分の判断で“撃たれる”、そう感じた、、、、、ら撃て。いいな?」

 二人の部下は無言のまま大きく頷いた。

 さらに不測事態での対処方法を部下たちと確認しあってから、上着の内ポケットから単眼鏡を取り出した。

 十分ほど経った時だった。大型クルーザー船の中で、複数の人間たちが激しく動くのがレンズに入った。照準を合わせた。がたいのいい三人の男が複数の銃で撃たれた一方で、船の中を逃げ惑う背の低い男を何人かの黒ずくめの男が急襲している場面をちょうど目撃した。

 水無瀬は腕時計を見つめた。計画では、あと二時間後、あいつらはここにゾディアックボートでやってくるはずだ。

 そして、時間通りだった。ゾディアックボートで到着した男たちはすでにアサルトスーツは脱ぎ捨て、近所に住むヤンキー野郎のようにスエットをだらしなく着ていた。フィリピン海軍の精鋭にして特殊作戦グループに属する七名の男たちは人海戦術で三つのパッケージを岸壁の上に並べた。

「すべての始末は?」

 岸壁に登ってきた特殊作戦グループの指揮官に近づいた水無瀬が訊いた。

「ミッションはコンプリート。以上だ」

 指揮官はそれだけを短く応えた。

 その言葉は、「五ヶ国薬物密輸対処共同イニシアチブ」に基づいた、ニュートラライズ作戦をつつがなく実行したことを意味している。水無瀬は満足そうに頷いた。

 まだ十代だった妹を〈ジゼル〉の配下の者にレイプされた挙げ句、手首足首を切断されて惨殺されたフィリピン特殊作戦グループのリーダーは、水無瀬との約束を守ったことを告げた。

「ボディガードはバラバラにして魚のエサにした」

 と平然と言い放った。

「で、〈ジゼル〉は?」

 水無瀬は、沖で錨泊しているクルーザー船へ目をやった。

「これから船に戻り、自動航行にして放置しオサラバ。奴は鉄条網で拘束したので何もできない。つまり苦しんで苦しんだ末に飢えて死ぬ」

 水無瀬は満足気に頷いた。それこそ水無瀬が作成した計画だった。

 そもそも水無瀬が、FDSの枠組みを利用してまで大規模な計画を作成したのは、二年前に遡る。そのきっかけは妻の葬儀を終えて一週間ほどした頃、第3管区海上保安本部の国際刑事課へ一時、異動していたが、再びコクタイキチに戻ってきて副隊長に昇任したばかりの時だった。

 それはコクタイキチの情報班を仕切る情報管理官の有働う どうから岡北捜査隊長への緊急報告だった。昨日、タイの取締当局からの情報共有の中に、最近、人身売買で逮捕した〈ジゼル〉の配下の男の供述の中に、五年前の伊豆の事件に関する重要な情報が含まれていたとした上でこう口にした。

「アレはフェイクだった。ホンチャンの密輸が、伊豆の事件とほぼ同じ頃、千葉県の海岸で実行されていた。残念なことだったな」

 しかし、水無瀬にとって“残念”で済む話ではなかった。激しい怒りが体の奥から立ち上がった。自分でも体と心がどうにかなってしまうんじゃないかと思うほどの衝撃を受けた。

 苦悩する日々が続いた。着任したばかりの副隊長としての自信を喪失しかけた。

 そんな時だ。秋田県の能代港での“端緒”が寄せられた。水無瀬は直感的に気づいた。

 能代港は、五年前の“伊豆”と同じく、フェイクであり、ホンチャンの大規模密輸を日本当局の目からそらすためだと疑った。

 二年間に及ぶ内偵捜査の結果、水無瀬の疑いが立証されていった。

 そしてそのホンチャンとは千葉県の沖、EEZ外で大量の覚醒剤が密かに「陸揚げ」される可能性が高いと判断したことだ。その判断をもたらしたのは、海上保安庁の極秘傍受システムが、その場所を発信とする会話を傍受したからだ。

