今年の夏は暑すぎた。連日、気温が三十五度を下回らない。体感では四十度を超している。暑すぎて海水浴場は閉鎖するところが増えた。レジャーを伴う外出は命の危険があると報道されるようになり、海に出る人が減るとレジャー事故も減った。特殊救難隊の出番はなかった。大きな台風の上陸もなかったが、西日本の一部地域で大規模な水害があった。濁流に押し流された車や家屋に多数の人が取り残される事態となり、地元の警察、消防や自衛隊では間に合わず、特殊救難隊にも出動要請がかかった。舷太は手を挙げたが、選ばれなかった。
選抜された同期の富沢は、家屋の屋根に取り残された一家四人と犬三匹を救出した。一か月後には家族からお礼の手紙が届いていた。富沢は目を赤くしてその手紙を読み、大切に懐にしまっていた。
八月末、山梨県と神奈川県の県境にある相模湖畔は標高のせいか涼しく感じる。都心は今日も三十五度を超えていた。舷太は隊の自転車にまたがり、相模湖畔で新人隊がやってくるのを待っていた。
先週から特殊救難隊新人隊員の最終テスト期間が始まっている。五ノットの流れがある人工波プールでMSF装備を身に着け一キロ泳ぐとか、フル充填三十キロの空気ボンベを担いでサーキット訓練をするとか、連日、体力の限界まで新人隊員を追い詰める。ボロボロの体で最終日に臨むのが、百キロ行軍だ。
今朝がた、新人隊員は大月を出発した。二十四時間以内に羽田特殊救難基地へ自力で帰投しなくてはならない。持参していいのは水分や薬だけ、緊急時のために金を持っているが一円でも使ったら失格だ。連日のテストで体力の限界はとっくに超えている。百キロ行軍は精神力で乗り越えることになる。
舷太のときは、早くにゴールして休みたいと思って、スタートの大月駅から走り続けた。足の筋肉はなんとかこらえてくれたし、心肺も特に問題はなかったが、多摩川を越えて東京都に入ったところで足の裏の皮が一枚剥けてしまった。絆創膏を何枚も貼り、靴に血をにじませながらゴールした。
懐かしく思い出していると、新人隊のトップバッターが張り切った様子で相模湖を通過していった。舷太が立っているポイントは国道と県道、町道が交差している。
「道、間違えるなよ」
新人にエールを送った。先輩隊員は安全配慮のために各ポイントに立つ。二番手の新人は競歩みたいな足取りで、「ちっす」と挨拶をして通り過ぎていった。残る三人は体力温存のためか、相模湖の雄大な景色を眺め深呼吸し、気持ちよさそうに歩いてくる。
「時間よく見とけよ。タイムオーバーしたら、即、管区に帰ることになるからな」
舷太は先輩面している自分が情けなかった。彼らは来週にはベレー帽を貸与され、配属される。舷太は先輩隊員だ。舷太が三隊に配属されたとき、一期上の先輩隊員はいろんな経験談を聞かせてくれた。
舷太には、後輩に語って聞かせてやれる経験が、まだひとつもない。
最後のひとりが通過し、舷太は次の配置地点である日野市に向かう。自転車を軽トラックの荷台に積み、中沢の運転で甲州街道を東へ走った。途中、新人たちを追い越す。車窓からメガホンでエールを送った。
「なんかお前、声が暗くねぇか」
中沢が苦笑いした。
「いや……。自分の行軍を思い出していたんですよ。つい去年のことですから」
救出した高校生から手紙をもらい感涙していた同期の富沢は、百キロ行軍のとき狛江市で精魂尽き果てていた。彼はコンビニでおにぎりを買おうとした。一円でも使ったら失格だ。舷太は購入を思いとどまらせた。
“足が勝手に止まるんだ。失格でいい。食わないと、もう一歩も動けない”
泣き言を繰り返す富沢をなだめ、バンテリンクリームを彼の足にたっぷり塗ってマッサージをしてやった。痛みが落ち着くと、食欲を我慢する気力も湧いてきたようだ。再び走り出した。
「あれがなければお前は新記録でゴールできたのに、ごめんな」
富沢はゴール後に舷太に謝っていた。
