現在
ファイナルアプローチに入った双発機サーブ340Bは、この世に存在する青と緑をすべて溶かし込んだような神秘の色を湛え、真珠の輝きを遥かに超えてキラキラとする海の上から順調に高度を落としてゆく。滑走路の接地はいつもより静かで、完全に止まるまでのランディングロールの操作に入った。
那覇空港に着陸したサーブ340Bは旅客機が搭乗橋にブロックインしているエプロンへとタキシングをしなかった。別のエリアにある海上保安庁那覇航空基地の格納庫へと進んでいった。
格納庫にサーブ340Bの尾翼が収まり、天井から巨大なハンガードアが入り口を封鎖すると、待機室から十数人の男たちが機体の前に集まった。ベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、そして日本の五ヶ国の薬物捜査機関のトップや最高幹部ではなく、最も現場に精通した現場指揮官たちだ。タラップを降りてきた日本側のチーフであるコクタイキチの三人の海上保安官とそれぞれに握手を交わした。彼らの近くにはすでに十台のアルファードが集結しており、その周りを先着していた第11管区海上保安本部国際刑事課の職員たちが身辺警護の任務として毅然と立っている。
アルファードに分乗した各国のチーフとその随員たちが誘われたのは、第11管区海上保安本部の庁舎が入居する総合庁舎ではなく、海上自衛隊の那覇航空基地の一角にある地下施設だった。この極秘会合を主宰するコクタイキチのナンバー2、業務調整官の九竜が、自らの人脈の糸を必死に手繰り寄せ、海上自衛隊那覇航空基地隊司令まで行き着いた努力が実ることとなった。それもこれもこの会合が、単なる外交行事やイベントではなく、実質的な「作戦会議」であることを、日本側の一人で、副隊長に抜擢されたばかりの水無瀬は強く意識していた。
ただ、自衛隊の基地を使うことにこだわったことには理由があった。今回、招聘した国々の薬物捜査機関のチーフたちはいずれも軍人上がりでプライドが高い。そんな相手に“軍施設”を用意したことは、この会合が成立した理由の一つとなったのである。
用意された会議室では、冒頭、新任の丹下基地長が儀礼的な挨拶をごく短く終えた後、岡北捜査隊長が会合のスケジュールを簡単に説明してから水無瀬が映写スクリーン横の演台に立った。
「我々は長い戦いを続けてきました。正直言って、そのすべての努力は、コバーレッド・イン・シェイム(恥辱にまみれています)」
水無瀬は敢えて刺激的な言葉を放って強者たちを見渡した。顔を歪めた者が何人かいることにすぐ気づいた。
「だが、イッツ・オーバー(それももう終わりです)」
水無瀬は語気強く言った。何人かが大きく頷いた。
「我々のエンドステート(最終目標)は、対象のアンダーアレスト(逮捕)ではない」
丹下基地長と岡北捜査隊長が同時に驚いた表情を水無瀬へ向けた。日本側が用意した原稿では“逮捕”と書かれているからだ。
だが水無瀬は躊躇なくその言葉を使った。
「我々は対象のニュートラライズ(無力化)を行う。そのために集まって頂いた。これこそ、五年前に締結した『五ヶ国薬物密輸対処共同イニシアチブ』の神髄です」
合鍵で玄関を開けた水無瀬は、誰の名を呼ぶこともなく廊下を足早に突っ切ってリビングに入った。手紙入れとして利用している蜜柑箱から郵便物を取り出すと忙しなくチェックを始めた。急ぎで処理しなければならないものがないと判断した水無瀬は、和室に足を向けて着替えを出すと風呂場へ向かった。今朝、那覇からの便で羽田空港に着いたが、絶対的な睡眠不足は一週間に及んでいた。
「諒さん? お帰りになってたの?」
義母の麻美が脱衣所のドア越しに声をかけてきた。
曖昧な返事をしただけで風呂場の扉を開こうとした手が、麻美の言葉で止まった。
「和ちゃんのことでお話があるんです」
一瞬の間を置いてから水無瀬が答えた。
「わかりました。急いでシャワー浴びます」
