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「お、屋上だと!?」
富所が叫んだ。
「無理です、機長。そんなスペースはありません」
隣席のコパイも困惑顔を向ける。
栗本が宣言したのは村役場の屋上への着陸だった。
「後輪を屋上の塔屋に乗せて機体を固定するだけです」
この機体の全長は二〇メートル、胴体の幅は四メートルを超え、さらにメインローターの回転直径は一五メートル以上ある。そのため屋上にそのまま降りようとすればメインローターが突き出た塔屋に激突する。それを避けたとしても機体後部のテールローターが屋上に設置された風速計や気象観測装置に接触してしまう。
さらに屋上には土砂崩れの際に運ばれてきた木の枝などの異物が散乱していた。そもそも屋上の耐荷重は七トンのヘリが着陸するようには設計されていないだろう。
「後輪だけなら塔屋に乗せられます。完全に着陸するわけではなく、ハーフスロットルで風に対抗できるだけの荷重をかけて機体を固定します」
塔屋の高さは二メートルほどだ。その状態で静止できれば特救隊は安全に屋上に降りることができる。
「でもな、塔屋と後輪の幅は同じくらいだ。この強風でぴったり降ろせるのかよ」
「以前、同じような条件で先輩パイロットが成功させた例があります。大丈夫です、やれます」
栗本は即答し、続ける。
「それに、そのために富所さんがいるんですよ」
すると富所は鼻を鳴らして皆に聞く。
「特救隊のみなさん、お願いできますか」
もちろんだ、と声が返ってきた。彼らも心から助けに行きたいと思っていたのだ。すでに降下の準備を始めている。
「一度降りたら、その姿勢を維持しながら要救助者を待ちます。風は強まるばかりで二回はできなそうなので」
突風が襲い、絶えず機体を揺さぶってくるが、栗本は全神経を集中し、冷静に接近させる。
ヘリコプターの操縦は両手両足を高い精度で調和させる必要がある。
右手のサイクリック・スティックはメインローターの傾斜角度をコントロールし、機体を前後左右に水平移動させる。
左手はコレクティブ・ピッチレバーを握る。エンジンの出力とメインローターの迎角を調整し、この場合は降下速度を調整する。
両足はアンチトルク・ペダルで、機体後部に垂直に取り付けられているテールローターを制御している。この機体の場合、メインローターは反時計回りのため、機体は反作用で右回転をしようとする。その力を打ち消すとともに機首の方向を決定する。
風を読み、時にミリ単位でこの操作をする。
距離が五〇メートルほどに近づくと、富所がサイドドアを開けはなち、体を乗り出した。風と雨が機内に入り込んでくる。
「まだ前……まだ前……ちょい前……」
後輪は機体中央部、操縦席から約七メートル後方に位置する。そのためパイロットは接地ポイントを直接目視することができない。富所の声だけが頼りだった。
いまコクピット部分が塔屋を通過した。前方も真下も、黒い山肌だけが見えている。
「前ロク、ハチ……前ゴ、ナナ……」
つまり、五メートル前進、七メートルの高さにあるということだ。
さらに接近。ローターが眼前に迫る大木に接触してしまいそうだ。
「前ヨン、サン……前サン、ニ」
そこを背後から突風が襲った。押される格好になるが、それに抗おうと慌てて機首を立てると機体後部を屋上に打ち付け、テールローターを破損させてしまう可能性がある。
慌てず、水平の機体を保持する。富所はあえて冷静な声で淡々とカウントを続けた。
「後ろサン、ヨン……後ろニ、サン……後ろイチ、イチ……そのまま、下げ……下げ……右三〇センチ……今っ!」
栗本はコレクティブピッチレバーをわずかに押し下げる。それまでたえず揺さぶられていた機体が錨を下ろした船のように静止した。
よし! やった!
とはいえ、本来なら三つの車輪で着陸すべきところを後ろの二輪を接地させているだけだ。つまり後輪の軸を中心にヤジロベエのような状態で前後に傾く。それを最小限にしなければこの場にとどまることはできない。
「お願いします!」
栗本が叫ぶと、二人の特救隊員たちがアルミ製の担架と救命器具が入ったバッグをロープに繋いで屋上に下ろす。そして二人は二メートルほどの高さの塔屋から屋上に飛び降りると、回転しながら着地し、塔屋のドア、つまり機体の真下に潜り込んだ。
***
嘘だろ……と広瀬は思った。しかし、いまこうして階段を駆け上がっていくと、ヘリが空気を叩く音が大きくなっていく。
間違いなくそこにいる!