舷太は車内でため息ばかりついていた。次の配置地点である狛江の中継地点で五人の新人が通過していく。日付が変わり、夜も更け始めた。一番手の新人を多摩川のガス橋のたもとで見守る。中沢のスマホが鳴った。基地で待機している尾上隊長からだった。
「すぐに基地へ戻れ。小樽沖で漁船とスクラップ運搬船が衝突したそうだ」
羽田航空基地からガルフに乗り込み、一路、北海道に向かった。第一陣として出動できたのは尾上と中沢、舷太の三人だけだった。ガルフの機内で海図を広げ、情報を整理する。
「現場は小樽港から北へ十キロの石狩湾内だ。漁船は小樽漁業組合所属の巻き網漁を行う、全長三十メートルの二十トン漁船、第三雄黄丸。乗組員は船長以下三名」
一六〇三に第三雄黄丸は小樽漁業組合へ帰港予定時刻を伝えている。大漁旗をあげている、と船長は嬉しそうに伝えていたそうだ。だが沖合十キロ地点で雨雲が急激に発達、降雨と水飛沫でいっきに視界不良に陥った。風が強くなり波高が出てきたとき、ロシア船籍のスクラップ船と衝突した。双方の見張りが不十分だった可能性が高い。
「スクラップ船は舳先に損傷は見られるが、自力航行は可能だ。現在は巡視艇すずかぜが船長から事情を聞いている。問題は横腹を突っ込まれた第三雄黄丸だ。船倉に大きな穴があき、大量の魚が海へ流出、バランスを崩して転覆した」
「まだ沈没はしていないんですね?」
「一七〇〇現在では。到着するころにはどうなっているかわからない」
「漁船側の乗組員は」
「巡視艇すずかぜによると、救命ボートは出ていない」
転覆船内に乗組員三名が閉じ込められているのか。
新千歳航空基地に二時間で降り立つ。舷太と中沢は出動バッグを背負い、資機材を抱えて、待機していた中型ヘリコプター、シコルスキー76D型に乗り込んだ。八月末の北海道は夏が終わり、夜間は十度を切る。出発地の羽田空港は三十度近かったのに、日が落ちた新千歳の気温は十二度しかなかった。
シコルスキーが北の大地を飛び立つ。豊かな自然に囲まれた札幌市街地を飛び去ると、すぐ先に石狩湾が見えて来た。海難現場が近づいてくる。
舳先がつぶれたスクラップ船は大量の鉄くずを積載している。上空から見ると茶色い錆が目立つ老朽船に見えた。
すぐ脇に小樽海上保安部最大の巡視船えさんがいる。潜水隊が所属している巡視船ほろべつも到着していた。
第三雄黄丸は船の横腹を損傷して浸水、いまは船尾部のみが海面から空に向けて顔を出している。船首部は海底に衝突する寸前で、海面とほぼ直角に浮かんでいる状態ということだ。
巡視船ほろべつの潜水士たちが沈没しないよう、船体に浮体を取り付けている。すでに日が暮れかけていた。日没前に船内捜索をし行方不明者を見つけたい。
海難を聞きつけた小樽漁協所属の他の漁船や、海難救助のボランティア団体である水難救済会の船が多数現場海域に出て、行方不明者を捜索してくれていた。
一七時五六分、シコルスキーは巡視船えさんの甲板に着陸した。舷太ら三人は機内でウェットスーツに着替えている。フィンを首から下げ、フル充填のエアーを担いで、巡視船えさんに搭載されている小型の警備救難艇に乗り替えた。
警備救難艇を操縦するのは、巡視船ほろべつの潜水士だった。早速、情報共有する。
「浮体装着完了しましたが、該船は極めて不安定な状態です。浮かんでいる船尾部には機関室があるようです」
「打音反応は」
「ありました。生存者は機関室内にいるものと思われます」
巡視船ほろべつの潜水士は漁業組合から船内図を手に入れていた。防水加工してあるので、海中に持っていくことができる。
「現場海域は潮の流れが速く、また、海上の天候も不安定で、いつ雨雲が発生し突風が吹くかわかりません。浮体のみで浮いていられる時間はもって三十分。天候が急変した場合は十分持ちません」
いつ沈み始めるかわからない船内での捜索は危険が伴う。いったん沈没を始めると船内に急流が発生し、身ひとつで船内にいる潜水士は船体に叩きつけられたり、船内の漂流物とぶつかって大けがをすることもある。海底に船が衝突すれば船内のあちこちがひしゃげ、出口が塞がれ閉じ込められる。船体に挟まれて死ぬことだってある。