風呂場から出てきてスウェットに着替えた水無瀬は、バスタオルで髪を拭きながらリビングに入り、ソファに座っている麻美からは少し離れたキッチンの椅子に腰を落とした。
「で、和がどうかしたと?」
水無瀬はぶっきらぼうに訊いた。
「諒さんがお忙しくしていらっしゃることは分かっているんです」
「お義母さんには、和のことをすべて任せてしまって本当に申し訳なく──」
「そんなことはどうだっていいんです」
話を遮られた水無瀬は、麻美の先の言葉を黙って待った。
「あの子が亡くなって二年が過ぎて、やっと和ちゃんも落ち着いてきて、ちょっと安心してきたんだけど──」
水無瀬は、リビングに置かれた調度品の上に置かれている妻・優美の遺影にちらっと視線を送った。優美に乳がんの発症が分かったのは三年前。それからの闘病生活は彼女にとって過酷な日々だった。それは治療のことではない。新型コロナウイルスのせいで、和にずっと会えなかったからだ。
「あなたはこの二年で変わってしまった。どうしたの?」
大きく息を吸った水無瀬はそれには応えなかった。
「この間、一緒にお買い物に行ったんだけど……」
麻美は目尻から溢れた涙を指で拭った。
しばらく黙っていた水無瀬はひとり頷いてから立ち上がり、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出すと椅子に戻り、ひと口呑んでから口を開いた。
「お義母さん、あと半年、いや数カ月待ってください。どうかお願いします」
「数カ月か……。ねえ、諒さん、来てくれないと分かっているけど、一応言っておきますね。今度の土曜日の朝、午前十時、市内の芸術ホールで和ちゃんのピアノ発表会があるわ、最初から三人目に──」
だが麻美は途中で言葉を止めてため息をつきながら頭を振った。
水無瀬は咳払いで誤魔化した。
麻美はソファーから離れて水無瀬の前を黙って通り過ぎて冷蔵庫を開けてしゃがみ込んだ。
「まともなお食事、摂ってないんでしょ?」
麻美が振り向かずに訊いた。
「いえ、別に」
水無瀬は頭をかいた。
「いつもの焼きうどんでいい? 寝るならお食事をされてからにしてください。で、せめて今日は夕方までいて下さい。今日くらい、和ちゃんが学校から帰ってくる時に──」
麻美は途中で口を噤んで冷蔵室から幾つかの野菜を取り出した。
「あっ、そうだ。和ちゃん、この間、変なことを言ってたわ」
麻美が振り向いた。
「変なこと?」
「パパの目が昔と違うと。最近、怖いって……」
「あんまり顔を合わせてないから」
水無瀬は呟くようにそれだけ言うと脱衣所に戻り、鏡を覗いた。目つきが悪く、しかも尖っている。酷いツラだ。その思いを振っ切るようにドライヤーを握った。
洗面場で自分の顔を見つめながら水無瀬の脳裡に浮かんだのは、昨日、岡北から、またしてもあの情報を教えられた時のことだった。
「また郵便であれがきた。昨日だ。封書の体裁は五年前と同じだ」
コクタイキチのビルの地下二階にある会議室に誘った岡北が真っ先に告げたのはその言葉だった。
先に席に着いた岡北は、用意してきたパソコンの画面を水無瀬に向けた。
「五年前と同じく、中にUSBメモリーがあり、この動画があった」
流れ出した動画は、五年前の“フル動画”と言うべきもので、水無瀬が身を乗り出したのは五年前の続きのところからだった。
一メートル半ほどの高さに伸びた三脚の上に、長さ二十センチほどの大きなガンマイクがアタッチメントされたビデオカメラが置かれている。その周りには黒っぽい服を着た東洋系の男女が、今し方まで撮影操作をしていたことを窺わせる雰囲気で立っている。そしてその脇から突然姿を現わしたのは、ダークブラウンの口髭と顎髭をたっぷりと生やし、神経質そうに見える“頬高の男”だった。サングラスをかけている。
もう一人、床にへたりこんで茫然とする男がいた。
