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 去年の十一月中旬のことだった。関田基地長からベレー帽を授かり正式に第三特殊救難隊に配属されて二週間くらい経っていた。「今年の大型新人がうちに来てくれた」「頼みにしてるぜ、逸材」みなが口々に歓迎の言葉を口にしていた。潜水バディとなる中沢も「お前となら不安はない」と声をかけてくれた。無口な和田は「歓迎会をしよう」と飲み屋を調べていた。

 十一月も半ばなのに夏日を記録したその日、上空には強い寒気が入り込み、東京湾では天気の急変があるという予報が出ていた。十六時、緊急通報が鳴った。

「オペレーションより緊急通達。千葉県ふつ市沖の岩礁においてプレジャーボートが突風にあおられ座礁、船内外に子供を含む四名が取り残されている模様。第三管区より特殊救難隊に出動要請」

 飲み会の出し物の準備をしていた尾上は一瞬で目の色が変わった。

「出動準備!」

 羽田航空基地のスーパーピューマに資機材を積み込む。ここから現場海域の富津市沖まで四十キロ弱、十分で到着できそうだ。

 陸側からの救助を試みていた富津消防から、現場の映像が入ってきた。隊の小型タブレット端末でその映像を確認する。高さが百メートル近い、切り立った崖の下に岩礁が広がる一帯だ。小型のレンタルプレジャーボートが乗り上げ、岩の上にひっくり返っていた。

 乗船していたのは千葉県在住の三十代夫婦と七歳と六歳の子供だという。現場海域から十キロほど南にあるマリーナから午前中に出港、十五時に帰港予定だった。

 富津沖では十五時前に天候が急変している。マリーナの緊急連絡先に、ボートをレンタルした家族の父親から「船が動かない」と電話が入った。ボートの推進器に漁網が引っ掛かり、推進力が失われて立ち往生してしまったらしい。父親が海に潜り、網をナイフで切っていたところ、天候が急変。船の舵もきかず、陸側に流されたプレジャーボートは横波をもろに受けて転覆し、岩礁にたたきつけられた。船内にとどまるのは危険と判断し、家族は岩礁を伝い、十メートル離れた岩の上へ移動した。波を頭から何度もかぶりながらも、子供を囲んで身を寄せ合う。海面から出ている岩場はゴムボートくらいの広さしかない。

「あと二時間で満潮ですね。富津岬周辺の海面は二メートル近く上昇します」

 中沢が言った。家族がしがみついている岩場は、あと二時間で水没する。水没すれば家族は波にのまれて東京湾を漂流することになる。日没までも三十分しかなかった。

「消防の対応はどうなっていますか」

 尾上が積み込んだ資機材をチェックしながら、関田基地長に確認した。

「現場は高さ百メートルの断崖絶壁だ。レスキューが降下したところで、家族四人を断崖絶壁から引き上げるのは難しい。崖の上は森で獣道しかなく消防車も入れないそうだ」

 海からも陸からも近づけない。あとは空からの救助しかない。操縦席に座ったヘリ機長は厳しい表情をしている。

「現場は風が強すぎる。近づくのもやっとだろう。ホバリング中に突風にあおられたらヘリは岸壁に激突する」

 ホバリングできなければ、四人を順次吊り上げることはできない。

 機長は離陸準備に入った。

「風が止む瞬間を狙うしかない。子供が二人もいるんだ」

 行かない、という選択肢は機長にはないようだが、乗組員や隊員を危険に晒すかもしれず、決断は苦しそうだ。

「行きましょう。行ってから考える」

 尾上が後押しした。行かなきゃ始まらない。舷太は口出ししなかったが、腹で覚悟を決めていた。

 日没まで十分に迫ったところで、スーパーピューマは現場海域に到着した。切り立った崖上の木々の隙間に消防隊員が見える。命綱を張りながら下をのぞき込み、どうやって救助するかシミュレートしている様子だ。

 舷太は双眼鏡で岩場を見た。岩場は潮に満たされ、より狭くなっていた。両親は子供たちを濡らさないように抱っこし、身を寄せ合って震えている。両親とも腰から下が海水につかっていた。

 急速に入り込んだ寒気のせいで気温は急降下し、十一度しかない。突風と荒波で水温が低い海底の層と撹拌かくはんされ、海水温も下がっているはずだ。両親はガタガタと震えている。