 その会話の中に、薬物密輸が実行された疑いがあると海上保安試験研究センターが特定したのだった。

 そして作成した今回の作戦は、水無瀬が五年もの間、準備し、工作したものだった。まず資金を調達した。調達した先はやはり〈ジゼル〉に個人的な恨みを持つマレーシアに在住する華僑の富豪だった。彼もまたフィリピン特殊部隊のリーダーと同様、家族を残酷に殺されていた。〈ジゼル〉のファミリーに誘拐された両親は、タイに連れて行かれ、身代金を要求された。華僑の男が拒否すると、飼っている虎の檻の中に両親を放り込み、生きたまま食い殺させたのだ。

 資金が調ったことで水無瀬が次に行ったことは〈ジゼル〉に関する徹底した情報収集だった。役立ったのは陸上自衛隊特殊作戦群OBたちが運営する民間軍事会社「オーデン」だった。タイとカンボジアとの危険な国境地帯まで張り込んで〈ジゼル〉の出生から現在までの経歴を明らかにしてくれた。

 そして秋田のダミー作戦にわざと騙されることにした。海外の当局も強引に引き摺り込んで過度に演出したのだ。

 そして多賀をひき逃げした犯人は〈ジゼル〉のボディガードであるとの証拠を水無瀬はついに得ていた。その答えを出してくれたのは海上保安試験研究センターとインドネシアの薬物捜査機関だった。まず、防犯カメラのリレー捜査によって犯行車両のみならず運転手の顔貌までを海上保安試験研究センターが特定。その顔貌を各国に照会したところ、インドネシアの捜査機関でヒットした。そして当該の人物は〈ジゼル〉のボディガードだと人定してくれたのだ。

 裏付けを得たことで、水無瀬は復讐の最終段階の計画作成に入った。そのために協力してくれたのはオーデンの奴らだった。日本の捜査機関のモグラに偽変して、あらたな密輸ルートの用意があるとフェイクを使って呼び出したのだ。安全のためにも新たな密輸ルートの開拓を考えていた〈ジゼル〉はすぐに飛びついた。

 ことをうまく運ぶために水無瀬はまず身内を騙す必要があった。その結果、文句や抗議を受けることなどどうだってよかった。何万人を覚醒剤から遠ざけることができた、それだけで文句を受けつける気持ちなど微塵もなかった。

「ミスター、ミナセ。注意しろ。お前たち、『トクスフ』は狙われている。〈ジゼル〉をナメたらいけない。“四天王”のうち〈燃えたぎる牙ブレイジングファング〉が行方不明だ」