ホテルの部屋から、管楽器チェロのケースに押し込まれて地下の駐車場に駐めていたアウディA6の後部座席に男は固定され、車は発進した。三時間ほどして“頬高の男”が、アウディA6を乗り入れたのは、タイとの国境にほど近いカンボジアの貧しい町にある平屋建ての廃屋の地下だった。
男は再びチェロケースに入れられ、玄関からではなく、地面に作られた木の葉で被われているドアから地下室に運び込まれた。
“頬高の男”が持つ底知れぬ恐怖はそこから始まった。全裸にした上で手足を革製の手枷、足枷で後ろ手に拘束した挙げ句、灯りひとつない漆黒の闇の中にまず二週間閉じ込めた。食事、排泄、睡眠すべてを無言で指示し、誰とも会話をさせず、相手が泣こうが叫ぼうが無視して対応せず、自立性の感覚の消失を試みた。
さらに、適度なタイミングで基本的な欲求を適切に満たし、救いを求めさせることで精神的な依存を高めることも忘れなかった。つまり、食事、排泄、睡眠ができるのは“頬高の男”からの指示のみであり、時には数日、放ったらかしにした。全身を震わせて懇願してからやっとその機会を与える。それを何度も何度も繰り返すことで生きるためのすべてを依存させることに成功した。
生きるための最低の行為が許されたすぐ後で、食事の作法がなっていないと怒声を浴びせかけ、おもらしをしたことを笑いながら罵るなど、自立性への攻撃をひたすら行うことで、耐え難い恥辱を与え、最後には抵抗する気力を完全に打ち砕いた。
精神と身体を完全に支配したことを確信した“頬高の男”は、恐怖と屈従だけでなく、穏やかな導きの言葉を送った。それは男にとって苦しみの世界の中の唯一の泉となり、かつ神の恩寵となって服従者の心を完全に掌握した。すべては“頬高の男”の意思から逃れられないことを心と体に刻み込むために、同じ言葉を耳元に囁いた。
「いい子だ、とても。しかも、私からの有り難い恩恵を受けるために何をすべきか、お前は分かっている」
さらに半年間に及ぶ監禁状態による心理的支配から全面降伏を導きだし、次の段階としてまったく別人の記憶を移植することまで成功したのだった。
動画が終了すると同時に岡北が、一人の名前を口にした上でつづけた。
「〈ジゼル〉からブレーンウォッシュ(洗脳)されたこの日本人は、長らく“モグラ”として薬物密輸でわが方の情報を洩らしている。つまり万死に値する、というやつだ」
「今、口にした者の名前はただしいと?」
水無瀬が訊いた。
「試験センターが、顔貌形態学とAIを駆使した3D顔認識システムにおいて顔の立体的な凹凸の情報を取得し、高精度なデプスマップや点群を生成して鑑定した結果、ついに一人の男を突き止めた。〈ジゼル〉にとって動画は脅しのつもりだったんだ。だが、〈ジゼル〉は日本人を知らなすぎる」
「で、どうすると?」
「さすがにこの件は、ウチだけでは対処できない。NSS(国家安全保障局)に諮ることになるが、これからだ」
「ブラックオペレーションという選択肢もあります」
水無瀬が言った。
「何だそれ?」
「いろいろです」
水無瀬は言葉を濁した。
フラッパーゲートのセンサにIDカードを翳して基地正面玄関を足早に通り抜けた丹下基地長は、びしょびしょの傘を折り畳むのももどかしく、急いでエレベータに乗った。自室に入った丹下はコートを脱ぐよりも先にデスクにあるインターフォンで、九竜業務調整官を呼び出した。
「あいつ、何様なんです?」
会議用テーブルに誘った丹下は、九竜がその前に腰を落とすといきなり切り出した。
「あいつ?」
「水無瀬ですよ」
海上保安大学校卒業の丹下は、七歳年上の九竜に吐き捨てるように言った。
「彼が何かしましたか?」
想像はできたが九竜は敢えて訊いた。
「私の名前を勝手に使って、海外の機関へ命令を出してる。しかも、先方は、手下のように扱われて怒ってるんだ。特にインドネシアは拙い。あそこはプライドが高い──」
「捜査隊長の岡北に言って注意させます」
「九竜さん、そんな流暢なことは言ってられない。要は、せっかく当庁が主宰しているにもかかわらず、国際協調が吹っ飛びかねない」