階段を三度折り返して一番上までやってくると、ドアの鍵を開け、ドアノブを捻った。すると突風がドアを乱暴に開いた。
そこに、オレンジ色の服を着た二人の男が立っていた。
「海上保安庁です! 要救助者はどちらですか!」
広瀬はすぐには返事ができなかった。なにしろ、すぐ頭上に……手を伸ばせば届くほどのところにヘリがいるのだ。まさか塔屋の上に降りるとは思わず、その光景に呆気に取られていたが、我に返った。
「こちらです!」
階段を駆け降り、会議室に飛び込む。
「先生! きてくれました!」
医師もほっとしたようだ。隊員にテキパキと友紀の状態を伝えていく。
「イチ、ニッ、サンッ」
隊員らは掛け声を合わせると、友紀を持参したタンカに載せ替え、手際よく体を固定した。
豊は相変わらず不安顔ではあったが、母親を救いに現れたオレンジ色の男たちを前にして目を輝かせている。間違いなく、この男たちは希望を与えていた。
おそらく二分もかかっていない。隊員らはタンカを担ぐと、水平を保ったまま階段を登っていく。広瀬は、豊の手を引いてついていった。
階段の最上段のところにくると、開け放っていた戸口から、台風とヘリのダウンウォッシュが巻き起こす猛烈な風が入りこんでくる。隊員らは一旦タンカを下ろすと、ここで待つように言って屋上に走り出た。
広瀬は吹き飛ばされないよう豊を抱き寄せる。ここからだと塔屋の上に十メートルの長い庇が出っ張っているように見えるが、決してそうではなく、ヘリの後部に描かれた白地に青いラインと 〝JAPAN COAST GUARD〟の文字が見えた。
隊員が吊り下げの準備をして戻ってきた。タンカにフックをかけると友紀を吊り上げていき、すぐに見えなくなった。
すると、またひとり戻ってきて広瀬に訊いた。
「ご主人ですか」
「あ、いえ。私は違いますが……彼はあの女性の息子です」
隊員は膝をついて豊と目線を合わせた。
「いっしょに来るかい?」
戸惑い気味に広瀬を振り返る。
「いいんですか?」
広瀬は豊を代弁するように尋ねた。
「ええ、機長がそう言っています。離れるのは心配だろうからって」
「ありがとうございます! 豊、お母さんと一緒に行くか?」
豊は力強く頷いた。
「じゃあこっちへ! 危険ですので、みなさんは下がっていてください」
振り返ると、医師や役場職員らが心配そうな顔で集まっていた。
広瀬の手を離れ、隊員に抱き抱えられた豊を見送る。ふと我が子が旅立っていくような寂しさを感じた。
風に煽られているのか、ヘリはシーソーのようにぐらぐらと揺れていて、いまにも落ちてくるのではないかと怖かった。どうなっているのかと思って見上げてみると、屋上に着陸できなかったのか、塔屋の上にソリのような脚を乗せている。
こんな信じられない着陸をするなんて……。度胸だけではない、経験と技術に裏打ちされた操縦で成し遂げたのだろう。
最後に特救隊員を収容したヘリは、ゆっくりと屋上を離れると、向きを変え、これまで敵だった風に帆をかけたかのように、あっというまに北の空に消えた。
半ば呆然として、広瀬は屋上に出た。すぐにずぶ濡れになりながらも、振り返った。
いつもは遠くにあるはずの山肌が随分と迫っているように感じたが、おそらく実際にそうなのだろう。
それにしても、よくもまあ、こんなところに降りてきたものだ。
いまだに土砂崩れの危険は去ったわけではなく、台風の本体もまだこれからだというのに、広瀬はなぜか笑いが込み上げてきた。
友紀は助かる。そう確信していた。
***
机の上に、分厚い手が叩きつけられた。
「お前はどれだけ危険なことをしたのか、その自覚はあるのか!」
憤慨が収まらない様子の羽田航空基地長・志村が、言葉を強調するポイントで二度三度と机を叩いた。
「日頃のご指導と弛まぬ訓練、そしてチームワークをもってすれば救助は可能だと信じておりました」
栗本が、志村から呼び出しを受けた時から用意していた模範解答を澱みなく答えると、腕組みをして睨みつける。
「騙されんぞ。一歩間違えば、クルーの命と国民の税金で贖われた機体を失うところだったんだ! 機長たる者、そのリスクを冷静に評価して然るべきだ」
「はい、それは理解しておりますが……」
栗本は志村に意味ありげな視線を向ける。
「が……なんだよ、その目は」
「その目と言われましても、生まれつきなもので」