船内に異変が見られたらすぐさま脱出しなければならず、潜水士に猛烈なプレッシャーがかかる。強靱な体力と的確な技術、瞬時の判断力、そしてなにがあっても冷静でいられる精神力を備えていないと、転覆船内に入ることはできない。トッキューの出番だ。
舷太はシュノーケルをくわえた。尾上、中沢に続いて、警備救難艇の船べりに立つ。
「水面よし」
海に入る。転覆船まで泳ぎ着く。船尾部によじ登った。『第三雄黄丸』と達筆な黒い文字が記されている。中沢がハンマーで船体を三度連続で叩く。北風が冷たく吹き付け、あたりが静まり返った。
ドン、ドン、ドン。
確かに船内から叩き返しがあった。
「打合せ通りだ。行け」
尾上は海上待機。中沢と舷太が転覆船に進入し、生存者を救出する。中沢が先に潜行した。舷太は巡視船ほろべつの潜水士から渡された船内図をもう一度確認し、レギュレーターを咥えた。潜水士が、出入り可能な扉をロープで固定してくれている。その場所を何度も確認する。
「舷太」
尾上に呼び止められる。
「訓練通りにやれ」
「はい、いってきます」
舷太も潜行した。第三雄黄丸は全長三十メートルある。縦に浮かんでいる船に沿うようにして潜っていく。船内へ安全に進入できる出入口は船首部の甲板にあるハッチだけだったから、三十メートル潜らないといけない。五メートル潜った先には船橋があった。ガラス窓が割れていて開口しているが、残ったガラスの破片が方々から突き出ていて出入りは不可能だ。割れた窓から、壁に据え付けられた空っぽの神棚が見えた。榊や安航祈願のお札が浮遊している。
さらに十メートル潜った先に、へこんでひしゃげた穴が見えた。歪んだ開口部は漁で獲った魚があふれ出ている。餌を求めた他の魚が密集し、死んだ魚をついばんでいた。何度追っ払ってもやってきてしまうので、ここから入ることはできても、要救助者を抱えて脱出することは不可能だった。
二十メートル、二十五メートルと船に沿って潜行した。目印の黄色いロープが手招きをするように揺れている。係留装置や魚を仕分けするコンベアなどが設置された船首部甲板に、ハッチがあった。巡視船ほろべつの潜水士が言ったように、扉は開いた状態で固定してあった。係留装置の周辺はロープや魚網が漂っている。中沢はそれらを回収し、船の手すりに括りつけて、舷太が追いつくのを待っていた。
ハッチの前は、船内へと流れ込む圧流を感じる。大人ひとりがようやく抜けるくらいの大きさしかなかった。
中沢が一番手で入る。背中に背負ったボンベを前に抱えて、身をよじらせた。なめらかに船内へ入っていった。
舷太は四角い枠に手をかけて、船内の様子を覗く。ハッチの奥はそれなりの広さがあるようだ。中沢がボンベを背負い直し、こちらに親指を立てた。舷太もボンベを前に抱き、狭いハッチに頭と肩を突っ込ませた。肩が引っ掛かる。もがきながらもなんとか船内に進入した。
再びボンベを背負う。中沢とアイコンタクトをした。
船内の船首部地下一階には乗組員の居住空間がある。通路を浮上するようにして先へ進んでいく。居住空間の扉を中沢が開ける。
六畳ほどの部屋の壁には大漁旗が二枚、壁に張り出されていた。第一雄黄丸と第二雄黄丸のものでどちらも色あせている。ソファセットや簡易ベッドがもたれかかってくる。白いシーツが妖怪の一反木綿のように浮遊していた。デスクを中沢と動かしたとき、乗組員を発見した。薄目を開けて動かない。白い口ひげに囲まれた唇は色を失っていた。中沢が脈を取る。首を横に振った。生存者救出が最優先だ。いったん遺体の揚収は見送る。
中沢は先に部屋を出ていった。舷太も続こうとして、船体が傾ぐ鈍い音がした。低くくぐもったその音は、亡くなった乗組員の声のようだった。呼び止められた気がして、思わず足を止める。水中無線機から海面にいる尾上隊長の声が聞こえてきた。