水無瀬は“協調”なんて考えてねえ。アイツは獰猛なハンター、すべてを見抜くふくろうの魂しかねえよ──九竜はその言葉が喉まで出かかった。九竜は、水無瀬からすべてを聞いていた。彼を信頼している九竜は自由にやらせていた。それがたとえルールに反していても──。
ただ、仲間を危険に陥れることを選択しようとした時は毅然として止めると腹を決めていた。
「水無瀬は、いかなる仕事においてもそつが無く、実直だ、と聞いていたんですがね──」
九竜にしてもその評価はあった。だが、二年ほど前、水無瀬が副隊長として戻ってきた時、すべてを聞かされてわかった。奴は、管区海上本部などに赴任している最中は、オールマイティーに仕事をこなした。しかし、そういう時は自分の燃えたぎった魂をひた隠しにしていたのだ。そして管区海上本部での仕事が評価され、当初の見込みより一年早く、コクタイキチへ副隊長に昇格して戻ってきた。そしてその瞬間、うちに秘めていた想いを解き放ち、獲物の腹を抉る鋭い牙を剥き出しにしたのだ。
「岡北に言って厳しく統制させてください」
腕組みをした丹下が言った。
「岡北は、今回、沖縄には行きましたが、普段は基地のデスクに座っているので、二十名以上の部下を従えて現場を仕切っている水無瀬に対しては十分な締め付けはできないかと──」
丹下は驚いた表情で九竜を見つめた。そんな言葉が返ってくるとは思ってもみなかったからだ。
だが九竜はなんの反応もせず、打ち付ける雨音が激しくなった窓へ目をやった。そもそも捜査隊の連中を縛っておくなんて、はなからできない相談だということを今更、“保大出”の指揮官に啓蒙するほど九竜は若くはなかった。
九竜は水無瀬を理解していたわけではなかったが奴がやろうとしていることは許す。しかし責任は奴がとるのだ。自ら辞めるか、クビになるのかは知らないがテメエのケツは自分で拭け、と言ってやった。
彼はしょせん、管区本部や保安部で働くことに満足できない野郎だ。管轄内でしか自由に動けない警察と違って、法執行機関であるコクタイキチは全国、全世界を飛び回り、大規模な密輸組織を破滅に追い込む部隊である。管区本部や保安部が扱う事件のスケールもまるで違う。だからこそコクタイキチの英語表記「Transnational Organized Crime Strike Force」の一部に「Strike Force」(打撃部隊)という苛烈な英単語を敢えて入れている。そのスケールの大きさと高度なプロフェッショナル性が要求されるこの世界こそ水無瀬が一生、求め続ける世界なのだろう。
「問題はそれだけじゃないです。水無瀬は隊員たちを酷使しています。しかも水無瀬は異常なほど仕事に埋没し、そこに部下を引きずり込んでいるというパワハラ通報が、本庁の委員会に複数入っています。昔のようにやれるわけじゃないんです」
「彼なりに考えてはいるようです」
「彼なりに?」
「ええ、全国を飛び回っていることから真剣です」
「まさか、〈ジゼル〉の亡霊を追っているわけじゃないでしょうね? そいつは最近、動静が伝えられていない。死亡説もある」
「それも一つのようです」
「待ってください」
丹下が頭を振ってからつづけた。
「無駄な金と時間──。本庁が知ったら──」
「いえ、それだけじゃありません、もちろん。インドネシアとの共同作戦の打合せもありますし、ロシアから留萌へのヘロイン密輸対処もあり、奴はまさに東奔西走です」
「ならいいですが──」
「ご心配なく」
「ところで、彼の家庭は大丈夫なのですか? 奥さんが亡くなって、娘もまだ小さいはず?」
「妻の母親が面倒みているようです」
丹下は納得したように頷いてから身を乗り出した。
「九竜さん──」
突然、表情を変えた丹下が身を乗り出した。
「近い将来、“基地長、腹切りの覚悟を”そんな言葉を言うんじゃないでしょうね」
九竜は、苦笑もせず、瞬きもせず、頷きも否定もしなかった。それもまた丹下をひどく驚かせた。
秋田県北部にある「能代港」は、日本三大美林の一つ、秋田杉を育む米代川の河口にある。
