五年前(承前)
水無瀬は早くも体の奥から込みあげてくるものを感じた。この気持ちは誰にもわからない。岡北捜査隊長にも、壇野基地長なら尚更、また部下にも今の自分の気持ちは共有できない。まして妻には何も言えないので共有するも何もない。たとえ言ったとしても、「どうしてそんな危険なことをするの!」と叱られるのがオチだ。
実は、今回の密輸事案の端緒を見つけたのは水無瀬だった。それも今から二年も前のことである。それはほんのささやかなことに水無瀬が気づいたことからすべてがスタートしたのだ。
その当時、水無瀬は、海上保安庁勤務経歴の中で数少ない巡視船勤務を行っていた。伊豆半島南端にある下田海上保安部所属の巡視船「しきね」の航海科に配置されていた。それまでは管区海上本部の国際刑事課に勤務し、その「しきね」の一年間の業務に就いた後、現在のコクタイキチに異動した。そのたった一年間のことだった。
一人娘の和が小学校に入ったばかりだったので水無瀬は単身赴任で着任した。
久しぶりの休暇、春のある夕方のこと。桜吹雪が辺り一面を覆う中、水無瀬は中古で買い求めたトヨタのヴィッツを駆って下田港のほか太平洋沿いの海岸を巡った。海上保安庁で言うところの「浜廻り」を行ったのだ。それは港や船舶、さらに海岸に異常がないかどうかを目視でチェックすることである。それは海上保安官としての基本中の基本の行動だと水無瀬は確信していた。だからその習慣は、卒業配置の頃からで、管区海上本部で国際刑事課に勤務しているときも頻繁に繰り返していることだ。
下田港の辺りをぐるっと回った後、ヴィッツを西へ向けた。二十分ほど走らせた時、陸地に深く入り込んでいる小さな入江に出た。記憶にない場所だった。穏やかな波打ち際から一人のポロシャツ姿の若い男が松林の方へ急ぎ足で向かっている。運転席に身を屈めた水無瀬は男の行動を目で追った。すると松林の一番海に近い松の木の太い幹に半身を隠すようにして立った。
そしてしばらくの間、海を見つめたあと、国道の方へ歩いていった。そして、水無瀬が停まっていたことに気がつかなかった黒いミニバンの後部ドアが自動的に開くとそこに男が乗り込み、車は急いで発進した。
水無瀬が目撃した光景は五分ほどの時間だった。だが、水無瀬は脳が激しく掻き乱された。男が犯罪をしでかしたわけじゃない。ただ、しばらく海を見つめていただけだ。だが、松の木の太い幹に隠れるようにしていた姿が脳裡に焼き付いた。岡北捜査隊長に言えば鼻で笑われるだろうが、その姿に〝訓練された者〟の臭いがしたのだ。
水無瀬の思いは衝動的な動きを誘発し、止めようもなかった。急いでギアをドライブに入れてサイドブレーキを解除しヴィッツを国道に乗り入れると制限速度一杯で飛ばした。水無瀬の目的はあの男が乗ったミニバンが向かった先にある防犯カメラを捜すことだ。見つけると、そこがビルでも住宅でもすぐに管理者と交渉した。国道を撮していた画像も片っ端から集めた。そして車のナンバーを把握するとコクタイキチを介して所有者の氏名と住所を把握。さっそく居住地へ行ってみると二階建てのアパートの一室で、そこに住む九十歳の独居老人が所有者欄にあった名前の男だった。
さらにそれから二年間。捜査の筋読みを何度か見誤ったこともあったが、丹念に事実を集めて証拠を積み上げていった結果、〈ジゼル〉の存在を知り、ついに日本への一トンという大規模な覚醒剤密輸計画が進んでいることを把握。そして今日、ついに「陸揚げ」という密輸犯罪が実行される。法律用語で言うところの「既遂」の瞬間を迎えようとしているのだ。その二年間の中で、水無瀬は今でも胸が酷く締め付けられることがある。五年先輩だった海上保安官、三人の子供を抱える捜査隊員で同じ第2チームの海上保安官が、脳出血を起こした三日後に急逝した。水無瀬は、その原因が徹夜がつづいたことによる疲労であると思った。ゆえに残された家族のために労災認定とその補償を得るために奔走した。つまり殉職扱いにするために努力した。
〈ジゼル〉が陣頭指揮を行っていると推測された「親船」から〝ブツ〟が投下された五時間後、下田港にほど近い入江の沖に、「瀬取り」で「親船」から〝ブツ〟を受領したばかりの「子船」が投錨。間もなくしてそこから小型ボートが発進して砂浜にビーチング。直後、近くで身を隠していた関西の指定広域暴力団の枝(下部組織)にあたる神龍会の構成員が乗る三台のミニバンが集結した。