 フィリピン特殊部隊チーフが最後にそう言ってボートに戻ると部下に命じて発進させた。

「副隊長!」

 その声で振り向くと、パッケージの中身の化学検査をしていた能勢がサムズアップを向けた。

 携帯電話が鳴った。捜査隊長の岡北からだった。彼は、海上保安庁のルールに反して五年も同じポジションにいたが、これが最後の花道だと意識していた。

 ひと呼吸してから応答した。

「違法薬物を押収。密輸です」

「よくやった」

 岡北が珍しくも弾んだ声を上げた。

「ただし、被疑者は行方不明。目下、捜索中です」

「行方不明? どういうことだ? まさか逃げられたのか?」

「いろいろ事情がありまして」

「事情?」

 岡北が苦笑した。

「水無瀬よ。ちょっと待て。お前、大それたことを仕掛けたんじゃないだろうな?」

「いえ、すべては、我々の司法権が及ばないEEZの外で起こったことです」

「勘弁してくれよ。オレはな、今回の事件を花道として去るつもりなんだぜ」

「分かってますよ。ですから“ブツ”は押さえました」

「“ブツ”は大きな成果だ。しかし身柄をとらないことには──」

「“ブツ”が市井しせいに出回って、薬物中毒者が人生や家庭を崩壊させることを防いだ、それで十分です。これこそ花道に相応しいと存じます」

 岡北が柄にもなく笑顔を浮かべている姿を水無瀬は想像した。

「能代港での始末は?」

 水無瀬が訊いた。

「無茶苦茶だ。特に、激怒した秋田県警の怒りが収まらない。さっき、警察庁からウチの長官に抗議がきたようだ。税関にしても──。まっ、いいか。そんな感じだ」

「目に浮かびますね」

「お前こそ、大変だぞ。よくてデスク作業だ。コトによっては──。まあ覚悟しておけ。温厚な警備救難部長をあそこまで怒らせたのは感心さえするぜ」

「そうですか」

 水無瀬はそれだけを口にした。ただ、警備救難部長こそ最初から水無瀬の立てた作戦を指導していたことはもちろん口にしなかった。

「で、“モグラ”の件は?」

「実は、さきほど、三本目となる動画が届いた。そこには、男の顔がはっきりと映っていた」

「政治家だったと?」

「そうだ」

「当初の推察通りの人物だったんですね?」 水無瀬のその問いかけに、岡北は一人の男の肩書きとフルネームを口にした。

「その“モグラ”には様々な犯罪組織からのニーズが多いそうだ」

「〈ジゼル〉の代わりはいくらでもいる、そういうことですか。それならそこから一網打尽にすべきかと──」

「いや、警察庁に渡した。それで手打ちだ」

「ではいつかは──」

 水無瀬は嫌な予感がした。

「お前が想像する通りだ。“モグラ”は検挙しない。運用、、する」

運用、、? まさか……」

 水無瀬は苦笑した。怒る気にもならなかった。日本政府の奥の院でディスインフォメーション(欺まん)作戦を実施するのだ。その“モグラ”を使ってわざと欺まん情報を薬物密輸犯罪組織に対して──。〈ジゼル〉の後釜はいくらでもいるのだ。

 通話を終えた水無瀬が部下たちに言った。

「撤収だ」

「副隊長、これらはどのように報告を?」

 覚醒剤の小袋が敷き詰められている三個のパッケージを指さしながら名城が訊いた。

「決まってるじゃねえか。被疑船を追跡中、“ブツ”を放棄して逃走。目下、関係機関と連絡をとりあい──。以上だ」

 水無瀬は表情ひとつ変えずにつづけた。

「もう作戦はすべて終わったんだ──」

 水無瀬はその言葉こそ、自分に向けられたものだ、と思った。五年前に“気にくわない”と思ったことはすべて解消されたのか。見落としていることはないか。ストリスクスのごとく、闇をすべて見通すことができたのか。

 突然、頭を過ぎった言葉があった。フィリピン海軍特殊作戦グループの指揮官が口にした言葉だ。

「お前たち、トクスフは狙われている──」

 五年前と同じく多賀を襲ったひき逃げ事件のようなことが起こるというのか。それとも──。

 その指揮官はこうも言った。

「〈ジゼル〉をなめるな」

 しかし〈ジゼル〉の身柄については、それこそ彼らが対処、、してくれたはずである──。

「それで〈ジゼル〉は今?」

 名城が勢い込んで訊いた。

 水無瀬はそれには応えず、ハッとした表情で腕時計に急いで目を落とした。

 ──まだ間に合うかどうかギリギリか。

「悪いが先に行く」

 そう言うが早いか、水無瀬は走り出した。国道まで出るとタクシーを呼び出した。二十分ほど待ってからタクシーはやっときた。

 後部座席のドアが開いた瞬間、感じたことは、熱い! という思いだった。左の脇腹に突然、熱を感じた。

 だがその直後、不条理な現実が待っていた。背後から何かが叩きつけられた。それは人間だった。咄嗟に振り返った。だが相手はバラクラバ帽を被っていたので正体はわからない。しかし、指が見えた。そこに何かの動物の牙から作ったと思われる大きな真っ赤な指輪をはめていた。二人はそのままの勢いで後部座席になだれ込んだ。チラッと見えたのは日本刀を持った野郎がさらに攻撃を加えようとする光景だった。救ってくれたのはタクシーの運転手だった。簡易消火器で野郎の顔を殴ってくれたのだ。強い衝撃だった。バラクラバ帽の野郎は車の外に転がった。運転手はドアを閉めるよりも先に車を発進させてくれた。

「お客さん! 大丈夫か!」

 そんな声が聞こえた。

「ああ、東京まで頼む」

 そして目的地を告げた。

「でも病院でまず手当しないと」

「ダメだ」

 水無瀬が拒絶した。

「何ですって?」

「ダメだ。言った通りの、芸術ホールへ。とっても急ぐんだ」

「何があるんです、そこで?」

 運転手が聞いた。

「お客さん、何があるんです、そこで?」

 

(了)