「嫌みな顔しやがって」
志村は吐き捨てた。
「子供のころのお前はもっと純粋な目をしていたんだがな。どこでそんなに性格悪そうな目つきになっちまったんだ」
「それは、二二年前に志村基地長の操縦を見てからでしょうね」
「うるさい」
「今回、私は志村〝機長〟の真似をしただけです」
「あのな、あの時とは状況が違うだろうが。俺はベル212、お前はスーパーピューマ225だ。そもそも機体の大きさも重量も違う。さらに212の脚はスキッド(ソリ)で接地は〝線〟だが、225は車輪で接地は〝点〟じゃないか。塔屋に降りるっていってもな、危険度が違うだろうが」
「いえ、でも、あの時の印象が強くて。不安はありませんでした」
志村もかつてはヘリパイで、現役だった二二年前、救助要請を受けて御蔵島に飛んだ。
今回と同様に、台風が接近する中で起きた土石流で着陸地点を失い、村役場の塔屋に降りて要救助者――栗本豊の母親である友紀――を収容したのだ。
志村は椅子を回して背を向けると、立ち上がり、腰に手を当ててのけぞった。
「おふくろさん、亡くなって何年になる?」
「三年です」
「そうか。まだ若かっただろうに」
「そうですね。しかし二二年前、基地長のおかけで母は一命を取り留め、私を育てあげてくれました。それと、広瀬さんと共に過ごした日々は、母の人生で一番幸せな時間だったと思います。すべてはあの救助のおかげです。ありがとうございました」
「しゃらくせえな」
志村は一息ついて振り返る。
「で、島には帰っているのか? 広瀬さんはまだ島にいるんだろ?」
「ええ。相変わらずよろず屋をやっています」
志村は首を傾け、肩を叩きながら、うんうんと頷いた。
「あの時、基地長が助けてくださったり、ずっとパイロットにあこがれていたんです。だから私は海保に入り、ヘリパイになりました。尊敬できる先輩パイロットとして、その背中をずっと追ってきました」
「うるさいな。いい雰囲気にしてごまかそうとしてもだめだぞ」
最後にひと睨みしてから、表情を弛緩させる。
「まあ、今日のところはさっさと飯食って仮眠でもしろ」
「はい、そうさせていただきます」
栗本は敬礼をすると、回れ右をして基地長室のドアを開けた。
「おい、豊」
「はい」
「昨日の要救助者は特に後遺症もなく社会復帰できるそうだ。礼を言っていた。それと、彼女の息子がお前のことを格好いいって言ってるってよ。将来、海保航空の道に進むかもな。困ったもんだ」
志村はまったく困っていない様子でそう言うと、さっさと出ていけとばかりに手を振った。
基地長室を出ると廊下の左の窓からは多くの機体が翼を休める格納庫内を望むことができ、昨日、暴風雨の中を飛んだスーパーピューマは、点検のためにエンジンフードを外されている。
その様子を眺めながらふと思う。不思議な縁だな、と。
栗本がまだ子供の頃、母親が倒れた。
ヘリを待つ村役場で苦しそうな母に何度も声をかけたが反応がない。不安で何度も泣いた。
その時、悪天を突いて海上保安庁のヘリが現れ、母は救われた。
覚えているのはオレンジのツナギを着た男たちの頼もしさと、もうひとつ。
同乗させてもらった狭い機内。機器の隙間から見える操縦席でパイロットが振り返り、親指を立てた手を、ぐっと突き出して見せた。
その笑顔に安堵し、泣きそうになった。
そのパイロットが志村だった。
都心の病院に搬送された母は回復し、島に戻った後、広瀬と一緒に住みはじめた。いつまた倒れるかもしれないからと母は籍を入れなかったが、広瀬もそれを受け入れ、幸せな晩年を過ごしたと思う。
島に高校はないため、栗本は都内の全寮制高校に進学した。それもあって〝家族〟三人で暮らしたのは思えばごく短い時間だった。
そして卒業すると海上保安庁の航空課程に進み、ヘリパイロットになった。そしてこの羽田基地で志村と再会したのだった。
母を救ってくれた縁を結って自分はここにいる。そして自分が救った命はまた次の世代へ受け継がれていくのだろう。
命を救うことは繋ぐこと――コネクテッド――それが、この仕事を続ける意味なのだと思う。
栗本は背伸びをすると、スマートフォンを取り出し、しばらく逡巡してから電話をかけた。広瀬はすぐに出て、いつも通りの快活な声が響く。
「よう豊、元気にしているか? 昨日、島に一瞬帰ってきたんだってな! 今度はちゃんと寄っていけよな」
(了)