 父親がヘリに向かって大きく手を振っている。だが近づくほどにダウンウォッシュの風がかかる。母親の方は吹き飛ばされそうで、父親が必死に彼女の肩と子供たちをつかんで耐えている。

 尾上が降下しようとヘリの扉を開けた瞬間、目の前の断崖絶壁から衝撃波のようなものがきて、ヘリが縦に横に激しく揺さぶられた。

「旋回、高度上げる」

 副機長が復唱し、ヘリは現場に尻を向けて横須賀方面へ機首を向けた。旋回しながら高度を上げる。降下準備に入っていた和田と中沢が尻もちをつき、舷太はヘリの床を転がった。

「岸壁に吹き付けた風の跳ね返しだ」

 機長が怒鳴った。

「風が止むのを待ちますか」

「いや、空からの救助はどう考えても無理だ」

 舷太は窓に張り付き、岩場に取り残された家族を見つめた。こちらに顔を向けている。表情は見えない。舷太は胸が張り裂けそうだった。尾上は運用司令センターに集まっている情報を確認し、次の作戦を考えている。

「巡視船いずがそろそろ現場海域に到着するそうだ。いずの甲板に着船してもらえませんか。我々は海面からの救助を試みます」

 巡視船いずの了承を得て、スーパーピューマは巡視船いずが航行する横浜市南沖海上に行き先を定めた。そのヘリ甲板に着船する。

 巡視船いずは東京湾の中で最も狭い浦賀水道を横切っているところだった。横須賀港がみるみる小さくなり、富津岬が眼前に迫る。このさらに南側、富津市と鋸南町きよなんまちとの境界付近の岩礁が海難現場だ。

 すでに日は落ちている。双眼鏡の度数をいくら上げても、家族の姿は見えなかった。

「ここから水深四メートルの浅瀬だ。巡視船は進めない。こっちが座礁する」

 現場の岩礁から巡視船いずの現在地まで、まだ三キロ近く距離があった。巡視船いずは投錨し、小型の警備救難艇を海面に下ろした。尾上と和田、中沢、舷太はウェットスーツに着替え、フル充填の空気ボンベを背負って乗り込んだ。他に、警備救難艇の操船にベテランの潜水士ひとりと、見張りに新人の海上保安官一名が乗り込んだ。まだ二十歳の彼ははやし琥太こた ろうと名乗った。頬が赤くて顔のラインがふっくらした、中学生みたいな青年だった。舷太に目を輝かせる。

「僕、トッキューに憧れて海上保安官になったんです。いつか僕も――」

 巡視船いずの潜水士が咎める。

「後にしろ。子供が救助を待ってんだぞ」

「すみません」

 現場は風が徐々に弱まってはいるが、波は高いままだ。身軽な警備救難艇は全速で現場海域へ突き進む。大型の巡視船より速力がある警備救難艇は波の頂点から波間に落ちて海面に叩きつけられる。舷太らは何度も水飛沫や高波をかぶってびしょ濡れになった。新人の琥太郎はずぶ濡れになりながら、振り落とされまいと必死に手すりにしがみついていた。

「おい、ライト!」

 潜水士に怒鳴られ、琥太郎はへっぴり腰で立ち上がった。滑って落水しかける。舷太が腕を引いて助けた。

 巡視船いずはみるみる遠ざかり、投錨中を示す電子掲示板と赤と緑の点滅する灯火が見えるだけになった。その背後には横須賀の夜景が山に向かって広がっている。目の前の房総半島は荒々しい崖が暗闇に溶け、房総の山々がうずたかくせり上がる。いまにもちっぽけなボートに乗る海上保安官たちを飲み込みそうな、こんもりした闇が広がっている。

「おかしいな」

 操舵桿を握る潜水士がつぶやいた。彼はギアを落としていないのに、警備救難艇の速力が落ちていた。尾上が立ち上がり、計器を確認する。

「推進器にトラブルか」

 速力が出ていないと、小型の警備救難艇は波にもてあそばれるだけになる。尾上が船尾についた船外機のプロペラを覗き込んだ。

「なにか絡みついてる。いったんエンジンを切ってくれ」

 尾上は水中ナイフを片手に、シュノーケルをくわえ水の中に入った。中沢は船首部から双眼鏡で、現場の岩礁を確認している。

「おそらくあれが要救助者だ。たまに動いている。ここからあと百メートルくらいか」

 生きているのか反応を見たい。中沢はライトを点滅させたり、笛を吹いたりした。耳を澄ませる。かすかに子供の泣き声が聞こえただろうか。「おーい」という低い声、「こっちよ」という甲高い悲鳴も聞こえてきた。