「雄黄丸の機関長は海に投げ出され、湾内を漂っていたようだ。水難救済会のボートが救出した。取り残されているのは船長と新人乗組員。新人は船長の孫で、今日が初めての漁だったらしい。氏名は小久保大翔、十六歳」
舷太は船長の遺体に合掌し、中沢と合流した。十メートル、二十メートルとさらに通路を浮上した。機関室へ急ぐ。通路には魚倉に納められていた魚があふれ出ていた。船体の隙間から入り込んだ魚たちが、死んだ魚をついばんでいる。サクラマスが、ホッケの死体をつついていた。食い散らかした魚のカスが舞う中、舷太は海面近くにある機関室に向けて浮上していく。鍋が割れた蛍光灯に引っ掛かっている。コンロの五徳、玉ねぎのかけらが浮遊し視界を濁らせた。海の中では人間は主役になれないのだとふと思う。
魚倉を抜けた先に電子基板が並ぶパネルがあり、機関室の扉を見つけた。パカパカと水流に身を任せていた。舷太はドアノブと廊下の手すりをロープで固く結索した。
退路確保。中沢と親指を立て合い、いよいよ、機関室の中へと浮上していく。
中沢が先に空気の残った空間に顔を出した。舷太も浮上する。
「海上保安庁です、助けに来ました」
レギュレーターを口から外し、中沢が名乗った。空気の層は予想以上に狭かった。船尾側の壁が天井になり、機器は水没している。小久保大翔はエンジンの一部に腕を絡ませ、かろうじて浮いている状態だった。救命胴衣はなにかに引っ掛かったか、破れてしまっている。頬にびっしりとニキビ跡が残る。彼はまだ十六歳、子供だ。
「小久保大翔君ですか」
中沢の問いに、大翔はうっすらと目を開けたが、頷く元気もないようで、また目を閉じた。舷太は大翔の肩を揺さぶり、覚醒させようとした。
「やめろ」
中沢に腕を掴まれた。
「覚醒してパニックになられたら救助に手間取る。このまま面体をかぶせて船外脱出させる方が安全だ」
舷太はダイバーズウォッチを見た。潜水開始からすでに十分が経っている。エアーは充分あるが、要救助者の分を合わせるとギリギリだった。舷太はすぐさま装備バッグから要救助者がつける空気呼吸器の面体を取り出した。大翔は腕の力が抜けていまにも沈みそうだ。中沢が抱え救命胴衣を脱がせた。ここから三十メートル潜行するには浮力が残る救命胴衣は邪魔なのだ。面体を頭からかぶせようとした。大翔が薄目を開けた。かっと目を見開く。
「やめろ、うわー、やめてくれ!」
「海上保安庁です。落ち着いて。助けに来たんです」
「じいちゃん、じいちゃん」
「大丈夫です。船から出ましょう」
「助けてーッ」
大翔の叫びに舷太の全身の毛穴が総毛立った。血の気が引いていく。走馬灯のように、黒い海面と白い光が脳裏によみがえった。これは、なんだ。
中沢は、パニックになって暴れる大翔を落ち着かせるのに手一杯の様子だ。自身のゴーグルを取り、ウェットスーツのフードも取った。
「大丈夫。ここから出よう。僕らが一緒だから怖くない」
中沢が少年に言い聞かせた。大翔はようやく落ち着きを取り戻す。だが呼吸は荒くなっていく。五十センチもない空気層に三人がいる。舷太も息苦しい。瞬きをするたびに、黒く荒れた海原と白い光がちらつく。一体これはなんだろう。酸素不足、二酸化炭素中毒による幻覚か。いや舷太はエアーを吸っている。酸素不足のはずがない。中沢が声を荒らげた。
「おい、早く面体つけろ」
「は、はい」
大翔はぎゅっと目を閉じて震えていたが、面体を装着してエアーの供給を開始した途端、呼吸が楽になったのだろう、青くなっていた顔に生気が戻っていく。
「俺とお前はバディブリージングだ」
「はい」
舷太の額を次々と汗が垂れ、眉毛を乗り越えて目に入った。目をこすった舷太を見て、中沢は変な顔をする。水温は十度に満たない。寒冷地用のドライスーツではなく、水を通すウェットスーツで潜水しているので、中沢は寒さでかすかに唇が震えているのに、舷太は汗が止まらない。息苦しくてたまらなかった。
「お前から吸え」
