天候は猫の目のように変わる。今も、嵐の前の静けさとも言えるような、比較的緩やかになるタイミングがある。広瀬はそれを狙い、豊とともに午前一〇時頃に診療所を訪れた。友紀は寝ていたが、母として子の気配を感じたのか、ゆるやかに目を開いた。
顔色はまだよくなさそうだったが、昨日よりは本来の瓜実顔に戻った気がした。
「ごめんね……広瀬くん」
片手で豊を引き寄せながら言った。
「いや、ぜんぜんだよ。先生はなんて?」
「もうすこし様子を見るって」
「そかそか。まあ、この際ゆっくりすればいいよ」
「ねえー、ママー。帰ろーよー」
豊が駄々をこねる。
「そうだなー。ちょっとお話するから、ロビーで待っててくれるかな」
えー、と不満を表明しながらも、豊はロビーにある漫画コーナーに向かった。島に書店はなく、自分が病気の時は体調が悪くて読めないだけに楽しみではあったようだ。
「で、ほんとのところは?」
丸椅子を引き寄せて、ベッドの横に座る。友紀はひと呼吸おいて口を開いた。
「前からめまいや息切れすることはあったんだけど、ここまで酷くなることはなかった……。いまも不整脈がつづいてるらしくて息苦しくなる時があるけど、根本的な原因はまだわからないみたい。場合によっては本土の病院で検査する必要があるって」
そこで顔を曇らせた。
「私になにかあったら……あの子のこと、お願いしてもいいかな」
「おいおい……」
「ううん、養子にしてってことじゃないの。私がもし死んだら、豊がどこに引き取られるかわからないけど、帰れる場所があるっていうことを知っててほしいの。できれば時々でいいから、気にかけてあげて……。約束しなくていいから、いまは、うん、って言ってくれたら私は安心できるから」
「それは嫌だな」
「え……」
「だーかーらー。弱気になってどうするんだってことだよ。まだ検査もしてないのに」
友紀は柔らかに笑い、雨が打ちつける窓に目をやった。
「広瀬くんは、正しかったよね、ずっと」
「なにが?」
「東京で就職するのを反対してたでしょ。結婚する時も反対した。どっちも失敗しちゃったから、いうこと聞いておけばよかったなって思う」
広瀬は笑う。
「本当にそうだ。でも、豊がいるじゃないか。あの子がいてよかったと思えるなら、過去の選択は間違いじゃない。ま、あいつは嫌いだけど」
元夫のことを示唆してふざけると、友紀もクスリと笑う。
「昔から、時々、そんなこと言うよね。達観しているというか、斜に構えるというか」
「店番させられてヒマな時にさ、店にある婦人雑誌をよく読んでたからだろうな。ちなみに、いまのくだりも人生相談コーナーに書いてあった」
友紀が笑うと、広瀬は幸せな気分になる。
広瀬にとって友紀は初恋の相手だった。同じ学年は二人だけだったので一緒に過ごす時間が必然的に長くなり、恋心を抱くのは自然なことだと思った。しかし友紀は違った。小中が同じ校舎だったこともあり、友紀は年上の先輩に惹かれるようになっていた。
広瀬は一番近くにいる存在でありながら、いつも相談役だった。
「そういえば、うちにチョコレートを買いに来たことがあっただろ。この味が好きなんだよねーって言いながら普段よりちょっと高めのやつを買っていったけど、バレンタインであげるのが見え見えだった」
「……そんなこと……あったっけ?」
「児童公園で先輩にチョコを渡してチューしてたのを何人かに目撃されてたからね。もっとうまくやればいいのに」
「ちょっと、やめてよ」
顔を赤らめながらシーツを引き上げた。
昨日は焦ったが、とりあえずは大丈夫そうだなと安心した。
「午後にまた来るよ。これから豊に在庫整理を手伝ってもらうんだ」
そう言って部屋を出ると、豊と交代してロビーで二ヶ月前の雑誌を広げた。
すると乱暴にドアが開いて生暖かい風が入り込み、玄関に並べてあったスリッパを吹き飛ばした。
「テツさん、どうした」
漁師のテツが体を丸める同僚を抱え込むようにして入ってきた。
「草祀り神様のところさ。大木が倒れて道を塞いでいるっていうから見に行ったんだ。そしたらよ、山が崩れて、転がってきた岩に手を挟まれたんだ」