「よし。がんばってくれている」

 中沢が舷太の目を見た。今日、初めてバディを組む相手だが、志は同じだ。彼が何をしようとしているのか、手に取るようにわかった。舷太は大きく頷き、空気ボンベのエアーを確認した。

「エアー確認よし。ボンベ背負う」

 フィンを履き、ゴーグルを装着する。巡視船いずの潜水士が心配する。

「波高もまだありますよ。潮流も速そうだ。普通に泳ぐのとは違います」

 琥太郎が口を出す。

「たったの百メートルです。トッキューはこれくらい、どうってことないっすよね」

 中沢は尾上に、泳いで現場に行くことを伝えようとした。尾上は推進器の下に潜ったまま、なかなか浮上しない。

「もう行きましょう」

 舷太は中沢を急かした。中沢は隊長の許可なしで行っていいのか、考えている。要救助者たちの叫び声が聞こえてきた。

「早く来て、流される!」

 中沢は舷太にOKサインを出した。

「水面よし!」

 順次、海に潜った。

 

 予想以上に海中は潮流が速かった。少し体の力を抜けばあらぬ方向に体が流される。富津海岸に向かう流れがあるのだが、たまに厳しい引き波が来てその流れに体を持っていかれてしまう。三メートル泳いでは二メートル戻されるのを繰り返していた。要救助者までたったの百メートルなのに、なかなか辿り着けない。いつもより海にとろみがあり、生臭くて泳ぎづらかった。海底のヘドロやごみ、海洋生物の死骸が浮かび上がってきてしまっているせいだろうか。

 突如、シュノーケルになにかが詰まり、息ができなくなった。舷太は立ち泳ぎしながらシュノーケルに思いきり息を吹き込み、異物を吹き飛ばした。べちゃりと海面に異物が落ちる。グローブの手で取る。海藻か、ヘドロかスライムのような手触りだ。黒緑色をしている。においをかいだ。海苔だろうか。

 先を急ぐ中沢が小さくなっていく。

 早く追いつかなくては。クロールの手に力を込めた。ゴーグル越しに見た海中は真っ暗だ。水中ライトで海中を照らした途端、海中を埋め尽くす海苔網の大群が見えた。網と海苔、木枠が複雑に絡まり合い、延々と海の底まで連なって途切れない。

 途端に口の中に生臭いなにかが入り込み、のどを直撃して張り付いた。呼吸ができない。舷太は慌てて立ち泳ぎし、顔を海面から出した。シュノーケルにまた海苔が入り込んだのだ。激しく咳き込み、海苔と海水を吐き出したが、途端に高波を頭からかぶり、また海水が喉を直撃した。

 落ち着け。訓練してきた。誰よりも。

 舷太はシュノーケルを外し、レギュレーターを咥えた。ようやく呼吸が楽になる。喉がまだ痛み、口の中に生臭いにおいが残っている。進行方向を定めようとした。

 中沢がいない。海難現場も見当たらない。

 幅が五キロ程度しかない浦賀水道にいるのに、波高があるせいか、どこを見渡しても目標物が見当たらない。たったの五キロといえど、身ひとつで海中に漂えば人間はちっぽけな存在だ。絶海に取り残されたように感じる。巡視船にいれば横須賀の米海軍基地や富津岬だって双眼鏡なしで目視できるというのに、いまは次々と頭上を越えて突き上げる波と暗闇のせいで、陸地がどこにも見当たらなかった。

 どちらに向かって泳げばいいのかわからない。背中をとんとつかれた。海苔網の支柱が自分の背中をしつこくつつく。気が付けば自分を取り囲むように海面にびっしりと海苔網が浮かんでいた。それが永久に続いているようで終わりが見えない。海面を泳ぐと絡網する。舷太は潜ったが、とうとう、フィンに網が絡まった。水中ナイフを出し、網を切った。手を動かしているうちに、ボンベや肩にも網が絡まった。いったん浮上し、ボンべを前に担ごうとしたが、網を被った状態で浮上することになった。頭に絡みついた網には黒緑色のスライムのような海苔がびっしりと垂れさがっている。