能代港は、隣接する火力発電所に使う石炭や天然ガスを運んでいるために重要港の指定を受けながら、税関管理の規模は小さく、出入国管理関係機関と海上保安庁の組織は近くにない。しかし大型船舶が着岸できる岸壁が存在する。ゆえに、北朝鮮の軍事的脅威が高まった一九九四年以降、“危うい情報”が集められた時、大規模な搬潜入部隊の侵入に備えるために警察や自衛隊の監視対象となるケースが多い。
ただ普段は、風光明媚な静かな港町である。ここ数年、たくさんの観光客を乗せたクルーズ船の訪問も多いほか、遊漁船の船着き場もあり沖釣りを楽しむ人々も一年中絶えない。
そんなふうに様々な船舶が行き交う光景が日常的な能代港に、〈第二星雲丸〉とペイントされた小型漁船がべた凪の中をゆっくりとやってきて着岸した。まったく目立たなかった。甲板には、様々な種類の漁具や漁網も完備していることから漁業組合員の者でさえ不審に思う者はいない。乗り子だけが、組合員でなく、この辺りの者でないことはすぐわかったが、ちょうど大型クルーズ船が着いてたくさんの観光客が港に溢れかえったことで誰も注意を払う余裕はなかった。能代港を遠く見通すワンボックスカーから見つめる水無瀬と三人の部下たち以外は──。
運転席と後部座席との間を黒いカーテンで仕切り、その隙間から大きなレンズだけが五時間前に係留されたばかりの第二星雲丸を静かに狙っている。その赤外線カメラは一般人が覗くことさえ許されない軍事用のものである。「ノイズ等価温度差」という赤外線カメラが検出できる最小の温度差を表す指標が最小単位を誇る優れもの。ごくわずかな温度差も捉えることができるので、遠方からでも物体の識別能力が極めて高くなるのだ。
この船に違和感を持ったのは、実は、二年半前のことだ。秋田県を担任する第2管区海上保安本部の国際刑事課員が、秋田海上保安部からの通報を、コクタイキチに通報してくれた。
秋田海上保安部の宇佐美信孝が“違和感”を抱いたのは、彼がいつも贔屓にしている能代港にほど近い酒店の女性店主からのふとした話だった。彼女によれば、その日の前日に、これまで見かけたことがない若い男性客が一本のウイスキーを買っていった。客は現金で支払ったのだが、小銭を出した時に、見たこともない硬貨を置いたという。気づいた男は慌ててその硬貨を掴んでズボンのポケットにねじ込んだという。
わだかまりを持った宇佐美は、硬貨に描かれたデザインを覚えていれば書いて欲しいと、レシートを裏返しにして渡した。彼女が描いたものは全体を見ればわけがわからなかった。だが、細部を見つめ、彼女の話をよく聞くと、あることに気づいた。赤い背景に五つの星がお城のような金色の建物を照らしている──。
スマートフォンですぐに検索した。予想はあたった。それが中国の国章だった。女性店主に見せたところ、興奮しながら肯定した。
この情報がまずコクタイキチの情報班に入り、そこから捜査隊に報告された時、真っ先に飛びついたのは水無瀬だった。すぐに少人数のチームで能代に乗り込み、本格的な捜査を開始した。不審な船はすでに出港していたが収穫は多かった。そして一週間後に水無瀬が出した結論は、その船は薬物密輸犯罪組織と関係するもので、能代港に来たのは、ホンチャンがやってくるための“予行演習”だった。つまりこれから大規模な薬物の密輸が行われる──水無瀬はそれを第2管区海上保安本部を通じて本庁にも上げた。
水無瀬は、第2管区海上保安本部国際刑事課に能代港を監視するように依頼するだけでなく、漁業組合の関係者を含む住民にも協力を要請した。協力要請の内容は単純かつ明解だった。今度、不審な船を見かけたら自分にダイレクトに電話して欲しい──。
その一方で、水無瀬は、能代港を舞台にした大規模密輸が実施されることを前提に、密輸組織の人数や「役割分担者」をシミュレーションし、それらを対象とした捜査チームを編成した。犯罪組織が大規模な薬物密輸を実施する時、その計画と準備は途方もない。それは費やす日数からして凄まじい。半年や一年という数字を挙げる奴がいれば、そいつはモグリか知ったかぶりをする素人と判断されるほどだ。