医師が駆けつけて、処置室に向かう。広瀬も横から支えてやった。その時にちらりと見たが、左腕が本来曲がらないはずの方向を向いていた。
処置室の中から漏れる呻き声から逃れるように、ふたたびロビーに戻る。
「それじゃあ、西側の道はだめってことかい?」
「ああ。土砂崩れの規模はそれほどでもないけど、重機をもってこなきゃならんだろうから、しばらくかかりそうだな。今回の台風は尋常じゃない。しかもここ最近、立て続けに台風が通ったから地盤が緩んでいるんだろう」
また突風が吹き込んだ。他の誰かが飛び込んできたのかと思ったが、強い風が建物を揺らした。
「風……やばいな。ちょっと港の様子を見てくる。いろんなものが飛び散らかっているかもしれん」
「気をつけてな」
広瀬はそう言いながらも、他人を心配している場合ではないと自覚する。自宅はもう築五〇年だ。台風の本格的な通過に備えておかなければ。
そしてもう一度友紀と言葉をかわすと、苦笑しながら豊を引き剥がすようにして抱え、自宅に戻った。
豊とはかなり打ち解けて話せるようになった。
学校は休校が決まっていたために店は開けていないが、豊には駄菓子の補充を手伝わせた。倉庫に並ぶ菓子の在庫を見て嬉々とする様子は、まるで宝の山にたどりついた冒険者のようだった。
駄菓子を買いにくる子供達が楽しめるよう、子供向けの映画がテレビで放送されるたびに録画するようにしているが、豊は棚に並ぶVHSテープの中からお気に入りのタイトルを見つけ出し、駄菓子を食べながらそのアニメを見て過ごした。
夕方になると雨風が弱まった。ただ、テレビで気象衛星ひまわりの画像を見ると台風はまだ南にあり、鞭のように伸びる雲がこれからやってくることがわかる。
診療所に行くならいまのうちだろう、と豊を連れて外に出た。
はじめは傘をさす必要がないくらいだったが、三分ほどで大粒の雨が降り始めた。ただ風がない分、歩行には困らなかった。
診療所のドアを開けた時、ひとの多さに驚いた。
近くにいた、初老の男に声をかける。
「なんの騒ぎですか、これは」
「ああ、早川さんのところのゲストハウスの屋根が飛ばされたんだ。それで数人の客が怪我したとかで、ここまでくるのを手伝ったんだよ」
「こんな時に宿泊客が?」
「昨日の便が欠航してしまって足止めを食っていたらしい」
この診療所の職員は、医師と看護助手だけだ。一度に複数人の対応をするのは大変だろう。
広瀬は豊の手をとり、友紀のいる病室に入った。ノックをしてドアを開けるが、ベッドに駆け寄ろうとした豊を押さえた。友紀が眠っていたからだ。
人差し指を口元に当ててみせる。
豊は頷いたものの、やはり離れ難いようなのでベッドの横に座らせてやった。広瀬は部屋の隅に行き、窓に寄りかかって外を見た。
再び風が強くなっている。あまり遅くまで居残らない方がいいかもしれない。
すると、ピピピッと電子音が響いた。見ると、友紀に繋がれた機器が音を鳴らしている。豊は自分のせいじゃない、といった困惑の表情を浮かべた。
近くに寄ってみる。モニターには、グラフやら数字が表示されているが意味はわからない。ただ、上部のライトが赤く点滅しているのが、決してよい状態ではないことを知らせているようで、慌てて廊下に出た。医師の姿は見えなかったので、処置室に飛び込んだ。
「先生! 友紀さんの様子がおかしいです!」
医師は包帯を手にしているところだったが、それを助手にまかせると友紀のもとに駆けつけ、モニターを見ながら脈をはかったりペンライトで瞳孔を確認したりした。
「バイタル低下!」
遅れて入室してきた助手に対し矢継ぎ早に指示を出すと、自身は受付カウンターの奥に駆け込んで電話で話し始めた。広瀬は戸惑うばかりで医師を待った。
様子を窺うと、医師は時計を見たり大きな身振り手振りで話したり、かなり慌てた様子だった。そして二分ほどで受話器を置いた。ふたたび出てきたところを呼び止めて状況を聞く。
「容体が急変したため本土の病院に緊急搬送する必要がある。そのためにヘリを要請した。自衛隊も消防庁のもダメだったが、海上保安庁のヘリが来てくれる!」