当初、コクタイキチが中心となって作成した計画では、警察と合同の「突き上げ」は、〝真の指揮官〟のもとに〝ブツ〟が辿り着いてから検挙する方針だったが不測事態が発生した。
〝真の指揮官〟と目星をつけていた七十六歳の神龍会会長の青木が、「瀬取り」が完了した数時間後、恐らく〝ブツ〟を最終的に手にする場所へ向かっていた途中で交通事故を起こし死亡してしまったのである。よって急遽、神龍会の組員が覚醒剤の入ったパッケージを手にした瞬間、強制措置に入ることへと変更された。
ただ、水無瀬は、緊張することとなった。〝真の指揮官〟と確信していた青木会長が、一年前よりレベルの高い認知症を患っていたとの情報を入手した。下田港にある専用桟橋に着いた「いず」から下船し、迎えに来てくれた部下の安城歌音が運転するトヨタのボクシーの後部座席に腰を落とした瞬間、IP無線機からもたらされた情報だ。
そんな状態の老人が、今回、大規模な薬物密輸を指揮していたのだろうか。しかし〝真の指揮官〟が存在することは間違いない。〈ジゼル〉の行動を調査する過程で、日本への密輸を実行する時、必ず日本に住む日本人と連絡を取り合っていることを、電子データの収集や協力者からの情報によって確かめている。
わだかまりが消えない中、喜ばしい情報もあった。水無瀬の期待通り、一斉検挙は問題なく完遂した。留置施設の物理的な問題から現行犯逮捕した十名は警察が身柄をあずかることとなり、記者クラブへの広報も静岡県警が行うことになった。発表文に、コクタイキチの名前は一切出なかったが、水無瀬に不満があるはずもなかった。それがいつものルールであるからだ。水無瀬にとって重要なのは、国民を蝕む薬物の密輸を阻止できたこと──。
水無瀬の思いは当然、そこへ向かうはずだった。
ところが今回、それがまったくなかった。
いや、強制捜査が行われた当初はそう思った。しかしその五時間後、その思いは水無瀬の中ですべて霧散したのだ。〝ブツ〟の検査を行った警察から信じがたい報告がなされたからだ。押収したパッケージの中に入っていた覚醒剤の量が、たった十五キロだったのである。その量は、空港で旅客が持ち込む量と同じレベルなのだ。それを聞いた岡北捜査隊長は、「量じゃない。摘発したことこそ将来の検挙に繋がる」と慰めてくれたが水無瀬はあまりの衝撃で何も言葉を返せなかった。
岡北の言葉はもっともである。摘発した量で一喜一憂はしない、というのがコクタイキチのポリシーである。この捜査は水無瀬が仕切った。そして密輸の規模は一トン前後だという数字を見積もって基地長のほか本庁にも、そして関係機関にも伝えていた。ゆえに面目丸つぶれである。本庁はもちろんのこと、関係機関からの批判も避けられない。コクタイキチを離れなければならないことも覚悟している。
しかしそれはいい。そもそもその覚悟はコクタイキチに来てから常に持っている。危険な業務が主体であるこの部門にきてからリスクはわかっている。だが、水無瀬が我慢できなかったのは、ここまで辿り着くために〝殉職〟したあいつの努力が報われなかったことだ。
打ちひしがれた水無瀬に追い打ちをかけるように悲しい事件が発生したのだ。
その悲劇は、警察が押収したという情報を基地長から水無瀬が聞いた日の夜に発生した。コクタイキチの捜査隊に属する最年少の海上保安官、多賀翔太が非番だった日のことだ。多賀は昼過ぎに横浜港に面した山下公園を家族で訪れ、桟橋に静態保存されている氷川丸へ向かおうとしていた。横断歩道を歩いていた多賀は信号無視して突っ込んできた車にはねられた。車はすぐに逃走してしまった。結果、コンクリートの地面に頭を激しく打ち付けた。
岡北捜査隊長とともに病院に駆けつけた水無瀬は、霊安室の中で泣き続ける彼の妻である碧と娘にかける言葉が見つからなかった。こいつの結婚式で仲人を務めたのは水無瀬と妻の美優だった。しかも娘はまだ四歳なのだ。水無瀬は、いたたまれなくなって通路へ出た。
しばらくして霊安室の扉が開いた。拳を固く握りしめ、顔を激しく歪める碧が姿を現した。彼女は水無瀬のもとへ歩み寄った。そして、事件のことについて消え入りそうな声で語り始めた。彼女ははっきりと言った。ひき逃げした車の運転席から身を乗り出した犯人が叫んだ言葉を。犯人は、日本語でこう言ったという。
『お前たちへのメッセージだ』