その準備の期間はもっと長く、監視する対象は膨大にあった。水無瀬はその対象ごとに二名の捜査隊員を割り得て、徹底的に“普段”を監視することで、それに反して出現する“変化”を抽出する作業を命じた。
それから二年の歳月を経て、「役割分担者」として推定した者たちすべての“動き”が示すベクトルが交差したのである。それをしっかり確認して、九竜業務調整官と岡北捜査隊長とも密かに検討した結果、ついに水無瀬の動きは獰猛性を爆発させた。
水無瀬が仕切る捜査隊第2チームの総勢二十三名全員をルーティーンの業務から引きはがし、この事案に投入。秋田県に派遣した。さらに外交的な連携以外に現場レベルの作業部会を創設し、ベトナム、マレーシア、フィリピン、インドネシアの薬物捜査機関のチーフを合同作戦に引き込むことに成功したのだ。そして、その過程で、命令違反を犯すことに何ら躊躇はなかった。
さらに秋田県沖で「瀬取り」が行われる可能性が高いとして第2管区海上保安本部に巡視船の派遣も要請した。
「水無瀬だな? 本庁、警備救難部長の赤瀬だ。お前は自分がやっていることを自覚しているのか?」
赤瀬は、丹下基地長の言葉に納得せず業を煮やし、自身が直接、水無瀬の携帯電話にかけてきた。
「五年前のリベンジのつもりか? だからおかしくなっちまったのか?」
部下が差し回してくれたワンボックスカーにちょうど乗り込んだ水無瀬は、挨拶抜きでつづける赤瀬の言葉にすぐには反応せず、運転席の部下に向かって身振りで待つように伝えてから車外に出た。
「密輸のダミーに騙されたこと。その復讐? そうじゃないだろ? お前がやろうとしていることは単なる私憤に過ぎない。しかも部下の交通事故死を陰謀扱いにしているそうじゃないか。まともな神経じゃない」
「申し訳ありません。急ぎの職務があります。これで失礼──」
「水無瀬、よく聞け。今、ここに、大臣政務官の山本先生もいらしていて、心配しておられる。その重大さを理解しろ」
「すでにすべてがダイナミックに動いています」
「私の言葉を理解できなければ、業務調整官も捜査隊長もお前を庇いきれんぞ」
業務調整官と捜査隊長がオレを庇う? 水無瀬は鼻で笑った。
「申し訳ございませんが、私が業務統制を受けるのはコクタイキチだけです。それでは失礼いたします」
水無瀬は一方的に電話を切った。
「副隊長、想定通り、秋田県沖で『瀬取り』を行った二隻の被疑船を、『ざおう』(第2管区海上保安本部に属する大型巡視船)が確認しました!」
部下の能勢が応えた。
「能代港へのETA(「陸揚げ」の予測時間)は?」
水無瀬が冷静な口調で聞いた。
「約五時間後です」
それを報告したのは同じく部下の名城だった。
二人とも昇任するよりはコクタイキチで任務に就くことを選び、転属を回避していた。
「インドネシア、フィリピン、ベトナムとマレーシアの共同作戦の船艇、南シナ海から秋田沖までのチョークポイントでステルス配置を継続中!」
「秋田県警、税関、さらにマトリも、能代港近くで待機中!」
「報告します! 能登半島沖、ダンプ・アンド・ピックアップによって“ブツ”を受領した被疑船、日本海を北上中!」
水無瀬は報告を聞きながらすべてが思惑通りに進んでいることにほくそ笑んだ。史上空前の大規模な国際共同作戦、そして国内でも警察、マトリ、税関にしても過去最大の人手を出して、能代港にオールインして作戦が行われているのだ。
満足げな水無瀬は、別の通信機でコクタイキチの情報班と連絡をとった。
「シーガーディアン(無人機)はちゃんと捕捉しているか?」
「もちろん、現時刻で、十二時間四十二分前より被疑船を追尾中だ」
情報班副班長の霧山が語気強く言った。
「バレてる形跡はねえか?」
水無瀬は念のために確認した。
「ない」
霧山は即答した。
(つづく)