羽田基地を出た『いぬわし』は三宅島の東側を大きく回り込んだ。南寄りの風が大島の三原山にぶつかって発生する下降気流を避けるためだ。
栗本はレーダーで気圧の境目を確認しながら、見えない空気の壁を避けるように機体を旋回させた。
普段なら御蔵島の島影が見えるはずだったが、強まった雨のせいで今は全くの暗闇に包まれていた。
目印となるささやかな集落の灯りすら見えてこない。かといって、機首に装備されている照明灯をつけると、雨粒が反射してかえって視界が妨げられる。
ここで現地の最新の情報を受信した通信士が、困惑気味に伝えた。
「まじかよ」
それを聞いた富所も声を失う。
救助を予定していた村役場付近で土石流が発生し、島は電源を消失。そして着陸を予定していたヘリポートが土砂に埋まったという。
しかし栗本は冷静に答える。
「すぐ横に学校のグラウンドがあります」
「あ、そうか。あの島は庭みたいなものか。そっちの状況を確認しよう」
レーダーが島影をとらえた。目視はまだできないが、御蔵島は海から垂直に立ち上がる百メートル前後の絶壁に囲まれた島だ。安易に接近すれば激突してしまう危険性がある。
高度や速度、そして水平感覚すら曖昧で、計器だけが頼りだった。
いったん安全な高度まで上昇し、猛烈な雨風に逆らいながら地上を監視する。
おもむろに、その島が姿を表した。
後席では整備士が機体に取り付けられた赤外線カメラなどを駆使し、その惨状を確認すべく奮闘している。
「機長、こりゃ、やばいよ」
モニターをのぞき込む富所の声がヘッドセットに響く。
飛行中は、機長である栗本が全権限を握っているが、富所はご意見番でもある。
「土砂崩れの規模が思ったよりもでかいな。まずヘリポートは完全に使えねえぞ」
栗本も窓から目視した。
御蔵島はほぼ円錐形をした島で、その中央に御山という標高八五一メートルの伊豆諸島では二番目に高い山がある。島民が暮らす島の北側は南側と比べればなだらかな地形ではあるが、それでも山頂からの傾斜度は崖崩れの危険性が指摘される三〇度に近い。
これまでも台風や地震などで多くの被害を出してきたが、学校で土石流が発生したのは栗本が知る限り二度目で、一度目は栗本が子供の頃だった。
「グラウンドの状況はどうですか?」
「校舎自体は大丈夫そうだが、グラウンドにも土砂が流れ込んでいる。着陸できるスペースはあるが、問題が――」
その時、突然なんの前触れもなく空気の塊がヘリを叩きつけた。機体が大きく持ち上げられたかと思うと、直後に無重力になる。
ある程度〝揺さぶられる〟ことは想定済みだったので、栗本は冷静に機体を立て直した。富所も慣れたもので、落ち着いてつづける。
「グラウンドに降りられたとしても、要救助者のいる隣の村役場に行くためには流れ込んだ土砂を乗り超えていかなければならない。それ自体危険だし、いつまた第二波が押し寄せるかもわからない」
了解、とだけ返答し、絶え間なく襲う突風と格闘していた。ホバリングすることが困難になってきた。GPSを使用した自動操縦機能を使用し、もっと地上の様子をさぐろうと思ったが、定位置に留まることができない。
栗本は操縦をマニュアルに切り替える。ランダムに吹きつける風に対しては経験と五感を駆使するほうがいい。
着陸できない場合、ホイストで特救隊員を吊るして降下させるのだが、この風では煽られた隊員がどこに流されるかわからず危険を伴う。かといって高度を下げれば、舞い上がる細石などの異物をエンジンが吸い込んで停止することもあるし、予期せぬ風に見舞われて地面に叩きつけられる可能性もある。
通信士が言う。
「指令センターから連絡。要救助者の状況ですが、心臓発作で呼吸停止、AEDで一旦は蘇生しましたが、一時間ほど前に急変。意識レベルはJCS30。現在は診療所の医師が付き添っています」
つまり、大きな呼びかけと痛みの刺激によりわずかに開眼する程度ということだ。特殊救難隊のひとりは救急救命士の資格を持っているため機内でも治療はできるが最低限の器具しかない。一刻も早く医療機関へ搬送する必要があるだろう。
ただ、学校や隣接する村役場の建屋は確認できるものの、その一帯が土砂に埋まっている。要救助者は、村役場から他にどこにも行けない状況だ。
すぐそこに助けを待つひとがいる。なんとかならないか……。
歯がゆいが、栗本は機長として六名のクルーの命を守る責任がある。彼らを安全に帰投させることは、明日以降の未来に救えるはずの命を繋ぐことでもあるのだ。
だから、皆が救助の続行を希望したとしても、勇気をもって撤退の判断を下さねばならないこともある。
吹き荒ぶ風は、撤退の決断を後押しするように強力な衝撃を上下左右から浴びせてくる。
栗本は操縦桿をゆっくりと引いた。そして風に逆らわないように、機体を遠ざけた。
「しかたねえよ」
富所がつぶやいた。