水無瀬は、その言葉のうち、〝たち〟の部分に鋭く反応した。水無瀬が思ったのは、この犯罪は個人を狙ったものではない。組織をターゲットにしたものである。そしてそのターゲットとは一つしかない。主導権を持って捜査をしていたコクタイキチを狙った──水無瀬はそう確信した。
しかし、水無瀬は嫌な気配を感じた。なぜ逃げた犯人はコクタイキチが主導権を握って捜査をしていたことを知っていたのか。マスコミにも発表していないのだ。
だが、碧がそのことを口にしたのは、霊安室で二度と瞼を開けない翔太と対面した水無瀬に対してだけで、警察の聴取では話さなかった。しかも、その後、何かを言いかけたが口を噤んだ。その時の碧の目は今でも忘れない。瞬きを一切せず、水無瀬を睨み付けるように見据え、押し殺した声でそう言ったのだ。水無瀬は彼女が何を言いかけたのか、そしてなぜ自分だけに教えたのかを理解した。警察ではダメだ。組織が対応して欲しいと。その意味しかない──。
そこから先へと素直に思考をつづければ、ある疑念が発生する。〝ひき逃げ犯〟は多賀をコクタイキチの者として認識したことになる。しかしコクタイキチの職員の名前は厳重に保秘の措置が施され、家族にさえコクタイキチに所属していることを隠している。それもこれも任務は常に危険を伴い、最悪の場合、家族にまで危険が及ぶからだ。
──誰が洩らしたのか。
コクタイキチでは、配属された時より、先輩に初めて連れていかれる居酒屋で誰もがこう言われる。
「薬物密輸を図る組織犯罪は、当然、我々が邪魔だ。金に糸目を付けずに個人的な攻撃を加える可能性を常に意識しろ」
そして四次会の席上で、泥酔した先輩からこの言葉が何度も耳に叩きつけられる。
「オレたちはいつ殺されてもおかしくねえんだよ! だから早くガキをつくってDNAを遺せ!」
それからなのか、自分でも意識しないうちに自分なりの死生観を持つようになった。「死」は常にそばにいない。ただ「死」への道は常に開かれている──。
がらんとした待合室へ足を向け、整然と並べられた長椅子の一つに腰を落とした。
「ひき逃げの犯人はまだ捕まっていないらしい」
水無瀬が振り返ると岡北捜査隊長が残念そうに言いながら隣に座った。
「捕まることはないでしょう」
水無瀬が言った。
「どういう意味だ?」
岡北が怪訝な表情を向けた。
「大きな違和感があります。それは、五年前の、あのひき逃げ事件のことだけじゃありません」
小さく頷いた岡北は黙って水無瀬の言葉の先を待った。
「同じ五年前の伊豆の事件そのものにも大きな違和感を抱いているんです。我々が知らないところで何かが起こっている。そんな気がしてならない。そして我々は重大なことに気づいていない──」
「水無瀬──」
岡北が身を乗り出した。
「実は、こっちも引っかかってることがある」
岡北が深刻な表情でつづけた。
「事前の情報収集の段階で、内閣衛星情報センターからコーディネーションフロー(政府内画像提供協定)によって本庁が提供を受けた衛星画像を本庁の特別秘密区画で見た。だが、これまでの密輸事件で使われた〝履歴〟のあるトップクラスのスキルをもった船舶が一週間前に出港したまま戻っていない」
岡北は辺りを見渡してからつづけた。
「それらトップクラスの船舶を〝モデル並みのネエちゃん〟と比較した場合、別の漁船とともに〝メザシ〟(縦列で係留された状態)で係留されていた年代も古そうな被疑船はさしずめ〝オバアさん〟。しかも今回、伊豆の岸壁に着岸する時の、アプローチ技術、つまり変針、速力調整やスラスター、そのいずれの技術も三流だった。これらのことが何を意味するかだ」
岡北はしばらく黙って水無瀬を見つめた後、口を開いた。
「水無瀬、酷い顔だ。今日は帰れ。ここはオレに任せろ」
そう言って岡北は水無瀬の肩を叩いた。
岡北の言葉に応じなかった水無瀬はひとり立ち上がって玄関へ足を向けた。
玄関ドアの先に、街灯に照らされているにもかかわらず、さらなる果てしない闇が広がっている方へ目が吸い寄せられた。
そこに浮かび上がったものがあった。着手直前に送りつけられてきた、あの動画に映った男女の全裸の姿態である。
水無瀬の中で激しい苛立ちが立ち上がった。
──まったく気にくわない。何もかもがわからないことばかりだ。そして何より、多賀の死の真相に辿り着けない自分が情けなかった。
(つづく)