 拭っても拭っても、囲まれ、まとわりつかれる。頭の海苔網をようやく拭い取ったと思ったら、両足が網でがんじがらめになっていた。フィンの足をかくことができない。舷太は沈み始めていた。落ち着け。レギュレーターを咥えている。酸欠し溺れることはない。

 いったん退避だ。だが警備救難艇はどこにいるのか。巡視船いずはどこだ。右も左も、前も後ろもわからない。東西南北はどうだったか。空が見えた。雲の切れ間に小さな星の瞬きがひとつある。もうすぐ天候は回復するだろうが波はすぐには収まらない。沈んでいく。エアー残量を確認した。焦りによる過呼吸で、もう半分も残っていない。エアーを無駄に消費しないためにも、浮上するべきだった。海面を見上げる。海苔網が漂い海面を埋め尽くしていた。浮上できる隙がない。グローブの手で海苔網をかく。かいてもかいても網は途切れない。一体、何メートルの長さがあるのだろう。

 気が付けば水中ライトも、水中ナイフも落としてしまっていた。手が黒緑色のスライムだらけで滑るのだ。エアー残量を確認する。大幅に減っていた。息をこらえてエアーの節約を試みるのだが、恐怖で叫びだしたくなり、すぐ酸欠になる。

 海上保安庁の特殊救難隊が最も誇れるもの。それは、発足から五十年を迎えてもなお、殉職者をひとりも出していないことだ。自分が第一号になってしまう。こんなむなしく苦しい死に方はない。恥ずかしい。こんなに無様にもがいた状態で、真綿で首を絞められるように死んでいくしかないのか。

「舷太、どこにいるー!」

 尾上隊長の声が聞こえただろうか。幻聴か。自分がいまどんな状態なのかさっぱりわからない。グローブの手をぴんと天に突き出してみる。波間に落ちた舷太は顔が一瞬、海面に出ていた。黒い海面に白い光の帯が差し込んだ。

「助けて」

 舷太を通り過ぎた光が、再び戻ってくる。かっと舷太を照らした。警備救難艇の照明だ。

「助けて」

 舷太はレギュレーターを吐き出し、大きく息を吸った。力の限り、叫ぶ。

「助けてー!」

 

 天候が回復し、ガルフは半日遅れで新千歳空港を飛び立った。ジンギスカンを二人分食べた尾上は機内のシートで熟睡している。中沢は土産に買った白い恋人をつまんでいた。

「これ新作かな。食ってみる?」

 舷太に紫色の白い恋人を突き出してきた。

「北海道ワイン味だって」

「あの、中沢さん。富津沖のプレジャーボートの転覆事案って、結局、どうなったんでしたっけ」

「え、どれのこと」

「俺が去年、初出動したやつです。海苔網の」

「ああ。思い出したんだな、出動したこと」

「はい……」

「実はもうずーっと、シロウト・トッキューじゃなかったこと」

「いえ、僕はシロウト並みに能力がない、名ばかりトッキューです」

 中沢は白い恋人の箱をしまい、今度はバター醤油かきもちの袋を開けた。カリカリ、ぼりぼりとのんきな音を立てる。

「富津の転覆事案は、六隊に追加招集がかかっていた。俺たちが海苔網地獄にはまって身動きが取れなくなっていたころ、ちょうど風も弱まったんで、スーパーピューマで六隊が再チャレンジ。無事、家族四名を吊り上げ救助した。岩礁に乗り上げたボートは翌日にはバラバラになってた。あの家族は無事生還できてよかったよ」

 ちなみに、と中沢がつけ加える。

「流出した海苔網の被害総額は億超えたらしいよ。富津沖の海苔網設置海域に件のプレジャーボートが流されて、支柱を倒し海底の錨と網をつなぐロープを幾本も切断してしまった。荒天の影響もあって、かなりの数の海苔網が現場周辺に漂流して海中にも浮遊している状態だった。昼間だったら目視でわかっただろうけど、夜間じゃ無理だ」

「中沢さんは誰に助けられたんですか」

「いずの警救艇。尾上隊長は推進器に絡まっていたのが海苔網だと気が付いて、撤退すべきと慌てて浮上したんだ。ところが海苔網が流出している海域に俺たちは勝手に泳いでいってしまった。こんな場所を泳いだら死ぬと隊長らは必死に俺たちを捜してくれた。巡視船いずの新人君がボートフックで海苔網をかき分けながら、慎重に先を進んだ」