***
「豊っ! あぶねえからこっちにいろ!」
広瀬は外に飛び出そうとする豊の腕を取った。
ヘリが来たとの声を聞き、会議室から駆け出した豊は窓に張りつくと、希望に満ちた目で上空に漂う閃光を見上げた。その小さな肩を両手で掴んでやや引き戻す。土砂はすぐ横まで迫っている。この建物に、いつ流れ込んできてもおかしくないのだ。
「でも……待っているって……ここにいるって教えてあげなきゃ」
この悪天候じゃ無理だ――豊は、そんな大人たちの会話を聞いてしまったのかもしれない。ひょっとしたら海保のヘリは着陸できずに帰ってしまい、母親を置き去りにするのではないか。そんな不安に襲われているようにも見えた。
友紀の呼吸は浅く、呼びかけても反応が薄い。一刻も早く病院に搬送し、適切な処置をしなければならないことは、医療知識がない広瀬でも理解できた。
「大丈夫だ、ちゃんと来てくれる。俺がここで見ていてやるから、豊は母ちゃんのところにいてやりな。きっと寂しがっているぞ」
豊はしぶしぶ頷くと、重い足取りで会議室に戻っていった。
ヘリは上下左右に振られながらも上空を旋回し、着陸できるところを探しているようだった。しかし周囲は土砂だらけだ。無理をすれば彼らも危ない。
思わず振り返る。豊がこの様子を見れば尚更不安がってしまうと思ったが、寂しそうな背中はすでに消えていた。母親に付き添っているのだろう。
「おおい、帰っちまうのかよ!」
職員の声に上空を見ると、ヘリの閃光がすうっと流れ、東の空に消えた。
ため息が役場内を満たした。
これも島しょ部に暮らす者の宿命と言えるかもしれない。本土ならば助かる命も、ここでは自然に左右される。
豊がいま母親を失ったらと思うと、広瀬はいたたまれなくなった。
風が建物を叩いては揺さぶり、土砂はまだヌメヌメとした動きで流れ続けている。ここも崩れてしまう可能性はゼロではない。
ただ、ここより安全な場所は他にないのだ。
会議室に戻ると、豊が部屋の隅で体育座りをしていて、小さく畳んだ両膝に顔を埋めていた。肩に手を置くと小刻みに震えているのが伝わった。
吹きつける風の合間に聞こえていたヘリの音はもうない。救助されないということを悟ったのだろう。
それは母親の死を意味し、これからの人生をひとりで生きていくことになる。それを恐れているように思えた。
広瀬は隣に腰を下ろした。
「無理をすれば、救助に来るひとたちも危ない目に遭ってしまう」
豊は頷くが、それでも死にそうな母親を目の前にすれば世の道理など消えてしまう。
「だって、だって……」
訴えたいことはあるが言葉が続かず、とうとう大声で泣き始めてしまう。
「なんで、なんで……」
――なんで、母は死ななければならないのか。
――なんで、自分はひとりぼっちにならなければならないのか。
――なんで、あのヘリは降りて来ないのか。
――なんで、なんで……。
小さなからだで懸命に訴えようとしているのが痛いほどわかって、広瀬は豊を抱きしめた。
いま君にできることは母親のそばにいてやることだ。それが母親にとってどれだけ大切なことか。目を背けてはいけない。そして将来、自分がそこから逃げてしまったことを後悔しないように、広瀬は豊の小さく丸まった背中をそっと押し、母親の隣に座らせた。
この先に起こることが怖いのか、豊の体は硬直している。
実は、広瀬もそうだった。
この島の人の多くは島外で死ぬ。
集落は急な坂道ばかりで危険なため自転車が役に立たない。車の台数も少ないので交通事故や怪我で命を落とすことはあまりないのだ。
そのため、病にかかると近くの島か本土の病院に入院することになる。そして死後、その地で荼毘に付され、遺骨となって帰島する。
豊と同じくらいの歳の頃だった。広瀬は伊豆大島の病院にいる母親が危ないと聞いた時、行かないと駄々をこねた。現実を受け入れるのが怖かったのだ。そして父親も無理やりに連れて行こうとはしなかった。
気持ちを汲んでくれたのかもしれないし、まだ回復の余地はあると思っていたのかもしれない。結局、父が到着するのを待っていたかのように、母は亡くなった。
広瀬はそのことをずっと後悔していた。
母のほうが自分よりずっと怖かったのではないか。すこしでも安らかな気持ちで逝けるよう、側にいるべきではなかったのか……。
だから、豊には友紀の側にいてほしかった。
友紀のためにも、豊自身のためにも。
その時だった。打ちつける風や雨とは違う、別の振動が建物を震わせた。
ふたたび土砂崩れが発生したのかと緊張したが、それとも違うようだ。
広瀬は音と振動の発生源を探し、それが真上であることがわかると、一旦玄関ロビーから外に飛び出した。強烈な風によろけ、そして腰を抜かしそうになった。
すぐ真上に巨大なヘリが浮かんでいた。そして彼らがやろうとしていることを理解すると、慌てて戻り、そして叫んだ。
「屋上だ! 屋上に降りてくる!」
(つづく)