中沢はエアーなしで大翔の肩を抱えて、潜行していった。魚が密集する食堂付近で中沢にレギュレーターを譲る。舷太は三分近く息こらえができるが一分持たず息苦しくなった。居住空間の前を通りかかった。この扉の向こうに、大翔の祖父がいる。息苦しさの限界に達し、舷太は苦しみ抜いて中沢の肩を叩き、エアーを譲ってもらった。
圧流が激しい船首部ハッチから船外への脱出が最難関だ。要救助者を抱えている中沢に舷太はエアーを譲り、圧流に逆らいながら、身をよじってもがき船外へ出る。息をこらえ始めて三十秒。もう苦しい。手探りでハッチの外に手をやり、係留装置から垂れさがるロープを掴んだ。必死に握力と上腕筋の力で身を乗り出し、なんとかハッチの外に出た。呼吸は限界を超えていた。考えるな。考えると酸素を消費する。黙って中沢と要救助者が脱出するのを待て。
目を閉じた。また黒い海面と白い光が見える。遠くに陸のような黒い影も見える。この景色はなんなんだ。目を開けた。星がちかちかと舞っている。おかしい。海中にいるのに暗すぎる。水中ライトを照らしてみるが、少しも明るくならない。
あの圧流で要救助者を押しながらハッチの外に出るのは難しいから、舷太が要救助者の手を外から引っ張ってやらねばならない。
だが暗すぎてハッチの向こうが見えない。手探りで大翔の手を探す。ぐわっとグローブの手を掴まれた。それは猛獣にかみつかれたかのような、本能的な感触だった。生きる、死にたくないという大翔の思いが伝わり、それは舷太の力になる。苦しさを忘れて、大翔の手を握り返した。フィンの足を船体について踏ん張り、いっきに大翔の体をハッチから引き抜く。隣に、大翔のもう一方の手を引く潜水士がいた。尾上隊長が援護に来ていた。隊長は大翔の体を引き抜いて抱きかかえると、すぐさま自分のレギュレーターを舷太の口に突っ込んだ。
少しずつ視界が明るくなってきた。星の瞬きも消えて、ハッチから身を乗り出した中沢の姿が鮮明に見える。
海面までの三十メートルを慎重に浮上する。要救助者、中沢と続いて、舷太は海面から顔を出した。
「生きてるぞ!」
「やった!」
巡視船や漁船に取り囲まれている。乗組員たちが拍手をしていた。小樽沖の海は雲がすっかり取れて、夏の夜空に大三角形が輝いていた。
浮上した尾上に肩を叩かれる。
「よくやった。シロウト・トッキュー卒業だな」
翌日には追加招集された第四隊が船長の遺体を揚収し、特殊救難隊は後の捜査を第一管区海上保安本部に引き継いで、撤収した。
夕方にも新千歳航空基地からガルフに搭乗し、羽田特殊救難基地に帰投する。先に夕食を食べることになり、尾上と中沢、舷太の三人で、新千歳空港ターミナルに入った。中沢はショップで白い恋人や六花亭のバターサンドを買っていた。足もとに紙袋を並べ、大きなバターが乗った札幌ラーメンを盛大にすすっている。
「舷太、ジンギスカンでも食うか」
尾上に誘われ、有名ジンギスカン店のテーブル席に座った。溝が複雑に刻み込まれた丸い鉄鍋がコンロの上に準備され、火がつけられた。尾上は食べ慣れているようで、鍋の周りに野菜を敷き詰めた。氷がたっぷり入ったコーラが二つ配膳される。
「あーあ、今日は休暇にしときゃよかったかな。ビールの一杯くらい飲みたいよ」
尾上はぼやいたが、笑顔でグラスを鳴らす。
「改めて、シロウト・トッキュー卒業おめでとう」
尾上は手早く羊肉を敷き詰め、タレを野菜にかけた。じゅわあとおいしそうな音がして、香ばしい香りが広がる。羊肉の周りが白く泡立ってきた。尾上が手早く裏返し、さっさと口に運んでいく。
舷太も肉をひっくり返したが、口に運ぶ気力がなかった。
「隊長」
「なんだよ、早く食え。どんどん焼かねえと、野菜がおいしくなんねえんだ。肉汁ぶしゃーっと浴びた野菜がうまいんだから」
「俺、トッキューにいていいんでしょうか」
尾上は表情が変わらない。次々と肉をひっくり返し、野菜を包んで口に運ぶ。咀嚼しながら次の肉を並べていく。
「とうとう思い出したんだな。配属すぐの“海苔網事件”を」
(つづく)