「林琥太郎君ですよね」

 口に出した途端、苦みが広がるようだった。

「そうそう。俺が引き上げられたあと、海面で海苔網に簀巻き状態で身動き取れなくなってるお前を林君が発見して、俺と尾上隊長とで引き上げようとしたんだ。ところがお前はパニックになっていて暴れるもんだから、俺が一発殴って気絶させてから、引き上げた」

 中沢は力なくへらへら笑った。

「ごめんな。あの一発でお前、記憶飛んじゃったのかな。だからびっくりしたよ。一か月経ったころにシロウト・トッキューなんて話が出ちゃってさ」

 舷太は深呼吸した。

「いえ、殴られたことが原因ではないです。恥ずかしくて恥ずかしくて、自分の頭から記憶を消し去りたい一心でした。僕は、海上保安学校を出たての新人乗組員の彼に、助けて、って叫んでしまったんです」

「………」

「これはトッキューの恥です。僕は特殊救難隊の看板に泥を塗ってしまいました」

「お前さ」

 中沢はいったん言葉を切った。なぜか彼の顔は赤くなっていた。

「やっぱいいや」

「なんですか。気になります」

「寝る」

 中沢は立ち上がり、後方のシートに移動してしまった。どこからかくすくすと笑い声が聞こえてきた。尾上だった。立ち上がり、舷太の隣に移動してきた。

「あの日はさ、中沢だって林君に叫んだんだ、助けてぇ~って」

 意外だった。中沢は自力で警備救難艇に泳ぎ着いたと思っていた。

「泣きべそかいて、林君に助けられていた」

「そうなんですか……」

「いま、中沢はプライドがずたずたに傷ついただろうな。助けて、と言ったことを深刻にとらえていたお前に比べて、あいつはそんなことすら忘れていたんじゃないか」

 舷太はどういう顔をしていいのか、わからなくなってしまった。

「だってよ、助けて、と叫ぶのは、当たり前のことじゃないか。誰よりも危険な場所に向かわなくちゃならない俺たちが、どうして『助けて』を禁句にしなきゃならないんだ」

 舷太は鼻の奥がつんと痛くなってきた。

「俺は正直さ、お前がうちの隊に配属が決まったとき、経歴を見て怖気づいたね。お前は欠点がなさすぎて、怖かった」

「そうなんですか」

「体力知力精神力、どの項目を見ても満点。オールA。しかも性格もめちゃくちゃいい。普通、こんだけ能力があると天狗になるんだが、謙虚で人を見下すこともなく、先輩に従順で素直。プライベートも充実。海上保安学校時代から、失敗したことがない。失敗したことがないやつは怖いんだ。失敗を乗り越える能力が育ってないから」

 斜め向かいに座っていた和田副隊長と、目があった。彼は心配そうにこちらを見ていたが、目が合うと、ちょっと微笑み、新聞に目を落とした。彼もずっと舷太を心配してくれていたのだろう。

「だからな、海苔網事故の件はよい経験になっただろうと思った。しかしお前はいつの間にやら当時のことをなかったことにし始めた。ごまかしているのかと思ったが、そんな卑怯な性格でもない。対応に困ったよ、俺は」

 尾上は、舷太の海苔に対する反応までよく見ていた。

「俺の奥さんがおにぎりに使う高級海苔すら、生臭いと言って顔をしかめる。海苔網事故が相当なトラウマになっているとわかった。天狗になっている奴だったら、それみたことかと頭をはたいて終わりだが、お前は一時的だろうが記憶まで失っていたから、余計に深刻だった」

 当番のときでも他の隊や別の隊員を出動させるように関田基地長は配慮した。米原子力潜水艦事案に出動させたのは、しごく簡単な任務になるとあらかじめ基地長は知っていたからだ。ほぼ同時期に起きていたコンテナ船荷崩れ事故対応を舷太から外すのにちょうどよかったから引き受けたらしかった。

「本来なら、機密文書を緊急で本国に持ち帰ることくらい、米軍が自力でやるところだが、相談を受けた基地長が敢えて引き受けた」

 機長からアナウンスが入った。まもなく離陸態勢に入るという。

「というわけだ、舷太。これからも助けるから、助けてと言え」

「はい」

「お前も助けてくれよ」

「もちろんです」

「帰ったら新人隊員がうずうずして待ってる。お前の経験を伝えてやれ」

「はいッ」

 眼下に羽田空港の滑走路が現れる。特殊救難隊基地の建屋が一瞬見えた。

 

 

(了)