広瀬は、ことの重大さに戸惑っていた。
ほんの数時間前は冗談を言って笑っていたのに……。
頭の中を「豊を頼む」と言った友紀の声が巡り、急激に現実的な不安となって胸を締め付ける。
「車を回してくれ」
医師がキーを投げてきた。広瀬は土砂降りの雨の中、駐車場を横切って診療所のバンに飛び乗る。免許証は持っているが、島では運転する機会がほぼないため、操作に戸惑ってしまうのがもどかしい。
看護助手の誘導で正面ドアの横手にあるシャッターの前に車を寄せる。するとシャッターが開いて、ストレッチャーに乗せられた友紀が出てきた。車の後部ドアを跳ね上げ、そのまま中に突っ込む。
医師が運転席に乗り、後部に広瀬と豊が乗り込んだ。
狭く曲がりくねった坂道を抜け、村役場に到着した。ヘリポートが目の前にあるため、ここで海上保安庁のヘリを待つことになっているという。
役場一階の会議室にストレッチャーを入れ、医師はモニターと点滴、そして酸素マスクを装着した。
「先生、ヘリはどれくらいで来るんですか」
「一時間くらいって言っていた」
「友紀は、大丈夫なんですか。なんかこう……薬とか手術とかできないですか」
「原因がわからないと処置できない。原因を調べるためには大きな病院じゃないと無理なんだ。焦る気持ちはわかるが、いまはヘリを待つしかない」
いまにも涙をこぼしそうな豊を見ていると、なにもできない自分が歯痒い。
手首を捻って時間を見る。午後六時になるところだった。
その時、足もとをなにかが走り抜けたような気がした。まるで巨大なモグラが地中で暴れたような……。
気のせいだろうかと思った次の瞬間、今度は役場全体を、ガラガラ、ゴロゴロという音とともに激しい振動が襲った。風雨が叩きつけるのとは異質なものだった。
そして照明が落ちた。暗闇に包まれて豊が小さく悲鳴を上げるのと同時に、友紀をモニターしていた機器が警告音を発した。電源を失ってバッテリーに切り替わったのだ。
「豊っ、豊っ、こっちだ」
まだ日の入り前で、いつもは空に明るさが残っているはずの時間だが室内は真っ暗で、手探りで豊を引き寄せる。
しばらくして、やや暗いものの照明が復帰した。
役場に詰めていた職員が慌てた様子で通りかかったのを見て引き止める。
「いったいなにが起こったんだ。地震か?」
「土石流です。ここの裏山が崩落しました」
「なんだって? 被害は」
「いま確認中ですが、集落の方は大丈夫そうです」
学校と役場あたりは被害を受けたが、集落は学校や役場から外れたところにあるため、難を逃れたようだ。
「ただ発電所の機能が停止してしまったので島内は停電しています。ここも非常用電源で動いていますが、長くは持ちません」
恐る恐る窓から外を覗いてみる。道を一本挟んで学校のグラウンドがあるのだが、黒い巨大なナメコのように土砂が横たわり、視界を塞いでいた。しかもヌメヌメと動いているように見えた。ゆっくりとだが、押し出される土砂はまだ動きを止めていない。
もともと平地が皆無な島なため、この役所や学校は山を抉るようにして用地を確保した。学校も山の斜面を階段状に切り崩して建てているため、上段の校舎と下段のグラウンドはかなりの高低差がある。
その校舎は直接の被害はなさそうに見えたが、その周りを取り囲むように土砂が流れ込んでいた。
そこでハッとした。
「ヘ、ヘリポートは?」
「それが……土砂で覆われてしまいました。ふたつあるうちのひとつは傾斜しているようにも見えます」
ヘリポートも平地を確保するために崖の斜面から突き出すようにコンクリートで建設されていたが、土砂の通り道となってしまい、重さに耐えられなかったのかもしれない。
「グラウンドは? ヘリは降りられますか?」
「まだ確認中です。なにしろ、まだ崩落が止まったわけではないので……ここも危険かもしれません」
危険っていっても、他に安全な場所はないじゃないか。
振り返ると、豊が説明を求めるような顔をしていた。ヘリは来るのか。母は助かるのか……と。
しかし、どう答えていいかわからなかった。
(つづく)